自分のこれまでの考え方の変遷を見てみると、幾人かの自分のアイドルによってこれまで形成されて来たのは明らかなのが分かる。それは、ドストエフスキー、小林秀雄、ニーチェ、ベルグソン、ゴッホなど数えると十ぐらいになりそう。
そのやり方だが、まず、直観でそれら信頼できるもの、愛するものを手に入れたら、それに対して一切批判的にならず、完全にその人の言うことを正しいと信じて、ひたすら摂取する。
いちばんはなはだしかったのはドストエフスキーで、僕は、罪と罰をはじめとするあの糞長い複雑な長編小説群をそれぞれのべ十数回以上読んでいる。読んでいる際、これはなにか言っていることがおかしいのではないか、と疑問を持つことを一切せず、ひたすら読んだ。
そういう期間を経た後の、それらの自分への影響は、これは絶大なものになる。しかも批判的に読まないので、ロジックを通して身に付いたのではなく、対象が自分に乗り移るに近く、悪い言葉でいえば憑依とか洗脳に近い状態になる。
でも、結局のところ、そのやり方は最初にその十人だかの対象を選ぶところにかかっていて、それを間違えると取り返しがつかない。選ぶのには「直観」を使っているので、その直観が間違えば、僕は間違った人間になってしまい、いったい何をしでかすか分からない危険人物になる。
唐突だが、この前も話題になったアメリカ副大統領のヴァンスには、自分は同じ臭いを感じる。彼もそういうタイプじゃないか、って気がする。
それはともかく、その最初の僕の直観は、対象についていったい何を根拠に、何を見ているのだろう。しかし、僕のこのやり方は学生時代からずっと続いているので、すでに後戻りはできない。こういうやり方の悪いところは、前述通り間違った人間に仕上がると、ほとんどテロリスト級の厄介な人間になることだ。
では仮に直観が間違ったとして、では、その「間違った」とは何のことかといえば、それは誰にも分からない。だから余計に厄介なのだ。
それで、こういう厄介な人間が増えると社会は収拾がつかなくなるので、そうならない方法論が、ほぼ社会のコンセンサスとしてこれまで出来上がってきた。それが、科学に基づいた批判精神であろう。科学とは、何事についても、まず見て接したら、いったん疑って、「なぜ」と問いかけることである。僕のように直観で無批判にいきなりその対象に夢中になってしまう、ということを本能的に警戒する精神である。それによって、統計的に見ると、社会で人間がダークサイドに落ちる人数が減る。結果、社会は安定して機能しやすくなる。
自分は高校までは理科系だった。小6の卒業文集の寄せ書きに、将来なりたいものというのがあって、自分は堂々と「科学者になりたい」と書いたのだ。理科系の大学に入ったが、科学精神は一気に減退し、それから40年以上そのままで今に至る。学業や仕事の上では理科系のままだったが、それら仕事について自分はずっと上の空だった。結果、モノにならないまま終わった。
結局、自分の人生への処し方は、まったくに科学的でなく、対象を愛して相まみえる、というやり方しか取っていない。それで良かったかどうか、というと、今の自分の様子を見ていると、いいと言い難い。それで、結果、ここずっとオレの標語であった、孔子の言葉が出てくる(孔子が言った意味は違うけどね)
君子もとより窮す(笑