5年ぐらいかもっと前だったか、一般民がやたら政治的な発言をするのが目立ち始めたとき、僕はそれにすごく抵抗があり、われわれ一般民は政治に直接かかわるのではなく、理想を保持すべき役割で、政治は政治家に任せるべきだ、と考えていたのをさっき思い出した。
しかし、この考え方は当時も無茶な考え方だった。なにせ、民主主義の世の中では、たとえば欧米の若者たちが直接政治的な見解を持っていることが賞賛の的になっていて、日本では、主に大人達が、日本の若者は政治に興味がない、「だから」日本の若者はだめなんだ、と大手を振って発言していたときだったからね。
政治家たちの主人であるわれわれ一般民は、政治に関心を持ち、自身の社会的見解を持つべきで、民主主義という方法論を正しく動かす原動力は、民衆の政治参加にこそある、という考え方だ。
これ、一見、傷のない論理だけれど、結局、あれから5年、10年経って、その考え方が失敗したことは、これはもう明らかだと思う。
もっとも、こんなことを言っても、当時そう言ってた人々は絶対に賛同しないだろうと思う。かつて政権交代した民主党の失敗を見て、投票した自分が恥ずかしい、などとウルトラ馬鹿げた発言をして懺悔していた自称頭のいい、実は頭の悪い大人たちが、そうそう変わるわけがない。
ま、いまのこの混乱した社会を見て、とにかく、オレのかつての感触はそうそう間違っていなかったと思う。
僕は「民衆は政治的であるのではなく、理想を持つべき」というが、その「理想」は、欧米発の急進リベラルのいう理想とはぜんぜんまったく意味が違う。彼らの抱く理想は血塗られている理想で、その残忍な血を認識した上でその当の理想を見ないと完全に間違う。
なのに、ぜんぜん違う性質を持った日本人が欧米リベラルを見違えて、間違って輸入して、日本に適用した行為は、本当にバカげているとしか言いようがない。
では日本民衆の理想は何かというと、それは残忍さのない、「明るい知性」に基づくものだと思う。明るい知性って何かというと、それは吉田兼好の徒然草をぜんぶ読めばわかる(小話も含めて)
徒然草を読むとはっきりするが、あそこには極めて明晰な、科学的方法であるところの帰納と演繹が現れるのだが、それはあるところまでしか行かず、その限界に来ると見事に静止する。悪魔の手に渡る前に止めて、涼しい顔をして、それで、どうにも下らなかったり、ただ可笑しいだけだったり、迷信的で非科学的だったりする小話に平気で移行する。その明晰さ、軽々しさ、軽快さ、くったくのなさ、といったものが全編に行き渡っている。あの様子を僕は「明るい知性」と呼んでいる。
欧州の暗くて宿命的な知性は、オレはもううんざりだ。それを標榜する日本人の傀儡どもには、もっとうんざり。
と、まあ、愚痴を並べたが、なんと今日は大晦日じゃないか。そんな時にこんな面倒な話をして、困ったもんだ。
ま、来年になったらなんとかなるでしょ。