島崎藤村の「破戒」という本を読み始めた。本の名前はよく聞くので知っていたけど、意味が分からずなんじゃこれ、って思ってたけど、少し読んで分かった。
主人公の青年が穢多で、小さいころ父からそれを告げられ、おまえがこの社会で生きていく道はただ一つ、どんなことがあっても穢多であることを隠せ、という戒めを受ける。で、どうやら小説では最後の方でその戒めを破ってカミングアウトしてしまう。それで破戒、だったんだね。なるほどな(ちなみに穢多は差別語で、いまは被差別部落という言葉を使うらしい)
しかし、父は、おまえの家系の元は武家の落ち武者で、正統なのだ、と言うのであるが、そういうこともあるんだな。
そこを読んで、ひょっとすると、このオレもそれかもしれない、なんて思っちゃった。自分はいろんな経験を総合すると、どうやら自分の祖先に、戦に敗れて没落した落ち武者がいて、それが自分に投影されているんだ、って思っていた。そう考えるに足る経験は多数あれども、理性的根拠はゼロなので、およそ寝言に近い自分だけの感触なんだけどね。
でも、オレ、そうじゃなくちゃ、なんで幼少時代からこれほどはっきり執拗に、位の上の人間たちを避けに避けて、底辺庶民ばかりに懐いていたのかが分からない。青年になって酒が飲めるようになったら場末に入り浸るしね。実はかねがね不思議に思ってた。
しかも、場末で酒を飲んで、その反知性的な群れの中にいると、ときどき無上の多幸感に包まれることがあり(ふつう長くて5分)、それはいったいなぜなのか。そして、それ以外のシチュエーションで多幸感を感じることはほぼ無いのはなぜなのか、ってずっと不思議だったの。
こういうのは、もう、先祖のなにかの名残りと結論せざるを得ないのよね。これを言い出すと、上記以外に自分にはたくさん、そういう、おかしな性癖と、おかしな人生選択があるわけで、ますますそう思う。
落ち武者の非人か。それなのかもな。
いま現代でこんな時代錯誤なことを書いてると、気を悪くする人が多数かもしれないね。穢多非人は、日本では一種のタブーになっていて、昭和が終わるころから社会から隠された状態になっている。特に東京は、そうでしょう?
そんな暗い過去は忘れて捨てて、新しい、差別のない人権社会をポジティブに構築して行きましょう、というのが現代都会のありかただからね。
歴史のほうぼうに開いた暗くて深い穴、その穴は個人的事情でぎっしり詰まっている、と小林秀雄がどこかで書いていたが、ま、それだな。オレのこの話も。