死んだあとに

東大卒のパワハラ政治家が2人も自殺者を出したらしいのに居座ってる様子などなどを見ると、この人、死んだら地獄に堕ちるのが怖くないのかな、とか、我欲に固執した人を見て、死んだら餓鬼道行きなのに、それでいいのかな、とか、わりとそう考えるこのオレは、仏教で言うところの輪廻思想を本当に真に受けているのだろうか。

死んだらあの世があって、そこでは魂がさまざまな目に遭っていて、それが終わると、またこの物理現実世界に生まれ変わって戻って来る、という風に、オレがごく自然に思うようになったのは特段の根拠があってそうなったわけではなく、おそらくは単純に歳のせいであろう。

しかし、おもしろいのは、この仏教的な輪廻の話と、ほぼまったく同じことをギリシャのソクラテスが言っていることだ。そんないろんな哲学や宗教の世界を巡っているうちに、オレもそう感じるようになったものらしい。

もちろん、いまのオレは、物理世界にある物理的身体という存在なので、この物理世界に多大な執着があり、それゆえに、死んだって平気、という風に思えるわけではない。生への執着を筆頭に、実に多くの執着が物理人間にはあるが、オレにも、数えてみるといくつか残っている。

執着を完全に捨ててしまった人間は、涅槃に達した、つまり、悟りを開いた、と言うが、オレにはそれがまだ、頭でしか分からない。でも、昔よりずっと実感できるようになった。この上座部仏教(小乗仏教)の事々を、修行も一切しないのに、いつ、オレは理解できるようになったか、分からない。オレの物理脳において、オレにはその教えが手に取るように理解できる。

そして、日本の大乗仏教も分かる。こっちの方は物理脳で、というよりは、日本人の情緒として分かる。

いろいろなことが分かるようになったのは、いいことかもしれないが、それがこの物理世界でいいこととして自分に作用したことはほぼ、無いのだけどね。

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