四十年前ぐらいに三年間、大阪に住んでいた。
あのころの大阪梅田の駅の、阪急から京阪の改札へ通じる地下街はおもしろかった。どうでもいいものを売ってるどうでもいい店が山ほどあって、売り子の多くは大阪のおばちゃん。で、店舗の間にカウンターの串揚げ屋とかあって、おっさんたちが串揚げ食って酒飲んでる。要は、おばちゃんとおっさんのたまり場的なグダグダ感が最高だった。
で、あるとき、その地下街の店がぎっしり並ぶところから空間を隔てて、ちょっと離れたところにスタンドのコーヒーハウスができた。そのころはまだドトールとかスターバックスとかそういうコーヒーハウスなど無く、コーヒーは喫茶店、あるいは珈琲専門店で飲むものだったが、たぶん、コーヒーハウスの走りみたいな実験店だったのかもしれない。
カウンターだけの広くない店で、でも内装はダークブラウンの落ち着いた、珈琲専門店ぽい、音楽もかからない静かな空間で、カウンターの中には店員がひとりだけいて、働いている。なんだか向かいのおやじ串揚げ屋の喧噪と対照的で面白かった。
それで、ある時、そこに入ってみたことがあった。
なんでこんなことを書いているかというと、そのときにカウンターの中にいた店員のあんちゃんを自分は、ことあるごとに思い出すからである。
彼、たぶん二十代後半の若い男だったと思うんだけど、そのルックスが完全にいまでいうヤンキー、あ、いや、今ではそう言わないんだろうか、昔でいう不良だった。やくざの事務所の使い走りみたいな、花の応援団に出て来る弱い下っ端の若者みたいな、典型的な大阪の不良ルックなのである。
で、コーヒーを注文したら、彼、コーヒーを作り始めた。豆を挽いて、ペーパードリップにセットして、細長い蛇口の出た沸騰した湯の入ったケトルから湯を注ぎ入れ始めた。
オレ、カウンターから彼をずっと見ていたんだけど、ケトルから極力、細い細い水流でコーヒーの粉に注ぎ入れるその様子が、もう、なんというかあまりに真剣そのもので、細心の注意を払って、細い水流を一定速度で注ぎ入れることに集中している。まるで、この行為に自分の人生のすべてがかかっているような真剣さで注いでいるのである。
おそらく、この不良ルックな彼は、このスタンドに入ったばかりで、先輩にコーヒーの淹れ方をだいぶ厳しく教えられたのであろう。まるで一歩踏みまちがえると奈落の底に落ちて転落死する崖を渡っているかのごとく真剣なんで、オレ、けっこう驚いてずっと見てた。
ヤンキー不良できっと学生のころは突っ張って、粋がって、ゴロ巻いて、っていうやつだったはずだが、この仕事は彼にとっての更生だったんだろうか。
いや、オレ、思うんだけど、こういう奴って、そういう、なんというか世間の一般常識が言うところの、更生して真人間になる、とかいうまっとうな社会プロセスを考えてやってるんじゃなくて、ただもう、盲目的にその道に従って、努力らしきものをしているだけで、でも、合理的努力を塩梅しながら遂行するような余地が頭には無く、一種の本能で動いているような気がする。
ほら、動物だったらなんでもいいけど、ヤツら獲物を取るとき真剣そのものでしょう? 合理性に基づく最適化や、お遊びや、おふざけのかけらも無いでしょう? ただただ、全身の神経を集中させて行為に全的に入り込むでしょう?
この大阪のヤンキーの彼、それに近かった。
オレ、昆虫は苦手だが、自分の身が安全な場合は、かなり見入ってしまう癖があるが、それは昆虫が常に真剣だから。で、真剣じゃないシチュエーションでは、完全に自由にくつろいでストレスが無い。その様子が物珍しくて仕方ない。さらに、それを通り越して、実は、それはオレの憧れの対象でもある。理性とか知性とかいう余計なものを振り払えない自分は、その無心な状態になれないし、なったとしても極めて短い時間でしか無理だ。
それがごく自然にできている人間がいると、自分はその人になれないのが分かっているので、単純に憧れる。そして、彼らを見ていると、なんだかいつもいつも、驚きと興味で、心が痺れるようになる。
それにしても、あの大阪ヤンキー野郎、いまごろどうしてるだろう。たぶん、オレと同じ歳ぐらいなはずだよなあ。