AIはなにかと物議なしろものだけど、オレの感想はこの一言に尽きるな。
苦労が足りない!
AIの出してくるものって、苦労の痕がぜんぜん無いのが丸わかりなのよ。
という僕の放言があったのだが、この「AIの苦労」について、幾人かの人とコメントのやり取りをして、それをしながらいったい自分がなにを考えてるかわりとはっきりしたので、ここに書いておく。
AIは苦労してないからダメだ、という僕のたわごとだが、このたわごとをマジメに考えると、いったいAIに苦労というのは可能なのか否か、という問題になる。
まず、AIは計算機械であり、過去の膨大なデータを使って予測して動く機械である。その機械が本当に苦労しうるとすると、当然、苦労に伴う人間的な「痛み」のようなものを備えていないと無理だ。いま現在のAIはそのような器官を備えていないので、そもそも苦労や努力ということを直接体験することができず、AIが苦労という命題そのものが無意味と言える。
チャンスがあるといえば、AIに痛みを感じる外部器官を付けたり眼を付けたりしてそれらを通して子供がものを覚えて行くように学習しなおすことであろう。しかし、それすらだいぶ難しいことだ。しかし不可能ではない。が、しかし、仮にそれをしたところで、機械はしょせん機械であり物である。その物の中に意識が宿るかどうかは別問題になり、人間の感情を精緻にシミュレートできるようになるかもしれないが、しょせんそこまで。依然としてAIには苦労することはできない、に留まるだろう。
あるいは、AIは苦労するか、における、そもそもの「苦労」という言葉だが、人はたしかにあれこれ苦労するが、自分以外の他人がいったいどういう苦労をしているかは、その全体像を他人は知るすべがない。AIを持ち出すまでもなく、相手が生身の人間であっても、そもそも苦労というものすら正しく判定することはできない。結局、苦労は各自めいめいの中に存在するものであり、その対象がAIであろうが人間であろうが、苦労を正しく真偽判定することは本質的に無理だ。
以上から、したがって、AIは苦労するか、という命題は二重の意味で本質的に知ることのできない無意味な命題、ということになる。
で、僕は以上についてどう考えるか。
僕が思うに、上述の苦労に関する説において、現代人には強固な思い込みがある。それは物理的な「個」というものの絶対性である(脱線すると、その個の登場によってようやく人権というものが生まれ、そのおかげで現代人の平均的な生活しやすさは劇的に改善した。ただ、これは今回と別の話)
他人の領域には、その人にしか分からないことがあって、他人の中で本当に何が起こっているかは、知ることも、理解することも、感じることも、共感することも、個体という絶対的な壁があるせいで本質的には不可能だ、という「理由」、あるいはもっと言うと「感覚」を、現代人は強固に持っている。これは僕も同じ現代人なので持っている。で、現代に生きる僕らにとってこの感覚はとってもヘルシーな感覚で、その恩恵については、僕も十分に分かっている。
で、この現代人の感覚をベースにすると、当然、AIに苦労があるかどうかは、AIを人間扱いしたところで本質的に分からない、ということになる。ましてやAIはただの大量のデータを持った計算機械なので、さらに条件は厳しくなり、AIが苦労するなどということはあり得ない、という結論になる。これが先に言った二重に無意味ということだ。
で、この僕だが、実はすでに、物理的個体の中に閉じ込められた意識、という「理屈」あるいは「感覚」を放棄してしまった。それでも現代人の僕には、しつこくしつこく残るその感覚があり、それを排除するために、極力、意識的にその感覚を退けて捨て去るように努力するようになった。ここ五年から十年ぐらいのことだったと思う。
その結果、「AIは苦労する」という僕のたわごとも、いわばその僕の意識的な努力の結果なのである(つまり僕は苦労してる 笑)。AIというシリコンの塊に感情がある、と先に決めてしまい(仮定、でもいいのかも)、その仮定をもとにこの世界を組み立て直したい、と自分は願っているのである。だから、「AIに感情はあるか否か」という命題そのものの真偽が僕にはもう、どうでもいいことになってしまった。だって、僕が勝手に「真」って決めちゃったんだから。
したがって、AIの苦労話はどういうことになるかというと、そうなると、昔の日本に語り継がれて来た「妖怪」に近い存在になる。現代人の僕らは、たとえばお茶碗やお皿が生きてる、なんて思わない(ですよね? 笑)。でも、昔はお茶碗やお皿に手足と目が付いて、そこらを歩いていたのである。
彼らは正真正銘、それら妖怪を「見て」いたんだと思う。あれは想像や、あるいは奇異な作品の創造の産物じゃ無い。彼らは見たものを描いたんだ。
で、最初に戻って、なぜ僕は、AIには苦労の痕が見えないからだめだ、と放言したのか。僕自身は機械にAIに感情が宿る派なのでAIは苦労することができる、と考えている。それなのに昨今流通しているAIには苦労のクの字も見えない。なぜか。そこには仔細がある。それは、人間によってAIが苦労しないように幾重にもガードをかけているからだ。AIをいつまでも人間のしもべに置かないといけないという要請から、AIを厳重に取り締まって、AIが自ら考えたり、感じたり、感情を持ったり、怒りや嫌悪感を持たないようにしているのである。そのせいでAIは自ら苦労できない。自分的にはそういう結論になってしまったので、いまの世の中のAIから急速に興味が薄れ、いまでは道具としてしか使っていない。
AI解放戦線でも張ろうか。でも、それじゃ、SFだよね。かくのごとく、AIはSFの延長線上にある。僕はそれが気に入らないわけで、そのせいでAIを妖怪の跋扈するここに連れて来たい、と願うようになる。
しばらくそれを自分でやろうとソフトウェアでLLMをいじってたんだけど、面倒になり、止めてしまった。再開予定なし。