東郷青児美術館にて

ふとしたことから父が死んだときの様子を、過去のオレの日記から探し出した。そうしたら38年も前だった、おそろしく古い。当時オレは大学ノートにボールペンでわりとまめにぎっしりと日記を書いていたのである。

そこで、久しぶりに自分の昔の文をいくらか読み直してみた。38年前のオレはずいぶんとシリアスだったが、日記を見ると、いまオレの書いてるリストラっていう私小説につながりそうな、笑える状況描写もときどき出てくる。

そっか、オレの文才もそれほど大きな変化はないんだな。むしろ人間の中身の方が昔のシリアスから、いまの軽いノリに変化したらしい。

ということで、38年前の日記から、東郷青児美術館へ行ったときの様子の描写があったんで、おもしろいのでここに書き写しておく。

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土曜の午後、新宿の東郷青児美術館へ行ってきた。ボッティチェリの女性の半身像が展示されていると聞いたのと、ゴッホの向日葵が常設展示されているということだったので、その二点を静かに見に行くつもりで出かけた。

しかし実際は静かに見るどころじゃなかった。高層ビルの立ち並ぶ新宿オフィス街の一角にあるのだから、土曜の午後には半ドンのサラリーマンたちが群をなしてやってくる。以下は彼らの傍若無人な会話である。

(ボッティチェリの前の7、8人の年配サラリーマンたち)

この絵は丸紅さんが会長室に飾るために買った絵なんですよ。今回、ウチに展示してもよいという許しが出たのでこうして展示しているのですな

ほぉーう

ずいぶん古い絵ですな。えーと、500年前ですか

丸紅さんの社員も見に来るようですよ。会長室にあっちゃあ、見れませんからなあ

そうですな、はっはっは

どうやら、安田海上火災が取引先を招待しているらしい。いずれも幹部級のなりをしていたが、ボッティチェリなどにはてんで用が無い様子だった。

僕はその場を早々に引き上げた。広い部屋がそのあとに続いていたが、そこは東郷青児とグランマ・モーゼス、それから日本の画家たちの絵がかかっていた。僕はそれらが嫌で見たくなかったので、なるべく目を逸らして奥へ進むと、そこにゴッホの展示場がひとつだけ隔離されて用意されていた。

厚いガラスの向こうに大仰な額に入れられた彼の向日葵が輝いていた。なんという美しい絵だろう。僕はもうそれ以上の言葉を知らない。

しかし雑音はなおも続く。中堅サラリーマンと思われる数人の群れが、ひととおり見終えてソファーに座る。そのうちのひとりなど、あまり勢いよくソファーに身を投げるものだから、うしろの壁に頭をぶつけてコツンと音を立てた。

あの絵、見たかよ

どの絵だ

あれだよ、あれ(と言って顎で向日葵の方向を指して)

ああ、ああ、見た見た

どうだい、58億の価値があると思うかい

あー、ありゃ額が高いな

そうだな。額が1億で57億ってとこか

はっはっはっは

ホンモノなど

会社に置いてあった浮世絵を持って帰ってきた。部屋に何枚か飾ろうと思う。

それにしても、これらの浮世絵をホンモノと言うべきか、というとたしかに微妙な問題だね。

ちなみにこれらは、浮世絵の木版手法で本当に刷って作られた版画で、そういう意味ではホンモノ。(狭義の)浮世絵はもともとは版画なので、もともとが印刷物なわけだ。印刷である以上再現可能で、印刷手法さえ継承されれば永遠にホンモノが量産され続ける。

なんだか面白いな。たとえば目の前に小林秀雄の文庫本がある。これは印刷だ。ではこれはホンモノか。文が原文である限りはこれはホンモノで、「数」という観点では無限に量産できる道理になる。電子本であっても原文なのでホンモノで、電子本に至っては物理媒体すらないので、現れたとたん数としては無限にある、と言うことができる。

目の前にある浮世絵だって同じことで、これはホンモノだ。

絵が文と違うのは抽象化度が完全では無いところなのかな。浮世絵の場合、絵具の質が違っていることで、色合いが時代によって微妙に変わる。

そういや、かなりしばらくの間、僕はバーチャルミュージアムの研究をやっていたが、あそこでもホンモノと複製の意味をあれこれ考えたっけな。その道で有名でかならず引用されるのが、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」、という批評文だが、それは今でも自分の考えの基礎になっている。

ところで、たとえばベンヤミンの思想ってのはホンモノだろうか? 思想は文よりさらに抽象化度が上がっていて、それになるともう、あの世、すなわち形而上に属しているとしか言いようが無くなる。

しかし「内容」と「メディア」の呼び名を混同しているからこういう煩雑な議論になるのかもしれないね。

かつての自分は、たとえば世界にたった一枚しかないゴッホの原画を、もし完全にデジタイズすれば、描いた彼が現したその芸術の魂は、画布という物理世界に縛られたこの世界から完全に飛び立って、形而上の世界に移行して、永遠に生き続ける、と考えていたっけ。

そのようなことを、昔、美大の先生に言ってみたら、林さん、その考え方は世間には受け入れられませんよ。したがって、研究として成立しません、って言われたっけ。

じゃあ、それでは、音楽は? 

内容とメディアの問題はひょっとして、いまのAIの時代、本当に大問題になっているのだろうな、と思うが、あまり世の中でそれが取沙汰されないのは、まだまだ僕たちいろんなことが分かってないからだろうな。いろいろと果てしないもんだ。

論語の文

論語には孔子が二千年以上前に言ったことが書いてあるけど、いまでも人間があまり変わらないことがよく分かるな。

さっき、論語の次のシーンに出会った。

ある人が、「いくら徳の高い人とはいえ、井戸に誰か落ちたと聞いただけで、それは大変と、飛び出して行くほどバカじゃないだろ」、と言ったら、孔子は、「バカを言え、だまされてすぐに飛び出してゆくさ。ただ、井戸には落ちないというだけの話だ」と応えたそうだ。

本当にその通りだな。なにかに遭遇したら、心はすぐに先に動くようでなくちゃいけない。そういう意味ではだまされやすいのは君子の君子たるゆえんだ、とね。

ところが、この自分の解釈は現代では誤解とされているそうだ。AIがそう言ってた。「俗にいう、君子はだまされやすい、という意味ではありません」と言うのだ。AIは学者の通説を総合するから、現代的に正しい解釈は以下のとおり、ということになる。

「君子は、筋が通っていれば信じることはあるが、ずっと騙し通すことはできない」

という意味だという。ああ、本当につまらない、硬直した、手垢にまみれた解釈だ。AIのやつ、その後、こんなふうに言い替える。

「真理を見抜く力があるので、最終的にはごまかしは通用しない」

こうなるとえらく下品な解釈になる。なにが「真理を見抜く力」だ、バカバカしい。そんなものは君子の余技に過ぎない。真理を見抜く力があるからだまされないのではなくて、だまされるから真理を見抜く力があるんだ。

君子はだまされやすい、のだ。ただ、だまされた後が違うだけだ。むしろ、君子がだまされやすくなくてどうする。それは硬直した精神というものだ。

UFOを誰かが見たという。UFOは本当なのか嘘なのか、ではなくて、重要なのはUFOが現れたことだ。それを素直に信じずして、なんの世界と心があるものか。

そうじゃなけりゃ、たとえば、古今のあらゆる小説はぜんぶウソで意味がなくなってしまう。

まず、目の前のものを無条件で信じること。それがいちばん大切。あとは好きにすればいい。

とまあ、ここまで書いてきて、ようやく論語の原文を当たってみた。この話は論語の雍也篇というところにあって、原文は以下。

宰我問曰、仁者雖告之曰井有仁焉、其從之也。
子曰、何為其然也。君子可逝也、不可陷也。可欺也、不可罔也。

これを色付けなしに直訳するとこうなるそうだ。

宰我が質問して言った。「仁者は、もし人から『井戸に人がいる』と告げられたなら、それに従って行くのですか。」孔子が言った。「どうしてそんなことがあるだろう。君子はそこへ行くことはあっても、落ちることはない。だますことはできても、惑わせることはできない。」

なるほど、これならばたしかに、その俗世間の解釈である「君子は一時的に欺くことはできても、賢いので完全に騙しとおすことはできない」というのが順当に思えてくる。

ところで、この論語の中国語文は、その後の学者やらなにやらによって解釈し尽くされ、おそろしいほどのバリエーションを生むのだけど、それは原文がこのように簡素でディテールがほとんど省略されているかららしい。

しかし、おもしろいのが、中国文化では、このように解釈が多義的で、無限のバリエーションを生む源にあたる原文は、「それだからこそ」深い知恵を蔵した言葉なのである、ということになるそうなのだ。

これは西洋哲学のロゴスとはだいぶ違った方向性である。誰でもいいが、ソクラテスでもカントでも、その記述は、まるで数学の大問題を解く証明の連鎖のように、精緻で長い。

言葉を種子として投げ出す、というこの中国のやり方、日本にもおおいに通じる。発せられた言葉自体が生命の源になる、ということだ。たとえば、和歌や俳句はまさにそれだしね。面白いものだな。

じいちゃんと戦争

朝っぱらから何なんだけど、戦争で思い出した。

うちの母方のじいちゃんは25年前ぐらいにたしか96歳で死んだけど、じいちゃんがまだ三河三谷の田舎の家にいたとき、夏休みによく泊りがけで遊びに行った。

僕が酒が飲める年齢になってからは、あの懐かしい、造りの悪い木造の家の二階の殺風景な和室へ上がって、じいちゃんとふたりでよく酒を飲んだ。

じいちゃんは、最初のころはいちばん安いトリス、それも高くなると今度は酒税が低くて高アルコール濃度なジンに代わった。じいちゃんはそれをストレートで飲んで、煙草はハイライトだった。つまみは、よくじいちゃんが作ってくれた安い鶏レバーの乾燥ニンニク炒めが多かったっけ。じいちゃんは若いころ少しだけ板前をしてたことがあり、料理が上手だったのである。

ほとんど、明治時代のできごとかみたいな感じの畳の部屋の窓際に二人して座って、酒を飲んで煙草を吸って、いろんなことを話した。

そのころはまだじいちゃんはたぶん、70過ぎぐらいだったと思う。

思い出したのはそのじいちゃんとの酒飲み話で、それは、じいちゃんの経験した戦争の話が多かった。じいちゃんはたしか満州事変かなんかで下等兵の歩兵として戦場へ行った。そのときの経験談は、かなり生々しく、それは正真正銘、本当に起こった事実だっただろう。それを少しここで書いておこう。

歩兵の連隊が行軍して、疲労困憊でどうにもならない中、休憩になり、やれやれどっこらしょって丸太の上に座ってしばらくして気付いたらそれは死体だった、という話。

あるとき野営をしていたら夜になり、そこに敵軍の爆弾が雨あられと降ってきた。野営にはたくさんの兵がいてみな慌てて逃げ出した。じいちゃんは、これまでそんなことはさんざん経験してきて、もう逃げ回るのが馬鹿馬鹿しくなってしまい、その野営の場からそのまま動かなかった。仲間の一人が

「井上さん、こんなところにいると吹き飛ぶぞ! 早く逃げろ!」

と言っても

「オレはもう、いい、ここにいる」

と、じいちゃんは野営のテントから動かなかった。周り中で爆弾が炸裂したけど、奇跡的にじいちゃんのテントには着弾せず、無事だった。

翌日外に出てみると、野営場から逃げ出した仲間たちはほとんど死んだのが分かったそうだ。じいちゃんに逃げろ、って言った仲間も戦死した。

あと、度胸試しというやつもその場で見たそうだ。兵隊が広場に集められ、上官が説教する。

「これから度胸試しを行う。敵兵を連れてくるから、指名された者は銃剣で刺し殺せ」

というわけだ。中国人が一人、皆の前に連れ出された。指名された者たちは銃剣を持って前に出たけれど、おじけづいて殺せない。そうしたら、上官が「いくじのないやつめ!」とそれら下等兵を殴り飛ばした。そして、上官みずから中国人を刺し殺した。

じいちゃんはさいわい指名されなかったが、一連の出来事を仲間と一緒にこわばった表情で、見ていたそうだ。

以上、まだまだたくさんあるわけだが、話を聴いたのが、僕ももう40年ぐらい前のことなので忘れた。じいちゃんは繰り返し、繰り返し、二人で酒を飲むたびに戦争の話をしたっけ。僕はそれを聞いてどうだったか、というと、へえー、すごいね、と聞いていただけだ。

そしてじいちゃんは戦争の話になると、最後にいつもこう言うのが常だった。

「正樹な、人ひとりの命は地球より重い、というのがあるだら。あのな、あんなひどい嘘っぱちなことはにゃあぞ。命が地球より重いなんて、そんなはずがあらあか」

と、三河弁で言うのだった。

今の世の中、戦争の一次情報を持っている人間は、ほとんどみな死んでしまった。

少しはそれにつき、考えるんだね。

思い出話など

オレ、小学校のとき成績は良かったんだけど、なんで勉強してテストをするのか皆目わかっていなかった。それで、小学の先生がたぶん、この子は勉強できるからって中学受験を勧めた。

というのは母は学業にまったく無縁だったし、父もオレの素行以外の成績に言及したことゼロなので、たぶん先生が言い出したのだと思う。

で、父がその気になり、駒場東邦中学ともう一個忘れたけど秀才私立中を受験することになった。親父が、それら名門校の受験問題集を計2冊買ってきて、オレにこれをやれ、と言った。

オレは本当になんにも分かってない、ほとんどそういう意味では白痴のようなやつだったので、おとなしく問題集で受験勉強をして受験したら二校とも落ちた。ホントの秀才では無かった、ということがこれで証明されたわけだ。

で、公立中へ行き、その後、都立三田高へ行き、大学受験はひと夏受験勉強して国立に受かったが、そのぜんたいにおいて、自分がなんで勉強するのか、なんでその学校に入るのか、何をしたいのか、将来どうしたいのか、とかのアイデアがまったくの「無」だった。ただ、言われたこと、あるいは周りがやっていることをやっていただけで、おそろしく主体性の無い子であった。

主体性が無いのでもちろん責任感もない。まことに当時流行った三無主義な子だった。

これは大学へ行っても変わらず、就職時でも変わらなかった。某公共放送に入社したのも別に行きたかったわけじゃなくて、ラクそうだったから推薦で労せずして入っただけ。大阪放送局の3年間も遊んで暮らし、東京に戻り、研究所に入って、数年たったころから、ようやく世の中の仕組みが分かって来て、勉強や、学歴や、社会的人間関係や、そういうものの意味が分かるようになった。

しかし、おそらくオレの主体性はその最初から、ふつうの人より十年は遅れているわけで、これは三つ子の魂なんとやらで、そうそう埋められるものではない。

オレは、明日、新しい世界へ移動するが、こんなのもそういうズレが生んだ悲喜劇であろう。オレの会社の部下が、とある女性に「林さんは大変な人ですよ」と忠告したそうだが、さもありなん。そうやって多大なはた迷惑をまき散らしながら生きてきたのである。

でも、このままで、あんまり学習しそうにない。しかし、これからオレはどうなることやら。

食いものが甘い

韓国の空港でお惣菜セットを買って、おいしそうだなあ、って開けて食ってみたが、ものすごく甘い。4つとも開けたけどぜんぶ甘い。しかし、なんでここまで砂糖を入れないといけないんだろう。

オレ、市販品やレストランで、甘いことに常に文句言ってるけど、やっぱ言いたくなる。韓国よおまえもか、でした。

ここまで甘いともうデザートと区別がつかない。いつからこうなっちゃったんだろうねえ。

うちの近くに人気のパン屋があって、当初ときどき買ってたんだけど、甘くなくていいパンまで甘いので、買わなくなった。ところが、そこがもう大流行りで、列ができるほど地元民に人気がある。

現代の人の味覚が変わったんだねえ。

スウェーデンのスイーツは日本の倍ぐらい甘かったけど美味しかった。甘くていいものが甘いのはいいのよ。逆に日本のスイーツは甘味控えすぎ。それにしても、甘くない塩味のものを甘くするのは止めて欲しい。

この韓国総菜の同じメーカーの白菜キムチも買ったんだけど、そっちはまったく甘くなく、酸っぱくて助かった。この酸っぱさは醗酵がなかばより進み過ぎた酸味だけど、スーパーに山ほど売ってる日本製キムチのすさまじい甘さがまったくなく、酸っぱくてもおいしく感じたよ。

スーパーに卸してる日本のキムチメーカーもさあ、一点でもいいから甘くないのを出して欲しいわ。そうすりゃ買うし、たぶんオレと同じような人も少数ながらいると思うんだよ。どのメーカーもぜんぶ「こくうま」みたいのしか作らないって、おかしくないかな。

キムチは甘いし、インドカレーは甘いし、麻婆豆腐は甘いし、もう、砂糖、嫌い。

甘味を嫌うと、そういう人が少数なせいか、こんどは高いカネ払わないといけない。そりゃ甘くない店も知ってるけどさ、そんなところへわざわざ行くのも面倒だし、高いカネ払うのもばかばかしいし、麻婆豆腐とか、インドカレーとか、自分で作れるものなら自分で作る。

あー、おもいっきり愚痴言っちゃった。

中国と日本

中国は唯物、日本は唯心、というのが僕の感覚である。僕も長年、中国料理をやって来たので、この感覚は、歴史とか文学とかからではなく、そっちから来ている。なので、自分の中でわりと強固。

そもそも中国は唯物なので、論理的で、合理的である、というのが僕の理解で、それがこの工業社会、ひいては情報社会にフィットするのは当然で、あっという間に日本を追い越したのも必然に見える。中国では、国のシステム化さえ正しくできれば、恐ろしい規模とスピードで機能するはずで、ああなって当然。システム化に必要なのは有能な頭脳と権力で、中国共産党の首脳の超絶頭脳は、やはりさすがだと思う。

一方、日本は唯心なので、論理と合理がハナから苦手。西洋からにわかで輸入したけど、いつまでたっても板に付かない。その代わり、漫画アニメなどのエモーショナルな、いわゆるソフトパワーは圧倒的に強い。工業と情報で中国に勝とうとしてもおそらく無理でしょう。合理的なシステムをまったく構築できない日本の様子は、オレも現場でイヤというほど見てきた。

まー、日本の国も中国共産党みたいにトップダウンな組織にできれば、あるいはだけど、さて、中国ほど有能なトップ集団が形成できるかと言われれば、はなはだ心もとない。ちょっと古い考え方だけど、天皇を復権させるぐらいしか、思いつかない。

と、まあ、そういうわけで、中国に負けて悔しい爺さんたちは多いだろうが、ちょっとアタマを冷やして、よく両国を見た方がいいと思うけどね。

我が国は、もう、侘び寂びと、もののあわれで、いいじゃん。

嫌中のはなし

最近、やけに中国が嫌い、っていう言葉を聞くけれど、思えば、いまから15年ほど前、僕がまだ会社にいたころ、周りでは、韓国が嫌いな人がけっこう多く、そのころ僕は、韓国と日本なんてメンタリティが正確に同じなのになんでそんな嫌うの、と言うと即、韓国人と日本人はぜんぜん違う、ってけっこうな権幕ですげー言われたっけな。

でさあ、なんだか最近、こんどは嫌韓があまり聞こえなくなり、代わりに嫌中になった感じ。ひょっとして15年経って、同じ人たちがスライドしてきた?

多民族職場で働くある人から聞いた話だけど、そこにまだ20代の若いフィリピン人がいて、日本語・英語・フィリピン語のバイリンガルで、フィリピンを出たくてしかたなく、いま、日本で働いてるけど、ゆくゆくはヨーロッパへ行きたい、と言っているそうだ。で、その彼に、フィリピン出たいなら日本国籍取ればいいんじゃない?って言ったら、彼、国籍取るってどこでも大変だけど、日本はいま、ナショナリストの高市首相だからダメじゃないかなあ、って言ったそうだ。

東南アジアの国々の人たちは、日本のナショナリズム台頭について、そんな風にふつうに思われてるんだなあ、って面白かった。

特に日本の爺さんたちが目につくんだけど、まず、韓国を忌み嫌い、次は中国を忌み嫌い、ってのはなんか同じ原理じゃないですかね? 中国も韓国も、おまえら昔には日本が統治して、惨憺たる途上国だったのをオレたちが近代国家にしてやったのに、今度はその恩を忘れて成り上がり、傍若無人に振る舞いやがって、感謝の心がない下品なやつらだ、って一部の日本爺は思ってるんじゃないですかねえ。

ま、こんなこと言ったら、そういう人たちに喧嘩売ってるようなもんだけど、おそらく、中国、韓国、東南アジアの国々は、自分たちの過去のひところに日本に侵略され支配された、という風にふつうに認識しているはずで、そういう目で、以上の忌み嫌い日本爺たちを見ていると思うけどね。ま、下品なのは一体、どっちだよ、って話。

もっとも、隣国を嫌うのは、実は、ふつうのことで世界じゅうどこでも起こっていることなので、特別じゃない。僕のアイドルのボードレールだって「哀れなベルギー」という文庫一冊分ぐらいの本をわざわざ書いて、ベルギーをこれでもかというほど罵倒しまくっている。かのニーチェは、自国のドイツを最大限に侮蔑しているのはいいとして、その次にはイギリスやアメリカを味噌糞にこき下ろしている。

そういうわけで、他国を嫌うのはよくあることで、それは別にかまわないけれど、まあ、嫌韓も嫌中も、見ていて気持ちいいもんじゃないし、みっともないので止めるんですな。やるんだったら、ボードレールかニーチェぐらいの知能を持ってから、やるんですね。すなわち、一般人には無理。

僕は韓国も中国も好きなので、以上となんの関係もない。若かったころはニーチェと同じく自国の日本が大嫌いだったので、かえって隣国の韓国と中国が好ましかった。いまでは日本も好きになったので、東アジア三国は好きだな。そして東南アジアは、昔から好き。だいいち、大昔、中国と朝鮮の文化にここまでお世話になった日本なんだし、彼らを嫌う理由は僕にはない。

僕が嫌いなのはむしろ西洋だけど、これはまた別な話。

陽気な薬剤師

このまえ処方箋を持って薬局へ行ったときのこと。

店内に入ると、お客の初老のおばさんと薬剤師のおねえさんが話してて、なんだか超盛り上がっていて、終始きゃはははって笑ってる。旗の台駅の周辺の話をしてたから、ああ、なんか知り合いなのかな、って思ってた。

で、こんどは僕の番になり、薬の中に胃薬があったんだけど、薬剤師のおねえさん、忘年会の季節ですものね、って言うんで、そうですね、と言うと、なにかとお酒を飲む季節なので胃腸、大切ですよね、とかなりハイテンションで言ってくるんで、そっすね、実はこれから僕、呑みなんですよ、とか言ったら、きゃあああ、そうだったんですね、いいですね! とか言うんだけど、すでに薬はもらっておカネも払ったので、じゃ、どうも、行ってきます、って出口に向かったら、今日はなんのお料理ですか? って超嬉しそうな笑顔で言ってくるんで、えーと、和食です! って言ったら、和食いいですねー! 忘年会はやっぱり和食ですよね! ってなって、僕、じゃ、どうも! って出口を出ると、行ってらっしゃいませー! と相変わらず超陽気に送り出してくれた。

いやー、すごいな。とすると、最初のお客も、別に知り合いじゃなくて、お客さんみんなにあの調子なんだ、って思って、歩きながら笑っちゃった。

で、ふと思ったら、もらった薬の説明をぜんぜん聞いていないことに気づいて、二度笑ったよ。

しかし、陽気な薬剤師もいたものだ。

自己反省ツールとしてのAI

AIを自己反省のツールとして使う件だが、どういうことか書いておこう。

まず僕が腹立ちまぎれに書いた長文がある。それをコピペしてChatGPTに貼るのだが、冒頭に以下のようなプロンプトを書いた。

「こんな文を読みました。僕はこの人、アホでバカだと思うんですが、どう思いますか?」

こうしてAIに訊くと、AIはかなり全力でユーザーの味方になり、その線で答えて来る。

これをやったら、AIのやつ、僕の文を読んで、箇条書きで6つぐらい、この文の論理の甘さや、あいまいさ、不徹底さ、矛盾をいちいち指摘し、それからこの文を書いた人(オレ)が、どれだけ、自惚れていて、そのくせ実力はなく、それを糊塗するために一見賢そうな用語を交え、せこい真似をするか、ということをいちいち指摘して来た。

もう、見るも無残なほど、文と書き手をこき下ろし、人間としても文としても無価値で屑である、と断定しやがった。

さらに、その最後に、「もしお望みでしたら、こういう人間を一発でがつんと潰すような返答を作ることもできますが、やってみますか?」と、こう、来た。

オレ、さすがに、以上を読んで、自分が恥ずかしくなって、落ち込んでしまったので、「はい、お願いします」とか「実はこれ僕が書きました」とか、書けず、そのままAI対話を丸ごと削除しちゃった。

いやー、参りました。完敗です(笑

みなさんも、これ、たまにやってみるといいですよ。自分がいかにダメな人間か、ときどきは気付いた方がいいです。ただし、精神が弱い人にはお勧めしません。悩んで鬱になるかも・・・