雑文」カテゴリーアーカイブ

人生のコース

ふと思い出したことを書いておくか
 
およそ30年前、自分はNHKに就職した。その最初のころ、同期の集まりのようなことがあり、会場を借り切り、皆で酒を飲み、あれこれとイベントがあり、そこで最後にビンゴをやることになった。当時の自分はビンゴを忌み嫌っており(なんでだろう?)、みながワイワイとやってるビンゴを横目に、紙に触れもせず酒を飲んでいた。それを見咎めた同期の一人がいて、林おまえなんでやらないの、というんで、下らないからやらん、と言ったら笑って、なんだよ、おまえ、郷に入れば郷に従うっていうじゃん、と言った。
 
それを言った彼を、実際俺が好くはずもないが、でも、部署は違っていたし、ほとんど交流も無かった。彼はその後、NHKの出世コースに近いポジションを転々とし、けっこうな働きをし、同時に、二児だか三児だかの父として家庭を持ち、少なくとも年賀状で確認する限り、頭のよさそうな子供たちもすくすくと育ち、子供たちも問題ない人生を送れそうな感じで送り出したようだ。
 
一言で言って、申し分のない人生。
 
一方、俺の方は、NHKを辞め、事業を始めるが失敗し、一時失業し、スウェーデンに拾ってもらいここにいる。そして、バツイチで、子供もなく、正直、まっとうな人生を送っていると言い難い。もちろん、下も上も見ればきりがないわけだが、幸いにも自分は幸福な子供時代を送ったのだけど、そんな自分の生まれを思うと、自分はそれに見合うだけのことをしているか、はなはだ疑問である。
 
先に書いた俺の同期の一人は、すでに30年も前に自身の生きる道を分かっていたのだ。だからこそ、彼は仕事でも家庭でも、その道を外すことが無かった。それに対して、恐ろしいことに、俺の30年前は、将来の自分のあるべき姿についてのイメージはゼロ、それも正真正銘のゼロであって、自分の身にこれから何が起こるかなど、分かりもしなかった。というか、人生のコースという概念そのものが無かった。
 
で、なんでこんなこと言ってるかというと、俺と同じように、40過ぎても、50過ぎても、どうにも人生をうまいこと送れていない人に言いたい。
 
ノープロブレム
 
と。俺たちは、かけがえのない、自分だけの人生を送っているのだ。それはもう、この広大な宇宙でたった一回、自分にしか起こらない事なのだ。それは、俺たちの社会で査定される地位とかには金輪際、関係がない。だから、どんな人生だからって、悩むことも負い目を感じることもない。孔子さまは四十にして惑わず とか言っているが、そんなのは放っておいていい。
 
と、自分に言い聞かせてるんだけどね(笑

(Facebookで自己最多いいねがついた文なので転送しておくが、自分的にはなぜそんなにいいのかよく分からない)

猫とドクター

今朝思ったことを、書いとくか。

今日はちょっと遠回りして久々に海沿いの道を行って、海を見てしばし佇んだ。ああ、スウェーデンのこんなところに、なんで俺はいるんだろう、とか思ってね。

思い起こしてみれば、およそ20年前に自分が飼っていた猫が死んでね。10歳だった。もうだめだと思う、と連絡を受けて、仕事をぜんぶほっぽり出して、家に着いて、一時間ぐらいだったかな。これは、どうしようもなく悲しい思い出で、20年たった今でもきちんと書く気にならない。しかし、思い出したのはその悲しい方じゃない。

俺はそのとき、およそ一か月は泣いて過ごしたが、そんな時がようやく去って、なにを考えたかというと、もう、自分がいま無理して送っている日本での生活には何の未練もない。だから、俺は今の仕事を辞めて日本を出て東南アジアあたりで暮らしたい。ただ、自分の性格からいって、いきなり放浪したり、地位も何もかも捨ててブルーカラーになったりするのは絶対無理だ。だから、何かしら今と同じ知的労働に就けるようになっておく必要がある。

それで、どうしたかというと、ドクターを取ることにしたのである。それまで研究所にいて、林もドクターを取った方がいいと言われ続けてたけど、知的労働に嫌気のさしていた自分は、学位なんか下らない、と相手にもしなかった。

でも、実際、自分が外国に出て、ストレスで潰れないように生きてゆくには、今の俺にはドクターの資格を取るしか方法がない、と思い至ったのである。まったくに、捻じれたモチベーションなのだが、そういうわけで、社会人博士にアプライしたのが、猫が死んで半年ぐらいだったか。

そして、そのドクターのおかげで、スウェーデンに職を見つけてここにいる。20年前に猫が死んで自分が取った行動は、こういう形で、少しずれてはいるけど思う通りにはなったんだな、とバルト海を見ながら思った。

絵画を見る眼

オスロの国立美術館へ行ったときのこと。建物の真ん中の大きめの広間に西洋古典絵画が三十点以上かかった質の高い部屋があり、グレコはあるわ、ベラスケスはあるわ、ルーベンスはあるわ、なかなかのコレクションで、一点一点なるほどと見て行った。
 
一通り見て、次の間へ行こうとしたら、奥さんが、ゴヤがあったね、というんで、え? ゴヤ、あったの? と言うと、絵を指さして、あそこにあるじゃん、って言うんで、引き返してキャプションを見てみたら、Francisco Goyaって書いてある。ちなみにゴヤは古典では、僕が一番に好きな画家である。
 
さっき全部見たので、もちろん、この肖像画も見ていたはずだ、でも、ぜんぜん気が付かなかった。ああ、よくある平凡な肖像だな、と思ったかして通り過ぎてしまったのだ。
 
で、ゴヤだと分かってからその同じ絵を見たら、これがまた、突然、平凡な肖像画が素晴らしい画布に見えてきた。小さ目の縦長の画布で、帽子を被った男の膝上の肖像。シャツの何とも言えない素晴らしい緑と、上着のこれまた何とも言えない赤黒い色が見事に調和して、白い絵の具でめったやたらに突っつくように乗せられたゴヤらしいハイライト、そして、普通より赤を多く乗せた、やはりゴヤらしい顔の表現などなど。まあ、何と、素晴らしいこと。しばらく見入った。
 
かくのごとく、人は、まず肩書でその姿を見るわけで、これで分かるように、ゴヤだと分かっただけで、絵は突然光り輝くのだ。
 
たぶん、これを読んだらきっと、林はゴッホで油絵に開眼して、西洋古典絵画については訳知りで目利きだ、みたいにさんざん自己宣伝しといて、結局、先入観抜きで絵を見る力なんかないじゃないか、とふつう、思うであろう。僕もそう思う(笑)
 
ただ、僕には、まったくのブラインドで初見で絵画の良し悪しを判断できる眼は無いかもしれないが、その絵画の「見方」が分かった途端に、その良さを十二分に見つけ出して、陶酔して、おまけに評論の一つも書ける能力なら持っているのも、確かだ。
 
この場合の「見方」とは、「ゴヤの作品なので、ゴヤらしい色やデッサンや表現に注目しなさいね」という指令が、Francisco Goyaと書かれたキャプションから僕に発せられているのである。そうすると僕の眼は、さっきまでの漠然としてオーガナイズされない眼から、突然、ゴヤにチューニングされた眼になって、その魅力を余すところなく感じ取ることが出来るようになる。
 
かくのごとく、視覚というのは、あらゆるものが関係して、その視覚経験の結果を形作るのであって、人によって見えているものが、まったく違う、というのは当然のことなのである。それは、単なる強度の違いではなく、質的に異なるのである。そして、それは、見る対象と視覚だけを取り出していくら科学的に詮索しても、それだけでは説明は出来ないのである。かといって、それに、脳と記憶を追加したところで、知れているのである。すべては一体になって進行しているのである。ベルグソン流に言うと、視覚というのは眼や脳にあるんじゃなくて、対象物の中にあり、生命は行動によって、それを顕在化させるのである。
 
と、まあ、そういうことなのだが、ゴヤの素晴らしい画布を見逃して帰って来なくてよかった。

(Facebookより)

のらくろ

さっき、日本の初期アニメーションのライブラリで、なに見ようかな、って思ってサイトを見ていたら、のらくろ二等兵があったんで、見てみた。のらくろは野良犬だったけど出世して軍隊に入って、いろいろ笑えることをしでかす、そんな日本の漫画の古典である。
 
そうしたら、軍隊の訓練の場面で、これはサイレントなので字幕で
 
右向けー、右 前へー進め! ぜんたーい、止まれ!
 
ってやってる。これを見て、本当にため息が出たよ。僕が小学生の時に学校でやらされていたのと、文句が一字一句同じだった。この漫画は1933年のもので、満州事変のころ。僕が小学生だった時は、それからおよそ40年経っている。それでも、学校では、この満州事変のときの軍隊の訓練と、一字一句同じ言葉で、同じことがやられていたとは。そして、それに僕が疑問も抱かず従順に従っていたとは。
 
ほとんど絶句してしまった、本当に。
 
漫画をさらに見ると、のらくろは軍隊の規律にきちんと従うんだけれど、いつもどこかが抜けていて、しょっちゅうヘマや、おかしなことをしでかすのである。漫画の上では明示的にそのようなことは表現していないが、すごくうがって見るならば、軍隊の規律に、心のある自由な人間が、ロボットのように従っているのが「滑稽」であるかのように漫画のストーリーが作られている。
 
そう思って見ていたら、あまりに悲しくて涙が出てきてしまった。このとき、この漫画を作った作者と、それを楽しみに見ていた子供たちは、どんな思いをその心の奥底に秘めていたことだろうか。
 
のらくろの作者は田河水泡。この人は、小林秀雄の義理の弟なのである。小林秀雄のエッセイに、この義理の弟ののらくろについて書いた文がある。小林秀雄は、彼に実際に会うまでは、才能のあるマンガ家が才能にたのんで自由にのんきに漫画を書き飛ばして仕合せだなあ、ていどに思っていたそうだが、ある日、弟と酒を飲んでよもやま話をしていたときのこと、弟が飲みながら
 
兄貴、あの、のらくろね、あれは俺のことなんだよ
 
と言ったのだそうだ。これを聞いた小林秀雄は、自分はまことに迂闊であった、と書いていた。
 
日本人は本当に捻れている。この自分も、もののあわれに足が生えて歩いてるような生粋の日本人のこの僕も、幼少に軍隊のような学校生活を何の疑問もなく送ったあと、知的な意味で物心ついてからは、完全な西洋の教養で育った。少なくとも自分は、西洋教養で生きていた期間は、日本のもののあわれはことごとく退けていた。
 
50歳を過ぎて再び日本に里帰りしているようなものなのだが、おかしなことに、自分の身体の中にあるもののあわれと、脳の中にある西洋教養が、うまいこと調和せず、そのせいで、こののらくろ二等兵のようなものが現れると、どうしようもなく感傷に捕らわれたりしてしまう。
 
本当の本当に自分の心が東洋に里帰りしたときは、何が待っているんだろう。今のところ、分からないのだが、きっと解放されて自由に暮らすだろう、と夢想するんだよね、根拠は何も、ないが。

Bathroom leaking

ことあるごとに思い出すささいなことがあるので書いておく。

大昔、たぶん30歳過ぎぐらいのとき、学会発表の仕事でアメリカのオーランドに行ったことがあった。すでにアメリカは仕事で数回目だったが、このときは一人の出張で、発表以外に何も仕事を入れなかった。なので、行って、数日間のコンファレンスに参加して、帰ってくるだけ。相棒もいないし、自分は車を運転しないし、観光地にも興味が無いので、アメリカへ行っても全くすることがない。

で、ホテルの部屋に着いてしばらくして、バスルームで水が漏れているのを発見した。たしか一階の部屋だった。フロントに電話して説明すると、人を送るから待て、というので、しばらく待ったら、たぶん自分と同じぐらいの30歳ぐらいの、すごくオタクっぽい、背が低くて、小太りで、髪の毛がペタっとしてて、白人だけど、どこから見てもオタクな男が来た。腰に水回り修理グッズのベルトを巻いてたからその手の人なのはすぐわかるけど、ああ、このベルトを外したら、こいつ完全なオタクなゲーマーだろうな、と反射的に思った覚えがある。

で、僕がドアを開けたとたんに、彼、真面目な顔をして、当たり前なんだけど、すごくはっきりくっきりした英語で

Bathroom leaking

と言った。相手が東洋人だと見て取ったせいで余計なセンテンスを言わずにこう言ったのかな、とも思ったが、なんだか、その言葉の抑揚と調子だけで「バスルームの水漏れですね。私にお任せください、すぐに修理します」という、やけに真摯な気持ちが、まるでかたまりのように投げつけられたような感じがして、驚いた。

バスルームに入ってからも、今度は自分に言い聞かせるように、もう一度Bathroom leakingと言ってたから、あながち、英語が分からなさそうな相手だからそう言ったわけでも無いみたいだった。

結局、つごう二回聞いたのだけど、その英語のBathroom leakingが、なぜか耳に残って仕方なく、なんとあれから25年は経ったであろう今でも、その、彼の発声したBathroom leakingがはっきり思い起こせる「音」として残っているのである。おまけに、なぜかときどき定期的に思い出すのである。なぜだろう。

彼、すごくテキパキと、水漏れを調べ、原因を特定し、処置をして、たしか15分ぐらいで直って、出ていったが、これまたたしか、そのテキパキした仕事ぶりとは裏腹に、えらくいい加減な応急処置だけで帰っていった覚えがあるが、まあ、直っているのでそれはいい。それより、そのオタクな彼が、自分の仕事を、すごくきっちり、天職でもあるかのようにこなしていたのが、当時の自分にすごく新鮮に映ったのだった。

そのオーランドのホテルで、もうひとつ覚えているのが、部屋にいても何にもすることがないんで、外へ出て界隈を歩いたこと。

ホテルの近くは片側4車線はあるんじゃないかみたいな巨大な道路に大量の車がびゅんびゅん走っていて、歩いても歩いても、道と、その周辺の、草がまばらに生えた荒れ地ばかり。途中、ドライブインの大型レストランがあったりしただけで、それらをぼんやり見て、何も見るものもないんでそのままホテルへ戻った。

Bathroom leakingの彼は愛すべきやつだったけど、ああ、この土地では、こういう風景の中で、ああやって生きるんだ、って思った。これで自分はUSAが嫌いになり、それ以来、自主的には一度も行ったことがない。

(Facebookより)

日記と親父の話

子供のころの自分は従順だったので、中学生になって、親父に日記帳を渡され、日記を付けろ、と言われたので日記を書き始めた。思えば、あれが自分の文章修行の始まりであった。日記といっても、最初のころは、判で押したようにおなじことしか書かなかった。その日にあった出来事を書き並べただけで、何時に起きた、朝ごはんを食べた、何時に学校へ行った、何と何と何を勉強した、誰と遊んだ、何時に帰った、という記述を毎日欠かさず続けていた。

そうこうして、2年も経ったころだったか、出来事をひたすら書き綴ることもだんだん間隔が開いてきて、その代わり、どうでもいい雑文をときどき書きつけるようになった時のこと、とある文を親父に褒められたことがあった。これは親父にしては極めて珍しいことで、自分は叱られたことこそ多数だが、褒められたことなどめったになかったのである。ともかく元文学青年の親父はこれを読んで感心し、ひょっとすると正樹には文才があるかもしれんな、と親馬鹿ぶりを発揮し、お袋にそう言っているのを、僕は聞いていた。褒められて嬉しくないこともなかったが、中学生の自分は文才などというものに興味はなかったので、あっさり受け流した。

ところで、その文はこういうものだった。

ある晩、家族でぼんやりテレビを見ているときのこと、そのへんに昔ながらのガラス棒の体温計があったので、それを取り上げ、その温度をあれこれして上げようと試みた。最初、指でつまんでしばらく待ったが、体温より少し下ぐらいしか上がらない。もっと密着しそうな手の平やら、腕の間やらで挟んだりしたけどそこそこ。そのうち、そっか、と思って指でつまんでぐりぐりしたら少し上がった。こすって摩擦で温度を上げればいいのだ。で、服の上や、床や、いろんなところでごしごしこするものの、ほどほどしか上がらない。で、最後に、親指と人差し指の間の付け根の柔らかいところで包むようにしてごしごしこすると面白いように上がって行くことを発見し、しばらくこすって、とうとういちばん上の42度まで上がった。上がってしまうともうすることもないので、体温計を放り出し、テレビを見ていた。しばらくすると、親指の付け根あたりが痛いんで、ふと見たら、さっきこすったところの皮が剥けて赤くなってヒリヒリする。あ、夢中でこすったせいだ、と気づいたが、それにしても、これを書いている今でも痛い。

と、まあ、そういう内容だった(つまんなくて失礼 笑)。この文はそこそこに長い文で、それにしても、単に描写を延々とつなげただけのものだったが、何かしらの文才がひらめいていたのであろう。

ところで、その後、中三になって不良仲間と付き合ってギターを始め、すべてはストップする。日記ももちろん止めた。思えば、それ以来、大学まで僕の文章はまったく進歩が止まっていた。今思い起こしても、自分がそのころ書いた文章は、内容も文体もかなり稚拙だった。よく、小さいころイマジネーション豊かな文才を発揮した子が、学校で国語を習うようになって混乱し、あっという間にかのビビッドな文才を失って、以降、混乱した稚拙な文しか書けなくなる、ということはごく普通に起こっていることなのだが、僕もそんなようなものだったのだろう。

再び自主的に日記というものを書いてみようと、始めたのが30歳前ぐらいのとき。最初は硬かったが、書き始めて一年ほどして、そこそこに文が書けるようになり、そこが自分の文章修行の本当の始まりであった。それから1、2年たち、残念ながら親父は早くして死に、僕のマジメ文も、その後に完成するアホ文体もほとんど知ることなく、逝ってしまった。それからさらに数年経ち、35歳ぐらいのときに「ゴッホ─崩れ去った修道院と太陽と讃歌」という本を自費出版し、自分のマジメ文体は完成したと言っていい。僕は、この本の冒頭に「父の霊に捧ぐ」と書いたが、これは率直な本心だった。この本は親父に読んでもらいたかったな、残念だ。親父は若いころさんざん苦労したが、最後まで物書きになる夢を捨てたことはなかったらしい。もし、僕に文才のようなものがあるとすれば、間違いなく、それは親父から受け継いだものだろう。

ところで、この本で思い出したが、お袋に聞いた話。むかし、親父が死んでずいぶん経ったある日のことだったらしいが、かつて親父を尊敬していた知り合いが、突然、家にお線香をあげに来たことがあったそうだ。どうやらしばらく親父の死を知らなかったらしい。その人は、お袋に挨拶もほとんどせず、そのまま玄関を上がり仏壇のところへ直行すると、そこでおいおいと声を上げて泣いたそうだ。しばらく経って、お袋とよもやま話をしているとき、お袋が思い出し、そういえば、長男の正樹がこんな本を書いたんですよ、と僕のゴッホの本を渡して、血は争えないですね、とでも言ったであろうか。その人は、本を手にして、ページをめくり、冒頭の、父の霊に捧ぐ、という一文を見て、その場でまたはらはらと涙を流したそうだ。

僕のゴッホの本は、出版しても何も起こらなかったが、親父の供養にはなったと思う。

 

(2017年1月10日、Facebookに投稿)

クワス算とFountain

ふと、クリプキのクワス算とマルセル・デュシャンのFountainは似たところがあるかもな、と思ったので、考えてみた。

クワス算とは、こんなものだ。「ある所にAさんがいて普通に足し算をしていた。そこにX氏が現れAさんに68+57はいくつでしょう、と聞く。Aさんは68+57=125と難なく答えるが、X氏は言う、違います。68+57=5です。Aさんはなぜ?と聞く。X氏はなぜなら68+57の「+」は、実はどちらかの数が57より大きいときはすべて5になる、という計算方法だからです、と言う。Aさんはそんな馬鹿な、と言う。Xさんは、ではあなたは今までに68+57をやったことがありますか?と聞く。Aさんは詰まってしまう。実際、Aさんは57より大きい数の足し算をやったことがなかったのだ。この「+」で表わされた計算をクワス算という」

一方、デュシャンのFountainは、1917年のインディペンダント展に突如展示された作品で、R. Muttと署名された男性便器にFountainというタイトルを付けて作品として展示したものである。これは当時スキャンダルを巻き起こし、結局、作品は展示場から撤去された。しかしデュシャンのこの行為はその後も大きな話題になり、ダダやシュールレアリスムの芸術運動の一種の礎石となる。

さて、以上がクワス算とFountainであるが、クワス算の設定を使ってFountainを再設定してみようと思ったのである。

Aさんはずっと用を足すために便器を使ってきた。ある日、X氏が現れ、男性便器を指さして「これはなんですか?」とAさんに聞く。Aさんは「便器です」と、答えるがX氏は「違います。これはFountainという名の芸術作品です」と言う。Aさんは「そんなはずはないでしょう。どこから見ても男性用便器でしょう。それが芸術作品だなんて馬鹿げてます」と言うが、X氏は「では、なぜこれが芸術作品じゃないかきちんと証明できますか? これは明らかにFountainという作品なのに」と言う。結局、Aさんは絶句。

ここで、このたとえのAさんが仮りに女性だったら、どうもハラスメント的な怪しい感じが付きまとうかもしれない。それにしても、そんな配慮心が働いてしまう、というのも現代ならではと思うが、そんな現代では、このX氏は、便器は便器に決まってるという常識派からは「変態」と呼ばれて糾弾されうるし、半端な芸術派からも「芸術というよりただのスキャンダル好き」と呼ばれて糾弾されうる。

そうして、やはり、このX氏は、やっていることは簡単だが、誰にでもできることではなく、マルセル・デュシャンぐらいの芸術家じゃないと演じるのは無理だった、ということがはっきりする。実際に、かつてFountainが美術展に初めて現れたときも騒ぎが起こり、強制排除されたが、やがて人々が説得されて行ったのは、マルセル・デュシャンという正真の芸術家の力ゆえ、と言えると思う。

それにしても、これまでなんの疑問もなく、ずっと用足しに使ってきた器具が実は芸術作品だった、と言われたら、それはそれでショックだろう。そのときにAさんが「どう感じるか」、そしてFountainを知ってしまった後のAさんは「世界をどんな目で見るようになったか」によって、人の種類は分類できるかもしれない。

X氏のFountainは、世の常識的な「実用性」をいったん破壊することになっただろうか。どんなものでも芸術になりうる。便器のようなきわめて卑近なものすらその例外ではない、ということだが、一体、その破壊の後に、なにが新たに立ち上がって来るのだろう。もし、そのAさんが世の中を見る目が変わったとするならば、それは明らかに、「世界がその一撃で前より広がった」ということを意味すると思う。

世界はそのようにして不断に領域を拡大しているのだと思うのだが、「自分のテリトリーをそのまま広げて行く」のと、「未知の世界に足を踏み入れて、そこにまったく新しいテリトリーを開拓する」のでは、意味合いがずいぶん違う気がする。

「実用性」という言葉は、上記の「既に獲得されたテリトリー」の中に設定されている概念なので、未知の世界に実用性という概念があるはずはないし、ありえないはずだ。また、実用性とは常に「現在」に拘っている概念であって、未来に適用できない。だって「コレは、何の役に立つかわからないけど、将来役に立つかもしれないから、コレは実用的だ」とは絶対に言わないし、明らかに用法がおかしい。

ただ、時間が経ってその「将来」になって、本当にその「コレ」が役に立って実用的になっちゃうかもしれない。なので、「実用性」というのは、その姿が拡大されたり、突然別のものが現れたり、不要なものが消去されたりしながら、常に動き、変化して行くもので、その一番大きな変化は、やはり、実用性そのものから生まれるのではなく、未来を作る、前人未到なエリアに踏み出す、発明、創造行為、その最たるものである芸術により生まれるものであろう。実際にデュシャンのFountainで世界が広がり、芸術の在り方が変わり、その新しい芸術から幾多の実用性が生まれたことは(シュールな漫画なり、シュールな日常オブジェなり想像してもらえばいい)、今ではまったく明らかな歴史的事実である。

で、最初に戻って、クワス算は、そういうFountainと同じ役を担ってはいないだろうか。僕には、そう見える。クワス算は、社会通念的にも論理的にも間違っており、意味の無いものだ、という意見もあるが、もし、クワス算とFountainが同じものを狙っているとしたら、その場合は、デュシャンのFountainも同じように否定しないといけなくなる。既に歴史的評価が決まった芸術家に対して、マルセル・デュシャンはただの詐欺師に過ぎない、と宣言することになる。いまでもデュシャンはただの詐欺師だという人はいるだろうが、そういう人とて、Fountainが出現して変貌した社会の中にどっぷり生きて生活してしまっていることまでは否定できないはずだ。

しかし、クワス算とFountainのアナロジーには一点引っかかるところがある。それは、クワス算の横にデュシャンに相当する人物がいないことだ。この場合、もちろんクリプキということになるが、なんだか少し役不足に見える。となると、クリプキに多大な影響を与えたウィトゲンシュタインを持ち出しても、いいかもしれない。ただ、誰かそこに、それに力を与える役を担う大物が必要な気もしてくる。クワス算とFountainは、その枠組みは同じだと思う。でも、その枠組みに命を吹き込むのは、やはり人間であり、しかも、このように前人未踏なものへの踏み出し、となると、それ相応に腕力のある人間、芸術家、哲学者が必要になるように、どうしても思える。枠組みがいかに独創的に精巧にできていても、それだけでは人間の領域を圧倒的な勢いで拡大するのは難しいように思える。

東寺と法隆寺

京都での仕事が終わった翌日、かねてから予定していた通り、東寺へ行き、そこから奈良の法隆寺まで行ってきたので、簡単な感想を書いておく。

京都の東寺へ行ったのは、空海が建てた、立体曼荼羅を見たかったから。これを知ったのは、少し前、日本の仏教彫刻の歴史を調べていたときのことだ。平安時代初期に作られた、官能的と形容される梵天像というものがあることを知り、それが、この東寺の曼荼羅仏像群の中のひとつなのである。迂闊なものだ。こんな良いものがあるなどこれまで知らなかったし、京都駅近くにこのようなものがあることを気にもしなかった。

空海は中国から密教を持ち込んだ人だが、密教といえば曼荼羅。曼荼羅は視覚的に表現された悟りの境地だが、かの絵図はだいぶ見覚えのあるものだ。中心の大きな仏像の周りに、これでもかと大量な像やシンボルを円形に取り囲ませ、何重もの層を作ったような、あの図柄である。東寺の金堂にある仏像群は、空海その人のアイデアにより、この元来二次元的な配置でなされた曼荼羅を、立体の仏像を使って、建物の中に立体的に配置する、というものであった。

東寺の金堂の立体曼荼羅

東寺の金堂の立体曼荼羅

面白いことを考えるものだ。これを収めるお堂は通常の講堂の形をしていて、横に長い。その横長の舞台を三つに区切って、その三つの区間のそれぞれの中心に、中心となる像を置き、それを取り囲む複数の像を配置して作られている。東寺のこれは全部で二十一体である。

さて、講堂に入った。だいぶ薄暗い。控えめな光を当てられた二十一もの像が、ほとんどぎっしりと言っていいほど密集して置かれている。僕は近眼で目があまり良くないので、暗いせいで近くのもの以外、像のディテールはあまり分からず、だいぶぼんやりしているが、それでも、この全体の仏像群の醸し出している独特の空気は、よく感じられた。

ど真ん中には大日如来のひときわ大きな像が高い位置に置かれ、その周りに如来像が配置されている。これらはとても柔和な顔だちと体つきの像で、その一角は静かで平穏な雰囲気を醸し出しているが、その両脇は、左も、右も、闘いと怒りの仏像たちが固めている。中央の如来たちの世界を、外界の敵から守っているのであろう。これら戦いをつかさどる、明王像や四天王像、そして梵天と帝釈天の像はいずれも見事だった。やはり、どうしても、それら、異形の仏像に見入ってしまう。特に口を開けた阿形の持国天の前にしばらく立っていたが、なぜか現実の人間より一回り小さく感じられる、その、凝縮されたような実在感は素晴らしいものだった。

jikokutn

持国天

それにしても、如来の像たちは、みな、ふくよかで女性的な丸い体つきで、薄い布の衣を身にまとっただけで、柔和な姿勢と、表情で、落ち着いているわけだが、やはりこの静かな世界を維持するには、両脇に戦闘に明け暮れる軍隊が必要だったのだな、と、漠然と思って見ていた。軍隊の像たちは、みな硬い鎧で武装していたり、あるいは、頭が三つあったり、腕が四本あったり、眼が五つあったり、周りのどこから敵が来ても対処できるように生物的な武装までかけているのである。

面白いことに、その、無防備な如来と、武装した像のその中間に位置するような形態の像もあることだった。特に、冒頭にも書いた梵天の像は、有名なだけあって奇妙なものであった。頭が三つ、腕が四本ある異形の像だが、その顔はすこし内省的で、なによりも体つきが女性のようにふくよかで、薄い衣をまとっただけなのである。その座像が蓮の座の上に載っているのだが、その台を四羽の鵞鳥が支えていて、そのうち正面の二羽は、首を真上に曲げて口を開け鳴き声を上げているが、その首と頭の形が勃起した男性器の形状そのものなのだ。この像は、中国からの密教の教えと共に日本に渡ってきたもので、官能的と形容されるのだが、たしかに、その通りであって、そこには「生」の喜びのようなものが直接あらわされている。像の形状は、中国を素通りしてインド的なものを思わせるので、インドにある官能の肯定のようなものがそのまま刻まれているのだろう。

梵天像

梵天像

生の肯定か。自分は梅原猛の本でそれを知ったが、空海の思想には、大日の考えがあって、それは現世の苦しみと来世の救いを基本としたその当時の日本の仏教から逸脱し、世界への強烈な肯定があったというのだ。世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している、それは人間には直接知られえないけれど、その無限の宝は人間の中にある、というのだ。これは印象的な話だ。

空海の指示の元に作られたこの立体曼荼羅が、そういう彼の思想を表していたか、どうか、というと、それは僕には分からない。広くて、暗い、閉鎖された空間にぼんやりと浮かび上がる大量の像たちの作る、あの静かな空気の中に、生の喜びを感じとるのは、なかなか難しい。一つ一つの像に近寄ってみれば、あるいは、そういう感じもあるのかもしれない。あるいは当時、作られたばかりの像は彩色され、まばゆいぐらいに色とりどりだったはずで、その印象はだいぶ違っていただろう。しかし、われわれ現在の見物人は、千年以上の年月が経ち色褪せた曼荼羅像を、柵の外からしか見ることができないわけで、結局、その空間はやはり、とても静かで、幻想的なものであった。

講堂を出て、すぐとなりにある金堂へ入る。大きさは講堂とほぼ同じだったと思う。こちらは、さきほどとは打って変わって、広大な空間には像が三つしかなく、真ん中の薬師如来の座像の両側に脇侍像が立っている。十メートルはある巨大な薬師如来像が開放的な広大な空間の中にある。所狭しとぎっしり並べられた講堂の立体曼荼羅が、目の詰まった心の中を覗き込んだ光景なのだったら、この金堂の像はその先に広がる広大な浄土を思わせるものだった。

Yakushinyorai

金堂の薬師如来像

などと、解説しているのは、まったくに後付けな話であって、自分はこの広大な空間の中でいくらか呆けたようになり、しばらく太い柱に寄りかかって仏像を前にぼんやりしていた。金堂を出ると、だいぶ怪しい気分になり、なぜだか分からないのだけど、しばらく心をコントロールできなくなった。金堂を出た外には、きれいに整備されたうねった小路のある庭があってその中央に池がある。しばらくは砂利を踏みしめながら、うつむいて歩いていた。庭の横のそのまた向こうには、巨大な五重塔が建っている。カラフルなリュックやらポーチやらのギアに身を固めた腹の出た大きな外人が、どっこいしょ、とベンチに座って巨大な塔を見上げていた。なんだか、さっき見た色褪せた曼荼羅像の中の一つが、千年前にできたばかりで極彩色に塗られていた様子を思って、遠目で彼をぼんやり眺めていた。

そうこうしているうちに、怪しい感じは、すっかりなくなった。自分はいつもそうなのだが、感動は、時計上のある一定時間続くと、その時点で跡形も無く消え去ってしまうのだ。やがて、雨がぽつぽつと降ってきた。東寺の印象はとても強かったので、もうこれでいいかな、という気になり、このまま東京へ帰ろうと思ったが、かろうじて気を取り直した。既に昼過ぎだったが、ここでタクシーを拾えば十分間に合うだろうと踏んで、奈良の法隆寺へ向かった。一時間半はかかるのでだいぶ遠いのである。

法隆寺へ行ったのは修学旅行以来だったと思う。だいぶ静かで、人もまばらにしかいなかった。中へ入ると、すぐに、そこは伽藍で、金堂と五重塔が並んで建っている。なんといっても印象的だったのがその大きさで、伽藍の空間も、二つの建物もとてもコンパクトだった。特に回廊に囲まれた伽藍の空間の広さが、金堂と五重塔を容れるには少し小さめで、そのせいで、その空間が、ただ美しいだけでなく、とても人懐っこい感じがしたのが面白かった。

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法隆寺の金堂と五重塔

ところでお目当ては、日本の仏像の最も初期のものに当たる釈迦三尊像を見ることだった。この像は、中国の岩面に刻んだ石像のレリーフから、完全な立体像の彫刻へ移行する、そんな時期のものなので、ほとんどレリーフのように平面的な表現で、主に正面から見たときに完全に見えるように作られているのだけど、それでも、れっきとした立体彫像で、自分としては、その奇妙な混合のせいで、これを「超2次元」とか勝手に名付けていたものだ。アルカイックスマイルな、まだ朝鮮の顔つきを十分に残した、平面的な顔の表情と相まって、独特のペラペラ感が好きだったのだ。

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釈迦三尊像

さて、金堂に入ったらそれはあった。しかし、なんと像の周りの回廊には入れず、その回廊をさらに一回り外の回廊が囲んでいて、そこを歩けるだけだった。しかも、外の回廊には正面と左右に三つの窓が開いているだけで、さらに、その窓には金網がかかっている。網も邪魔だし、見る角度は決まっているし、だいぶ遠いし、見物としてはかなり悪環境だった。折しも、その日は、この像の撮影の日だったようで、多くの業者が中に入り、ライトを当てて撮影していた。

寺の人に聞いたら、中の回廊へは最初から見物人は入れないそうだ。そもそも信仰の対象である仏像を、自分のように美術の鑑賞対象にする方がおかしいのだろうが、これは、だいぶ、がっかりした。でも、まあ、仕方ない。ただ、当の釈迦三尊像は、遠目にもたしかに素晴らしかった。自分が思っていたより、ずっと小さく、すばらしいオーラを発していた。そういえば、隣の五重塔の中にも釈迦涅槃の石像があり、かの有名な、写真ではだいぶ見慣れた、あの慟哭する羅漢たちがいたのだが、こちらも金網の向こうで暗く、ほとんど見えなかった。

外へ出ると、雨がざあざあと降っていた。伽藍を出て、しばらく歩いたら、なんと屋根のある喫煙所があったので、煙草を一本吸う。お寺の境内で喫煙できるとは、最近珍しい。遠くに修学旅行生の団体がいて混雑している。と思ったら、鐘が鳴った。キャーキャー言っている。

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

という句があったけど、柿の代わりに煙草、鐘を突いたのは修学旅行の学生たちか、と思い、笑ってしまった。

その後、大宝蔵院へ行く。これは展示室で、ここには、有名な、玉虫厨子と百済観音がある。二つは特別な扱いで美しく展示されていたが、いかんせん、二つとも長い年月を経たせいで、ほぼ真っ黒だった。厨子は積み上げた黒い立方体、観音様は黒い細長いスティックみたいな視覚的な印象しかなく、なんだか寂しい。それより、ガラスケースの中に並んで陳列されていた、少し小さめの四天王の塑像があり、それにだいぶ惹かれた。表現はちょっと雑だが、奈良時代のこれらの粘土像、文句なく、欲しかった。家にこんなのがあったら、これを肴にいつまでも酒を飲んでいられそうだなあ、と空想した。

百済観音

百済観音

そして、雨の中を夢殿へ。夢殿がこんなに大きな建物だと思わなかった。自分はずっとずっと小さいものだと思い込んでいて、聖徳太子が仏法に悩んだとき、一人籠ったという逸話から、勝手に人一人分のスペースしかないみたいに思っていたみたいだ。このお堂には、聖徳太子その人を形どったと伝えられる有名な救世観音像があるのだが、扉は閉まっていた。ご開帳のときは、あの扉が開くのであろうが、やはりお堂の中は暗く、中には入れず、遠目に眺める感じになるのだろう。そんな風に思うたびに、自分がこの寺にただ美術的な興味で訪れている、ということが恨めしくなる。信仰があれば、遠目でも何でも、ありがたく手を合わせるだろうから。

ところで、それにしても、さすがに、この八角形の夢殿は、完璧なコンポジションだった。文句なく美しい。

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夢殿

雨の中、京都へ引き返し東京へ。東寺も、法隆寺も、なんだかんだで、行ってよかった。

カントと雑感

Yahooブログより転記(2010年6月)

さてさて、このブログをまったく更新する気がないかというと、そんなことはない。こちらのブログは、どちらかというと、日常を少し離れた、真面目で、いくらかシリアスなわりとまとまった内容を書く場という風にしてきた。その上でこのブログの更新が進まないということは、逆に、ここ最近はなかなか真面目な内容を考える余裕が減ってきたということだと思う。

たしかに、日々が忙しくてなかなか落ち着いてものを考える余裕もないのは確かだ。これは仕方ないことでもあるので、最近はそんな状況を分かった上で、方向をいくらか転換して、能動的にあれこれ考えるのを少しおいて、受動的に勉強をするということをしている。何を勉強しているかというと「哲学」である。

少し前に弁証法の本を借りて勉強し、いたく感心し、そしてそのつながりから、今度はカントの勉強をすることにした。カントについては、ずいぶん前、古本屋で「実践理性批判」をたまたま見つけて買って少し読んだのだが、すでに1ページ目から何を言ってるか皆目分からず、3ページぐらいで放り出した。おそらく哲学の基礎がまるで分かっていないせいでふんだんに使われている哲学用語が分からなかったのがその大きな原因だ。

というわけで、今回は、最初から原書に当たるのをあきらめ、解説書を読むことにした。先の弁証法も解説書である。ちなみに弁証法はヘーゲルで有名だが、弁証法そのものは別にヘーゲルの発明したものではなく、遠くプラトンの時代にまでさかのぼる一種の独特な考え方の、総称なのである。当然、カントも弁証法という言葉を自らの哲学を展開する中で用いている。僕が読んだ弁証法の解説書には、そのカントにおける弁証法を語るために、カントの思想の骨子をきわめて易しく説明していたのだ。

それによれば、カントの思想の流れはこうだ。

この世界は、人間に分かるものと分からないものがある。分からないものとはたとえば「宇宙は無限か有限か」という問題である。この手の問題は理論的に証明しようとすると「無限である」という証明と「有限である」という証明が同時に成立してしまい、結局、矛盾してしまうことが分かる。したがって、この例のような事柄は人間の経験しているこの世にあるのではなくて、それとは金輪際連続していない「別の世界」に属しているのである。人間の経験の対象である世界を「現象界」、そして人間が決して分からない世界を「英知界」と呼ぶ。現象界は、空間と時間をベースとして成立しており、英知界は空間と時間を越えており、すなわち人間の経験を超えている。

それにしても、このように自分の言葉で説明しようとするとよく分かるのだが、「分かる」とか「ある」とか「前提として」とか、日常普通に使っている言葉というのはその意味にすごく広がりがあり、ほとんど限定されることがなく、そのせいで、上述のように書いても思想の骨子の論理展開がきわめてあいまいになってしまう。

そうならないために、「分かる」などと書かずに、たとえば「認識する」とか書けばいいのだが、この「認識する」という哲学用語自体が、やはり哲学に独特な定義がなされており、そうそう手軽に使えないのである。説明しているときに、「あれ? ここで認識って言葉使っていいんだっけ」みたいな疑問がわいてきて、ついついあいまいに「分かる」と書いてしまう、というわけだ。

というわけで、哲学について語るには、やはり哲学の勉強がどうしても必要だということになるのであろう。しかし、自分で語るのではなく、語られていることを自分一人で理解する、ということであれば、丁寧にゆっくりと考えながら読んで行けば、解説書であればかなり理解できることがわかった。もちろん、自分は昔から文学や哲学系の本にはそれなりに親しんできたので、その蓄積のせいもあるだろう。しかし、理解できてみると、これがまたすごく面白く感動的ですらあるのである。

僕が選んだカントの解説書は熊野純彦という人が書いた「カント~世界の限界を経験することは可能か」というもので、とても明快に書かれていて、100パーセントとはいえないが、大半は理解することができた。それで、本当に心底なるほどな、と思ったのだけど、一箇所とても感動した箇所があって、その話である。

カントの思想には、「前批判期」と「批判期」という2つの段階があって、後世に残る主要思想はもちろん批判期に属していて、上述したカントの思想の骨子も批判期のそれである。それで、前批判期は、比較的若いころのカントの神学的な思想を指すものらしい。2つを分かつものは、いろいろあるんだろうけど、その一つに「永遠と無限」の扱いに関する決定的な違い、というのがあるそうだ。

若いころのカントは、空間的に無限なもの、すなわち宇宙、そして、時間的に無限なもの、すなわち永遠、といったものこそが「神」である、と考えたそうである。無限にして広大な宇宙、それは夜、僕らが空を仰ぎ見ればまたたく星とともに感じることができる。そしてその宇宙では、果てしなく長い時間がすでに経っており、そしてこの先、自分も人類もなくなってしまった後も果てしない時間にわたって存在し続け、永遠の時間が経過し続けるであろう。こういった、無限性そして永遠性、という人間の認識の及ばないものこそが「神」の名で呼ばれるべきものである。若いカントは、こうして神と永遠性を同一視する。そして我々の生きているこの世界は永遠性と無限性から一種切り取られた世界であるから、永遠性と同一である「神」は、我々の生きている世界のいたるところにその姿を現すはずだ。

なかなかうまく書けないのだが、自分のつたない文だとこんな感じの思想なのだ。

これを知って自分は、若いカントのこの考え方の純真さに感動した。無限性と永遠性に対するなんという憧れであろうか。そして、無限と永遠こそが神の領域であり、そして、それらは神と同一だ、と口にするとき、神に対するなんという憧憬と畏怖の心が溢れていることか。そして、無限と永遠と同一であるからには、われわれの世界のいたるところに神はそのすがたをあらわすはずだ、というときの、神の愛と信頼と安心感についてのなんという子供らしい純真な心であることか。

カントの哲学はもちろん大事だが、あの哲学がこのような心から生まれた、ということの方がよほど大事なことのように思える。

さて、それでは、今度は彼の思想の真骨頂となる批判期の思想である。前に書いたように批判期のカントによれば、無限性とか永遠性というものは、人間の経験する現象界というこの世界においては相矛盾してしてしまうことから、それらはこの現象界には存在せず、英知界という現世を越えた世界に属すほかない、とされる。そして、この現象界と英知界は、完全に隔絶されていて、英知界はわれわれ人間の世界の外にあるものとされる。

ここで「神」という言葉を使うとすると、神は明らかに英知界に属しているが、神はわれわれの世界を完全に超えたところにいるわけなので、この世界で神の存在を証明することはまったく不可能である、という結論になる。すなわち、われわれ人間の心は、無限や、永遠や、神の存在というものを思い描かずにはいられないのであるが、当の無限と永遠と神はわれわれの世界では決して論理的に保証されず、それは現象界の成立ちからいって原理的に不可能である。

どうだろう、若いカントの前批判期とその雰囲気がずいぶん異なっている。前批判期では、神はわれわれのすぐ手の届くところにいたはずだが、批判期では、神はまったくわれわれの手の届かないところへ行ってしまっている。人間の認識には決して超えることができない限界がある、ということ、そして、人間を超えたものが存在するか否かについての証明は不可能である、ということ、この2つをカントは厳密に論理的に証明したのである。

ニーチェは、カントのこの人間の限界性の証明について、こんな風に言っている。自分は、このカントの恐るべき証明をあれいじくり回しているような思考機械共には興味がない。それよりも、いつになったら、人はこの思想を自分のこととして受け入れ、衝撃を受け絶望するようになるのだろう、と。

たしかに批判期のカントのこの思想は、よくよく反芻してみるとますます、戦慄すべきもので、人を絶望へと落としかねないものに感じられてくる。人間は無限と永遠を感じることはできても知ることはできない、というのだ。そして、英知界に属する神は人間の目からは完全に隠されている。そこには何かが、ある。でも、それが何かを確定することができない。人がいくら理性を酷使したところでその深い溝を超えることはできない、理性の深淵ともいえそうな、埋めることのできない裂け目が口を広げているのだ。

若いカントと、その後のカントの間のこの明確な思想の違いは、でも、一種、「神」という自らの父からの離別を表しているようにも見える。父と子のかかわりでいえば、若いカントの思想では、神という父の姿は見えないが、自らが世の中で活動している一挙手一投足を常に見守っている存在として描かれている。しかし、批判期のカントでは、神という父の姿が、自分を見守っているか見守っていないかには係わらず自分はこの世で独立して活動していかないといけない、という関係に変っている。自分にはこれが、一種の神という父からの親離れの光景に見えたのだった。

それにしても、この批判期のカントのこの理性の深淵の思想が、この後、ショーペンハウエルを経て、ニーチェをして「神は死んだ」と言わせしめたのか、ということを思い、なるほどとうなずくよりも何よりも、なんだか、本当に感動してしまった。

ニーチェはあるとき突然、神は死んだと口走ったわけではなかったのだ。そうか、そうであったか、その言葉にいたる綿々と続く思想の歴史があったのだ。そして、同時に、ニーチェにも、カントとまったく同じな、一種プロテスタント的な神に対する愛に関する純真な心があったのだ。なんだか、時代の異なる哲学者たちの心の中を貫いているそういう共通な心を感じてね、そして、その心は遠い日本という国に生まれ育った自分の中にも確実に存在していることを、とても強く感じたのだ。

ニーチェが神が死んだと書いてから100年と少したった。いま、この現代、「神」なんていうことを口にしても、大半の人には用がない。神というのは今では単に「信じる対象」に過ぎず、人間の理性の思考の対象にはほとんどなりえない。信じるか否という切り口しかないので、神は宗教の問題に属するのみで、全的な意味での人間の問題にはすでに属していない、というのが現状だと思う。

少し前、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の新訳が100万部だか売れたそうだが、あの小説にはドストエフスキーが生涯問題にした「神は存在するか存在しないか」というセリフが至るところに出てくる。神というのが、実質的な意味をほとんど失ってしまった時代に、あのセリフは現代人みなに、いったい、どう読まれるのだろうか。単に読み飛ばして終わり、だろうか。たしかにあの小説は神の問題以外にたくさん面白い主題が転がっていて、別にそこで引っかからなくてもじゅうぶん、大丈夫なのであるが。

でも、「神」などというから古臭い感が漂うわけで、神の存在いかんにかかっている人間的な問題であるところの、「生きる目的があるとしたらそれは何だろう、そして、目的などというものがないとすれば人間はどのように生きるべきだろう」といえば、どうだろう。これも古臭いだろうか。ドストエフスキーが問い続けたのは、これなのであるが。さあ、しかし、これも古臭くなっている、というのが現代なのかもしれない。「生きる目的」というもの自体が一種の偏見である、とする考え方がずいぶんと広まりつつあるようにも見える。

ところで、カントの思想に戻ると、英知界は置いておいて、現象界の方だが、この現象界はじゃあ有限かというと、そんなことはない。人間が経験して暮らしているこの世界にもいわゆる「果て」はない、というのがカントの結論である。人間の経験は常に広がり続け、そこでは常に新しい経験が生まれ世界を拡大し続けている。世界は全体として人間に与えられているのではなく、そこにいる人間の経験と活動によって刻一刻その姿を拡大し続けているのである、というのがカントの現世に対する結論なのだ。そういう意味で、僕たち人間は終わることなく先へ進むことができる、ということが保証されているのである。ただ、いくら進んでも英知界には到達できない、というのが彼の設定した「限界」であり「境界線」なのである。

神は死んだ、そして、その子であるわれわれ人間が世界に残り、神によらない人間の活動によってその世界を拡大し続けている。そういう意味で、カントからニーチェ、そして現代、と辿ってみると、近世から現代という時代は、ものすごい勢いで人間が神という父から親離れしようともがいている歴史でもあるように見えてくる。

そして、今でも、もがいている。少なくとも、自分はよく、オレたちはいったいどこへ行こうとしているのか、と考える。よるべもなく、人間同士の関係性だけで世界を組み立てる、という終わりの無い行為に疲れることが、ないか? 疲れてしまったときに、オレたちはいったいどこへ里帰りすればいいのかと、思わないか? カントやニーチェが持っていた、「永遠」に憧れる心は、オレにもあると信じているが、その心がときどき窒息しそうに感じることが、ないか?

さて、ずいぶんと長くなってしまったが、ここさいきん、カントを勉強してこんなようなことを漠然と感じていた、それについて書いてみた。

哲学とはなにか

以下は「理科系のための哲学」のために書いた文だが、ここにまずは置いておくことにする。

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このサイトは理科系のための哲学とうたっているのだが、そもそもいったい哲学とはなんなのか、と端的に聞きたいかもしれず、そう言われても、そうそう簡単に答えられないのが普通だ。しかも、特に理科系の僕らが哲学を勉強していったいなにかいいことがあるのか、と反応するのも普通のことだ。実際、役に立たないことをわざわざするほど暇でないのは分かっている。しかし、ここを読んでいる時点ですでに片足を突っ込んでいるわけで、少しお付き合いして頂こう。

まず、哲学という言葉だが、これは何のことを言うのか。サイトの趣旨のところにも書いたが、日本語の「哲学」はいろいろな使われ方をするので、幅が広い。学問としての哲学の反対方向の最たるものは、人生哲学とか経営哲学とか、あの人は哲学がある、とかいう使われ方であろう。そういうときの哲学は、ほぼだいたい「信念」とかそういうものを指すわけで、たいていの日本人には語感があるだろう。というか、実際のところ哲学をそういう意味だと思っている人も多いかもしれない。最初にはっきりさせるが、ここで話そうとしている哲学は、そういういわば俗な意味の哲学のことではなく、正統派の哲学である。

では、ここでの哲学とはなにかというと
「世の中のなんでもいいので「なにか」の本質はいったいなんなのかということを論理的に追及すること」
である。ここで重要なのは「本質」と「論理的」である。

まず本質だが、この言葉もそこそこ手垢にまみれていて、日常でもふつうに使われる言葉だ。なにか事があったとき、その原因の元の元を追及して、事の起こる原因をもっともきれいにエレガントに説明できる原因であるところのものを抉り出して見せると、本質を突いた議論、などといって褒められる。では哲学の本質はこれと違うか、というとそれは同じである。しかし、哲学では常識を遥かに超えて本質を問い続けるところが違う。

たとえば、「見えるとは何か」という問いがあったとして、その本質をどう答えるだろうか。たぶん、理科系の我々であれば「空間に物体と光源があって、その物体からの反射光が眼球に入り、網膜に像を結び、これを視神経で脳に送り、脳にできあがった何らかの神経回路によってそれが解釈され、見える」などという答え方が返ってくるであろう。ここまでであれば何ら哲学ではなく、これはほぼ科学の話である。光学や神経科学、脳科学などの科学領域で説明した「見える」の本質である。現代人ならば大半の人はこれで納得するはずだ。

では、哲学ではどうなるか、というと、ここでの説明をもう一段階どころか、ほぼ際限なく問い続けるのである。例えばこの例なら、「見える」が最終的に脳で作られるとすると、物体も光源もなくとも見えるはあるはずだろうが(現代ならさしずめ脳に電極を挿入するであろう)それは見えると呼べるのか否か。あるいは、人間が見えると言っている対象は、網膜の像のことなのか、あるいは視神経の生理学的変化のことなのか、あるいは物体と光源のことなのか、いったいどれを見えると称しているのか、とか。あるいは、AさんとBさんの「見える」は本当に同じ事態と言えるのか。それを証明する手段はあるのかないのか。もし、なければそもそも見えるという事態を一般化できないことになるではないか。

などなどきりがないのだが、ほとんど、揚げ足に近いほど、嫌がらせと言ってよいほど、病気じゃないだろうかと言いたくなるほど、執拗に食い下がって、その「コト」の本質を見極めようとする努力をすることが、哲学の定義で言うところの「本質」なのである。問い掛けを途中で止めてはいけないのである。

もう一つの特徴は「論理的」であるが、これは理系の人ならとっても親しいのですぐ分かるであろう。上述の本質の問い続けにおいても、とにかく論理で問い続け、それに論理で答えないといけない。途中でめんどくさくなって「物事ってのはそういうものだ!」とかいって論理的追及を中断してはいけないのである。ちなみに一般社会では、ふつうこれである。特にさきほどの人生哲学とか経営哲学になると、そういうことを主張する人を相手にしつこく追及したりしていると、あるところで「信念」や「常識」とかいう化け物みたいなのが出てきて、ガツンと中断され、「そんなことを言うならお前は社会で仕事をする意味も資格もない!」とか「誰のために生かしてもらってると思ってるんだ!」とか叱られて終わってしまったりするのがオチである。その手の哲学を俗だと言ったのはそういうわけである。

哲学は役に立たない

ここではっきりするのが、哲学は役に立たない、というよくある有名な命題の正しさであろう。そう、役に立たないのである。というのは、本質の追求というのは、適当なところで止めて提供するからこそ世の中の役に立つのであって、それを止めずに問い続けても現実から遊離するだけで何の得にもならないのである。先の「見える」の例だと、物体→眼球→脳→見える、というところで止めることで、これをコンピュータや機械に置き換えていろいろなサービスを生み出したりして、ひいてはお金になったりするわけである。

それ以上に「見える」というのを追及してしまったら果てしなく問いは続き、どこかで本質に達したとしても、だいたいが現実離れした着陸点となったりする。たとえば、この例であれば、哲学的に「見えるという具体的現象があるわけではない。これはめいめいの人間の主観が社会で合意した挙句に現れる観念なのであり、眼球が物体を見ているというのは単なる物理的一解釈に過ぎず本質ではない」とか言ったとして、はて、いったいこのステートメントをどうやって世の中に役立たせればいいか、皆目分からない、ということになってしまうのが普通だ。

数学は哲学か

理科系の人であれば、論理的といえばまず数学を思い浮かべるであろう。前述は「見える」ということを追及した例だったが(哲学的には認識論という)、数学はどうだろう。数学は完璧な論理のもとに構築されており、正しいことしか現れない。あいまいなものはすべて論理的に却下されるので、数学の論理を追っているときに「これが物事ってもんだ!」という思考停止は入らないかに思える。では数学は哲学なのか?

答えはNOである。まず、哲学は神羅万象すべてを対象とするが、数学はそうではないという前提の違いがあるが、それはまずは置いておこう。数学の論理展開のもとには公理というものがあるが、いわばそれが中断に相当するのである。公理とは「同じ長さの線分は重ね合わせられる」とか「平行線はどこまで行っても交わらない」とか思いつくが、そういうものである。人間の常識として当たり前で直観的で誤りようのないものを公理とするわけだが、哲学はそれをも疑い、その本質の追求へ持って行こうとする。あと、数学は「何かを何かとおく」という人為的な約束事を作って、それを元に論理を発展させ、さまざまな数学分野を広げて行くが、その行為そのものも哲学の追及の対象になる。

数学側とすれば公理や約束事は数学の礎石であり、それが人為的であろうと、作為的であろうと、それを元に数学が発展すればそれでよし、とする。当たり前である。ルートマイナス1はあり得ない。その通りだ。でもルートマイナス1をいったん認めてそれにiという名前を付けて追及してみよう、と、あるときだれかが考えて、そのおかげで数学は複素数論という膨大な体系を作り出した。しかも、これはえらく役に立つ代物で、あのとき頑なにルートマイナス1を拒否していたら、世界はえらく狭くなったであろう。あと、先の例の、平行線が交わらない、も交わることにすればリーマン幾何学が構築されることもよく知られている。

哲学はルートマイナス1を否定しないが、その意味を問おうとするであろう。ここで、数理哲学という分野があり、これは、そういった数学における論理の本質を哲学的に問う学問である。思い出すが、むかし、とある大学のある著名な数学者とセミナーをやったことがあり、その先生は代数学の大家なのだが、数理哲学の研究者たちのことを「あいつら、まったくに下らない、役に立たないことばかりしやがって」とこき下ろしていた。しかしながら、先生の代数学が世間の役に立つかというと、ほとんど役に立たない。その役に立たない紙の上の数学をする先生に、さらに役に立たないと言われているのが哲学なのである。いかに哲学が役に立たないか思い知らされる話だ。

もっともちなみに代数学は、暗号理論と符号理論に期せずして役に立ってしまい、当の代数学者もびっくりしたそうだ。暗号とデジタル符号化なしに今のネット社会はあり得ないので、代数学はこれひとつで元を取ったと言ってよいほど世の中の役に立ってしまったのである。しかし、依然として代数学の中の大半の定理は役に立たないのは変わらない。将来どっかでまた役に立つかもしれないが。

パラダイムの変革

そう考えると哲学も、今は役に立たないだけで、将来はどこかで役に立つことがあるのであろうか。これについては、あるいはそういうこともあるかもしれないが、ほとんど望みが薄い。先も言った通り、数学や、ましてや物理学などの科学がなんで世の中の役に立つかというと、世の中にある前提を「与えられたもの」として礎石に置くからである。その礎石が世の中で皆に認知されているものであれば、その上に築いたものはどこかで世の中の役に立つのである。

しかし、哲学はその「今の世の中で前提となるもの」自体を疑ってしまい、その本質を見極めようとしてしまうので、それは役に立たないのが普通なのである。しかし、当然ながら、もし、その「今の世の中」から時代が百年とか二百年とか進んで、その「前提」があるとき何らかの影響で変わったとすると、そのときにはあるいは劇的に役に立つものになる可能性はある。いや、哲学の命題など直接に役には立たないが、その「前提が劇的に変わる」という社会現象に非常に大きな影響力を持つのが哲学であり、そういうことを目指すのが哲学の仕事と言ってもいい。

すなわち、現在の人間が「当たり前の前提」と思っていることを、覆すのが哲学で、それを変更させようと骨折るのが哲学の道なのである。この、時代に共有された当たり前の前提をパラダイムというが、そのパラダイムを疑って、新しいこれまでにないパラダイムを作り出そうという努力が哲学にはある。しかしその新しいパラダイムが、今のパラダイムにとって代わるには、通常非常に長い時間がかかる。

僕らだって、アナログ社会からデジタル社会、そしてインターネット社会へのシフトを現に経験した。これは我々のパラダイムを確実に変えたはずだ。たとえば、むかし僕らはレコード盤というビニールの板を物理的に所有していないと音楽を聞けなかったが、今じゃそんなものは無くなり、モノリスみたいな黒い板にイヤフォンを差し込めば音楽が無尽蔵に聞ける。恐ろしいことである。ほとんど魔術並みである。これは僕らにとっての音楽作品というものの意味をだいぶ変えてしまった。

さて、デジタルとインターネットの話になったが、これは哲学のおかげでこのようなパラダイムの変革が起きたのだろうか。そんなはずはないだろう、と言うであろう。どこの哲学者がデジタルとネットワークの概念を提出したか。してないじゃないか。デジタルはその昔、電気工学者のナイキストと数学者のシャノンが理論的基礎を与えてコンピュータの出現で今の姿になったはず。哲学なんかなくったって、パラダイムシフトは起こるし、むしろ哲学なんか結局は、どうでもいいことを根掘り葉掘り詮索しているだけで、パラダイムの変革の役にも立たないんじゃないか。パラダイムシフトは現実社会の具体的変革を核にして起こるのだ。と言うかもしれない。

おそらく言っていることは表面上は、正しい。だが、もし、そうであれば、私はこの「理科系のための哲学」などという企てをするわけがない。これは自分の一種の仮説になるが、このパラダイムの変革の立役者になった人々のウラには哲学が隠れているはずだと思うのだ。具体的な哲学の学説は無いかもしれない。しかし、哲学的直観がその立役者たちのウラにあるはずだ、と私は見ているのである。特にデジタルとインターネットの物理的なインフラが出来上がって世界に浸透して、2000年になり、15年ほどの間に次々と起こったデジタル情報社会の本質的なパラダイムシフトの裏には哲学が大いに与ったのではないか、というのが私の仮説なのである。

改めて哲学とは何か

少し話を戻そう。哲学とは何かという話だった。まとめると、物事の本質を論理的に問い続けること、である。こうして書くと当たり前に見えるのも面白い。実質を求める社会人にこの文句だけを言えば「それこそ我々に必要なことじゃないですか!」などと実質的反応をするかもしれない。なので付け加えると、哲学では、今現在の社会の規範に沿って生きて仕事して生活する人から見ると「常軌を逸して」本質を論理的に問い続けること、という但し書きがつく。

さて、以上がこのサイトで言うところの哲学の定義なのであるが、このようなものが最初からあったわけではない。哲学が産まれたとされるのは通常、ギリシャで、紀元前の話である。歴史の話をし始めると長くなるので、ここでは極力端折ることにするが、乱暴に言うと、かの有名なソクラテスが、現代の哲学の原型を作った人と言えるだろう。しかしソクラテスを読んでみると分かるのだが、さきほど与えた哲学の「本質」と「論理的」の二つを満たしていない。ソクラテスの、論理を縦横に使って結論を導くさまは感動的である。しかし、本質の方はまだ、与えられたものとして、一種の信念、信仰として前提されていることも分かるだろう。

その後、プラトンがソクラテスの弟子として現れ、そしてアリストテレスが今度は科学の原型を作った哲学者として現れている。しかしながら、これらギリシャの三羽烏もその時代のパラダイムの枠の中で思考した人々と、言えるだろう。ただ、どうしても付け加えておきたいが、この三人のした仕事のすばらしい「高貴さ」は現代人には及び難いものがある。人類がまだ高貴であることができた幸せな、ノイズのない、黎明期だったのであろう。

デカルトの意味

というわけで、ギリシャの哲学は、まだここで説明した意味での哲学ではない。では、前述した意味での哲学はいつ生まれたのかというと、それは、デカルトからである。このサイトのトップページはデカルトの肖像画から始まっているが、それは、そのせいである。デカルトが何をしたかというと、物事の「本質」を問い続け、それが壁にぶつかってついに止まってしまうまで問い続けたのである。デカルトは、これを明快な形で行った世界で最初の人だったのである。最後にぶつかった壁に彼は「我思うゆえに我あり」という言葉が書かれているのを、見たのである。

歴史的に言っても、デカルトは近代哲学の始祖である。彼によって「物事の本質を論理的に常軌を逸して問い続ける」ということが初めてなされたわけだ。次の章では、そのデカルトのやった仕事を紹介するので、そこでまたくだくだ書くが、ここで予告をしておこう。結論から先に言うと、デカルトは科学に基づく「工学」を初めて明快に始めた人だったのだ。

思い出して欲しい。デカルトの時代は、かのガリレオが地動説を提出したせいで宗教裁判にかけられ有罪となった時代なのだ。ほぼあらゆる重要なことは神によってトップダウンで決められる時代だったのだ。その時代にデカルトは、神のトップダウンはそのままにしたまま、「人間だけで決められる領域」というものがあるということを初めて明快に言ったのである。そこでは人間が人間の主人だ。そして科学をベースにした工学によってその「人間だけの領域」を無限に広げて行くことができる、ということを宣言したのである。実は、これが「我思うゆえに我あり」のとても大切な意味だったのである。

こうして、僕ら現代のテクノロジー社会に生きる者はみな、デカルトの恩恵を受けているのである。そして、ということは、僕らは知らずして「デカルトに規定されている」のである。このパラダイムはいつ変革するのであろうか。いや、変革は既に起こっているのではないだろうか。それはデカルトの興した哲学によるパラダイムの変革として現れるはずではないだろうか。そして、それを語るのが、このサイトの主旨である。