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神社と婆さん

むかし、まだ二十代のころに住んでいた家の近くに小さな神社があった。

貧乏神社で、手入れもそこそこでそれなりに荒れていたが、神社の体裁はちゃんと残っていた。ただ、建物からなにから、何もかもが古かった。神社はちょっとした高台にあり、周りは坂道だらけで道は入り組んでいて、都会では珍しいほど樹木が生え放題に生えていた。境内は、背の高い木々の葉にほぼ完全に覆われていて、晴れた日でも木漏れ日が射すていどで、なんとなく薄暗い感じで、地べたは赤土が剥き出しで、粗末な踏み石が無様に並んで道を付けていた。昭和初期の神社がそのまま放置されたみたいな趣だった。

さて、ある晴れた日の昼過ぎのことである。何かの用事の後に少し回り道をしたせいで、いつもは通らないこの神社の境内を通って家へ帰ったことがあった。高台にある境内へは石段を登って行く。登りきって、土ばかりの小さな境内に出て、ふと見ると、一人の婆さんが社殿に向かってよちよちと歩いて行くのが見えた。かなりの年齢の婆さんらしくずいぶん小さく、どてらみたいなものを着て、むくんで丸々としたコケシみたいな形のまま、体を左右に揺すりながら、ゆっくりと社殿に向かって移動している。

僕は、なぜだか、その場で足が止まってしまい、婆さんのその動きをそのまま見ていた。婆さんはしばらくしてようやく賽銭箱の前に辿り着くと、そこで立ち止まり、コケシが真ん中でかくっと折れたような動きをして、手を合わせてお祈りを始めた。

そのとたんである。境内を覆い隠すような、うっそうとした葉をつけた背の高い木々が一斉に風でざわめき始めたのである。僕は反射的に上を見上げた。さっきまで風のないおだやかな空のもとで静止していた木々が、今は、揺れ、枝がしなり、葉の擦れ合うざわざわした音が境内に鳴り響いていた。少し驚いた僕は、再び目を下に移すと、粗末な朽ち果てたような社殿の前に相変わらずコケシが中で折れたようなあの婆さんの姿が見え、これは瞬間的な出来事だったのだが、その婆さんを中心として、神社の木という木がざわめいて、神社の空間全体が、この婆さんがまるで台風の目になったかのように、渦巻いているように見えたのである。

僕は、その場で唖然としてしまい、うす気味悪くなり、ふと正気に戻ると、これはやばいと思い、別の出口を目指して境内を足早に横切り、そこから脱出した。

神社を出てしまった後は、あたりは何事もなく、おだやかな日和の昼下がりの風景があった。

その後、事あるごとに、このときに見た光景を思い出し、あれは一体、自分は、何を見たんだろうと訝るようになった。今でもはっきり思い出せるほど尋常ではない光景であった。少なくとも、あの婆さんが、古い神社に宿る霊を一気に目覚まさせ、活性化させ、動かしたことは、疑いようがないと思ったし、今でも、そう思っている。やはり、霊というのは、はっきりと目にも見えることがあるんだな、と心の底から思う。

ロバート・ジョンソンとの出会い

そういや、自分が大学のときロバート・ジョンソンを初めて聞いたときのことを、まだ書いてなかった。
 
今からおよそ40年前、自分が大学一年生のとき、高校の同級生のコイケというやつとよく飲んだ。実は、このコイケは、なんと今でも年に数回は飲んでいるので、自分にはきわめて珍しい古い友人の一人である。腐れ縁中の腐れ縁なので、お互い、飲んでしゃべって、相手を全否定して、この馬鹿野郎が、とか本音をずけずけ言い合っても、一向に関係が終わらない。そういう意味では貴重な奴である。
 
それで、当時、彼は西大井の実家の近くの四畳半に下宿しており、大森の実家に住んでいた自分はわりと近く、自転車距離だったので、よくコイケの下宿へ出かけては、飲んだ。
 
大学一年で酒を覚えたての頃というのは、無茶なもんで、記憶では安酒をわりと浴びるように飲んでいた気がする。ビールは高くて買えないので、サントリーレッドのロック。加えて、やはり覚えたてのタバコをやたらと吸って、もう果てしなく言い合いに近い議論をして、しかも、若くてバカで元気なんで、そのまま酔っ払って往来に出てゴロゴロ転がってみたり、まあ、周りの人々にはさぞかし迷惑だったであろう。
 
ところで、コイケの実家は町の小さな本屋で、彼は本に恵まれており、いろんな本を彼から紹介され、僕も読んだ。そのころの自分は素直で、コイケから、これいいから読むか、と渡された本を、自分も読んで夢中になったり、彼からの影響はかなり大きかったと思う。たくさんの良質なものを紹介してくれた彼には、感謝している。そういや、ゴッホを紹介したのも彼だっけ。絵というより、ゴッホの手紙という本だったが。
 
ただ、コイケという人間は実はわりと穏当な人間で、僕のように、我を忘れて、なにがなんだかわからなくなるほど、何かに夢中になる、ということは無かったようだ。彼が夢中になった本を、僕に紹介して、僕も夢中になるのだが、僕の夢中度はコイケのそれを遥かに超えてしまうことが多かった。ゴッホなどは、いい例である。
 
コイケの話ばっかりになってしまった。問題のロバート・ジョンソンだが、これはコイケからの紹介ではない。
 
ある日、いつものように彼の下宿へ行くとき、その当時のバンド仲間のネモトというやつに借りた、ロバート・ジョンソンのKing of the Delta Blues Singers Vol.2の入ったカセットテープを持って行ったのである。ネモトについては、さらに長くなりそうなので、また別途書くが、当時の僕のギターのライバルだった。
 
僕とコイケは酒を仕入れて、古臭い木造の四畳半の畳の上に向かい合わせに座った。その真ん中に、昔の機械式カセットテレコを置いた。僕はそこにロバート・ジョンソンのテープを入れ、「これネモトから借りたんだけど、有名なブルースマンだって」とか言って、ガッチャと再生ボタンを押した。
 
チリチリチリというノイズのあと、イントロのギターが鳴り、そのあとロバート・ジョンソンのカン高い声が流れた
 
I got a kindhearted mama…
 
この光景をいまだに覚えているのだが、僕とコイケはそのまま無言になってしまい。レッドのロックはグラスに作ってはいたのだが、飲みもせず、なんだかその場で金縛りにあってしまったように動けなくなった。力が抜けてしまい、放心したみたいになってしまったのだ。
 
たぶん、こんな音を聞くのが二人ともまったくに初めてで、唖然としてしまったらしい。結局、僕ら二人は最初の曲が終わるまで、そのまま動かずにじっとしていた。1曲目が終わってコイケがぽつりと言ったのが
 
暗いな・・
 
だった。いまだにそのセリフの調子まで覚えている。そのセリフでコイケは正気に戻り、立ち上がって、つまみをがさがさと並べたり、おい飲もうぜ、とか促したり、もとにもどり、僕も気を取り直して、飲み始めた。
 
ロバート・ジョンソンはかかったままだっただろう、たぶん。でも、たぶんロクに聞いてなかったと思う。自分たちに親しい音楽とあまりにもかけ離れた音楽だったのは間違いなく、そうなってしまうと、もうどうやって聞いて判断していいか、皆目分からなくなるのだ。
 
それにしても「暗い」という感想は即座に出たわけで、僕もそれに賛成だった。自分がそのときなんとコメントしたか、忘れてしまった。たぶん、たいしたことを言ってないと思う。
 
しかしながら、その後、自分はなぜだかロバート・ジョンソンに夢中になってしまうのである(ちなみにコイケはスルーした)。あの1曲目のKindhearted woman bluesは特にお気に入りの曲で、生ギターでコピーして、歌ってみた。ぜんぜん下手だったが、それが出発だ。それ以来、この曲、自分は軽く1000回以上は歌っているだろう。
 
大学一年の僕は、ブルースはエリック・クラプトンのいるCREAMを通して知っていただけで、いわゆる白人ブルースだけだった。しかし、このロバート・ジョンソンの響きを覚えてから、Muddy WatersやElmore Jamesなど、特にシカゴブルースが分かるようになり、一気に黒人ブルース一色になってしまった。
 
コイケ言うところの「暗い」というのが、心に染みわたるように分かるようになった。そうなると、たとえば、レッド・ツェッペリンなどにもその響きが聞こえるようになった。そうそう、ハイドパークのローリング・ストーンズなんかも、そう聞こえたっけ。
 
もっとも、この「暗い」というモノの正体は、いまだにきちんと考えたこともなく、いまだになんだか分からない。でも、40年経った今でも、その感じは自分の中で再現する。
 
でもね、いま僕がロバート・ジョンソンを聞くと、もっとずっとなにか、変なモノに聞こえる。たとえばMuddyやElmoreみたいに分かりやすくないし、それは、Charlie PattonやSon Houseを持ってきても、そうで、ロバートは見定めがたい何かを持って見えている。
 
そういう意味で、彼は40年経った今でも僕にとっては謎の人で、いまだに追求をしているというわけだ。

鈴ヶ森の刑場

そういえば、大田区の大森の鈴ヶ森の刑場が、移転しようとすると、次々と悪いことが起こり、祟りだということで移転できないらしい、ということを聞いた。言われてみれば、そんなこともあるだろうなと思った。
 
鈴ヶ森刑場の思い出は以前にも書いたが、僕に強烈な印象を残した場所だった。たぶん小学生の高学年のときだったと思うが、親父に連れられ、初めてそこへ行ったのだった。当時、親父は家族に対しては強面で、昭和のサラリーマンそのものらしく家にもあまり帰ってこず、子供たちとあまり交流がなかったのだが、長男の僕はごくたまに、こうして親父に連れられ遠出することもあったのである。
 
僕の家は大森中央だったが、そこから親父と二人で自転車に乗り、鈴ヶ森に向かうのである。だいぶ遠いので、たぶん1時間以上はかかったはず。親父は歴史好きだったので、旧東海道の道をわざわざ選んで鈴ヶ森へ向かった。ここは江戸の昔は街道だったんだぞ、と親父に言われ、自転車を走らせるまだ小さな僕は、その「旧東海道」という言葉を聞いて、そのつもりで道の両側に並ぶ家々を見ると、なんだか江戸の宿屋の人懐こさがそのまま見えているようで、痺れるような快感を感じながら、自転車を走らせていたのを思い出す。
 
そうして、その旧東海道を抜けると、恐ろしく広い道路にぶつかった。いま思うとそのへんの国道なわけだが、横断歩道なんかない、まるでアメリカかどこかの3車線ぐらいの道路みたいで、大量の車だけがびゅんびゅん走っている。
 
そこを親父は、横断歩道とかへ行かず、車の間を縫うみたいにして自転車で渡るので、小さい自転車に乗った小さい自分も必死になって親父の自転車の後について、恐ろしい量の車が走る国道を無我夢中で渡った覚えがある。
 
そして、そこに現れたのが鈴ヶ森。たしかに鈴ヶ森は今でも国道沿いにあるのである。子供の僕の中の記憶では、それはこんもりとした森だった。うっそうと茂る木々のせいで中はまったく見えない。自転車を降りて、森の中を入って行き、しばらく歩くと、その真ん中に行き着く。
 
そこには、二つの石の土台が並んでいて、一つは丸穴が、もう一つは角穴が空いている。丸穴は鉄棒を立て罪人を火炙りにした穴、角穴は材木を立て罪人を磔にした穴である。差し渡し10センチぐらいのその穴には、水が溜まっていた。
 
僕はそのとき、その刑場跡の光景を見ていた。ここで「見ていた」という以上のことが思いつかない。何一つ余計なことは考えていない。罪人がどうとか、処刑がどうとか、そんなのはもちろん、およそいかなる言葉も無く、ただ、見ていただけだ。大人なら分かると思うが、ものを見るときに自分の心から言葉が完全に無くなる状態、というのはまれなはずだ。大人は必ず頭で考える。その分だけ見ることがおろそかになるのだ。
 
でも、その小さな自分は、子供がゆえに言葉はなく、ただただ見たのだ。
 
こういう経験が日本人のネイチャーにとってどれほど重要なことか、今の自分は切実にそう思う。僕はだいぶ前から、日本文化の特質の一つを「見ること」としてきた。それは僕には今ではあまりに自明なことなのだが、当の日本人にそれを言っても、それほど分かってくれる人は多くない。
 
ところで、親父との自転車散歩に戻るが、ストーリーとしては、目くるめくワンダーランドとしての、とっても快適で親しくて楽しい旧東海道を通り、その後、自動車がびゅんびゅん行き交う国道を信号抜きで横断する危険を経て、最後に森に行き着き、そしてその中心に着くと、そこに、死を象徴する静かな刑場の石が並んで終わる、という一連の流れが、あまりに「安逸 ー 危険 ー 死」という典型的な構造をしているのに気付くが、これは人生のダイナミズムそのものだろう。
 
では、あの、水をたたえた、丸穴と角穴の後に、何が待っているのだろう。どういう「再生」が待っているのか。少なくとも、親父との自転車遠征は、この鈴ヶ森の刑場のところで思い出が途切れ、終わっている。実際には、その後があっただろうに、一切覚えていない。
 
だからきっと再生は無いんだな。それは死を身近なところに置く、日本の、一種の美学だろうな。

親父の躾

Facebookに軽く書こうと思ったが誤解もされそうだし、なによりお袋が真っ先に読んで心配するかもしれないので、こっちの個人ブログにひっそりと書いておこう。

僕の小さかったころの家庭は裕福ではなかったけれど、不自由はなく、家庭環境もおだやかで、恵まれていた。親父はたしかに厳しい方だったけど、叩かれたりした覚えはないし、幼少の愛情に満ちた環境については本当に両親に感謝している。

ということを前提に、ちょっと話すが、僕は、勉学の成績は良い方だったけど、どうも素行が安定しないところがあって、親父にしょっちゅう叱られていた覚えがある。落ち着きがない、責任感がない、ふざけてばかりいるかと思うとぼーっとしている、などなどだったらしい。

その中で、一つだけ強烈に覚えている光景がある。

やはり、親父に叱られた時のことだった。当時、うちは小金井の田舎の長屋住まいで、僕が小学校の1、2年のときのことだったと思う。何かの原因で親父に叱られ、僕は家を飛び出し(あるいは追い出され)、たしか扉を閉められてしまい、僕はその扉を叩いて、ごめんなさい、もうしません、とか泣き叫んだ。それで、その後が覚えがないのだが、もちろん入れてくれず、何かを言われたんだろうか、僕はそのまま走って、隣の長屋の知っている家の扉を叩いて、助けを求めた気がする。そうしたら、そこの家のおばさんがびっくりして扉を開けて、正樹ちゃんどうしたの、みたいに言って、僕は泣き叫んでいて、そうこうしているうちに、たしかお袋が迎えに来て、そのまま家に連れ返されたと思う。その後はまったく覚えていない。

ここで面白いなと思うのが、いったい「何」について叱られたかまったく覚えていないのである。そして、僕が家へ連れ返され、親父の怒りが収まったであろう後も、いったい自分がそれで「何」を改善したかまったく覚えていないことである。

覚えているのは上述のように、自分が泣き叫んだことだけなのである。

思うに、こういう経験は恐ろしいトラウマになっているのだろうな。当の「叱られた原因」はきっと僕の心身のどこかに刻印されていて「絶対に避けないといけないもの」とみなされるに至ったと思う。ただ、今に至るもそれが何だか分からないわけで、いったい何を避けないといけないか、今の自分は知らない。

しかし、おそらく、僕が、いま、これまで生きてきた中で、ほとんど生理的な感覚を伴うまでに「してはいけない」と考え、思い、感じることは、きっとその幼少に強烈に叱られたあの経験が関係していると思う。

人の人格と、それが導く人生、というのは、そういうものが骨子になって出来上がっているのかな。僕はときどき、そういう「厳しさ」によってしつけられた「硬い規範」というのがほとほと嫌になり、そこから自由になりたいと願い、その規範をわざと破るような一種の代償行為に走ることがあるが、当の規範と正面対決をしようとはしていないような気がする。むしろ一時的な逃避であり、あくまでも代償行為に留まったりしている。

これは、自分というものが、その当の硬い規範で、なんとか持ちこたえているという自覚も同時にあるせいで、それと全面闘争できないのだと思う。人間の自由というのは、実は考えているほど大きい物でないのかもしれない。

思うに、自分は「社会的に認知され責任の伴った自由」という考え方をずっと嫌って来ており、自由というものを、社会と無関係な無制限な自由とすることを理想として来た。ところが、僕がこの人生でやってきたことは、ほとんどが前者の自由の結果であって、後者の自由の道に、僕は結局進むことはできなかった。

あの幼少の経験で、親父は僕に「なにか」を叩きこんだはずだが、それは何だったか。それを僕が自分から完全に外してしまったら、いったい僕は本当に破滅するんだろうか。あるいはそれはただの錯覚だろうか。

生理的に心身に刻印された規範というものが、社会の枠を作ってきたのは確かだろうが、僕はこれまでずっとずっとその厳しく無慈悲な規範を捨てたい、捨てたい、と思ってきた。そして、そういうものの無い世界を夢見てきた。

不思議なことに、歳を追うごとに、その気持ちが強くなってきていて、少々困る。しかし、人生はうまくできているのか何なのか、規範の無い世界へ移動するのに必要なエネルギーが、還暦近い歳のせいで不足していることも同時に感じる。

となると、いったい世代を重ねて人間社会が進んでゆく、というのはどういう意味なのだろう。正直、この歳になっても皆目分からない。

日本人のルックスと運慶

前々から思っていたが、日本人のルックスは、特に戦後、急速に変わって行った。昔の日本人はよく、胴長短足で頭が大きくて、と形容されたものだが、いま現在、特に都会にいると、足が長くてすらっとした体形で、目は大きくあごは細く頭が小さいルックスの子がとても多い。
 
この昨今のルックスだが、思うに、まだ日本人のルックスがそのようになっていなかったときの、昔の少女マンガに現れていた理想の美男美女や、少年マンガに現れる憧れの美少女のルックスをなぞっているように見える。今の若い子なんかの顔を見ると、まあ、メイクのせいもあるとは言え、大きな目にあごが細くて小顔なマンガの登場人物そのものみたいな子がたくさんいる。
 
では、なぜ、そういうことが起こるのか。
 
自分の観察した限りで言うけれど、マンガの理想のルックスの方が時間的に先に現れていて、その後に、何十年かたってその理想のルックスが現実のルックスになって世に現れていると思う。つまり、皆の総意として「美しい」と思う方向に、身体自体を自ら変化させている、としか思えない。
 
このように自らの身体を目的に沿って変化させる生物の能力を「本能」と言って、これは特に昆虫類に顕著な能力である。かれら、本当にいろいろな形態を編み出している。特に擬態はお見事で、蛾が自分の羽に蛇の絵を描いたり、じっとしていると枯れ葉にしか見えないバッタがいたり、芋虫が頭のあたりに大きな目の模様をつけていたり、あげたらきりがない。なぜ、彼らがそのように身体を変化させられるか、いまだによく分かっていないけれど、それは昆虫の能力として、はっきり目に見えている。
 
それで、さっきの日本人のルックスの変遷も同じだと思う。まず先に「モチベーション」があって、それで人間も、昆虫と同じ能力を使って、自らの身体にその形態を刻んでゆくわけだ。
 
ということは、人に知れ渡って共有された「美」の規範が先にあって、それで人間のルックスは作られて行く、という風に考えるのが自然だということになる。で、その美の規範は何によって作られるかというと、それは芸術なんだと思う。冒頭の日本人のルックスの件で言えば、マンガという芸術なわけだ。
 
結局、芸術が、美を作り出して、それが万人に受け入れられ、それが規範になって、その後、何十年かかけて、昆虫と同じ本能という能力を使って、その美の規範を自らの身体の形態に刻み込んでゆき、そして、ついに美は現実のものになる、というプロセスになっているわけだ。
 
すなわち、芸術というのは、生命のモチベーションそのものなのだ。
 
先日、運慶展へ行って、運慶の彫刻の徹底したリアリズムに感心した。彼の幾多の像を見てはっきりと感じたのは、運慶は現実にある物を忠実に写してそのリアリズムを完成させたのではなく、彼の芸術が現実を作り出す作用をしている、ということだった。つまり、彼が作り出した像のせいで、われわれは現在、物を彼が見たように見ているのだ。

先の日本人のルックスの話と関連づけると、運慶の彫刻という芸術が、その後の日本人のルックスを実際に、現実に形成したのだ。日本人のルックスというのが先にあって、それを運慶が克明に描写して真似たのではない、と言っているのだ。
 
例えば、運慶の八大童子の子供の像で、あの像にそっくりの子供が800年前の運慶の住んでる町だかにたまたまいたのかもしれない。でも、その子が、当時、回りから特別、可愛いだとか何だとか言われていたことはありそうもなく、一人運慶がそのガキ(洟垂らして小汚かったかも)を見てひらめくわけだ。そして運慶は、その平凡なただの子供をモチーフに、それを童子像として彫刻に刻み込み、そのルックスに芸術的生命を吹き込む。
 
この出来上がった像を見た人々は、それで初めて目を開かれるわけだ。なんだ、あの洟垂れのガキ、可愛いし魅力的じゃないか、と。もし、このとき運慶がその子供を取り上げなければ、そのように人民が共有する美の価値観は生まれなかったわけで、その可愛くない洟垂れガキは、単に大人になって憎たらしくなって、それで終わりだ。
 
しかし、運慶によって、この子供の新しい形態が見い出され、受け入れられ、そうして皆がそれに説得され、こういうルックスが美の規範になる。そうして、こんな顔をした子供がその後の日本人に生まれるようになり、増えて行き、そして、今現在の僕らの住んでいる町の、隣の家のガキが運慶の童子像にそっくり、というようなことが起こるのだ。
 
これが正しく歴史に起こったことで、運慶が現代を先取りしてモダンだった、というんじゃなくて、運慶がモダンを作り出したのだ、と言うのだ。
 
この逆転した発想は、芸術の世界ではごく自然なことだと思うのだけど、科学の世界ではむしろ不可解なことになると思う。ただ、以上の、たとえば冒頭の、日本人のルックスの変遷とマンガの表現について、科学的調査を行って因果関係を割り出すことはできるはずで、きっと誰か研究者がやっているのではないかと思うのだけど、どうだろう。

川ちゃん

その日は、スウェーデンから日本に着いた翌日。夕方の6時に、二子玉川の再開発エリアに最近できた高級ホテルの30階へ出かけた。高層階の大きな窓から都会の夜景が見える豪華な場所である。翌日から、スウェーデンと日本の共同シンポジウムがあり、その事前顔合わせとして、スウェーデンの大学から来た8人ぐらいの先生たちが集まったのである。

仕切っているのは、著名な研究者であり、かつ、国際協力部門の長でもある年配の教授で、ダンディーで男前な初老の人である。彼は、Tシャツ姿で現れたが、カジュアルウェアでも気品がある。リラックスした感じで、流暢な英語で、皆に向かって明日からのことについて話をし始めたが、やはりヨーロッパの上流な人の振る舞いと、身のこなしというのは、たいしたものだ。まさに世界の一握りのエリートの一人であり、その周りの人々もそうなのであり、醸し出す空気にやはりどうしても少し気後れする。

ミーティングが終わって、このあと、地上に降りて、みなで二子玉川の街のどこかでディナーということだったが、僕は、自分のノートPCがたまたま帰国早々壊れたことを口実にディナーを辞退した。PCが壊れたのは本当だったが、スウェーデンのエリート集団とディナーを囲むのは気づまりで、行きたくなかった、というのも本音だ。エレベータを降りて、かの教授が僕に、Good luck for your PCと笑顔で気遣ってくれて、彼らは駅の方向へ、僕はその逆側に向かった。

一人になった。僕は、再開発エリアの、高層ビルと、コンクリートと、街路樹しかない、がらんとした暗い夜道を歩いて、家へ向かった。家は、二子玉川と、その次のローカル駅の上野毛のちょうど間にある。

家のそばまで来たが、家へは帰らず、そのまま上野毛の駅へ向かった。どこかで夕飯を食ってビールの一杯も飲みたかったのだ。家から上野毛への道も暗い。あそこには、ところどころ森のような一角があり、そこでは道がうっそうとした木々に覆われていて、やけに静かで暗いところを経て駅へ行くのである。

駅についた。どこへ行こうか。チェーン店には行きたくなかったので、しばらく考えて、そういえば駅から少しのところの狭い路地に昔ながらの居酒屋があったのを思い出した。だいぶ昔、一度だけ入ったことがあるが、ただの町の居酒屋でなんの特徴もなく、それ以来、行っていない。店の名前は「川ちゃん」という。路地を挟んだ向かいには、カジュアルフレンチのなかなか良い店があり、僕が行ったときは貸し切りだったようで、若い男女が店の前で騒いで写真を撮ったりして賑やかだった。

川ちゃんは、昔行ったときとまったく変わらないそのままのルックスで立っていた。

引き戸を開けて中へ入ると、客はほとんどおらず、がらがらで、棚の上のテレビが大きい音をたててかかっていた。カウンターには、すごくガタイのでかい40過ぎぐらいのおっちゃんが座り、一番奥のテーブルに、店のおばさんと、婆さんが向かい合って座っていて、その三人ともがテレビを見ていた。おばさんが席を立って「いらっしゃいませ」と言って、「どうぞ」と僕をうながした。

店内にほかに誰もいないので、僕もテレビが見えるもう一つのテーブル席を占有して腰かけて、生ビールを注文した。

しばらくビールを飲みながらメニューを見ていたが、コテコテの居酒屋食で、なかなか面白い。枝豆と串カツとオムレツを頼んだ。おばちゃんがカウンターの中の厨房に入って料理を作り始めた。カウンターのおっちゃんと、テーブルの婆さんは、やはりずっとテレビを見て、それで時々、番組について無駄話や論評をしている。

どこぞの外国人の犯人が逃げたけど結局つかまったみたいなニュースをしていて、そしたら、「なによ、あれ、あんなとこ行っちゃってるわよ」「逃げたってしょうがないのにな」「そうよねえ」「日本の警察の機動力をなめちゃいけねえな」「つかまっちゃったのね」、みたいな、まったく毒にも薬も何にもならない、おそろしく平凡な会話を交わしながら、二人ともずーっとテレビを見ている。

たぶん、これは、ほとんど毎日のように繰り返される、一種の家庭のだんらんなのだろうな、と思って聞いていた。おっちゃんも婆さんも、どちらも、どう見ても態度が長年の常連なので、こうやってお店でみなでテレビを見て食ったり飲んだりするのが習慣なのだろう。もっともそう思いながらも、もちろん僕だってほかにすることがないんで一緒にテレビを見ている。

料理が出てきた。串カツは、豚と玉ねぎを交互に串に刺してフライにした純東京風にポテトサラダと千切りキャベツにパセリが付け合わせで、オムレツは卵焼きにケチャップがかかってそれがサラダ菜の上に乗った、どちらも古い家庭料理で、なかなかに感動的だった。まさに昭和の家庭の味で、とても懐かしかった。

かなりしばらくしたら、おっちゃんが「おばちゃん、カツどんちょうだい」と言った。この人、作業着っぽい服を着たホントに大きな人で、肥満というよりプロレスラーみたいな図体で、カウンターの小さな丸椅子に尻をはみ出させて座っていて、どっしりと重量級なのである。そしたら、婆さんが「あら、まだ食べるの」と言った。おばちゃんが「みそ汁つけとく? どうする?」って聞くとおっちゃんが「ま、付けといてくれや、定食と同じでいいよ」と答える。婆さんが「そんなに食べるから、あんたそんなに大きくなったのね」と口を挟んだら、おばちゃん「大きいから、食べるのよねえ」と言う。おじさんは、なんとなく「うん」とか言って取り合わず、相変わらずテレビを見ている。

結局、僕もテレビを見ながら生ビールを三杯も飲んで長居してしまった。おっちゃんはカツどん食ってとっくに帰った。その間、客は一人も来なかった。さて、オレも帰るか、と席を立って、入り口近くのレジへ向かった。それで気づいたが、知らない間に婆さんもいなくなっていて、客は僕一人だった。

レジの横に立った。三千いくらかだったので、千円札を4枚出した。おばちゃん、レジに向かって、なんだかごそごそやっている。僕は、それを見て、なぜか反射的に、ああ、なんかクーポン券でも出すのかな、と思ったのだけど、なんのことはない、小銭を数えているだけだった。釣りを受け取って、引き戸を開けて、外へ出た。向かいのフレンチのパーティーはまだ終わっておらず、やはり若者が店の外でにぎやかに騒いでいた。

僕はそのまま狭い路地を左に折れ、環八の車がびゅんびゅん通る大通りを右に折れて、家に向かって歩き始めた。

自分でもまったく意味不明なのだが、しばらく歩いていると泣けてきてしまって、どうにもならなくなった。自分がああいう、コテコテの大衆な場所に弱く、感傷的になりやすいのは知ってはいるが、それにしてもそんなことぐらいでこんなに泣けるものだろうか。

大通りを逸れて、木々のうっそうと茂った、暗い夜道を歩きながら考えた。それで浮かんできたのは、海外のエリートと一緒にいた気づまりな高級ホテルの30階と、そこから、暗くて細いくねくねとした坂道を一人で歩いて、最後に、昭和のまま時間が止まったような居酒屋で、地元の人とテレビを見ていた、その、あまりに無関係でかけ離れた二か所を細い曲がりくねった道で結んだ図だった。

これは現実にあったことなのだけど、思い起こすとなんだか夢のような光景で、きっと、何かを暗示しているのだろうな、と思った。

運慶展

運慶展を見に行ったのでざっと感想を書いておこう。

展示場に入ると、運慶の父の康慶から始まって、運慶より前の仏師によるいくつかの像があり、その後、運慶の作品群へつながるようになっている。

まず、最初にあったのが、康慶の彫った木彫の6体の座った坊さんの像で、前後しながらジグザグに横一列に並んでいる。これは、驚異的だった。興福寺には、これら6体から数体を選んでバラバラに展示されていて、自分はそれを何度も見ているのだけど、このように6体すべてが並ぶと、もう、どう見たってみな、生きているようにしか見えない。リアリズムとかそういう次元じゃなく、化け物級で、誇張抜きにゾッとして寒気がした。

木造法相六祖坐像の一つ。康慶作

次に、大きな四天王像が4体並んでいたが、二番目だったかの像がすごかった。邪鬼を踏みつける足が固定された基準で、そこから、右少し斜め上の彼方に身体の全体が持って行かれるような体の重心の崩し方にかなり驚いた。誰の作か忘れたが一派によるもの。

そのあとに、運慶の像が出てくるが、今回、二十体以上が一気に並んだそうで、ここまで大量だと、そのはっきりした性格がよくわかるような気がした。

書き飛ばしなので軽々しく言うが、運慶の造形は、これは現代のフィギュアの元祖に見えた。平安から鎌倉時代の当時の仏像の造形を、自分はそれなりには追っているので何となくわかっているつもりなのだけど、運慶の像の、特に顔つきに関しては、まさに独創的な表現で、当時の一般的な像の持つ表現から抜きん出て、顔がとてもモダンなのだ。

試しに、現代仏像というのを検索して、いろんな現代仏師の像を見てみると、運慶の彫った顔つきに似ているのがあるのが分かると思う。これは、運慶だけでなく、同時代の快慶や、一世代前の定朝の彫った顔にも似ているのだけど、これら過去の仏師たちが、現代に通じる「典型」を作ったわけで、逆に、この典型を皆がリピートしたせいで、その後独創性が減り、仏像製作が全体として衰退していった、と言われるのも分かるように思う。

運慶をフィギュアの元祖なんて言うのは軽率だけど、実は、立ち並ぶ像を次々と見ながらどうしてもそう感じてしまった。

八大童子の一つ。運慶作

別の言い方をすると、西洋の、ルネサンス前期と、ルネサンス盛期、そしてバロック、という流れがあるが、運慶の像はルネサンス盛期に相当しているように見えた。僕はかつて、スウェーデンで日本美術を紹介したとき、今回も展示されていた運慶の「無著像」を、ミケランジェロの彫刻の完成度に比較したことがある。どちらもリアリズムの究極なのだ。

無著像。運慶作

ここではくだくだ書かないけど、ここで言うリアリズムというのはホンモノの人間に写実的に似ているとか、衣服のひだが見事だとか、表情が豊かだとか、そういう意味ではない。そういった、いわゆる現実世界でのリアリズムを超えてしまうと、かえってこの世に存在しないリアリズムが像の上に作り出されてしまい、今度はそっちが魂のように機能して、逆に、この世の現実に、あれこれのリアルな人間を投影して現出させているような、そんなところまで行っているように見えることをいう。

僕個人の趣味は、西洋ではルネサンス前期のピエロ・デラ・フランチェスカだし、バロックのカラヴァッジオだし、当のピークのルネサンス盛期を敬遠する傾向があり、それと同じく、今回、展覧会から出てきたら、運慶の像より、その前の康慶や、その後の運慶の三男の康弁が刻んだ像の方に、より惹かれたことが分かった。なぜなのかを自分は知っている。自分は、相容れようのないまったく異なる衝動が一つの世界に同居している奇妙な様子が好きなのだが、ルネサンス盛期や今回の運慶には、それがあまりなく、作品のいろんな要素がすべて肯定的な同方向を向き、力強く調和しているのである。

それにしても、運慶の独創性と力量はすごい。たとえば後の方にあった四天王像の多聞天。左腕をさし上げ、その手の平に乗せた宝塔を通して天を仰ぎ見るようなポーズを取ったこの像のダイナミズムは、もう、ルネサンス彫刻そのもので、唖然とした。こんなカッコつけた多聞天を初めて見た。インド、中国由来で日本に入って来た、およそ西洋的ならぬ仏像を、こんな風にルネサンスっぽくできるなんて、と思った。

多聞天。運慶作

それにしても運慶展はすばらしい人気で、ものすごい混雑だった。仏像というのは普段はお寺にあるわけで、通常、信仰の対象なのでふつう、こんな風に間近では見られないものなのだ。あと、彫刻は平面的な絵画モノと違って、お寺へ行っても真横や後ろからは見ることはできない。いくら混雑しているとはいえ、それができるこういう展示会はありがたく、それだけでも行く価値はある。

自分個人として言うと、今回、これを見て「リアリズム」というものを再認識し、いろいろ考えた。それについては、また、後日に。

宮原誠先生との出会い

僕が宮原誠先生に初めて会ったときのことを書いておこうか。
 
あれはたしか自分が30代の前半で、NHK技研で働いていた時だ。CGを使った映像制作の研究をしていたはず。ある日、宮原誠教授が技研に来てデモと講演をする、というアナウンスがあり、それを見に行った。所属している部が開催したものなはずだけど、いったい誰が呼んだんだろう、分からない。
 
僕が覚えているのは、まずデモの様子。実験室を展示場に改装して、完全な暗幕を引いて中を真っ暗にして、そのど真ん中に、大きめのディスプレイが置かれていた。ディスプレイはやはり黒幕で周囲を囲い、ラスター部分だけが露出している。いまでも、そのディスプレイに、弥勒菩薩の白黒写真がボーっと浮かび上がっている異様な光景を覚えている。今思えば、あれはたぶん、土門拳の写真だろうな。場内は真っ暗で、入ると足元も見えず、まるでお化け屋敷だな、って思った。加えて、そこには、ディスプレイの両脇に宮原オーディオシステムがセットしてあり、何の音楽をかけていたんだろう、ぜんぜん覚えがないが、宮原先生のことだから、何かしら宇宙っぽい、包み込むような系統の音楽を選んでいただろう。
 
いずれにせよ、使っているオーディオもディスプレイも徹底的に改造されたもので、いちいちここで説明しないが、えー、そんなことしてんの? という反応が返ってきそうな「オカルト」な処置もされているのである(ディスプレイ周辺のいたるところに錘をぶら下げたりね)。その全体システムが作る雰囲気は、やはり異様なもので、僕の反応は、なんというか、真っ白であった。つまり、別に感動したわけではないが、単に、形容する言葉が見当たらないみたいな、感じ。
 
僕の記憶では、その大仰なデモの後に、先生の講演を聞いたはずだ。講義室にはそこそこの人数が来ていた。そこで僕は、宮原理論を初めて聞いたのである。それについては今までも書き散らしているから繰り返さないが、それは、その講演で先生自ら、コペルニクス的転回と称していた理論で、簡単に言うと、機器の性能を上げて品質を良くするのではなく、品質を良くするために機器のどこを改造すればいいかを知る、という帰納的方法を取る、ということだった。
 
当たり前だろうか? いや、これは少なくとも、その1990年ごろのNHK技研では、ちっとも当たり前のことじゃないのを、自分はそこにいたのでよく知っていた。その時は、機器の性能を上げて行くことに邁進していた時代だったのだ。
 
先生の講演が終わり、なにかしら質疑応答があっただろうけど、忘れた。僕は、というと、少なからずその話にショックを受けていた。僕は先生がそこで言わんとしていたことを、おそらくあやまたず一発で理解したものらしい。たぶん、心で。質問することなどなかった。だって分かってしまったのだから。これはほぼ断言するが、あの時のあの講演を聞いた人々の中で、宮原誠の言いたいことを本当に理解したのは、この僕一人だけだったと思う。
 
そうこうして、デモと講演は終わったのだけど、そのあと上司に呼ばれて、このあと、宮原先生を近くの鰻屋へお連れして飲みに行くので、林君、来てくれ、というのである。そうべいという民家を改造した技研横の住宅地の中にあるローカルな鰻屋であった。
 
そうして、そうべいの二階の座敷へ行った。たしか、部長、副部長、主任研究員、そして僕、というメンバーだった。僕だけ、ヒラの若造なのだが、こういうシチュエーションで僕はよく駆り出された。ちょっと変わった芸術系だったり、その手の理科系っぽくない件については、林を出しておけ、という了解ができあがっていたのだ。僕も技研で、相応に変人として認知されていたからである。いま思えば、大変、ありがたいことだ。
 
飲んでいろいろ話したけど、あんまり覚えていない。ただ、宮原先生の仕事の話はあまり出ず、当たり障りのない話でしばらくは進行していたはずだ。そのうちお酒が回ってきて、宮原先生の今日のデモや講演の話になった。そこで、僕は、その講演で受けた強い印象を、宮原先生に伝えた。先生が言われたことが自分には、とても良く分かります、すばらしい理論だし、着眼点だと思います、と。でも、そのあとがあって、僕は、結局、最後に先生に次のように言って、突っかかったのである。
 
「先生の理論は素晴らしいのですが、でも、なぜ先生はその理論をあのデモで見せたような狭い映像とオーディオに限定してしまうんですか? 先生の理論はもっと無限の可能性を秘めたものでしょう? それをなんで、もっと広い世界に応用しないのですか?」
 
今でも覚えているが、僕がずけずけと面と向かってこう言ったとき、先生は、日本酒の入ったグラスを片手に、優しい顔をして僕を見て微笑んで、何も言わなかった。そのあとは、もう忘れてしまった。しこたま飲んで引き上げたのであろう。
 
これが始まりであった。その後しばらくして、僕のところに、通信学会かなんかの学会誌で、芸術と工学に関する特集をするそうだから、林君なんか書いてくれ、と言われ(このように、そんな仕事は僕のところに来ていたのである)、それで「芸術の情感は工学で高められるのか」という文を書き飛ばし、提出した。その冒頭で、僕は宮原先生を讃美する文から書き起こし、そのあとは好き勝手なことを書いたのだが、とにかくも、この文はとうぜん宮原先生の目にも触れ、先生は喜んだろうと思う。そうこうして、ごく自然に交流は始まり、長年にわたり、あれこれお手伝いをしてきたわけだ。
 
ただ、僕は、先生の仕事に直接かかわりはしなかった。Webでの広報や、先生の理論を僕の理解に沿って、なるべく皆に分かりやすく伝える文を書いたり、そういうことをしてきただけだ。でも、自分の仕事についていうと、僕の仕事はいまだに宮原理論に沿っている。先生が狭い狭いオーディオビジュアルでやっているのとは別に、僕が鰻屋で先生に詰め寄ったように、その外に広がる大きな世界を相手に、その理論を応用することをしているつもりだ。そういう意味では、正しい意味で、僕は宮原誠の弟子であろう。
 
ところで、ずっとあとになって、先生に、あの初めて会った鰻屋での出来事を聞いてみたことがあった。僕がずけずけと先生に詰め寄ったとき、先生はお酒片手に余裕で微笑んで何も言いませんでしたよね? と。そうしたら、先生、こう答えた。
 
「うん、それは覚えてるけどね、あの時は、いったいどうやって質問に答えたらいいものやら、答えが思いつかなくてね、それで黙っていたんだよ」

焼肉屋にて

今夜は目黒の演奏バーへ行くことに決めていた。特にイベントも無いのだが、ちょっとした用事のせいである。休みの日にあの店に行くときは、だいたい夕方の早めに出て、目黒界隈で一人で飲んで、食べて、それから行くのが習慣になっている。ひところは、駅前のすき家で中瓶を一本ゆっくり飲んで、最後に牛丼食って、しめて千円以下に抑えてバーへ出勤が定番だった。ただ、それはバーで演奏目的がある場合である。

さて、今日は特段の用事もないからなのか、なんなのか、焼肉屋に行ってみようと思った。何件かあるのは知っているが、その中で、一番、老舗っぽい昭和な感じの店があったのを思い出し、そこにしようと決めた。それにしても、あの店、まだあるんだろうか。

権之助坂を下った中腹ぐらいの、たしか二階だったよな、と歩いていると、まだちゃんとあった。階段を上がって店に入る。

時間が早いので店内にはほとんど客がおらず、いちばん奥のテーブルに5、6人の老人団体がいるのみであった。僕は、老人団体テーブルから少し離れた、鏡の近くの席に座った。

それにしても昭和そのものな内装である。店内はだいぶ広く、照明は暗く、壁の半分は鏡で、茶色が基調になっていて、ここそこにある置物はいちいち重厚で悪趣味である。巨大な壺に派手な造花だったり、へんちくりんな大きな木彫りの像が鼈甲色に光っていたり、中国趣味な木製の屏風が立ててあったり、などなど。給仕はいかにも百戦錬磨なおばあちゃんに近いおばちゃんだ。きっと余裕で三十年以上はこの焼き肉屋で来る日も働いているに違いない。

この手の店では、ビニールに入った黄色いおしぼりが出てくる。生ビールを注文。ビールが来たとき、中落カルビとハラミ、そして白菜キムチを注文した。出てきた、焼いた、食った、別に特別うまくもなんともないが、安心の昭和焼肉だ。

爺さん団体は、入った時からずっと奇声を上げてたりして大騒ぎしている。見たところ、どうやら、みな70過ぎで、全員リタイヤしてだいぶ経った、会社かなんかの元同僚っぽかった。大声でしゃべりまくり、ときどき店のおばちゃんが参加する。それにしても、引退したジジイというのは元気だ。

僕は、自分の先輩たちがすでにリタイアし始める歳であり、そういう先輩をだいぶ見たが、引退するとパワーが3倍以上にアップする。そういうのを見るたびに「社会に縛られて仕事をする」ということに、人がどれだけエネルギーを消費しているかが目に見えるようで、いまだ社会に縛られている自分はそれを思い知らされてげんなりする。それまで消費していたエネルギーの出口がリタイヤでなくなり、それがいろんなところで噴出するのだ。

今日のリタイヤ爺さん団体もそれだった。「おいおいおい、それならなにか、コースじゃなくてアラカルトがいいってことかい」「メニューのそこに並んでるの、上からぜんぶ頼んじゃえばええ、ええ」みたいな大声と笑い声がしきりに聞こえてくる。広い店内には、その団体と、そこから7メートルほど離れた席に座る自分しかおらず、あとはがらんどうなスペースだ。そこに騒ぎ声が響き渡る。

ときどきおじいちゃんが便所に立ち、何度も僕の前を通った。団体は僕の右側で、便所は左側なのだ。おじいちゃんと言ってもまだまだカクシャクとした老人だ。一人などはブリーチアウトのジーンズとチェックのネルシャツを着て、ガタイもよく、便所から帰って、僕の目の前3メートルぐらいのところで、何を思ったか立ち止まってにやにやしている。あ、まずい、オレに声かけそうだな、と警戒したが、幸い「おーい、おい、なーにやってんだあ」とか言われたせいかそのまま席へ戻っていった。

二杯目の生ビールを頼んだころに、ようやく次の客が来た。今度は、サラリーマンの男6人だった。黒や灰色のヨレヨレっぽいズボンに、年季の入った黒い靴、そして白いワイシャツにネクタイなし、といういで立ちの人々である。予約してあったようで、おばちゃんに案内され、僕の正面の5メートル先ぐらいの横長の席に入った。

みな相応に太っていて、ズボンに締めたベルトの上に腹の脂肪がはみ出て、裾を入れた白いワイシャツが脂肪でパンパンになっている。その脂肪の垂れ下がり方に加えて、おしなべて土気色の顔色や、ペタッと少ない髪の毛、夏ということもあって、だいぶ汗臭く汚れた様子が、その全体のルックスから伝わってくる。

自分も社会が長いので、サラリーマン団体のルックスの特徴だけで、だいたいどこの層に属しているかが想像できる。おそらく、どこかの地元の中小企業の、営業の人々であろう。ズボンや靴がよれているのは、きっと、ずいぶんと歩くからだろう、と想像した。あと、脂肪と顔色から見て、仕事し過ぎと飲み過ぎの両方であろう。

最初にビールで乾杯するときに、「今日は、タチナカさんが役員になられた、そのお祝いの会ですので」と聞こえてきたので、あらためてよくよく見てみたら、一番右端の上座っぽいところに座ったタチナカさんと思われる人が見えて、なるほど、彼一人、他の五人となんとはなしにルックスと、まとっているオーラが違う。

こっちはさっき頼んだホルモンを焼きながら、目の前でもあるし、彼ら団体をずっと眺めていた。

左端の人が「今日ねえ、ほんとは声かけたかった人いたんだけどさあ、ナントカさんも、ナニソレさんも、みんな死んじゃったしなあ、だから今日はこぢんまりと6人なのよね」と言っている。まあ、とにかく会社の同僚たちもある年齢になると病気でバタバタと倒れて、そのうち幾人かは死ぬんだろう。なんといっても、過労と暴飲暴食のせいだろうな。今でいうブラックとかじゃなくて、こういう昭和な会社では、もう、人と過労と飲酒は切り離しがたく一体化して会社という箱に収まっているのであって、労働環境とか健康状態とかそういうものを客観視できないように出来上がってしまっているのだ。

そんな箱の中に生き、そして長年の無理がたたって、だいたいが60歳になるまでに、体はボロボロになり、あるときそのまま死んでしまったり、よくて半身不随、最悪、寝たきりになったりする。いかにも不健康そうな左端の人も、そんな人の予備軍に見えるので、一種の予感なんだろうか、と思ったりする。

一方、右7メートルのところにいるジジイ軍団は、そんな昭和な会社生活をからくも生きのびて、定年を迎えて、かつての不健康と不摂生を振り切って、元気なリタイアライフに突入したものらしい。見ていても不健康なところや疲れたところがぜんぜん無い。比べて、サラリーマン中年軍団は、偉くなったタチナカさんがしゃんとしているのを除いて、みな、いわば疲れ切っている。

いや、疲れ切ってはいて、顔色も悪いんだが、同時に、みなギラギラと脂ぎっていて、間違いなく精力は絶倫に見えるのが(本当は知らん)この手の会社の営業系サラリーマンの特徴なのである。おそらく風俗も行くだろうし、いまだにきれいなおねえちゃんが現れれば色目を使いそうだ。そういう意味では、精力というエネルギーはちゃんと保持していて、このエネルギーがひょっとすると、生きのびてリタイアしたあかつきに、元気の素になるのかもしれない。

などなどという、下らないことを思いながら、相変わらず、客の少ない暗い店内で、今度は豚カルビを焼いてビールを飲んでいる。

いつものことだが、やがて、自分にとってこんなに気持ちの良い時間は無いような気になる。この刹那はまさに刹那で、長続きはしないし、するはずもないのだが、これは自分にはたまらない贅沢だ。それにしても、なぜ、オレはこういうシチュエーションで恍惚とするのか、毎度のことだが、今回は少し考えてみた。

こうして、元気な爺さんたちと疲れたサラリーマンをあれこれ客観的に観察しているのを読むと、きっと、自分という人間はずいぶんとそういう人々に辛口で、下手するとバカにしているように、人は思うかもしれない。でも、彼らから離れた今この場所で描写するとそうなるが、実際の彼らは、まさにそのネイチャーと本能にしたがってふるまっているわけで、何一つとして曖昧なところがない、いわば堂々たる人々の群れに見えるのである。僕はいま言葉を弄しているが、そのただなかにいるときは、単に恍惚としているだけで、実をいうと、彼らの魂の横に自分も座って、すっかり仲間になって、成り切っているように感じるのである。そのネイチャーのままふるまう感じが、とても気持ちよく感じるみたいなのだ。

さっき「などなどという下らないことを思いながら」と書いたけれど、その瞬間に自分は言葉は一切使っていない。単に漠然と何かを感じているだけだ。それが終わった後、それを思い起こして言葉にするとなにやら辛辣な表現になるというだけで、そのときの自分はピュアな、一種、憧れに近いような気持ちのかたまりなのである。

まあ、こうして分析すると、まるで言い訳を並べているように聞こえるので、こういうのはまた後日、別に書くことにしよう。

さて、老人軍団とサラリーマン中年軍団を見ながら、焼いて、食って、飲んで、だいぶ気持ちよくなってしまい、結局生ビールを三杯も飲んでしまったが、いい加減にいい時間になったので席を立った。なんと一人で6000円を超えた。えらく高いが、まあ、仕方ない。好きで入っているのだから。

その後、目黒の演奏バーに着き、マスターに「いままで、老舗の焼肉屋にいてさあ」と言ったら「どこ?」っていうんで「某々苑だよ」って言ったら「あそこは老舗じゃない」って言うんだよね。「えー、だって、あそこすごく昔からあるじゃん、老舗でしょ?」というと「目黒で老舗の焼肉屋って言ったら、なんとかとなんとかとか幾つもあるよ。あんな高いだけでバカみたいな店老舗じゃないよ」って言われた。ああ、たしかに、マスターが正しいわ。あの昭和の店を「老舗」などというたいそうな名前で呼ぶのは、おかしいよな。

でも、もしあれが、そんな立派な老舗だったら、今日みたいな光景にはぜったいに出くわさないだろうし、やっぱり自分にとっては、ああいう店が一番だな、と思う。しかも、そういう店、減っているだろうしね、いまのうちにせいぜい通わないと。

シン・ゴジラ

シン・ゴジラが封切され、日本での興行が大成功してたころ、フェイスブックの自分のタイムラインはほぼすべて絶賛で埋まっていたのだけど、元来が天邪鬼なせいもあり、横目で見て、ふーん、と反応しただけで自分はあえて見ようとしなかった。で、あれからおよそ一年たってようやく見たら、一発で参って、気に入ってしまったのである。ここ最近、世間ではとうに過去の映画で誰も何にも言ってないのに、一人で季節遅れの感想など書いててバカみたいだった。でも、自分でもなぜ気に入ってしまったのか、何となく不思議で、これのどこかが琴線に触れるらしいのだが、その正体はずっと、はっきり分からなかった。しかし、今日、なんとなく思い当たるモノを見つけたのでその話。
 
今朝、うちの奥さんと、昭和の邦画の話をしてて、外国で認められる監督と、そうじゃなかった監督の話になった。外国人に絶賛された過去の映画監督は、溝口健二、小津安二郎、黒澤明になると思う。一方、日本で絶大な人気がありながらついに外国で認知されなかった人に、木下惠介や成瀬巳喜男(死後有名になったそうだが)などがいる。ちなみに、僕の趣味がその後者なのである(ちなみに奥さんは前者の溝口健二のファン)
 
では、なぜ、そうなるのか。思うに、やはり、前者の三人には民族や時代を超えた普遍的なものが見て取れるのではないか。溝口は深い芸術性、小津はスタイリッシュな映像、黒澤は文句ないエンターテインメント性、という感じだろうか。で、後者の木下、成瀬は、良しに悪しきに、極めて日本的な風俗や感情の機微が描写されていることが多く、そのドロドロの人間劇から抽出された普遍的な「なにか」があまり感じられない。
 
これらの映画監督について、そうだなあ、と思った後、思い付いたのが、後者のタイプの木下惠介や成瀬巳喜男の映画は、歌舞伎でいう所の「世話物」の一面が強いんじゃないか、ということだった。世話物というのは、要は、江戸の当時の風俗描写で、愚かな井戸端民衆の噂話だとか、下らない夫婦喧嘩だとか、売春宿でのドタバタとか、そういった極めて卑近なものを描写して見せる一幕である。で、当時、歌舞伎の題材が仮に、心中やら討入やらシリアスなものであっても、この世話物があれこれ挿入され、それを当時の客は好んだそうなのである。
 
それでシン・ゴジラだが、右往左往する政府と無駄な会議の連続、東京の日常生活の浮遊感を残したままゴジラを眺めたり逃げたりしている一般国民の、その様子が、これは21世紀の現代日本の「世話物」の描写そのものだということに気が付いた。江戸時代の歌舞伎から、昭和の木下惠介や成瀬巳喜男を経て、現代のシン・ゴジラ、という系列に見えたのだ。どうりで、最初にこれを見たとき、これは日本人が作った日本人のための映画だ、と思ったはずだ。
 
で、奥さんに「あんな下らない会議ばっかりの映画のどこが面白いの?」って言われたとき(彼女は前半は見ながら文句ばっか、後半は寝てた)、自分は「いや、会議の部分はどうでもいいんだけどさ、ゴジラに託した象徴が美しいんだよな」と言ったものの、実は自分は会議部分も気に入っていた。でも、今は理由が分かった。これは江戸庶民でいう世話物なんだ。シン・ゴジラの脚本は、世話物としてかなりよく書けていたからなんだと分かった(帰国子女の脚本だけは、照れ臭すぎるんで、もうちょっと何とかして欲しかったけど 笑)。もっとも歌舞伎の世話物は庶民の生活を描くもので、侍社会や幕府(今で言う政治家と政府)を描くものではないので、シン・ゴジラでの政治家社会と政府を描くのが世話物だ、というのは一見、合っていないのだが、21世紀になりインターネットのせいで、僕らの政治家と政府は世話物化した、と言っていいのではないだろうか。
 
そして、ゴジラそのものの方だが、これは、歌舞伎で言う、討入、心中、怪談などのメインテーマの部分を、ここでは、そのまま「怪獣の襲撃」で描いていた、と言えそうだ。これは僕の感じ方だけど、歌舞伎のそれらメインテーマは、まったく不可解な怨念の塊みたいなもので、劇中ではいちおう、殿中事件やら、理不尽な恋やら、裏切りの恨みやら(そしてゴジラの場合は放射能廃棄物)、「理由」は提示されてはいるんだが、それらの事件がもとになって生まれた「怨念」が、途中から、もう何だか分からなくなってしまい、一種の怨念の塊のようなものに結晶し、その塊が元の理由や人間の理性から離れて独立して存在するような感じになってしまい、で、その不可解な塊が、物凄い猛威を振るってあらゆるものをなぎ倒して行く、そういうエネルギーの塊になるんだ。それは、もう、因果関係の末の正義のある闘いや破壊ではなく、一種の自然災害に近い破壊で、カタルシスの塊なんだ。
 
シン・ゴジラに登場したゴジラは、見事に、そういう不可解な塊を表していて、骨の髄まで日本人な自分には、それが極めて美しい、日本的な、あまりに日本的な「象徴」に見えたのである。
 
ここまで来ると、もう、自分が愛する歌舞伎台本の「東海道四谷怪談」との関係は明らかで、シン・ゴジラは自分にはきっと四谷怪談に見えたのだ、だから、一発で気に入ってしまったんだ。そのことが、昭和の邦画の木下惠介や成瀬巳喜男を通して、なんだかわかった気になってね、面白かった。
 
四谷怪談では、ゴジラではなくお岩の幽霊が出て来るわけだが、お岩は民谷伊右衛門らに手ひどく残酷に裏切られ、そして亡霊になって再びこの世にあらわれるのだが、もう、現れたその時は、一種の怨念の塊と化してしまっている感があり、関係者を根絶やしにするお岩の亡霊は、絶大なエネルギーと、無敵の強さなのである。特に最後のシーンは圧巻で、縦横に飛び回って、一人一人に憑りつき、結局、皆殺しにする。
 
そして、シン・ゴジラのゴジラと同じで、出ずっぱりで皆がそれにかかずり合いっぱなしになっているのではなく、時々しか出て来ないし、それ以外のときは、皆はまたいろいろな事をしていて、その間、幽霊は、潜伏していたり、止まっていたり、ちょろちょろと皆の口の端に昇るのみなのである。それで、出て来るときは、まるで、いきなり現れた、台風や、稲妻や、土砂崩れや、地震や、津波みたいに、強大で、不可解な力をふるうのである。
 
シン・ゴジラを見た自分には、その世話物として描かれた政治ドタバタ劇と怪獣退治劇、そして、それらの浮世話とは無関係に存在する、強大な力で世話物の舞台をなぎ倒して火の海にする怪獣のゴジラが、とても芸術的な意味で、美しい、日本的な図式に見えたのである。
 
シン・ゴジラが海外興行で大失敗した、というのも、それゆえにうなずける。木下惠介や成瀬巳喜男が世界的監督になれなかったのと、同じだし、江戸の民衆芸術である浮世絵や、歌舞伎や、あるいは俳句や、そういったものが西洋人に誤解されたままの形で理解されている、ということとも同じなのだ。自分は、それなりにインターナショナルな人間なんだけど、西洋人には、ああいった日本の美の本質は分からないだろう、と推察する。そして、これは、裏を返せば、日本人の僕には、西洋の思想の核は、いくらそれで育ってきた自分とて、やはり最後の最後には分からないだろう、と推察するのである。