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星座

小学生のころ星座に夢中になっていたことがあって、特に星座を描いた昔のドローイングが多く載っている図鑑が好きで、朝から晩まで見ていたことがあった。

さっき、ふとしたことで星座を調べたら、その小学校のときにまさに自分が見ていた絵図を見つけた。オリオン座とおうし座の絵だった。ただ、これしか見つからなかった。ネットには他の絵もあったけれど、画風が違っていて、当時の僕は、このシリーズじゃないとだめだったのだ。

星座といえば、一等星を持つ星座と、その一等星の名前は、すべて覚えていたが、特に、二つの一等星を持つ星座は、別格な僕のアイドルだった。日本の冬の夜空によく見えるオリオン座は、ベテルギウスとリゲルという二つの一等星がある大好きな星座の一つだった。

僕の見ていたのが日本の図鑑だったからか、南半球でしか見えない星座はあまり載っておらず、その、地平線の下に隠れている星座が、一種、あこがれの的だった。特に、一等星を二つ持つケンタウルス座と南十字星への想いは強くて、夢にまで見るほどあこがれていたっけ。

ケンタウルス座の二つの明るい星は、アルファ・ケンタウリとベータ・ケンタウリという名前だったが、そのネーミングが自分には安易に聞こえて好きじゃなかった。ある日、なぜだか別の図鑑を手に入れたら、そのケンタウルス座が載っていて、そこでは、星の名前が、リギルとアゲナという名前だと知って、とても感動した覚えがある。

いまになってみると、子供の自分がなぜ、星座と、その星座のドローイングと、恒星のギリシャ語っぽい名前に、それほど惹かれていたのか、あまり分からない。夢中になるのには、特段の理由はないのだろう。何かがどこかで引き合っているんだろう。

しかし、不思議なことに、自分には、その過去に感じたその夢中になっていた気持ちを、一瞬、それも0.5秒ぐらいそのままの形で思い出すことができる瞬間がたまにおとずれる。これは、一種の神秘体験で、この感じがたとえば10秒以上続いたら、自分は気が狂ってしまうのではないか、と思わせるほどに、強烈な安堵感的な快感を伴っている。さっきも、その瞬間が一回だけやってきた。

ところで、僕は30歳のときに、初めての海外旅行でスペインのマドリッドへ行ったのだけど、そこで、最終日に電車の中で鞄の中身をすられて、パスポートも財布も航空券もなにもかも盗まれ、滞在を3日伸ばしてようやく帰ってきた、ということがあった。

大変な思いをして、ようやく帰途についた、その飛行機の中でのことである。僕は窓際に座っていた。時間は夜で、飛行機の窓の外にはたくさんの星が輝いていた。そこに、地平線にだいぶ近いところに、いまでもはっきりと思い出せるのだが、くっきりと十字型に光る小さな星の一群があった。

それはなんと、小さいころ夢にまで見た、南十字星だった。

ロックのクラシック化

YouTubeを見ていると、ロックギターにしてもロックドラムにしても、若い子たちが(いや、子供ですら)、ものすごいテクニックで演奏しているのが、次から次へと出てきて、参るよね。

もう、だいぶ前からだけど、ロックミュージックもクラシック音楽化したなあ、と思っている。音楽理論と演奏法と教育法が完全に確立していて、きちんと学習さえすれば、先人たちのレベルに誰でも達することができるようになった。僕のジェネレーションのように、先生も本もなく、自己流で苦心して身につけた人間から見ると、もう、あれよあれよ、という感じで、意外とこういう事態になるの、早かったな、と思う。

実際、たとえば、音楽で仮りに彼らと戦っても、勝てないことの方が多そうだ。プレイヤーの平均レベルがここまで上がってしまうと、戦いのレベルも格段に上がる。そうなると、クラシックと同じで、極めて高度な表現力の部分で切磋して、競い合う話になるだろう。しかし、ロックのそういうの、だれが判断するんだろうね?

それにしても、これもしょっちゅう言われることだけど、ロックって音楽は元来反体制の音楽なのだけど、確立してしまったら体制側になるんで、そもそも矛盾してしまい、変なことになる。そんなのは昔の話で、反体制はロックからラップかなにか(あるいは今はまた別のがあるの?)に移ったってことで、ロックはそういう面倒からすでに解放されているのかもしれない。

最近、こういうこと書いてると、むかし話をどうしても思い出しちゃうのは歳なんだかなんなんだか、まあ、還暦だし許されるか(笑) 

で、思い出したのだが、僕は何であれ、昔から、糞真面目に粛々と何かをやっている場にいると、タイミングが悪い場合、無性に腹が立ってきて、自分が抑えられなくなることが、たまにだけど、ある。

だいぶ昔にやってたバンドだったんだけど、ある時、そこに、メンバー募集かなんかで連絡してきたギタリストが来たことがあった。真面目そうな男で、几帳面なギターを弾くやつだった。スタジオでしばらく一緒にジャムセッションした。

何曲か目にJohnny B Goodeをやったのだが、やっぱり彼、几帳面に糞真面目にうつむき加減にギターを弾いている。僕は何が気に入らなかったのだかわからないのだけど、だんだんそういう演奏をしていることにむらむらと腹が立ってきて、二回目のソロの時に暴走し、音量を全部10にしてピックで弦を無茶苦茶に引っ掻き回し、周りを無視して暴れまわり、ピックはバリバリに割れて跡形もなく、それでも指で弦を無茶苦茶に弾いてたので、右手の指の爪が割れて血が噴き出し、右手血まみれのままギターを床に放り投げ、それでようやく演奏が終わった。僕ははあはあと肩で息をしてるし、周りのメンバー茫然。真面目な若者茫然。ただ、その中に一人だけコーラス要員の女の子がいて、その子がすぐに僕に駆け寄って、僕の右手をとって「だいじょうぶ?」って言って、バッグからバンドエイドかなんか取り出して、手当てしてくれた。

はっきりしているのは、僕はバカそのものだが、その子は本当に優しい、いい娘だった。

もう今はそんな元気はないと思うが、しかしみなさん、ひょっとするといつかステージで突然発狂するかもしれないので、気を付けた方がいいですよ。でも、歳のせいで、そんときは途端に心臓マヒでバタっと倒れてあの世ゆき、というハッピーエンドで終わるかもしれんが。もしそうなったら、それは憤死というんだな。かのイヴ・クラインのように。

相性

だいぶ昔、とある街に住んでたころ、とある呑み屋つながりの人々とあれこれ遊んでいたことがあり、そのときの話。その呑み仲間のなかに、明るくて元気でよくしゃべるおばちゃんがいて、あるとき、そのおばちゃんに誘われて、家に皆で遊びに行ったことがあった。おばちゃんはバツイチかなんかで、そのころ彼氏ができて、その彼氏がむかし飲食店で板さんやってたから、料理を作ってくれるというのである。

で、台所から次々と料理が出てきて、たしかにどれもおいしかったのだけど、その料理が見事なぐらい、中流以下ぐらいの「ある層」をターゲットにした料理で、高級店では出て来ない味だけど、安めし屋とかの味でもない。食べてて、あまりにその「層」がはっきり感じられて、なんだか感心してしまった。不思議なもんだなあ、って思って。

ちなみに、その彼の歳はたぶん40半ばで、おばちゃんと付き合う前は仕事をしてたけど、おばちゃんの家で一緒に住み始めたとたん仕事を辞め、毎日プラプラしていたそうだ。要はヒモを決め込んだわけだ。おばちゃんはわりといいところで仕事してて、実入りもいい。その彼、ホームパーティーでエプロンして料理作っちゃいるけど、話を聞くとわりとろくでなしっぽい。でもちょっと男前で愉快な楽しい人だった。

それで、そのおばちゃんだけど、ものすごく人の世話を焼くのが好きな人で、いろいろ男と関係も多いらしかったが、まいどまいど、そういう、世話しないといけない男とくっついちゃうそうだ。本人、なんでいつも私が面倒見なきゃなんないのかしらねえ、早くラクしたいわ、とかけっこう愚痴を言ってた。で、それから一年ほどして、風の便りで、おばちゃんが彼氏と別れたらしいっていう噂を聞いた。

料理人とその料理、世話焼きおばちゃんとろくでなし男、などなど、世の中って相性って、あるんだなあ。っていうか、世の中、相性だけでできあがってるのかもね。

ストックホルムの移民街

ストックホルムで移民がいちばん多く住んでいる街Tenstaと、その隣のRinkebyへ行ってきた。セントラルから地下鉄で20分ほど。この地域は移民の人口が70%以上で、治安的にもスウェーデンで一番悪いそうだ。ちなみに2番手はMalmöで、ストックホルムでは無くてコペンハーゲンに近い国境で人種混合しており、治安悪化は、まあ、うなずける。
 
今回行ったTenstaは、昔、住居が不足したとき国の政策でたくさん作った、いわゆる団地に、その後、移民が多く住むようになり、今では大半が移民の地区になってしまった、という経緯だそうだ。この地域に隣接したHusbyでは、3年前に暴動が起こって街に炎が上がり、スウェーデンでこんなことが起こるのかとみな驚いたところである。要は、Tensta・Rinkeby・Husbyの一帯は移民だらけな地域なわけだ。
 
Tenstaの駅を降りて地上に上がると、別に何ということはない閑散とした街だった。駅の上にショップが並んだ建物があり、結局、それだけでほかに何もない。駅前には街並みもなく、すぐに団地がひたすら並んでいる状態だった。きわめて退屈なところで、そういう意味では殺伐としていると言えなくもない。ただ、団地を見るとそれほど老朽化しておらず、メンテナンスはされているので、スラム化とかいうのとはぜんぜん違う。つまり、ふつうの居住地区だった。唯一の違いは、歩いている人にスウェーデンらしき人がいないこと。ごくたまにスウェーデン人かな、と思う人もいたが、だいぶ貧しそうな感じだった。

Tenstaの駅前。左手の赤い枠が室内ショップの入った建物、右手はすぐ団地が続いている。奥の方に悪趣味な高層ビルが一つだけぽつんと建っている。

さて、Tenstaに降りても、何も見るものがなかったので、隣のRinkeby駅まで歩いてみることにした。団地を抜けると、ちょっとした草原になり、向こうに教会が見えた。行ってみると、教会の周りはだいぶ広い墓地になっていて、たくさんの墓石が並んでいる。ヨーロッパの墓石はいろんな形をしていてそれぞれユニークで見ていて面白い。ふと、墓地越しに立つ北欧の教会に黒い衣服の修道女が入って行くのが目に入った。この光景は美しかった。

TenstaとRikebyのちょうど真ん中あたりにある教会。周りは広い墓地になっている。

自分はスウェーデンに住んで5年目になるが、もうだいぶ食傷していて、スウェーデンの美しい風景がまったく心に響かなくなってしまっているのである。今日は、本当に、久しぶりに、僕が30年前に北欧古典絵画を通して知って、そのまま十年近く陶然として夢中だった北欧の美をここそこで見ることができて、それはとても良かった。

なんとなくゾンビが出て来そう(笑) それぞれにかなり趣向を凝らしていて、面白い。

この教会と墓地と周囲の美しい自然は、ちょうどTenstaとRinkebyの真ん中へんにあり、そこを越えてRikebyの街に入ると、また同じような団地が並ぶ。ほどなくして駅に着いた。こっちはTenstaよりは少しは活気のある所で、駅の上の広場をショップが取り囲んでいて、少しは街らしくなっている。ただ、そこを出ると、やはり同じようにすぐに団地だ。ただ、団地の一階部分にショップがいくらか伸びていて、本当に少しだけだけど、他ではあまり見られない異国情緒な店舗もあった。

Rikebyの駅上のショッピング広場。少しは活気があるが、道路とか全体がとてもきれいでゴミ一つない。

僕が行ったのが12月26日のクリスマス休暇中だったからかもしれないけど、移民が7割以上いるのに、なぜ彼らは自分の国では全開状態で繰り広げる中東アジア的カオスを、ここスウェーデンではやらないのだろう。街を歩いても、ゴミ一つ落ちていないのは、普通のスウェーデンの街とまったく同じで、中東アジアでは普通な、散らかって汚らしく放置されたところが見当たらない。

スウェーデンでは珍しい若干の異国情緒のある店。このように外にせり出して商品を並べているのを見るのは、まれなこと。

一つ気付いたことと言えば、ヘアサロンがすごく多くて、しかも、中をのぞくとお客さんもけっこういること。しかし、食い物飲酒より、ヘアサロンなんだね。僕は経済にも政治にも明るくないからわからないのだけど、スウェーデンでは移民が気軽に商売して儲けられる構造になっていないんだろうか。全世界にチャイナタウンを持つかの中国人ですら、スウェーデンではロクな街を持っていないのである。
 
知っての通り、スウェーデンは移民と難民の受け入れには非常に寛大な国の一つで、政策的にも完備していると言っていい。それができるのも、政治も、国民も、困った人を助ける慈善、異文化の許容、そして多様な人々の人権についての意識が高いからこそだ。僕もスウェーデンに住んでいて、その意識の高さは感じる。彼らにとってすごく重要な社会の要件なのだ。
 
しかしながら、こんな抜け殻のような移民地区を歩いていると、どうしても別のことを考えてしまう。
 
慈善と人権というもの自体が元来はヨーロッパのもので、それらの概念にはやはり西洋らしさが染み付いている、というか、西洋が基礎になって出来上がった概念だ。だから、それらを適用した結果できあがる社会が、西洋の枠組みと西洋文化の色をしているのは、言ってみれば当たり前のことだ。
 
街にはたくさんの異国人が歩いていて、人間だけ見ると、ここはスウェーデンか、と思うような風景なのだが、街自体は何の特徴もないつまらない場所だった。それで、どうしても思ってしまう。みな、故郷が恋しくないのだろうか。いや、ここにも仲間はたくさんいる。それは分かる。でも、異国の血は騒がないのか、こんな殺風景な街に毎日暮らして、老いて、死んで行くのか。
 
結局のところ、街自体に生気もなく、面白くないのでたいして放浪せずに、早々に電車に乗って帰ってきた。ストックホルムセントラルに戻って街を歩いていると、何の疑問もない。ここを見ている限りは、充実した古い美しい街だ。しかし、歩いていても何となく浮かない気分だった。
 
妙なことだけど、さっきまでいた周辺の移民街がもっとごみごみして汚なくて生活感満載だったら、きれいなヨーロピアンな街に帰ってきて、ほっとしてすがすがしく歩いたかもしれないな、と思った。

ナポリタン

昔、喫茶店のマスターをやってた知り合いがいて、その人から聞いた話。昼下がりの、客の少ないある日、ちょっとむさい感じの変なやつが店に入ってきて、ナポリタンをたのんだそうだ。で、ナポリタンを作って、その人のテーブルにタバスコと粉チーズと一緒に置いた。そしたら、その人、まず粉チーズをかけ始めたのだけど、それがいつまでもかけてて、とうとう空になるまで全部かけてしまい、ナポリタンの上に白いチーズがうず高く乗っかってる状態になった。マスター、カウンターの中で面白いからそのままどうするか見ていたそうだ。そうしたら、粉チーズを全部かけてしまうと、こんどはタバスコをかけるわけだけど、これがまた、いつまでもいつまでもかけてて、とうとうひと瓶ぜんぶかけてしまった。で、どうするか見てたら、おもむろに食べ始めたのだけど、2、3口食べたら変な顔して、それ以上食べず、そのうち「すいません」と呼ぶのでその人のところへ行ったら「これ持ち帰りたいんですけど」と言ったそうだ。で、マスター、そのタバスコで真っ赤になったチーズとナポリタンをビニール袋にドサドサってあけて口を縛って、お勘定したあと、はい、って渡したら、「ありがとうございます」ってお礼を言って出て行ったそうだ。ヘンな人もいるもんだ。

地獄谷のロシナンテ

大森駅の線路沿いの地獄谷の思い出を伝承している人はいるだろうか。お袋が大森に住んでいるから、遊びに行くときは、いつも地獄谷をチェックしてから行く。この前も行ってみたら、入り口近くの超老舗のラーメン屋の長崎屋がとうとう閉店していた。結局、入らずじまいだったな、残念。
 
で、これまでずっと気になっていたお店があってね、地獄谷の真ん中へんにあるロシナンテというスナック。およそ40年前、あそこは大森界隈の文学者とか芸術家とかのたまり場だった。かなり有名どころも通っていたはず、誰だか忘れてしまったけど。
 
ロシナンテのママは美人で知的で、昔の言葉でいえばマドンナ的存在だった。文化人の通う店のママとして彼女以上の人はいないみたいな、いい感じの女性だった。そういう知的な人の集まるところのママというのは、ママそのものがあまりに知的にふるまってしまうと、客だかママだか分からなくなるし、そもそも知的な芸術家系の人たちというのは、相応に我が強いもので、ママとぶつかっちゃったら洒落にならないし、客同士がぶつかったときママがどっちかに加勢しちゃったらうまくないし、っていう風に、ママっていうのは、なかなか難しいポジションだと思うんだ。

僕は常連ではなかったけれど、人に連れられて数回は行って、その様子を見ていたのである。店の常連客とかがなんか論争的な雰囲気になるときも、ママは、柳に風だったり、あるいは天然風にとぼけてみたり、はたで見ていても、本当に上手に受け流していた。ママ本人が本当はどういう人なのかは容易に分からないけれど、そのやり方が本当に素敵だった。わがままな常連客も、ママにはかなわんな、で収まってしまうのである。そんな、ママには、なんだか憧れがあったなあ。
   
で、その後、十数年たち、地獄谷とはすっかり疎遠になり、ほとんど足も運ばない状態が何十年か続いた。そしてここ十年ぐらいになるけれど、お袋のうちへ行くついでに地獄谷チェックをするようになったわけだ。

それで、年に一、二回地獄谷偵察に行き、そのたびにロシナンテの前を通るわけだけど、店の周りの敷地には、いつも大量の植物が置かれていて、店の入り口はその植物にずっと覆われたみたいになっていた。植物はきれいに手入れされているから、誰かしらが育てているのだろうけど、店が開いているようには到底思えなかった。
 
ロシナンテのママ、どうしただろう。死んでしまったかな、などと思っていた。
 
それで、ついこの前のこと、地獄谷の階段を降りたら、ロシナンテの前で、小柄なお婆さんが植物の手入れをしているのが遠目に見えた。え、ひょっとして、ママか? と思ったけど、遠くて分からず、とにかく店の方向に歩いて行った。実は、僕が店の前に来るまでのあいだに、扉から中に入ってしまったのだけど、5メートルぐらいだったかなあ、一瞬、そのお婆さんの顔がはっきり見えた。
 
たぶん、間違いなく、あれはロシナンテのママだ。面影がはっきりあった。すごく上品な感じの、いまどきは滅多にいない感じのお婆さんだったっけ。
 
僕の性格がこんなじゃなかったら、きっと声をかけただろうけど、勇気がなくてできなかった。でも、ママ、元気でよかった。

串揚げの技

奈良の穴場的な串揚げ屋さんへ連れて行ってもらった。創業37年の超老舗である。ここはメニューは串揚げのおまかせコースしかなく、カウンターの向こうで、次々と揚げている様子を見ることができる。
 
カウンターの中はたくさん従業員がいて、忙しく動いているが、ここで、創業からいるという、ほぼ引退しているけれどお店に出ているみたいな、もうおじいさんなシェフと、もう一人、たぶん30歳ぐらいのメインシェフの二人を見る機会があった。
 
それぞれの具材は串に刺した状態で、奥の調理場で用意され、カウンター内では、シェフが、これに、どろっとした小麦粉の衣をつけて、その横のパン粉をまぶして、それを揚げ油の中に入れ、揚げる。僕はしばらくずっとこの様子を見ていた。最初は、たぶん、80近い老シェフが衣を付けて揚げる作業をして、その後、若いメインシェフが同じ作業をし始めた。
 
この二人のやり方は、基本的にはまったく同じなのだが、自分的にはけっこう違って見えていて、すごくおもしろかった。
 
乱暴に言うと、老シェフは雑で、若いシェフは丁寧だった。で、その老シェフだが、何を雑と言っているかというと、衣とパン粉の付け方が一定しないのである。一本一本違うし、同じ具材なのに違う付け方をしたりする。一方、若シェフは、機械がやるように正確にコンスタントに仕事をしていた。お客さんが多いので、揚げたものを食べ比べているわけでもなく、その出来上がりについては分からないが、老シェフの料理は、適度にブレていて、幅があり、ゆらぎがあるのだけど、若シェフの料理は、いつも完成度が一定で安定していた。
 
これ、実は、いろんなところで見られる現象なんだよね。かつて僕は、芸子さんの踊りを見る機会があったのだけど、その時も、同じものを見た。年季の入った芸子さんには動きにブレがあり、若い舞子さんは動きは完璧だけどCGみたいだった。
   
ところで、出来上がった串揚げを食べる僕らとしては、いつもいつも同じものが出てくるのがいいのか、はてまた、毎回いくらか違った出来具合のものが出てくるのがいいのか、と考えると、ひょっとすると毎回違う方が、人間的でいいんじゃないだろうか。一方、もし、店や料理に特に愛着の無い一見の客によく思われたいのなら、毎回安定している方がうまく行くだろう。もし、そういう客にブレのある料理を出すと、たまたま外れた日なら2回目は無いだろうし、たまたま当たったとしても、2回目で外れたとき裏切られた感のせいで幻滅して二度と行かなくなる可能性が高くなる。
 
もちろん、この串揚げ屋の老シェフは、非常に高いレベルでブレているだけなので、上述の理屈は当てはまらないのだが、ただ、行くたびに何かが変わっている、というのは、たとえ客がそれに気が付かなくても、とても重要なことなんじゃないかな、と思ってね。
 
それに、完全に安定した完成度を常に出したいなら、最後は機械にやらせた方が確実ってことになる。昨今の流行りで行けば、老シェフの技をディープ・ラーニングに学習させ、それを使ってマシンを動かして串を揚げればいい。
 
伝統の熟練の技というのは、そういうものなのかな。機械で代替できないような動き方をする。一種の本能みたいなものかな。有機的で、技そのものがまるで生きているように命を持っている。こういうものに比べれば、機械なんてのは、まだまだ幼稚なもんだ。

402号室

神戸にいる。明日の朝、すぐにここを出て、東京に帰ってリハして夜にライブという強行軍で、大変だが、まあいいや。ホントは夜中の三宮に繰り出したいところだが、11時近い今から放浪するのは、明日があるせいで自粛かな。
 
ところで、いまいるホテルは六甲の坂を上がった地味な感じのきれいなホテルで、フロントも、初老の痩せてすらっとした落ち着いたホテルマンで何となく今どき珍しい感じ。
 
で、僕の部屋が402号室なの。これ、日本では、もうそういうタブーは無くなったのだろうけど、42はやばい数字なんだよね。昔はこの数字、避けていたものだ。でも、402号室に自分が通されたのは、僕には気分がいいことなの。なぜなのかは、大昔のブログに書いたけれど、また思い出した。
 
僕は、十年以上前、家出をしていたことがあって、三宿の古いマンションの4階の403号室に一年間ぐらい、住んで、毎日、三軒茶屋で飲んだくれる、荒れた時期があった。それで、そのマンションのその部屋を決めたときのことをよく覚えているのである。別に少しもいい所ではなかったのだけど、不動産屋に連れられてその4階の部屋に入ったら、二方向が窓で、そこから世田谷公園が見えるところだった。
 
その日の夜、僕は夢を見た。それは、その4階の部屋に自分がいて、4方全部が窓になっていて、360度すべてが深い森に囲まれていて、とても美しくて、僕は夢の中でその光景に見とれていた。そんな夢を見たせいで、朝起きて、そこにしようと思い、不動産屋に連絡してその部屋に決めてしまったのだ。
 
まあ、やさぐれた、めちゃくちゃな1年間だったが、とにもかくにもその部屋で僕は生活していた。実際に入った部屋からたしかに公園の緑は見えたけど、別に夢で見た絶景とはまるで違っていた。ただ、僕は、その部屋をけっこう気に入っていた。いろいろあって、一年後、僕は一人暮らしを止めて、またもとの家へ戻ることを決心する。
 
で、その部屋を去ることが決まった、数週間前だったと思うけど、そのころに付き合いがあった、霊感があるという怪しい人が、僕の部屋に遊びに来た。僕が、彼に、自分の生活があまりに安定しないので、相談したりしていたのである。で、彼も興味を持ち、僕の一人暮らしの部屋に来たのだった。
 
その霊感の彼、僕の部屋の前まで来て、部屋番号の403というのを見てこう言った
 
「林さん、この部屋は402だよね? 402は欠番で403でしょ? これまで402号室に住んだ人を見てきたけど、ロクなことなかったよ」
 
これはたしかにそうで、古いマンションのそこは402号室が無く、そのせいで僕の部屋は403だったのだ。僕はそれを聞いて、あっそうですか、って言ったが、とにかく、彼と一緒に部屋に入った。彼、しばらく部屋の真ん中でたたずんでじっとしていたが、やはりこういうのである
 
「この部屋はかなりやばいね。林さん、よくこんな部屋に1年も住んでたね」
 
僕は、そういう霊感的なことを、実は信じている方なので、真顔で、へえ、そうだったんですか、と答えたけど、特段にどうという実感もない。で、彼が、除霊してくれる、というので、じゃあ、お願いします、と言った。
 
彼、たしか、たっぷり一時間ぐらいかけて、部屋の真ん中で除霊の儀式をした。僕はそれをはたで見ていた。夜だった。彼、苦しそうな顔をして目をつむって、ぶつぶつ何かを唱えたりしていて、そのうち、額から汗をだらだら垂らしたり、涙を流したりした。
 
そうして、彼、ようやく除霊が終わったとのことで、僕に話かけた。たしか、彼は、こう言った
 
「ここねえ、背中から刃物で刺されて殺された女性と、やっぱり同じように殺された幼い子供を連れた女性の霊が憑いてたよ。もう、除霊したから大丈夫だけど、大変だったよ」
 
僕は、霊は信じているものの、自分では、霊を見たことも、身近に感じたこともないので、そうでしたか、それはありがとうございました、と言っただけで、一向にピンとは来なかった。ただ、きっと、そんなこともあるだろうな、と思った。
 
僕が最初にこの部屋に入ったとき、一発で気に入ってしまい、それでその日の夜に、あの美しい夢まで見させたのは、きっと、その殺された女性の霊だったんだろうと思った。きっと、僕を選んだのに違いない。それで一年後、霊感の彼が連れられて部屋に入って除霊して、きっと不幸な女たちは成仏したに違いない。
 
と、まあ、きわめて自分に都合のいいように、この出来事を解釈したわけだけど、あの三宿のボロマンションの403号室に住んだ、あの一年は、自分にとって異例に重要な時間だったのではないか、と思うようになってね。
 
そんなせいで、いま、神戸の六甲の坂の上のホテルで402号室に通されたのが、とても、いい偶然のように思えてね。なんとなく、気持ちよく眠れそうだよ。

(Facebook投稿より転載)

民生

神戸の中華街に「民生」という名前の老舗の廣東料理屋がある。僕はあの店が好きで大阪に住んでいたころ、神戸まで出向いて、よく通った。もう30年以上前の話で、もちろん震災前である。いまも思い出すあの庶民的な店内の風景。給仕はみな威勢のいい関西のおばちゃんで、いつもにぎやかだった。料理はまさに日本の庶民料理で、あれは東京でも、そして本土の中国でも食べられない、関西に独特な廣東料理だった。
 
民生定番の料理といえば、「レタス包み」と「イカの天ぷら」で、行くと必ず頼んでいた。レタス包みは、生のレタスに炒めた挽肉を乗せて巻いて食べるもので、素揚げした春雨の上に挽肉が乗って出てくる。きわめてそっけなく味付けしたパサパサの挽肉と、みずみずしいレタスの組み合わせが素晴らしかった。イカの天ぷらは、肉厚のイカに切れ目を入れて、ショウユに浸したのを素揚げして輪切りにしただけのもので、くるくると巻き上がるイカが見ていて楽しい。なんの変哲もない味だけど、まさに庶民の味で大好きだった。
 
あと、自分的にすごく感心した名人芸な料理もあった。ひとつは「かしわの炒りつけ」。これは、大ぶりに切った鶏のもも肉とピーマンとタマネギを薄いあんでくるんだ料理で、関西系広東料理の定番の、少量のショウユを加えたねっとりしたあんでまとめたもの。鶏肉のおいしさもだけど、このあんのくるみ方は絶妙だった。同じく酢豚も。こちらも、今度はブドウ色のもう少し濃い色のあんがきれいに材料の全体に薄く均等にくるまっていて、ほれぼれする出来だった。あんが皿の下にたまるようなことはなく、すべて材料にからんでいるのである。
 
味の方も、まったくに素朴で、くどさがなく、ナチュラルそのものだった。かしわ炒りつけは無理だったけど、ひところ、僕も家で民生の酢豚をまねて作っていた。あの色と粘度を出すために、甘酢に、ショウユと中国ショウユを入れて、高温の油で砂糖が飴状になるタイミングを見計らって、材料をくるむようにしていた。しかし、まあ、なかなかあのようにはいかないものだ。
 
実は、先のかしわ炒りつけは、毎回注文していたのだが、やがて、普通の出来になってしまい、それ以来、頼むのをやめてしまったりした。ああいう名人芸は、たぶん特定の料理人に結びついているらしく、その人がいなくなったり、シフトが変わったりすると、同じものは食べられないのだと思う。これは民生だけでなく、いろんな料理店で経験したことでもある。そして、なぜか、ある日突然、名人が登場してすばらしい出来の料理が出るようになった、ということはなく、年月が経つにつれ、必ず、その名人芸は失われる方向にしか行かない。思えば、不思議なものだ。やはり昔の人の名人芸というのはそうそう簡単には伝承しないものなのだろうか。
 
これら、素朴だけど、名人芸な料理を食って、サッポロビールの大瓶を飲んで、あの喧噪の中にいると、本当にいい気持ちだった。
 
その後、三年ほどで僕は関西から東京に戻り、この民生にも行くことはなくなった。そうこうしているうちに大震災が起こり、南京町はどうなっただろうか、と思ったが、確認することもなく月日が過ぎていった。それからだいぶ経ったあるとき、神戸へ出張があり、現地の知り合いと一緒に南京町の民生へ出かけた。少し小さくなったかな、とは思うものの、民生はたしかにあった。創業55年だそうでたいしたものだ。料理はどれもおいしかったが、昔の民生の風情はほとんどなくなっていた。
 
伝統の老舗の味として、レタス包みとイカの天ぷらのメニューは残っていて、どちらも味もルックスも当時のままだったが、それにしても、この二品と、他の料理とのバランスが崩れすぎていて、当の老舗の二品も、味気なく感じてしまった。やはり、お店全体の料理があのノリでできあがっていないと、ダメなんだなあ、と思った。ついでに言うと、料理だけでもダメで、あの店内の空間、給仕のおばちゃん、人々の様子、そんな時代の空気すべてと料理が、きれいにきちんと調和して、それであの魅力を作っていたんだろうなあ、と思う。やはり料理店というのは、その箱の全体が、一種の総合芸術なんだね。
 
むかし自分が足しげく通った気に入った料理店はそれほど多くは無いのだけど、その大半が、店舗はあるけれど時代が変わって、別のものになってしまった。自分は中華料理を作るのが趣味だけど、自分の料理全体がある一つの有機的な感じのもとに総合されているのが大切で、それは一代限りのもの。それでいいじゃないか。そんなことも、考える。

(Facebook投稿より転載)

まずい中華料理屋と男

これは自分が大阪に住んでいた三十数年前のことである。当時から中華料理の調理を趣味にしていた自分は、大阪界隈でもいろんな中華屋へ行ったが、そのうちのひとつのお店の話である。その店は、たぶん、自分がこれまで食べた中華料理の中でダントツにまずかったので、よく覚えているのである。さらに、まずいだけでなく、とても珍しいものを見たせいで、余計に覚えている。

おいしいと褒めるのだったら実名でもいいが、まずい、となると実名では営業妨害になるので、ここでは仮にNK飯店としておこう。名前ははっきり覚えている。それ以来、この店の自分の中での知名度は高く、NK飯店をまずい中華の代名詞としてしばらくは使っていた覚えがある。たとえばなんかまずいものを食った時「NK飯店ほどじゃないけどな」とか言ってみたり。

とても印象深いお店なので、もちろん、その後、ネットで大阪のNK飯店を何度も探してみた。平凡な名前なので何軒も出てくるのだが、いろいろ調べても、どうもすべて違うような気がするのである。僕の体験と一致しない。30年以上前の話なので、店が無くなってしまった、とするのが順当であろう。見つかったらぜひ再訪したいと思っているのだが。

そのNK飯店は、大阪市内ではあるけど、繁華街の中ではなく、なんだかむやみに広い国道みたいなところに面していた。周りにはあまり店はなく、そのNK飯店だけがそびえたっている風景を覚えている。というのは、すごく大きな店だったのだ。NK飯店とでかでかとした文字の入った、とても幅広の入り口を入ると、その一階部分は、ほぼすべて活魚を入れた生け簀で埋まっていた。すなわち海鮮系の店で、生け簀は大きなのから小さなのまで五つも六つもあったと思う。

珍しいものを見た、というのはここでのことで、いくらか問題発言かもしれないが、書いておこう。この生け簀だけの一階の右側はガラス張りの大きな部屋になっていて、そこには横長の長くて大きい俎板があり、その俎板のところに調理人の男が立っていた。調理人が活魚をさばくところがガラス越しに客に見えるようになっているのである。で、その彼を見て吃驚したのだが、自分は、いまだかつて、あんなに殺伐とした顔の人間を見たことがなく、なんと言うか、まるで水木しげるの妖怪話に描かれていそうな、独特に荒涼とした醜さがあって、あまりのことに思わず目が釘付けになった。

実は、この男をもう一回見たかったので、店を出るときもそれを覚えていてガラスばりの部屋の向こうを見たが、そのときは、もっとぜんぜん普通の人に替わっていた。

あの男は、この調理場で、二階の調理場の命令に応じて生け簀の魚介をすくって、それを調理場の巨大な俎板の上にあけ、これを生きたまま、絞めて殺して、ぶつ切りにして、皮を剥いて、さばいて、アルマイトのトレイに乗せてリフトに入れてボタンを押す仕事を来る日も来る日も繰り返していたのだと思う。ある種の人は、そんな仕事を繰り返すうちに、あんな風に殺伐とした外観になるのだろうか。思えば、類似の男性はごくたまに、マイナーな葬儀社の下働きの長いおじさんに見ることがある。

こんなことを書くと、今の世の中だと、職業差別と言われてしまいそうだが、でも、そういう厄介を抜きで見ると、まずその強烈なユニークさに驚く。中流以上の、特に富裕層の人々というのは、たいていどいつもこいつも同じような恰好と顔をしているのが普通で、そのバリエーションの乏しさに比べると、こちらは圧倒的な個性がある。そういう特殊な人を見ると、自分はなぜだかいつも言いようもなく、驚く。かつて、自分は返還前の香港へ何度も行って、そういうアジアのオヤジが集まる、ことさら汚い場所へよく出向いたが、それはそういうものに魅せられて惹かれて、その世界にどっぷりと浸かりに行っていたのである。なぜ、そういうものにそんなに強烈な感動があるのか、自分にはいまだによく分からない。

お店の話に戻るが、その一階の生け簀を抜けると、幅の広い階段があり、それを登って二階に行くと、かなり巨大なスペースにたくさんのテーブルが並んでいる。記憶では、そこはほぼ正方形で、差し渡し20メートルぐらいあってとても広く、その一辺はすべてカウンターになっていて、その向こうがそのまま広い厨房になっていた。すなわち巨大なオープンキッチンで、中ではたくさんの料理人が仕事をしていた。給仕はそのカウンター越しに料理を受け取って、客に運ぶのである。

初めて来る場所だと、だいたい僕は注文を間違えることが多い。ことさらに珍しいメニューを頼んでしまうことが多く、そういう料理は滅多に注文が来ない料理なので、だいたいこなれておらず、おいしくないものなのである。もちろん、高級店ではこの限りではないが、怪しげな店ほどその傾向が強い。その時も、僕はわりとマイナーな料理をたのんだ。料理が何皿も運ばれてきたが、どれも本当にまずかった。

特に今でも覚えているのが、鶏肉と野菜の醤油味のあんかけのようなものだったが、食べると、なんだかどろっとしたタレが泡立っていて、まるであんかけのあんに醤油と共に三ツ矢サイダーでも入れたんじゃないか、ってほど、泡立って、甘くて、なんだか洗剤みたいな味もして、激しくまずかった。他の料理もとにかくまずい。たしか焼き餃子だけはまあ、まともで、もっぱらそれを食べてビールかなんか飲んで、料理の多くは残してしまったと思う。

生け簀まであって、巨大な厨房に何十人も働く、巨大中国料理店が、なんであそこまでまずい料理を出すのか、まったく意味が分からなかった。そのまずさがあまりに印象的だったんで、後日、大阪の職場の同僚に、NK飯店がすごくまずかったんだけど、と言うと、それに賛同する人はおらず、ええ? NK飯店ゆうたら老舗やで、うまいはずやがなあ、とか言っている。どこで食ったの?と聞くので、何とかっていうとこの大通りに面した変なところにあって、と答えると、そんなのあったかなあ。そこ、僕の知ってるNK飯店と違うみたいやな、みたいに言うのである。

それで、今調べても、たしかに大阪で操業50年のNK飯店というのは出てくるが、僕の行ったのと違うみたいなのである。それっきり、行ってないし、それがどこにあったかも忘れてしまったので、再訪しようもない。そう考えると、ひょっとして、あの大通りに面した巨大店舗はなんかの幻だったんじゃなかろうか、と思ったりする。それにあの、一階の生け簀のところで僕が釘付けになったあの恐ろしく殺伐とした醜い男なんか、ほとんど妖怪のようだったし。

旨い店というのはだいたい食い物は覚えてはいるが、その店舗のことはあまり印象に残らなかったりして忘れてしまうものだが、かくのごとく、まずい店というのは末永く覚えているものなのである。