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副社長の自殺

サムソン電子の副社長が自殺したってね。僕と同じ歳の51だ。その遺書には、過重な社内プレッシャーについての言及が残っていたそうだ。しかし、なぜ、社会組織というのは、気付いて見ると右にも左にも前にも後ろにも逃げ場がないという風な錯覚を人に与えてしまうのだろう。一個の生物として自身は自由なはずなのに。

そんなこともあり、大真面目な趣味、というのは大事なんだろうね。社会組織生活とぜんぜん違うところに何かを持っているということ。もっとも、さいきん、そういうことがよく言われるわりにはそれほど助けになっているかどうかは、分からない。当の行き詰まりを打開してくれるわけではないので、意外と逃げ道にならなかったりもする。つまり、社会で逃げ道がなくなったら、趣味の世界に逃避できるかというとそうも行かない、ということだ。

なので、大真面目な趣味を持つ、というのは、一般に考えられているように、気晴らしや逃げ道、といった現実的なものと言うよりは、心の持ち方を徐々に変えてくれるものとして機能するんじゃないだろうか。つまり、人生は、枝分かれした一本の細い道を歩いているんじゃなくて、大洋に浮かんでどこぞの島を目指している、とイメージすることが大事だと思うんだが、趣味というのはそういう心持を育ててくれるような気がする。

twitter

twitterはたしかになかなかおもしろいことが分かったが、いろんな人のtweetを読んでいると、ときどき、よくお店の入り口に立ってる実物大の人型の立て看板みたいに見える幻が、自分の周りにぴょんぴょんと配置されているように感じるときがある。

言葉と時間

言葉と時間という2つのことは、永遠のテーマなんだな。冷酷な時間に近寄りすぎてしまった現代から、もう一度、豊かな言葉を取り戻すことが、21世紀的と信じよう。「速く軽く薄くはかなく」は、すべて基本は「時間」に関係してるんだな。まあ、どこかで、転換期が来て、もう一度「言葉」に戻る、とオレは踏んでるんだけど、実際には来ないかもな。

官僚を誤解してはいけない

物事を処理するとき、その「方法」にしか興味がない人、という話が出たが、いわゆる「官僚」の次のオレ流定義を思わせる。

”入力と出力を持つ箱において、入力に対し最適な出力を得る性能、常に性能に変化がない定常性、さらに、入力の種類によらず同等の性能が出せる適応性、の3つを満足する箱を「完全な官僚」という”

少し考えるとわかるけど、以上の定義を満足する完全な官僚というものがどういう性質の持ち主かと言うと、それは「常に元気で、明るく、活動的で極めてフレキシブルな人」なのである。ステレオタイプな、いわゆる、頭の固い退屈な理屈っぽい役人像と間違っても混同してはいけない。そんなわけで本当に官僚的なタイプの人と一緒に遊ぶと、実はとっても楽しい。

そして、彼ら官僚に欠けているのは、「産む苦しみ、生きる苦しみ」、コレである。というわけで、仏教には向かない。いや、一般に宗教には向かない。そして、芸術にも。

本質とは何か

かのホンダの経営者が製品の量と質の問題について、「どこに本質があるかを見る目が必要だ」と語ったそうだ。

さて、「本質」とは何か。こんな問いがあったとすると、それを哲学的に捉えるか、現実の分析結果からの帰結と捉えるか、という最初の選択にぶつかるんだが、僕は古いのでどうしても前者的発言になってしまう。で、答えると

”「あるもの」の「本質」とは、当のあるものをあらゆる角度から分析したときに、常にその結果を説明しうる「あるものの性質」を言う。”

となる。おそらくホンダの人の意味と違うところは一箇所だけ。「あらゆる角度から」というところ。彼の場合これが「ある角度から」になる。で、「量と質のどちらが本質か」の問題だったら、彼の場合、「製品の市場性」という角度から見た本質とは何か、ということになる。

本質の哲学的定義の方の、「あるもの」というところに「生命」を置くと、その「本質」がそもそも規定できるか、という大問題に発展する。たとえば、サルトルの有名な「実存は本質に先立つ」などの哲学的問題になる。

と、いうわけで、「あるもの」に「商品」を置いたときにも、その「商品」を、「物質」と見るか、「生き物」と見るかによって、その本質議論はまるっきり変わる可能性がある。前者を採用して物質だとすれば、科学的マーケティング手法になる。後者のように商品は生き物だということであれば、これは研ぎ澄まされた経営者のカンがモノを言うのかもしれない。

ちなみに、哲学的でない本質定義であれば、「あるもの」にたとえば「労働者」や「消費者」といった人間(生命)を入れても、まるで心配は要らない。なぜなら「ある角度」からしか見ないから。これが、「経営」である、あるいは「政治」も長い間そうだった。