上野の国立博物館へ行ったら、広重の有名な浮世絵の「雨の橋」がかかっていた。この絵はその昔、ゴッホが南仏のアルルにいたときに日本にあこがれて、それで油絵で模写している作品があって、そっちの方がかえって有名なぐらいかもしれない。しかし、実際に日本の原画の方を初めて見たのだけど、これは見事な絵だ。
水かさの増した広い川、そこにかかる橋、そこを渡る雨笠や合羽をかぶった人々などの遠景がさらりとスケッチされているが、そのスケッチをすべて終了した後に、今度はそれまでやっていたスケッチの造詣とは一切なんらの関係も無く、おそらく定規を使ってめったやたらに画面上に線を引きまくり、それを「雨」としている。
唖然とするほど奇抜なアイデアだと思った。
このやり方で描いた絵が、まあ、一応、視覚的に言って雨に見えてしまうせいで、見る者は、これが「雨」だと分かった次の瞬間にその方法の斬新さがマスクされて見えなくなり、いつも経験している雨を見る日常感覚に戻ってしまう。でも、ふだん僕らが雨の降っている風景を見たとき視覚的にこんな風に見えているかというと、これはもう全然違う。第一、雨粒はほぼ点であって、それが上から落ちてきて目の前を通り過ぎるわけで、それは止まった線ではなく点の運動なのである、言うまでも無いが。
というわけで、この広重の雨は、視覚を写し取ったものではなく、一種の「雨」という記号に近い感じである。もしそうであれば、記号ということは、すでにそれは「言葉」に近いとも言える。
たとえばこの「雨」という言葉と、「本物の雨」という現実の間には、いったい何が横たわっているのだろう。言葉と現実はたしかに別のものだ。もし、自分が「雨」という言葉を知らず、現実の雨を経験したことがないとして、それで生まれて初めて「雨」という現実に遭遇したらいったいそれをどう感じるだろうか。僕らは白痴のようになって雨を見るだろうし、水滴を受けてでくの坊のように濡れるだろう。「あ、雨だ」という言葉を発することができないとき、その現実の雨はどんな形で自分の心に刻まれるだろうか。
こういう疑問は、僕にとって、絵画というものをまともに見られるようになってから浮上したものだ。なぜなら画家は、言葉を使わずに対象を掴むことからその仕事を始めるからだ。自分から一切の言葉を追い出して、それで生の物質に相対する、ということを画家にならってやってみるといいのだが、実際、きわめて難しい。でも、ときどきそれが出来ると、生の物質はきわめてグロテスクなのがじかに感じられたりする。
そんなとき、「視覚」っていうのはいったい何なのだろう、とよく考える。
広重の雨が、記号であって、ひいては言葉だとすると、広重の絵というのはずいぶんと知的な絵だということになる。この絵を描くにあたって広重は、雨の振る川にかかる橋の遠景を実際に見ただろうが、彼は前述したような「生の物質に相対している」というような原始的感覚とは無縁な気分なのかもしれない。まるでコンピュータのように、視覚の結果を記号化して、再構成して、あの版画を生み出したのかもしれない。きわめて論理的な方法論に基づいて作り出したのかもしれない。
そう考えるとなんだか古典の日本らしくなくて、面白い。
しかし、僕は実はもう一つ自分にとって衝撃だった江戸時代の絵を知っている。それは解剖図の絵で、処刑された罪人を医学的目的のためにその場で解剖する様子を写した絵なのである。
さっき広重の雨の方法論の斬新さについて言ったが、こちらの解剖図の方はそれとぜんぜん逆で、僕にはまったくに生の物質の写生以外の何者でもない、死体を視覚的に「写す」ということを強いられた絵師が見る果てしなく続く悪夢のように感じられた。自分にはそれはそれはショックな絵の数々だったのである。それを見て、記号化、言葉への翻訳が不可能な人間が生の対象に相対したときの悪戦苦闘を目の当たりにして戦慄した。
いや、ここで西洋であれば、「遠近法」とか「陰影法」とかなんとかのカメラ的手法に逃げ込むことで容易にこの危険を回避できるのだが、この死体を写す江戸の無名の絵師にはそういう安全な逃げ場が無かったようなのだ。にもかかわらず、先の広重の雨のように、なんとかしてその見たこともない対象を「記号化」し、言葉に移そうともがいている。しかしながら、それにことごとく失敗している。それが出来上がった絵に見事に表れている。自分の知っているいろいろな記号を駆使して死体を記号化しようとしているが、それは常にミスマッチを起こしていて、まるでデコード不能な記号列のような混乱を示している。
ここで死体を写した絵師も、人や犬や鳥や山や木や川や花であれば容易に記号化して再構成するだろう。しかし、それらの記号を解剖される死体に応用しようとして失敗すると、その全体の様相が、ありえないようなグロテスクさを発揮するのだから、それはそれは不思議なことだ。
さて、広重の雨では、先の解剖図のようなミスマッチとグロテスクはどこにも見られない。この「雨の記号化」は広重がオリジナルかどうかは知らないが、周到に考えられた手法を応用した結果なはずだ。見ていると広重の鼻歌が聞こえてくるようだ。
しかし、きっと、この広重もいったん未知の対象に絵師として遭遇してしまったときは、解剖図の絵師ときっと同じ精神状態になるに違いない。そして、それを記号化できるようになるまで恐らく絵は残さないんじゃないだろうか。生の物質に遭遇してから、それを記号にするまで、広重の中ではいったい何が行われていたのだろう。知るよしも無いが、そこに最大の、そして恐らく最も大切な秘密が奥深く隠されているのだろうと思う。