ツレヅレグサ・ツー
            ッテナニ?

十一 十二 十三 十四


ラーメン
ショーペンハウエル
ハービー・ハンコック
生演奏の音
死んだ親父の夢
倫理の先生
ゴム動力の飛行機
成瀬巳喜男
選挙

沼津の魚
大相撲
フロイト
認知症のテレビ
ハンバーガー
電球のあかり
キンモクセイ
不思議だったこと
緩慢な自殺
自転車をこいでいて思ったこと
四川のトウガラシ
豚耳を煮る
人がたくさん
日の光とタオル

 

GO HOME

ラーメン

三茶にあんまり人気のない文吉っていう小さなラーメン屋があったんだけど、ラーメンを食う習慣の無い自分にとって、唯一のいきつけのラーメン屋だった。東京の屋台ラーメンをちょっとだけ丁寧にした、という感じの味で、大好きだった。でも、人気がないからつぶれてしまった。代わりも今のところ見つからない。すごく昔、学生だったころ、毎日飲んだくれては、それで最後に、駅前にいつも出してる、おじいちゃんの老舗屋台ラーメンへよく行って食ったもんだ。そんな思い出の味なのかな


ショーペンハウエル

ショーペンハウエルの薄い文庫を持ってバスに乗りながら読んでいたんだけど、改めて、この澄んでいて、ペシミスティックで、静かな、思考の雰囲気には圧倒される。ショーペンハウエルのペシミズムの後、ニーチェが、トルストイが、ベルグソンが、それぞれのやり方で彼を越えて進んだことを自分は知っているのだけど、それでも、この彼の独特の静けさの魅惑的なところは全く色褪せずに残っている。時代を経るにしたがって哲学的思考もたしかに進歩するのだけど、それを作っている人間たちの魂そのものが、昔と今で進歩している、とはあまり思えない。いつの時代を見ても、一級の哲学者は、やはり一級の芸術家として人を魅惑しながら語っているように見える。逆に、二流どころの哲学者の言うことを聞くと、思想上の正しさや新規性というものがたとえふんだんに現れていたりしても、その魂の魅惑的な部分に乏しく、舗装道路のように無味乾燥だったりする。それから、これは、そんな感じがする、というだけの感触だけど、一級の哲学者の言葉には、いわゆるエロスが濃厚に漂っているように感じる。ショーペンハウエルはエロスを積極的に評価しなかったけれど、逆にこのエロスが持っている一時的な効能を讃えた。すなわち、性欲に悩まされ、乱雑で、苦悩に満ちた、人間のこの現世の意識から、一瞬間だけでも完全に開放されることとしてである。そして、彼は、深夜、独りの部屋で、静かに、音楽を演奏したそうなのだ。ニーチェは、この情景を「これもまた、奇妙な聖者」だ、と言ったけど、この苦悩とその昇華のはざまにある独特のエロスは、胸を打つね。いったい、どういう人だったのだろう、と思う。


ハービー・ハンコック

ジャズピアノの大御所、ハービー・ハンコックを生で見た。凄かった。あれぐらいの人になっちゃうと、もう、魂で演奏してるね。ジャズのアドリブには、和声に合わせて弾くコード的手法と、旋律優先で弾くモード的手法と、モードをさらに推し進めたフリーフォームがあって、と、あれこれ方法論の進化があるんだけど、そのもうひとつ先の世界が展開されてるように感じた。誤解を覚悟で非常に乱暴に言うと、彼のソロは、ときどき、バックで演奏している曲と全然別の曲のソロを弾いているように聞こえたりする。もちろん、そんな演奏をしているせいで頻繁にバックの音から外れた音を出すんだけど、彼の演奏の魂に全く一分の迷いもないせいで、バンドの演奏の全体が、予想外に進化し続ける何かの塊みたいにステージ上でグニャグニャ形を変えていて、そのグニャグニャ波動が聞き手にドーッと押し寄せてくるんだよね。驚異的だった、単に音楽、というだけでなく、すべてについてすごく勉強になった


生演奏の音

この前、小さなライブバーへ演奏しに行ったとき、人の演奏を客席から見ていて思ったんだけど、当たり前だけど、これって演奏の生音そのものだよね。最近は、ほとんどのライブ設備が、すべての楽器をマイクで録ってミキシングして拡音して出しているので、結局、客は加工された音を聞いているんだけど、こんな小さなクラブでは、ドラムの生音、ギターアンプから出る生音、ベースの生音、ボーカルアンプの生音、とすべて生音を聞いているわけで、考えてみると贅沢だね。オーディオ関係の人たちの間で、よく、この、オーディオ設備から出てくる音と、実際の演奏の生音、というものの相違うんぬんが議論されているけど、やっぱりこの辺については、実際に演奏してる人の方が敏感かもね。いや、違うか・・ というか、オーディオ設備のスピーカーから出る音って、結局は生音とは別物なのは明らかじゃないかな。それにだいたい、ライブバーで生音聞いてると、すごく生々しくて、音がいいとは言い難いものがある。それなのに、オーディオスピーカーから生音そのものみたいな音が出て来ると驚いたりする。なんか、変だね。結局、オーディオ設備、というのも、生演奏と同じような、ひとつの独立した作品なのだと思う。そして、作品だと考えてしまえば、良し悪しや、好き嫌いがあって当然ということになる。結局、人が関わっているもの、というのは、何でもかんでもひとつの「作品」なんだよ、きっと。機械的に割り切れるものなんてひとつも無いんだ。


死んだ親父の夢

昨夜、夢で、巨大な温泉旅館へ行った。チェックアウトのとき自分の部屋がわからなくなって廊下をうろうろしていると、二十年近く前に死んだ親父が浴衣姿で僕の横を通りかかった。僕は親父の姿を目のはじでとらえて、何のこともなくやり過ごした。ちょうど、僕がまだ子供で一緒に住んでいたとき、家の中ですれ違うのとまったく同じ感じである。これって、死んだ親父の魂が今ではすっかり僕の魂と同化してしまった、ということなのかな。親父が死んだばかりのとき、僕は、僕に染み付いている親父の人生観の影響と対決しようとして、「父と子のエッセイバトル」なんて文章を企画して、書いたことがあったっけ。親父が残したエッセイに対して、僕が何だかんだと批判する、という内容だった。この企画、途中でやめてしまったが、死んでいなくなったのをいいことに放置して忘れ去ってしまった、というのでは無い気がする。あれから流れた長い年月の中で、僕なりに人生を送って、その中で親父の人生観とはいろんな形であれこれ対決して、そうしているうちに、結局は吸収して同化してしまったのだと思う。それで、むかし抱いていた敵対心は、いつしか感謝の心に変わってしまった。

お盆が終わって、魂が静かに帰っていった、ということなのかな

それにしても、その夢の中の旅館の温泉がスゴかった。秘蔵のお湯がいくつも迷路みたいになってる。畳の部屋の真ん中に掘りごたつのように穴が開いててお湯が入ってるやつ、風呂部屋だと思って木の扉をあけると汲み取り便所ってやつ。あと、露天風呂の木の風呂の内壁にびっしりと海ぶどう(沖縄名産)みたいなのがついてて、指でひとつ取ってつぶしたら中に小さな大黒虫みたいのが入ってた。


倫理の先生

昔、高校のとき、休み明けの新学期の最初の倫理の授業で、けっこう年配の倫理の先生が、休み前は半分以上白髪だったのが、とつぜん黒髪になって現れた。それで、授業のはじめに照れ臭そうに、染めてみたんですよ、と言った。僕は、それを聞いて、え? なんで倫理の先生が髪の毛なんて染めるの? なんで思想よりカッコを気にするの? と思ったものである。今考えると、信じられないほどウブなヤツである。授業が終わって、たしか友だちに、なんで倫理の先生なのに髪染めるんだろう、とか真顔で言ったら、友達に、そんなの関係ないじゃん、と呆れ顔で言われたのを今でも覚えている。友だちにまで言うとは、これまた信じられない無邪気なアホなヤツである。

それにしても、今では、僕は、思想にはカッコが大事だ、とはっきり思っている。もっとも髪染めの話とはちょっと違うが。それにしても、「理論」と「見た目」、と対照させると、どう考えても見た目の方が大事だ。理論は簡単にいくらでも嘘がつけるが、見た目は結局は嘘をつかないからね。インターネットなんかのぞくと、大量の理論が展開されているけど、ほとんど見た目で判断して差し支えなさそう。一番、端的には、文体だね。それで、ほとんどのいいものと悪いものの見分けがつくはず。もっとも、見た目ばかりで判断するのも時々危ないけどね、すなわち、恋は盲目(笑) というわけで、結局はバランスか・・


ゴム動力の飛行機

小学生のとき、ゴム動力でプロペラが回る、竹ひごと紙でできた飛行機を作るのが流行ったことがあった。毎日曜日、友だち4,5人で、各自作った飛行機を持ち寄って多摩川の川辺へ行き、土手の上からいっせいに飛ばして誰が遠くまで飛ぶか競う。その競争では、いつでも僕と、二宮というやつがトップ争いだった。他のやつらのは、途中で失速しちゃったり、右や左にカーブしっちゃったり、遠くまで行かないのだけど、僕と二宮君のは、まっすぐにどこまでも飛んで行き、川まで届くか、というほどよく飛んだ。

この飛行機、お店でいろんな種類のが売っていて、細長くてぺしゃんこな紙袋に入って安値で買えた。袋の中には、胴体の心棒にあたる6、7mm角ぐらいの角材と、翼を作るための竹ひご、竹ひごをつなぐためのニューム管という小さなアルミのパイプ、プラスティックのプロペラ、動力の長いゴムひも、翼に貼る薄紙などが入っていて、実物大の大きな作り方説明図に従って作る。翼をきれいに作るために、蒸気を使って竹ひごを辛抱強くゆっくり曲げたり、最後に薄紙をきれいにぴんと伸ばして貼ったり、けっこうなスキルが必要だった。

あるとき、いつものみんなで、いつもどうやって作っているか、自分の方法を披露し合ったことがあった。僕は、実物大の設計図にぴったり合うように、翼の微妙なカーブ、大きさから、胴体に対する角度まで、正確に設計図どおりに作っていた。かなりの忍耐が必要なのだが、僕は当時から器用だったのである。それで、僕のライバルの二宮君であるが、やつはなんと設計図はハナからまったく見ない、というのである。竹ひごの長さなど気にも留めず、袋に入ったまま、そのまま使って、気のおもむくまま作っちゃうという。これには、かなりびっくりした。で、他のやつらは、というと、皆、設計図は見るのだけど、面倒くさかったり、不器用だったり、中途半端に適当に作っていた。

結局、設計図どおりの僕と、自己流で作る二宮君の対決と相成っていたわけである。そのとき、適当に作って、それであんなに飛ぶなんてすごい勘をしてるんだな、と、二宮君の天性に脱帽したものである。僕は、いかにも昔の日本の技術者風な生真面目さが、結果を出していたというわけだ。それで思うのだけど、僕の天性って、もうこの小学生のころから決まっていたんだね。まずは、規則に正しく従うことから事を始めてる。学生のころは秀才、大人になってからは自分は運命論者だ、と言っていた親父と、楽天家のお袋の間にできた子供そのものだ(笑)

ところで、二宮君は、実は、大工の息子だったのである。工作に対する天性の勘はやはり親譲りだったのだろうね。


成瀬巳喜男

ちょっと前にも書いたけど、成瀬巳喜男監督の「浮雲」にはまりっぱなしです、もう十回近く見た。愛人との腐れ縁の変遷をひたすら描いただけ、ともいえるけど、僕にはどうしてもこれが純愛ものに見える。病気かもしれない(あるいは歳)。女にとっての純愛と、男にとっての純愛の性質がそもそも食い違っているせいで起こる悲喜劇、という感じ。たぶん、これは原作を読むともっと強く描かれているのだろうね。でも、映画には、映画にしかないものが現れていて、以上の純愛理屈の上で、人間の心が時間に沿ってどういう風に振舞うかが、それがそのままスクリーンに見えている。主演の二人は脚本を見せられて、最初は辞退したそうだ。高峰秀子は、こんな濃厚な恋愛ものは演ったことがないので、と言い、森雅之は、こんな浮気ばかりしている軽い男の役はいやだ、と言ったそう。結局、成瀬巳喜男に強くおされて引き受けたらしい。その辺に秘密があるのかね、あの呆然とするほどすばらしい演技。いくつかのカット、特に二人だけの会話シーンは、僕としては、貴重な宝石として永久保存しておきたい。そこまで、気に入った。成瀬巳喜男ありがとう!


選挙

選挙へ行ってきた。いまだに選挙の意義はあまりわからず、いわば義理で。社会人として日本で生活していることに対する義理、といったていどである。46にもなってこの調子なのだから、たぶん一生わからないままだろうな。こういう人間は、逆に選挙へ行かないほうが積極的な意思の実践に近いものになるだろうね。というわけで、変な話だけど、選挙へ行くと一抹の良心の呵責を感じる。


人が持っている玉の数って、実に人それぞれで、たくさん持っている人もいれば、とても少ない人もいる。それで、みな、あげたり、もらったりして生きている。多い人が人にあげるのは、まあ、もとよりたくさん持っているのだからいいとして、もらう方にコツがありそうだね。素直にもらえる、というのは一種すごい才能だと思う。そうで無い人は、もらわないとやって行けないのに、もらうのに四苦八苦する。もらい方を知っている人は、すんなり、きれいに受け取って、すくすく育って行く。別に、自分の回りで、誰が、というわけじゃないんだけど、そんな風に思った。


沼津の魚

沼津の人に地元の居酒屋へ連れていってもらった。刺盛り小を注文したら、東京の大より大きくて、味は高級料亭級だった。漁港で名高い沼津の魚は旨いと聞いていたが、本当にびっくりするほど旨かった。それで、翌日の昼には、やはり地元の天丼屋へ連れていってもらった。この天丼も絶品。日本の地方って、どこへ行っても地元飯が旨くて感心するね。


大相撲

生まれて初めて相撲を見に行った、とても面白かった。親父が相撲好きで、物心付いたときには、場所になると、NHKの相撲中継を大音量で見聞きしていたせいか、ところどころホントにデジャブだった。特に、力士の呼出のあと、力士が登場して、そのあと行司が中央で何か言うときの、あのイントネーションが耳に残っていたらしく、何度聞いても不思議な感じだった。東斜めと、西斜めに向かって、声が、ツノのように飛び出している、そんなイメージが見えるようだった、なんでだろう


フロイト

彼の講演の中のことばに、自我というのは、外の世界の「現実」と、「超自我」という心の中のお目付け役と、「エス」という本能から出てくる欲望の、互いに相容れない、それぞれ自分のことしか考えない、3者に取り囲まれ、誤魔化し誤魔化ししながら、これら3者の間を取り持つことにいつも汲々としている、という記述があるけど、読むたびにため息がでるね。フロイトは、そのあと「生きて行くのは容易なことじゃない、と人はしばしば嘆息をもらしますが、致しかたのないことです」と言っているけど、本当にその通りだ。

そういえば、昔、知り合いの奴に、おまえは北方性憂鬱ヤロウだと言われたことがあったっけ。そう、こんなフロイトみたいな、北方的な憂鬱に攻められると、無邪気な南国へ逃げ出したくなるね。たとえばプラトンを見てみると、ソクラテス譲りの厳しい知性主義なくせして、なんと南国的無邪気さと、気楽さと、楽園的な雰囲気をその心に持っていることか、と思う。ニーチェも、さっきのフロイト的牢獄と真っ向から戦って、ついに破壊して、それで発狂する直前は、ずいぶんと南国的な光に溢れかえっていたね。まあ、それに憧れるんだが、そんな風に感じるってことは、オレにはやっぱり北方性憂鬱の気があるってことか。しかしながら、血統でいうと日本は南国だからな、きっと南国へ里帰りできると信じようか。

そういえば、オレを北方性憂鬱だと言ったあいつ、ただのファミレスみたいなちゃちな店で飲んでて、それで、壁を指差して「この壁一面がボッティチェリの絵だったら、オレは毎日ここに来るぞ!」とわけの分からないこと言ってたっけ(笑) そんなこと言ってるやつが、感動癖のありそうな、無精ひげを生やした大食漢で大柄の男なんじゃなくて、カマキリみたいにひょろひょろしたインテリっぽいルックスだ、って言うんだから、ホント面白い。やつ、どうしてるだろ?


認知症のテレビ

テレビをふだん見ない自分が、昨日たまたまNHKでやっていた「認知症(痴呆のこと)とどう向き合うか」とかいう番組を見てみた。それが、なんと、3時間番組なのには本当に驚いた。で、冒頭の5分を見ただけでギブアップで、そのまま見ていられなかったよ。49歳で認知症と診断された55歳のおじさんが、画面いっぱいに大写しになって、家族についてどう思いますか、みたいな質問されて、「いつも迷惑ばかりかけて・・」と言って絶句して、泣き出す画面では、こちらも絶句して、どうにもならない。

どこを探しても嘘はない、そのものでしょう。でも、「嘘が無い」という嘘がある。どうしても、僕はああいうものを見るとそう感じてしまう。僕はどうしてもドキュメンタリーというものを信用できない。思うに、「信用する」というのは「理論」とは何の関係もない、これはただの心情だと思う。人が何かを信用する、という行為、あるいは気持は、いわゆる科学的な態度とはほとんど関係ないと思う。

それにしても、あの認知症のおじさんが画面いっぱいで泣いている光景は、本当に悲しい。やりきれないほど悲しい。そう思うと、画面いっぱいで何のために泣いているかというと、きっと、それを見ている、たくさんの不幸な人たちのために泣いているんだろう、とも思えてくる。でも、「演出」は? なぜ、画面いっぱいに撮るんだろう? 結局、「事実をありのまま」という言葉の嘘が見え透いていて、どうにもならない


ハンバーガー

むかし、マクドナルドのハンバーガーを、ピクルスを芯にして回りからまんべんなく食べてゆき、最後にピクルス一枚分の大きさになったミニハンバーガーを、一呼吸おいたのち、いつくしむように食べるやつがいた。たかがマックのハンバーガーでも感謝の心を忘れないやつだった


電球のあかり

昨晩、白熱電球だけの照明の、暗めの、とあるお店で独りでお酒を飲んでいたとき、なにかの事情で店内の電球の明るさが不安定になって、店内がいっせいに僅かに暗くなったり明るくなったりしたときがあった。これが、なぜか、すごいデジャブを惹き起こし、とたんに一種のリラックス感に包まれる感じがして驚いた。むかーし、電源事情が悪かったころの何かの思い出なのかな。自然界の、人工じゃないリズムを使って、照明の明るさにゆらぎを持たせるような、そんな機械を作ってみようかな


キンモクセイ

今朝、自転車乗っていたら、どこからともなくキンモクセイの香り、いいねえ。でも、このキンモクセイの香りが、トイレの臭いでイヤという人もいるんだなあ。トイレの消臭剤のせいなんだけどね。願わくば、トイレ系の消臭剤には香りを使わないで消臭だけにしてもらいたいな、においの会社のみなさん。それにしても、いつぞやのパリでは、浮浪者の小便が原因の地下鉄の悪臭対策のために、大量の香水をまいたというのだから、さすがフランスというか、まったく呆れる。そういえば、この前、家で風呂に入ったとき、浴槽に、ある入浴剤を入れたんだけど、湯につかったとたんに「真空管工作」がフラッシュバックしてビックリした。どうやら、真空管工作を始めたばかりで文字通り夢中になっていたときに使っていた入浴剤だったらしい。それにしても、ただの「香り」が、なんで「真空管工作」なんていう、言葉でしか説明できない経験の塊みたいなものを、まるで「もの」みたいに呼び起こすんだろう。人間の頭って変だね


不思議だったこと

不思議に思ったことがあった

ふだんとまったく違う単発の仕事で、5、60人が朝一で召集され、大部屋に入ったのだけど、その中に、なんかどこかで会って話したことのあると思われる人が2人いた。向こうも、ちょっと離れたところから僕を何となく見ている。でも、ちらちらとずいぶん見たのだが、どうも僕が思っている人の顔に見えない、なんか違う顔をしてる。それで、そのまま仕事の本題に入り、1時間ほど同じ部屋にいて、仕事中もときどきその2人をちらちらと見たんだけど、それが、見るたびにその顔が変わっていって、結局、1時間たった後では、完全に僕の知っている人の顔になっていたのである。なーんだ、あの人とあの人じゃん、って感じである。しかし、なんであんなに顔が変わるんだろう。最初と最後で全然別の顔に見えた。仕事中、一言もしゃべることもなく離れたところにいたんだけど、僕の意識がはっきりしてくるせいなんだろうか、それとも先方が僕を見るときの表情が変わるんだろうか。何かすごく不思議だった。

その2人に最後に会ったのは1年以上前だったと思う。人間と人間の距離っていうのは、場所の違いと時間の経過に加えてもうひとつ、心理的時間あるいは心理的距離というのがあるんだろうね。あの2人は、僕との心理的距離がけっこう遠い人たちだったんだね。でも、同じ空間を共有しているうちに、距離が埋められて、その人がその人に見えてくる。

そうしてみると、例えば、何年も会ってない友人にばったりと偶然顔を合わせたりして「おっ! おまえ どうしたんだよ、こんなとこで!」とかいうことがたまにあるけど、そういう友人とは、実際に長年会っていなくても、心理的距離はずっと近いままだったんだね、きっと。本当の心ってのは、現実の時間の経過とはまったく関係なく、時間によって減衰する、ということはまったく無いんだね。そういう友人が多くいる、ってのは幸せなことだね。


緩慢な自殺

古くからの友人に、毎日遅くまでけっこうな量の酒を飲み、セブンスターをずいぶんと吸って、それで朝も早くから仕事に出かけて、という不健康な生活を送っているやつがいる。そいつが、いつだったか、自分の度を過ぎた酒と煙草について評するに、緩慢な自殺だよ、などと言っていたっけ。どこかの誰かが言ったセリフをそのまま言ったんだろうけど、なるほど緩慢な自殺か・・・ 

ショーペンハウエルがこんなことを言っている。「知人の自殺の報を受け取ったとき、一体誰がそれを悪しざまに言うだろうか。むしろ、実際には、心からの同情と共感を覚えるのが一般ではないか」と。だから、自殺を悪だと決め付ける言葉は間違っている、というのである。これは、本当にその通りだ。

じゃあ「緩慢な自殺」は? なんか、この文句からは「生きるということは苦しみだ」という感触が漂うね、僕には。それで、そういう香りを持っている人を、僕はたいがい安心して信じている気がする。逆に、ただもう無邪気に前向きに生きていたり、やたらと人生を謳歌していたり、というのは、あまり信じる気になれなかったりする

自分自身はペシミスティックな人間ではない、と思っているのだけど、生きることの肯定って、やっぱり苦しみと懐疑と抱き合わせじゃないと、どうもね、信じられないんだな


自転車をこいでいて思ったこと

昨日の昼前ぐらいに、世田谷の緑道を自転車でのんびり走っていた。道はとても細くて、両脇に草花や木々が茂っている。季節は秋、道はどこまでも続いていて、気持のいい陽気の中をゆっくり走っていると、時間が無限にあるような気がして妙だった。時間が無限にあるということは、もう、「終わり」も「始まり」も無くなってしまって、この時間がいつまで続くか、と言うこと自体が無くなっているので、生きていても死んでいてもどっちでも同じ、ということなんだなあ、と感じた。たとえば、この場で死んでしまっても、なんの悔いも残らない。死ぬのが怖い、ということ自体が無くなっちゃってるんだね

そうしてみると、死ぬのが怖い、というのと、その裏返しの、とにかく生きたい、という感覚というのは、「時間」というものがあればこそなんだろうね。で、時間というものだけど、昼間の緑道を自転車で走ってる、なんていう、こんな些細なことでどこかに無くなってしまうことがあるのが驚きだ

ところで、恋愛の真っ只中の、そのまた真っ只中にいるときも、そんな、時間の消失が起きるけど、あれは、今度は欲望の充足の極地だよね。先の緑道散歩とは正反対の状態に思える。「欲望」というのは、「時間」が姿を変えたものだと思うんだけど。欲望というのは、欲が起こって、それを充足させる行動をとって、そして充足し満足する、という連鎖のことを言うのだから、「時間」というのは、まあ、ついでに必要になって現れるわけだ。時間の経過が無ければ、上記の連鎖は起こりようが無いからね

理科系の人は、ここで、人間と無関係に流れている物理的時間があるだろう、と反論したくなるはずだけど(自分が理科系だからよくわかる)、それは錯覚だと思う。錯覚という言葉が気に入らなかったら、科学に対するロマンチシズムの産物だと言ってもいい。例えば宇宙は人間と無関係に動き続けているように見えるけど、ああいう、惑星が運行したり、ぶつかったり、爆発したり、なにやらっていうのが、時間の経過にしたがって起こっている、という風に人間が見ている、というだけさ。この感覚は説明が難しいけど、別に自分は観念論でこう言っているわけじゃない

ま、哲学はいいか。ちょっと戻って、欲望自体が無くなってしまうことと、強烈な欲望が完全に充足してしまうこととは、同じ作用を及ぼすんだね。すなわち、そのとたんに時間が無くなっちゃう。時間が無くなったら、その時点ですべては終わってしまうはずなんだけど、しばらくたつと、こうして、また時間が戻ってきて、流れ始めて、それで、こんな風に取り留めなく文章を書いたり、当の恋人と喧嘩したりしてる(笑) ここまできて、ああ、人間ってのは因果だ、と嘆くのか、この理不尽な人生の全体を感謝して喜ぶのかは、微妙なところだね。自分はどっちだろう?

かようなことを思いながら自転車をこいでいた。しかし、もういい歳の社会人が仕事をさぼって昼真っから緑道をふらふらしてるってのも、どうだか(ホントはサボってはいない、仕事場の移動に自転車を使っただけ 笑) 

しかし今思いついたけど、緑道の植物たちが、揮発性の、なにか特殊な化学物質を出していたのかもしれなくて、それを長時間吸い込んでいたせいで、あんな心理状態になったのかもしれないね


四川のトウガラシ

自家製ラー油を作るために、原材料の朝天辣椒という四川産の干しトウガラシを買いに、中国食品販売店の知音マートへ行ってきた。朝天辣椒は大きくて丸くて、日本の鷹の爪の4,5倍の大きさの代物で、これでラー油を自分で作れば、四川で使われているものとほぼ同じものができる。この自家製ラー油は、四川料理の冷菜などには必須アイテムなのである。

さて、知音マートは店員もなにもかもすべて中国の店である。トウガラシのある棚へ行ってみると、どれもこれもすべて日本の鷹の爪と同じ小さくて細長いのしかない。なんだ、と思って袋を手にとって見ると、なんと袋に「朝天辣椒」とでかでかと印刷されているではないか! なぜ? なぜなんだー! どう考えてもこれは表示の方がおかしい。たしか半年ほど前までは、同じトウガラシが「干辣椒」(干しトウガラシ)と印刷されて売っていたはず。オレは覚えているぞ!

理由は分かっている。ここ最近の、本場の陳麻婆豆腐や汁なし担々麺の知名度の上昇に伴い、料理雑誌などで、この「朝天辣椒」が本場の味と香りの決め手とか言ってやたらと紹介されるようになった。これは、ぜったい、これを見た中国人が「さいきんのニッポン人、朝天辣椒がとても好きアルヨ、ポコペン」とかなんとかいって本国で宣伝をしたために、今まで輸出していたやつの名前だけを朝天辣椒に付け替えたのだ、間違いない!

今に始まったことでは無いが、僕は、中国料理の壮大さに最大級の賛辞を惜しむものではなく、中国的なものへの憧憬と、その無尽蔵のエネルギーを讃える者であるが、はっきり言って、当の中国人はまったく信用できない。本当に懇意になった中国人は信じるが、それ以外の他人の中国人は、まるっきり信じる気になれないのである。もっとも、だからと言って嫌ってはいない、むしろ信じられないが故に好きなぐらいである。まあ、中国というのは、とにかく面白い国だ。感心する。よくも、まあ、次から次へと色々やらかしてくれるものである

えー、というわけで、ホンモノの朝天辣椒は、さいきん三茶に新しく出来た、「日本人が経営し、仕入れをしている」中華食材店へ行って買って来ることにする。あそこなら間違いない

そんで、ラー油を作って、それで、本場四川省成都の担々麺を作るのだ! この、シンプルな汁なしの麺は、今でも日本では供する店が少なく、めったに食べられない。だから自分で作るのだ。これがさ、「麻」と「辣」をしっかり効かせて作ると絶品なんですよ! こんな美味な麺が食えるのも、中国人の発明がゆえだ。中国万歳!!!


豚耳を煮る

この前、会社帰りに、肉のハナマサで形のまんまの豚の耳を3枚買って帰り、家で、解凍して、1時間下ゆでして、大量の香辛料とともにさらに1時間煮込み、取り出してゴマ油を塗って、冷まして冷蔵庫へ入れる、という作業をした。豚耳の処理ってのは臭くてね、まあ、なんだか、男一人の部屋で、独り静かに物書きなどしながら、豚の耳を煮て、臭いなあ、と思いながらもときどき様子など見て過ごしていると、なんとはなしに、もののあわれを感じるね (笑)


人がたくさん

渋谷駅なんかを降りて、乗り換えの人たちと一緒に歩いてると、ああ、本当に人間ってたくさんいるんだなあ、みんな乗り換え駅へ向かって無表情でまっしぐらに歩いてる、ほんと厄介なほどたくさんいるや、などと、自分も一員としてやりきれなくなるときがある

一方、今日の昼、三軒茶屋で大道芸祭りってのをやってて、いつもはただの通り道で通り過ぎてゆく通りのいっかくで、大勢の人たちが真ん中の空間を輪になって取り囲み、大道芸やってるのに出くわした。みんな芸人の方をいっせいに向いて、期待した表情。こちらは、通勤駅のときとちがって、ああ、人間がたくさんいて、いいなあ、楽しそうだなあ、と思って、ずいぶんと、同じたくさんの人間なのに、見るときの気持が違っていて変な気がした

そういえば、この前の選挙のときも、大勢の人間が演説カーの回りを取り巻き、いっせいにシュプレヒコールしてた、あの光景も、また違った感じだった。このときは、完璧に部外者としてたくさんの人を見るって気楽でいいなあ、などと思ったっけ


日の光とタオル

うちのベランダは東向きで、4階で遮蔽物がないので、朝日が直接差し込んでくる。それで、たいがい、バスタオルを洗濯ばさみにはさんで干してあって、毎朝シャワーを浴びるとき、そのタオルを使うんだけど、晴れた日のタオルって独特のいい香りがあるね。それに対して、運悪く、夜しとしとと雨など降ってしまうと、タオルが臭くなってしまう。直射日光に当たったのは、すがすがしい緑の香りがして、逆に、雨のときは、なんかしらないけど蛙の臭いがする。なんでだろうね、何かの菌のせい?