ツレヅレグサ・ツー
            ッテナニ?

十一 十二 十三 十四


昼の友達
干しガキ
シンガポール
変身
犬も食わないまんじゅう
カルフールのパン
不動産の社長のこと
おみくじ
年が明けて
名のないモノたち
とても若いプレイヤー
咸魚
おじちゃんとうまいもの
ばあちゃんと置物
じいちゃんの鼻歌
親子丼
バード
オーノー
蜘蛛
木でできたスピーカー
世の中カネか
東海道四谷怪談にちなんで
日本ギライ
風邪を引かない体なこと

 

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昼の友達

この前シンガポールへ行ったとき、日曜の昼に街を散歩していのだけど、街中のカフェで、男だけ三人ぐらいでお茶を飲みながら話している風景をあちこちで見た。いかにも日曜の昼下がりっぽく、とてもリラックスした感じでしゃべっているので、あれは間違いなく友達同士だと思う。思い起こしてみると、これはなにもシンガポールだけではなく、いろんな国でそういう光景を見るような気がする。ひるがえって自分について思ってみると、昼に会っておしゃべりする友達はほとんど皆無で、ほとんどが夜の友達だ。昼にしらふでしゃべっているのは例外なく仕事の同僚である。自分はそうそう無口な方ではないと思うけど、もう今じゃあ、酒でも飲まない限りしゃべらないな。自分の考えたことや、感じたことを相手に伝えるためにその前提を説明するのが面倒くさくてかなわない、と思うようになっている気がする。

どうでもいいことだけど、男同士でのんびりしゃべっている様子がちょっとうらやましかったので。

 

干しガキ

奥さんの実家へいったとき、干し柿をもらった。多摩の田舎で手作りしたほんものの良品である。思えば、むかし、実家にいたころ、鳥取の田舎から毎年のように干し柿が送られてきていた。自分は柿があまり好きでないので、あまりありがたくなかったのだけど、まあ時々はつまんでいた。今、改めて食べてみると、やはり、うまい、と即座に反応するようなものじゃなくて、しみじみした趣があるね。干し柿をひとつ焼き物の皿に乗せて日本茶を淹れて、なんていうささやかな贅沢をしたくなる感じ。

一方、シンガポールの中国食品売り場をうろついていたら、ズタ袋いっぱいの干し牡蛎が売っていた。それを見て、どうでもいいけど日本で干しガキといえば柿だなあ、と思ったもので。日本では、この干し牡蛎なるもの、中華料理屋でもあまり見ないが、香港など中国ではよく食べる。戻して、大量のワケギとショウガと共に牡蛎ソースで土鍋焼きにしたやつが旨くてね。ちょうどガムみたいな食感で、噛めば噛むほど味があるんだな。ツルっとのど越しの生牡蛎もいいけど、干しもやっぱり旨い。

以上「カキ」にちなんで、でした(笑)

 

シンガポール

シンガポールにしばらく行っていた。実は、規律で縛り付けて作った人工的な国だなんて勝手に思って敬遠していたのだけど、これは自分の悪い癖だな。確かに何かというと規律と罰則だらけなんだけど、住んでいる人たちの心そのものには法律はまったく踏み込んでいないじゃないか。しばらくあちこちをうろうろしてそれがよく感じられた。これは、当たり前だろうか。いやいや、さいきんそうとも言えない気がする。国は個人の心まで縛れない、と言いはするけど、長い時間かけて飼いならすことはできるわけで、こちらの方は容易に振り落とせるものじゃない。規律というのは実は簡単に個人の心の自由の力に変えられるものだけど、規律のない自由な状態で心の自由を保つのは思った以上に難しい。さいきん、東京、という自由な都市に住んでいて、つくづくそう思うよ。やっぱりたまには海外に行くもんだ、ホント

 

変身

ちょっと前に、例によって家を出る前になんか本はないかと本棚をあさって、まあいいや、と持って出たのが、薄っぺらい岩波のカフカの「変身」だった。変身はすでに昔に読んでいたけど、文庫にはもう一編「断食芸人」というのが収録されていて、これは読んだことがなかったので、持って出たのだった。さっそく断食芸人を読んだのだけど、ひさしぶりのカフカも面白いなあと思って読んだ。短かったのですぐに読み終わってしまい、では、まあ、というわけで変身の方を再読してみた。

なんと、こちらは夢中になって読んでしまい、二日分の電車の中で最後まで読んだのだけど、この小説にはびっくりした。カフカを夢中になって読んでいたのは、たしか20年近く前のことだったと思うのだけど、やはり歳を取ってから読むと変わるものだね。端的に感想を言うと、これほど、暗くて、悲しくて、空しくて、ここまで悲観的なものだとは思わなかった。むかしカフカを夢中で読んでいたころは、「審判」や「城」が気に入っていて、当時は幻想小説としての世界に耽溺していたのであった。「変身」は学生のころ読んだままで、たしか再読はしなかったのではなかったか。

これほど有名な小説だと、ほとんど誰でも筋書きは覚えているはずだろう。勤め人のグレゴール・ザムザが朝起きたら一個の毒虫になっている、そういう小説である。僕が覚えていたシーンは、父親が投げつけた林檎がグレゴールの腹にめり込んで、そのまま腐ってしまう 場面と、たしか最後の方で、グレゴールが居間へ出て行ってしまい、一騒動起こし、そのあと回れ右して自分の部屋へすごすご戻っていく、という、この二つの場面だけだった。最後にグレゴールがどうなって終わるかも覚えていなかった。

たしかに、僕が覚えていた場面はあった。しかし、それより後があったのである。グレゴールが居間から自分の部屋に戻った後、しばらくしてグレゴールは死ぬのだった。最後の夜、弱りきった体で居間に出てきたグレゴールが元で、家族に一騒動が持ち上がり、その後、彼は身動きもできずに、そのままそこの床でじっとしている。その間に、妹と父親と母親たちは、自分たち一流のいつものやり方で結論をつけるのだった。この汚らしい毒虫はもう兄グレゴールではないのだ、という妹の主張を父親は承諾し、母親はやり過ごす。グレゴールはしゃべれないので何も言えず、じっとこの家族のやり取りとその結論を聞いている。

そして、彼は、最後の力をふりしぼって埃だらけの自分の部屋に戻ると、扉がものすごい勢いでぴしゃっと閉められる。さて、やれやれ、今度はと?、とグレゴールはひとりごち、自分が消えていなくなることがいま一番必要であることを悟るのである。その後、彼が死ぬまでのほんの十行の描写が、こんなにもやり切れず、また、美しいものだったとは、完全に予想外だった。彼は、安らかな、そしてむなしいものおもいに、いつまでも身をひたして、じっとしている。そして、教会の時計が朝の3時を打ち、外がほの明るくなり始めるとき、彼は息を引き取るのだけど、僕には、この大きな芋虫みたいな「しろもの」が、ぼんやりした朝の光にわずかに縁取られて静かにじっとしている光景が、なぜかとても美しく感じられる。

この十行、二十年前の自分は完全に読み飛ばしていたところだね。自分はメルヘンというのを嫌って敬遠する傾向があるけれど、これは極上のメルヘンに思えた。メルヘンというのは、理屈ぬきに襲ってくる運命に不平を言わずに従いなさい、ということを言う物語のことだよね。だからメルヘンが子供向きに作られているのではなくて、子供そのものがごく自然にメルヘンを生きているのである。子供というのは理屈が分からないから、突然理不尽なことが襲ってきてそれに服従させられる経験をしょっちょうするはずで、それは、メルヘンと同じ状況だよね。それで、そういう過酷な体験の全体が、悲しくて、でも、安らかで、きれいな、そんな世界を形づくる、そういう光景を産み出すのが童話の役割なはずだものね。まさに、グレゴールが死ぬ前の光景がメルヘンに見えるのは自然なことなはずだ。

しかし、カフカは、そんなことはお構いなしに進んでゆく。グレゴールが死ぬ美しい場面を描いて、行も空けずに、すぐに家族にとっての夜明けがやってくる。朝いちで起きた小間使いの婆さんが死んだ芋虫を発見するのである。家族にとって、余計ものがようやくいなくなり、長い長い悩みの季節が終わって、ようやく開放の時がやってくる。家族三人はひさしぶりに揃って外出し、最後に、若くて、それゆえ美しい、生命で溢れかえったようなグレゴールの妹が、太陽の光の中で明日に向かって伸びをする、それで物語が終わるのである。

それにしても残酷なラストシーンを付け加えるものである。思慮しかない世界を歩くものは、自由のきかない体に閉じ込められ、丸まって狭い一人の部屋の床にうずくまり、いずれ確実に死を迎え、あとには死体という抜け殻が残り、それもさっさと始末され、そして何も残らない。この運命に途中で気付いても、もう遅い。思慮はべったりと自分に貼りついていて、振り落とせないのだ。そんな自分の中には「生命」という生まれつき高貴なものが住める場所がないのだ、などなど、そんな風な悲観的な人生観のかたまりのような、この小説には、まいった。

美しい幻想は、先にも言ったように、ある。けれど、こんなネガティブな本を名作として若者が読む、というのも妙な気がする。でも、自分も若いとき読んだときは描写の面白さしか頭に残らなかったわけで、若者はこんな厄介な悲観には無縁で、気付きはしないのだ。だからかまわないのだろう。

 

犬も食わないまんじゅう

中国の天津の名物に狗不理包子(ゴウ・プ・リ・パオ・ズ)という肉まんじゅうがある。百何十年ほど前、街中で、狗子という名前の人が作って売り出して、旨いもんで人気になり、天津名物になり、中国全土に名前を知られるようになった、とのこと。由来は「狗子はまんじゅうばっか作って他のことにお構いなし」っていうんでつけられた名前とのこと。でも、もうひとつの由来があって、そっちの方が面白い。中国のまんじゅうの皮は、老麺という生きたタネを使って発酵させて作るのだけど、この狗不理包子は発酵の進み方がまばらで、皮がところどころ汚らしく薄くなっていたりする。その不恰好な様子のせいで、「犬も振り向かないまんじゅう」ということでこの名前がついたんだそうだ。おもしろいね

以前、天津に行ったとき、駅についてさっそく、この狗不理包子本店へ向かった。着いてみると、まあまあ、すごいことになっていて、6階建てくらいの無闇に豪華な巨大ビルなのである。広大な敷地に、だだっ広い吹き抜けを惜しげもなく使った、豪華ホテルみたいなつくりで、実際、結婚式場なんかもたくさんあるみたいだ。それで、エレベータで客席に案内され、テーブルに座って料理を何皿か注文したのだけど、出てくる料理が次から次へと、えらくまずい。それで肝心の狗不理包子はというと、前述の発酵のまばらなどまったくなく、悪いけど、まあ、日本のコンビニの肉まんと大差なし。ひょっとすると、だまされたのかもしれないね。とはいえ、その豪華ホテルにはたしかに狗不理包子とでかでかと書いてあったが

これは、しかし、中国で何度も経験することで、特に驚きもなくなってくるものである。「名物にうまいものなし」などと言うが、中国ではスケールが違う。あそこまで堂々と手抜きするとは、敵もあっぱれ、文句を言う気になれない。もちろん、狗不理包子本店も、店にとって重要なVIPなどが来た時は、本物の料理を出すのである。いや、つまり、出せるのである。それで、いちげんの観光客なんかには、まともなものは出しはしない。そんな話をどこかで聞いたことがある。と、いうわけで、中国本土では、旨いものが食いたければ変哲ない店に入った方が当たりがあるみたいだ。

そういえば、天津のほかの店で「猫不理餃子」ってのもあったな。狗不理に対抗して「猫も見向きもしないギョウザ」である(笑) あと、「人工餃子」っていう看板を出してるところもあった。こちらは、どうやら、機械で作ったギョウザのようである。中国では、機械製より手作りの方が安いから、それが売りになるのだろうか(笑)

 

カルフールのパン

さっき、フランスのスーパーのカルフールで買ってきたバゲットに、同じくカルフールのブリーとかいうチーズを乗せて食べたのだけど、あまりに激しく旨くて、もう、食べ始めたら止まらなくなった。カルフールでは、ずいぶん前からパンを調達していたのだけど、最近ちょっと飽きてしまいご無沙汰だったが、久しぶりに食べると、やはり本当においしい。でも、これって、フランスでは当たり前のパンなんだよね。パリに行ったとき町のカフェで何度か食べたけど、まんま同じだったもんな。

カルフールができたころ、パン売り場へ行くと本場フランスの製法で作られたいろいろなパンがたくさん並んでいて、それでそのとなりに、やはりフランスお惣菜がいろいろ並んでいて、とっても幸せなコーナーだったのだけど、それが、年々売り場が縮小され、今では当時の三分の一ぐらいになってしまった。結局、どこにでもある日本風菓子パンと日本風惣菜のスペースが拡大して、なんとなくフランスのは無くなっちゃうんじゃないか、という勢いである。

もちろん、これは、一般の日本人にはフランス製のパンより日本のパンが口に合う、ということの表れなのは当然で、お店として自然なことではある。かろうじてフランスの製品を残しておいてくれているだけありがたいのかもしれない。それにしても、かたやグルメブームは定着したまま終わる気配もなく、そこでは、本場の味を求める言辞が横行している状態なのに、こういう身近なスーパーなどでは、それとは別の展開になるというのもどうなのかな、と思うものの、まあ、「よそ行きの味」と「日常の味」の違いなのかもしれないね。

ところで、どこの町にもだいたい駅前の商店街とかに「町のパン屋」ってのがあるよね、町の蕎麦屋みたいな感じで。いま住んでいる上野毛にも、むかし住んでいた駒沢にも町のパン屋があって、名前も覚えてないぐらいだけど、このパン屋のいくつかの商品が、これまた不思議にも、めちゃくちゃおいしかったりするのは面白い。町のパン屋は、だいたいが代々続いた店で昔の製法をわりと忠実に守っていたりするので、お店に行くとなんとも懐かしい、アンパン、カレーパン、コロネ、コロッケパンなどなどのオンパレードである。駒沢のパン屋のコロッケパンなんか、今でも取り寄せしたくなるほど旨かったなあ。

いや、別に、ただのフカフカの丸いパンを切ってただのコロッケとキャベツはさんでソースかけただけなんだけど、やっぱり年代を経た日常の味なのかもしれないね。そういう意味じゃ、カルフールのフランス製法のパンも、フランスへ行けば相も変らぬ日常な味なわけで、この両極端のしろもの、けっこう同じなのかもしれないね。

 

不動産の社長のこと

さっき、明日の我が家の宴会のための買出しに、自転車で隣り駅まで行ってきたのだけど、その途中の交差点の角にあった不動産屋が閉店したらしく、ガラス張りの中のオフィスが段ボールやらなにやらで雑然としていて、窓に店舗売出し中の紙がベタベタと貼り付けてあった。ここは、たまに通りかかるぐらいなのだけど、この不動産屋の社長をたまたま知っているせいで、いつも気にしていたのだが、とうとう閉店になったか

今から二年近く前、まだ僕が三宿のアパートで寂しく一人暮らししていたころ、夜、どこぞに飲みに行っちゃあ、帰り道の三軒茶屋にある、飛び込み演奏ができる店に寄って一晩の締めに演奏して帰宅する、という生活を送っていたことがあった。多い時は週に2,3回は行くこともあったっけ。店は12時まで開いていたので、飲んだ帰りに寄るのにちょうどいいのである

ある日の夜、いつものように店に寄ると、その日は客が少なく、たしか二人しかいなかった。僕が入った時は、ひょろっとして背の高い、ニットキャップをかぶった50がらみのおじさんが、やけに上機嫌でステージで踊りながら英語の歌を歌っていた。あと、客席に一人ぽつんと誰かがいて、それとカウンターの中の店長。僕は座ってビールを注文して一口飲むと、さっそく、ステージに出て、ギターを取って、いつものブルースを演った。そうしたらさっきの上機嫌のおじさんが大喜びでこっちにやってきた

「いやー、いいねえ、ブルースだね、いいねえ」、と相当酔っ払っているようだったけど、僕も負けずに酔っ払っていたので「おじさんさっき歌ってたけどアメリカの音楽好きなわけ?」とかなんとかしゃべり始めた。おじさんの歌は、ちょっと上田正樹っぽい歌い方でお世辞にもうまくはなかったけど、楽しそうに歌っていたので、きっと大好きだったんだろうね、そのまま、酔っ払い同士の常として、どうでもいいことをお互いにしゃべりちらして仲良くなった

そうこうして閉店の12時が近づき、それじゃあ、最後にオレがブルース歌うぜ、ってステージに出て歌った曲が、かのロバートジョンソンの「俺と悪魔のブルース (Me and the devil blues)」だった。この殺伐とした歌の最後のコーラスは、こんな言葉である

 俺の死体をハイウェイのそばに埋めたっていいんだぜ
 俺の死体をハイウェイのそばに埋めたっていいんだぜ
 そうすれば、俺のこの汚いよこしまな魂がグレイハウンドバスに乗ってさまようから

歌い終わっておじさんのいるテーブルに帰ってくると、おじさん、最後の文句にすっかり感極まったみたいで「ああ、そうだ、そうだよな、グレイハウンドバスだよな、そうだ」、とか言って僕を迎えてすっかり賛辞の嵐で、「林さん、今まで聞いた中であんたの演奏が一番よかったよ」、と言ってくれた。それで、グレイハウンドバスも出てくる身の上話を回らないろれつで話してくれたのだった

俺も、今では実は不動産屋の社長なんかやってこうやって羽振りもいいんだけど、若い頃は金も無く、アメリカを放浪してたこともあるんだよ、そのグレイハウンドバスに乗って、いろんなところへ行ったよ。それで日本に戻ってきて、なんだかんだで仕事一筋でやってきて、ここまで来たんだけど、実は去年胃ガンの手術をしてさ、かろうじて退院してきたけど、まあ、俺ももう長くないだろうから、残りの人生適当に楽しむことにしてね。それで、医者からは止められてるけど、無視して、こうやって毎晩飲んだくれたりしてるんだよな

あんまり明るくない身の上話を、陽気にしゃべっちゃいるけど、なんとなく孤独で、寂しそうだったのをよく覚えている。店が閉店になって、おじさんに「この裏に俺の知ってる店があるんだけど飲みに行こうよ」って言われたので、いいよ、って言って、三茶の裏のスナック街の一番奥まったところにある小さな薬膳バーっていう変わったところに連れて行ってもらった。薬膳酒を出す店で、おじさんが元オーナーだったそうだ。でも「病気になったときオーナーは辞めてほかの人に譲ったよ」、とのこと。でも若いマスターはもちろんおじさんを知っていて、みなで楽しく飲んだ

それで、今度は、「俺の会社の向かいにさ、行き付けのスナックがあるからそこ行こう」、と言うんで、いいよ、って言ってタクシーでスナックに乗りつけた。けっこう広くて女の子がたくさんいて、いかにもむさ苦しい男もたくさんいて、妙な雰囲気だったけど、自分とおじさんはヤツらにはお構いなくカラオケとか歌って騒いでいた。僕らの席にやってきたお店のママは着物姿で、ちょっと往年の吉永小百合みたいな感じのきれいな人で、おじさんとは古い付き合いだそう。「この店にはもう20年以上前から通ってるからな、ママもまだ会った頃は20台だったよな、なあ、ママ」、みたいな会話をして、さらに数時間、さすがにくたびれたのでそろそろ帰るか、と店を出た

夜明け前の信号機の前で、「林さん、今日は楽しかったよ」って、握手をして別れた

あのおじさんに、あれからずっと会っていない。名刺はもらったけど、会社の電話番号があるだけでさすがに電話かけづらく、そのまま二年近くたってしまった。冒頭の不動産屋がなくなったのを見ると、とうとう死んじゃったのかな、それとも社長を完全引退して店閉めて、いまごろアメリカを放浪してグレイハウンドバスに乗ってたりしてね。ほんとそうだといいね

 

おみくじ

今日は、近所の神社に初詣に行って、お祈りして、いつものようにおみくじを引いたら、大吉だってさ。毎年なんとなくおみくじって引くのだけど、自分はいいのが出たことがほとんどなく、自分的に絶好調、って時に凶が出たりして、「ちくしょーこのノリノリのオレが凶だと」、なんて思い上がりしそうになるけど「まあ、たかがおみくじだ、調子乗り過ぎるなってことだろ」などとちょっとだけ戒めにしたりして、なんだかんだで、たかが百円ぽっちで買った紙切れに反応しているところが、われながらアホみたいだ

そうそう、去年のオレのおみくじは、奥さんによれば小凶だったそうで、「あんまりうまく行きません、交友関係に注意しなさい」とか書いてあったんだって。忘れてたけど、そういえばそうだった。ちょうど一年前は自分はけっこう上滑り的にノリノリで、まあ、一年を終わってみるとおみくじの方が正しかった気がしないでもない(笑) どちらにしても油断はするな、ということかな。でも、油断しまくってもうまく行く時は行くからね。

ま、とにかく、賽銭箱の前でガランガランやったり、手を合わせたり、おみくじ引いたり、甘酒飲んだり、ごくごく平凡に、それで肩の力を抜いて、頭も体も力まずに平常心で、今年も見えないチャンスを逃さないように、気楽に行きましょう!

 

年が明けて

さて、新年になったけれど、今年はどうなることやら。次の仕事が決まるまでしばらくは時間があるはずなので、ちょっと落ち着いて、たまには勉強しようかな、などと思っているのでとりあえず図書館にでも行こうか。そういえば、年末、たまたまネットで見たのだけど、どこぞの京大の教授が「いま現代はニヒリズムの時代だ、目的を見失ったために自分の目先の利害のみを追求し皆が何のためかもわからず社会を閉塞的状況に追い込んでいる」とかなんとかけっこう悲観的なことを書いていて、あまりに救いの無いようなことを書く人だなあ、と呆れはしたけど、自分もこれを読んでいて一字一句言いたいことが分かってしまう、というのも困ったものだなあ、と思った。それで、この京大の先生はどうやってこの文を締めているか、というと、現代がそういう状況だということを直視しなさい、ということと、大きな目的を探しなさい、ということだった。たぶん、前者がこの先生の言いたいことで、後者は世間体のために追加しただけ、なんだろうな。この先生、写真を見ると、なんとなく豪快な酒飲みみたいな人相で楽しく人生を生きてそうだけど、実際はちょっと欝に取り付かれてるのかもね、こんなこと書いて。

と、いうわけで、新年を暗い話題で始めてしまったけど、やはりこういうときは「勉強」が一番いいんじゃないかと思うわけ。いったん過去に戻って、過去の空気をゆっくり呼吸することで気を養う、ということ。

とりあえず今日はお雑煮食ってごろごろすることにする(笑)

 

名のないモノたち

時間と空間というのがあって、いっしょくたにして時空間などと呼んだりするけれど、やっぱりこの2つって一緒にしたくない感じがする。西洋風に言うと、どうしても、物事を統合してひとつの大きな塊を作る、という行き方をする傾向があるように思うけど、どうも気に入らない。今まで独立してあった「モノ」が、何かほかのものと統合されて、より大きい、あるいはよりシンプルなひとつの統合された「モノ」に統一され、これまでは一人で主人公を張っていたもの「モノ」が、今度は、その大きなものの「派生物」に格下げされてしまう、という、そんなイメージがする。なんで、与えられた種々雑多なモノたちをあるがままに、そのまま受け入れられないんだろう、と思ったりする。はるか昔に統合されてもう今では名前すらなくなってしまったようなモノたちが、あるとき、ふと、やっぱりひっそりとしっかりと自分に与えられた場所で主人公をしているのに気付いたりすることがある。

 

とても若いプレイヤー

この前、ジャズを聞きたいのだけどどうしてもなじめない、と言っていた人が、これを聞いてようやくジャズが楽しめるようになりました云々とのコメントを見て、そのYoutubeの映像を見たら、なんとかいうとても若い女性サックスプレイヤーの演奏だった。あるいは、ジャズコンサートをオーガナイズしている方がいて、その人のところに9歳の少年ジャズドラマーの推薦やらが来たらしく、話を聞いてみると9歳にしてそうそうたるメンバーと演奏活動しているとのこと。そのほか、などなど、ジャズの世界はけっこうな低年齢化が進んでいるみたいだ

ところでクラシックの世界では、これはもう当たり前のことで、古くは神童モーツアルトが有名だけど、Youtubeなんかを見ると、もう、天才子供ピアニストやら天才子供バイオリニストやらのオンパレードの観がある。やはり、音楽ジャンルそのものがある程度以上完成されていて、さらにテクニックを要求されるようなものは簡単にプレイヤーが低年齢化するのだろうね。子供のモノの吸収っぷりってすごいからね、大人の比じゃない。複雑なパッセージを間違わずに正確に演奏するなんて、子供にはお手の物かもしれない。文字もまだ読めない子供がテレビのセリフを一字一句全部暗記してみせるのはよくあることだし

しかしジャズもそろそろ「クラシック」になってきたのかな、などとも思う。今でも今風の居酒屋、ラーメン屋、焼肉屋と、どこへ行ってもジャズがかかっているしね。たとえば、かのコルトレーンのバラードなんか、聞いたとたん居酒屋を思い浮かべる始末だ(笑)、ちょっと情けない。それにしても、あれだけ至るところでシツコクかけられると、そうなっちゃうよね。あんなに微妙で、絶妙で、すばらしいプレイなのにね。居酒屋で酒飲んで馬鹿話しているときに聞いてもなーんのありがた味もないや

冒頭の若い女性サックスプレイヤーなんだけど、僕が聞いたやつは、ちょっとフュージョンがかってはいるけど、基本的にはチャーリーパーカーがベースのテンポの速いビバップである。確かにうまいし、いい感覚をしているけど、なんと言うか「竹を割った」ように率直なプレイなんだな。古いジャズやブルースが何となくダメ、という人にはけっこう、彼ら昔の黒人のプレイの「割り切れない」感じにどうしても抵抗感を感じる、という人が多いのではないか。音感、タイム感、出音の安定感など、昔の演奏はけっこう揺れ揺れで、「こいつは下手か?」と言いたくなるような演奏を平気でするからね

それに比べて、この若いプレイヤーの演奏には、そういう割り切れないものがまったくなく、スカッとキレイに割り切れる演奏で、現代人の僕らの心にスッと簡単に抵抗なく最小限の力で入り込んでくる感じ。なんか、ちょっとジジ臭いんだけど、これを聞くと隔世の感を禁じ得ないですな(笑) それで、また、プロモーションビデオ作る方も、彼女がスラッとした現代女性風の体型なのをことさら強調するようなファッションで撮るもんだから、なんか一見するとコマーシャルかなんかで、アイドルがサックスを吹きマネしてるみたいに見えたりする

いや、ぜんぜん否定する気はないのだけど、何かね〜 好き好んで聞く気にはなれないね〜

 

咸魚

広州では超一般的な食材の咸魚(シェン・ユイ)というものがあって、家になくなると補充しに行く。咸魚は、中国の白身の魚を丸ごと塩漬けにして発酵させたのちに干したもので、独特の臭いがする。端的に言ってかなり臭いので「中国クサヤ」などと言われることもあるけれど、日本のクサヤとは香りは全然違う。この咸魚を、蒸して柔らかくして、揚げ豆腐とショウユ煮込みにしたり、豚肉と蒸したり、チャーハンに入れたりするのだが、非常に美味で、やみつきになる

最近は、中国本土の調味料、食材ともに大半が日本で手に入るようになったのだけど、この咸魚だけはなぜかなかなか置いている店が見つからない、というか、ほとんど無い、と言ってもいいと思う。昔は、しかたがないので中国に行ったときなどに仕入れていた。あるいは、日本以外の国のチャイナタウンなどではだいたい見つかるので、国外のチャイナタウンで仕入れたりもしていた。日本の中華街はなんだかんだで観光地なので、あまりにコア過ぎるものは置いていなかったりするのであろう

それでこの咸魚の味である。たとえばチャーハンだけど、香港ではどこの店に入っても、この咸魚を使ったチャーハンがメニューにあって、もっともポピュラーである。咸魚鶏粒炒飯(シェン・ユイ・ヂ・リュウ・チャオ・ファン)と言って、細かく切った咸魚と豆粒大に切った鶏肉を具にしたチャーハンで、この旨さはちょっとたとえがたい感じ。僕的には文句なしにチャーハンの王様だと思うのだけど、香港、そして中国ではチャーハンにはまったくこだわりが無いので、注文すると「ほれ、食え」と出て来るだけで、まるで当たり前の料理である。しかし、この咸魚鶏粒炒飯を日本で食おうとすると、高級広東料理店に入り千円以上ださないと食えない。

と、いうわけで、自分で作って食べるわけである。昨日、横浜中華街でこの咸魚を一尾仕入れてきた。実は、相変わらずこの咸魚は店頭には並んでいないのだけど、お店の人に聞くと奥から出してきてくれるのを最近知ったのである。そりゃあ、現地広東人にとってこの咸魚が欠かせないという人がいるはずなので、置いているよね。シェンユイとかハムユイ(広東読み)とか言うと通じる、あるいは紙に漢字を書いて見せる。ただ、値段は高い、30センチぐらいの一尾で 2500円だった。前に買った時に、お店のおばさんに「これ、どこにも置いてないんですよねー」と言ったら「そうねえ、でも、前はどこで買ったの」と聞くので「アムステルダム」って答えたら大笑いしてた

そういえば、やっぱり中華街の食材屋の人が、この咸魚は店頭に置くと店内が臭くなって客に迷惑だからね、それで置かないんですよ、なんて言ってたっけ。いや。でも、この「臭さ」は日本人にはかなりなじみのある、干物系の臭さだから大丈夫だと思うんだけどな。まあ、とにかく、とりあえず自分だけのために、まずは咸魚炒飯を作って食うことにしよう。うーん、われながら楽しみだ!

 

おじちゃんとうまいもの

じいちゃんとばあちゃんの話を書いたので、うちのお袋の兄貴である、おじちゃんのことも書いておこう。おじちゃんは、小柄で、いつも白いランニングにブカブカの短パンにサンダル、坊主頭にねじりはちまき、といったいでたちで、土方のおじさんそのものみたいな、あるいは裸の大将みたいなルックスだった。田舎は愛知県の蒲郡で、家は海から近くにあったので、遊びに行ったときは海に繰り出すことが多かった。あるとき、おじちゃんと海辺の道路を歩いていたときのこと、ちょっと大きめのカニが道路を横切っていた。そうしたら、おじちゃん、いきなり足でカニをぶしっ、と踏みつぶし、拾い上げて甲羅をばきっ、と剥がして、人差し指で身だかミソだかをほじりくり出して、むしゃむしゃ食べ始めた。自分はというと、唖然として一部始終を見ていたら、「おい、正樹も食うか、うみゃーぞ」って言うのであわてて首を横に振ると、「男のくせに、いくじがにゃーな、ひゃひゃ!」と言って笑った。うーん、お育ちが違いすぎる(笑) 子供のころから、蒲郡の田舎へは毎年遊びに行っていたが、大学生になってからも時々行っていた。そのころはもう自分もお酒が飲める年齢になっていたので、じいちゃんとおじちゃんと三人で、夜になると駅前の飲み屋街へ飲みに繰り出したものである。何をしゃべることもないのだけど、楽しかったな。おじちゃんは海育ちで、遊び人で、酒飲みだったので、地元の旨い食い物などよく知っていて、「正樹、これうみゅあーぞ」と言っていろんな旨いものを食わせてくれた。そのおじちゃんも、積年の不摂生がたたってまだ若いのにある日心臓発作であっという間に死んでしまった。家にいるときは、河岸で買ってきた魚介を肴に、もっぱら焼酎を割って飲んでたっけ。当時、山田邦子がコマーシャルやってたファイブミニが好きで、焼酎にファイブミニを入れて炭酸で割って、「クニちゃんのこれで焼酎飲むのがうみゃーんだ」と欠けた前歯を見せて「ヒヒヒ!」と笑うさまが子供みたいで、僕は好きだったな。いいおじちゃんだった

 

ばあちゃんと置物

今でも売っていると思うのだけど、細い光ファイバーを束ねたのが回転台にセットされていて、スイッチを入れると下から光が当たり、全体が回転し、ファイバーの先端が七色に光る大量の星屑みたいな風に見える置物があった。ずいぶん前、これが結婚式の引き出物の定番だったことがあって、どこの家もなぜかこれが一台ある、という状況だった覚えがある。なんと言うか、実にチープで、田舎臭いバーのマダム風装飾品というか、お世辞にも趣味のよいものとはいえない。さて、まだ、蒲郡のばあちゃんが生きていたころ、田舎に遊びに行ったら、これが畳の部屋にぽん、と置いてあった。案の定引き出物でもらってきたらしいけど、飾ることも無くすみに置いてあったのだと思う。その当時の僕は、こういう悪趣味なものを忌み嫌っていたので、なんじゃこりゃ、とかいって悪口のひとつも言ったかと思う。そうしたら、たしか、お袋が、「おばあちゃんがときどき、この置物のスイッチを入れて回して、飽きずにずっと見てるのよ、「きれいだナ」って言って」、と言うのである。ああ、そうか、そうだな、一方的な見方で悪趣味だといって切り捨てちゃうのもいい加減にしないとな、と思ったものである。ばあちゃんにしてみれば、こんな夢みたいにきれいなものは生まれて初めて見た、ということだったはずなのだから。しかし、いいばあちゃんだったな。小さくてしわくちゃだったけど、よく働いてよく動いて、しょっちゅう小言を言っていたけど、ときどきとっても優しい顔になったり、念仏を唱えたり、やはりじいちゃんと同じく、今ではほとんど見られない昔の良い日本のばあちゃんだった。

 

じいちゃんの鼻歌

死んだうちのじいちゃんは、晩年は東京のお袋の家に住んでいた。九十過ぎてからも元気だったので、たまにお袋の家に寄るついでにじいちゃんにも会って、ときどき無駄話したりしていた。それで、じいちゃんというと、今ではなぜか、真っ先に、じいちゃんがよく歌っていた鼻歌を思い出すのである。家の中でも、外でも、一緒に歩いていても、じいちゃんがいるといつもの鼻歌がなんとはなしにBGMみたいに流れているのである。いつも同じ歌だったのだと思うんだけど、いかにも明治っぽい、お座敷歌っぽい、ちょっと楽天的な感じのメロディで、控えめな調子でいつも呑気に口ずさんでいた。いいじいちゃんだったな。小柄で、上品で、鷹揚な、今ではもうほとんどいない昔気質の日本のじいちゃんだった。

 

親子丼

この前、汐留の巨大なビジネスビルにある、典型的なレストラン街の、これまたどこにでもありそうな鳥料理専門の和食の店に入ってランチを食べた。うちの社長と二人で入ったのだけど、二人とも同じ親子丼を注文し、出てきた親子丼を食べてびっくりした。会社のある麻布十番の街に少し前まであった「さ和鳥」の親子丼そっくりそのままだったからである。さ和鳥は、昼は親子丼、夜は水炊きした出さない麻布十番の老舗で、よく昼飯時に親子丼を食べに行ったのである。自分としても、回りの皆も、この親子丼は絶品だと評判だった。それで、このビルのレストランのこの親子丼だが、柔らかい卵とタレとご飯の絶妙なからみ具合といい、小さなカルタ形に切った鶏肉の食感といい、全体の味と香りといい、そっくりそのまま完全コピーなのである。二人とも無言で食べ終わって、社長が「なかなか旨いな」と言うので、「ええ、しかしこれ麻布十番のあの親子丼にそっくりですね」と言うと「そうそう、そうなんだよ」とのこと、二人ともそう思いながら食っていたのである。

麻布十番のさ和鳥は、半年前ぐらいに取り壊しになり、どうやら神楽坂にあるどこかのレストランチェーンに吸収されたらしい。名前は残っているし、あの親子丼もまだあるらしいけど、あの、十番の街に古くからある民家を利用した店舗のあの風情はもう、ない。引き戸を開けると、すぐ横が厨房で、初老のおじさんがたった一人で次から次へと小鍋を火にかけて親子丼を作っているのが見える。それを横目で見ながら二階の客間に上がり、畳の上にどっこいしょと座って親子丼の到着を待つのである。いつでもほぼ満員で、一人で作っているので出てくるのはかなり遅いのだけど、古い畳の間でお茶を飲みながら親子丼の完成を待っている時間は、実に充実したいいものだった。

さて、この汐留のレストランだけど、さ和鳥のおじさんが作っているわけはないので、研究してコピーしたものだと思われる。ああいう今風のビルに入っているレストランは、場代が半端じゃないので、入っているのは大手のチェーン会社によるものなのは間違いない。そこでは、レストランに必要なすべてについて日夜研究開発が行われていて、あのそっくりな親子丼も、実際に厨房で作っているところを見たら、びっくり仰天するようなことが行われているかもしれない。たとえば、全て冷凍だとか。まさか、と自分も思うのだけど、あの分野での技術の進歩は一般人の想像をはるかに越えているのである。

それにしても、あそこまで完全にコピーされてしまうと、いったい「本物」って何なんだ、という気がしてくる。なにかについて「完全再現が可能」ということになったら、そのとたんもう「時間」というものは無くなるわけだ。おまけに「場所」というものもなくなるわけだ。まるで百科事典の一項目みたいに、「さ和鳥の親子丼」として登録されていて、時間も場所も関係なく、いつでも、どこでも、辞典をめくるだけであの親子丼が味わえる、ということになってしまうのかな。こうなると、贅沢、という概念そのものが変わってしまうよね。

あとはもう、時間も場所もその場その時にたった一回しか起こらない「一期一会」みたいなものだけが、本当に価値を持つ世の中になるのかもしれないね。田舎を旅行して、電車の到着がたまたま大幅に遅れて、退屈して途中下車したさびれた駅の駅前の食堂で、地元の人と食った定食の味、とかね。そんなことだけが、本当の贅沢、ということになる。あ、でも、未来は電車自体が大幅に遅れたりしないか(笑) そう考えると、今の時代ってちょっと恐ろしい。チャップリンのモダンタイムスの世界は、僕らが笑っているうちに、僕らの社会のすみずみにまで、分からない形で浸透しているんだろうね。

 

バード

昨日、動いているチャーリー・パーカーを初めて見た。サックスを吹いているところと、サックス片手に誰かを見てニヤッとしながら煙草に火をつけてるカット。こう、なんというか、小さなタンクみたいな感じだね。目をつぶって、表情も変えずに、なんかデスマスクみたいな顔で吹いているところは、フレーズがタンクの中から押し出されて次から次へとただただ溢れ出てくるみたいな、そんなイメージだった。今現在、ちまたで流れているジャズのサックスプレイでチャーリーパーカーの影響を受けていないフレーズを聞くことは皆無だと言っていいよね。そして、その当のチャーリーパーカーは、飲む打つ買うを地で行ったみたいな人で、大酒のみ、大食、性欲旺盛、博打は打たなかったかもしれないけど麻薬を打つ(笑)、むちゃくちゃな生活を平気で送っているエネルギーの塊みたいな人だったそうだ。まさに、タンク、だよね。しかし、さいきんのジャズ界には、もうこういう人はほとんどいないだろうね。みなしっかりとした教育を受けていて、基礎ができていて、知的で、そうそう踏み外す人はいないでしょう。今のジェネレーションだとブルースプレイヤーだって、そうだ。ロックになるとまだ若い音楽なせいか、けっこう人騒がせな人がまだいるみたいだ。しかし、物事が始まる時の起爆力というか、爆発する力、というのは凄いものなんだな。その当の爆弾がチャーリーパーカーだった、というわけなのかな。昨日、動いているチャーリーパーカーを見て、動いているマイルスやコルトレーンの映像とは、また、ずいぶん違った、ビーバップの最初のジェネレーションの生霊みたいなものが見えた気がして、感動してしまった。

 

オーノー

そういえば思い出したんだけど、数年前、大儲けしたどこぞの田舎の会社の会長だかが、ヨーロッパの有名絵画を買いまくったことがあったよね。ゴッホやルノワールのかなり有名な数枚の絵を数百億円で落札した、というニュースだったと思う。それで、しばらくたって、今度は、その老人の会長が、「自分が死んだときは、この絵を一緒に棺桶に入れて焼いてほしい」とかとかいうむちゃくちゃな発言をして、またまたニュースになったっけ。このニュースは、たぶんヨーロッパへも流れたんじゃないかな。そのとたん、きっと、全ヨーロッパが発する「オー、ノーー!」の叫びが、海を越え陸を越え、日本の一田舎めがけて集中しただろうな、って想像して笑ってしまった、面白いですな〜  フランス人は「ノーン!」、ドイツ人は「ナイーーン!」と叫んだであろう。

 

蜘蛛

ある晴れた日の昼、白い天井に、足が妙に長い小さな蜘蛛みたいな形のものがぺたっとくっついていた。細長くて、茶いろい糸くずのかたまりみたいで、干からびていたので、天上にとまってるうちに力尽きて、そのまま死んだんだろうな、と思い、下から、ふーっと何度か息を吹きかけてみた。風の吹くままにゆれるので、ああ、やっぱり干からびて死んでるや、と思って、ま、あとで取って土に返すんだな、と放っておいた。しばらくぼんやりしていたんだけど、ふと横を見ると、この小さな足長蜘蛛が、細長い足をいっぱいに開いて、ひゅるひゅるひゅる、と糸を出して降りてくるのではないか。なんと、生きていたのだ。床に降り着いて歩き始めたが、フローリングの床が滑ってしまいまともに歩けない。本人すぐに悟ったらしく、今度は糸を前足で手繰り寄せながら、降りてきたのと同じような速さで、天上に向かって昇っていった。天井に着くと、今度はちょっとのろのろ歩き始めたが、どっちに何があるか分かっているんだろうか、とにかくも休み休み歩いている。一方、こいつが向かってゆく方向の壁には、こんどは黒くて小さな地蜘蛛がとまっていた。地蜘蛛は壁を一周するつもりらしく、せっせと横に歩いている。しばらくしたら、自分の目の位置と、足長蜘蛛と、地蜘蛛がちょうど一直線上に並んだ。なんか、惑星が一直線に並ぶみたいに、ちょっと神秘的な感じがした

翌日、あたりまえだけど蜘蛛はどちらもいなかった

 

木でできたスピーカー

数年前に、とある展示会で、ビクターが十年以上の年月をかけて開発に成功した、ウッドコーンスピーカーというものを実際に、見て、音を聴いて、開発談を聞いたことがあった。スピーカーのコーンはふつう紙を使うのだが、ウッドコーンは木をそのまま使ったコーンなのである。つまり、木材を極く薄く削ぎ、それを特殊なやり方でコーン状に成型して作る。材木の吟味から始まって、その削ぎ方、そしてもっとも難関なのが成型で、数限りない試行錯誤を繰り返し、初めてスピーカーとして使えるコーンを作ることに成功したのだそうだ。たいそう感心して帰ってきた覚えがある。

それでは、なんで木材をそのまま使ってスピーカーを作ろうとしたか、その理由である。音楽を奏でる楽器の多くは木で作られている。ピアノ、ギター、バイオリン、木管楽器など、その微妙な響きが歴史を越えて追及されてきた。バイオリンのストラディバリウスしかりである。と、いうことは、それらの繊細な楽器たちの奏でる音楽を再現するスピーカーも、木をそのまま使って、一種の楽器のように仕上げることができるのではないか、そう、考えたというのである。なるほど、理由もなかなか美しくて、情熱が感じられるな、と、この話を聞いたときに思ったものである。

さて、今日、僕がさいきん交流している、超ハイエンド音響を長年研究してきた宮原先生に会ってきたのだが、その話の中で、このビクターのことがでた。どうやら、さいきんビクターは会社が厳しい状態になってきたそうで、そんな話をしながら、この先生、さきほどのウッドコーンスピーカーをミソクソに悪く言うのである。なぜかというと、本当によいスピーカーのコーン紙というのは、極度に完成された職人の技で作られていて、紙を作る素材は、スピーカーのコーンとして最適な組成の材料を木材の中から厳選して抽出し、それを使って注意深く編まれるものである。木をそのまま使う、というのは、コーン紙として不適当な膠質やら繊維やら、およそ80パーセントは有害なものを含んだまま、平気でそれをコーンとして使う、ということで、いいものができるはずがない、と言うのである。

それで、実際にビクターのウッドコーンスピーカーの音を聞いてみても、案の定、スピーカーのていをなさない死んだ音しかしていない、と言い切るのである。先生に言わせれば、木材をそのままコーンに使う、という発想そのものが、何も考えていない証拠であり、ただコーンに仕立てるのが大変な素材だったというだけで、何の工夫もないし、何も分かっていない、ということだというのである。先生いわく、開発をしている技術者連は、単に「音」を追求しているだけで、そこで流れている「音楽」を分かる人間がいない、そのせいで、ああいう独りよがりなものができるのだ、とのこと。ちょっと、そこまで言うのはひどい気がするけど、まあ、一刀両断である。

しかし、この話を聞いて、なるほど、そう言われると、それも一理あるなあ、とちょっと感心してしまった。楽器のようなスピーカーを作りたい、という理念は、一見きれいな話に聞こえるけど、コーンを木で作ると音はどうなるだろう、という出発点に、何となく「願掛け」に近いものを感じなくもない。楽器だって木でできているのだから、音を出すスピーカーを木で作れば、楽器のように豊かな音が出るはずだ、というのは、なにか本末転倒している。もちろん、コーンだけでなく、その回りもあわせて開発しているのだろうが、その最初のモチベーションがやはりヘンな気がしてくる。

では、僕自身がウッドコーンスピーカーの音をどう思ったかというと、よく分からないのだけど、なんか、堅くて小さく凝縮されたみたいなイメージだった。木そのものの印象だね。ただし、僕は音の良し悪しは分からないので、あてにならない。

 

世の中カネか

ちょっと前に、年収額の何千万円だかを境にして、上と下に分けて人生の勝ち組と負け組み、みたいに言っていたことがあった。人生を勝ち負けで判断する、ということ自体おかしい、ということは置いておいても、カネがあるかないかで世の中での暮らしが歴然と変わることは確かだし、何かここぞというときにもカネがあるなしで選択の範囲もずいぶん変わってしまう。人生はカネじゃない、というのは誰でも思うことだと思うけれど、じゃあカネ以外の何かがあって、カネを捨ててもそれに賭けるか、というと、年齢が行けば行くほど難しくなってくる。人生はカネだとは思わないが、世の中カネだ、とは言えるような気がする。

さいきん、東海道四谷怪談を日常的にぱらぱら読んでいるのだけど、劇中の江戸時代に生きている人々のアップダウンの激しさがとても印象的なのである。むかし、カネは天下の回りもの、なんていう言葉があったと思うけれど、なんと言うか、貧乏と小金持ちの間を平気で行ったり来たりしている。武士は、浪人なら貧困だが、仕える主君が見つかれば、それによって金回りが良かったり悪かったり、そして町人はいろんな適当な職を転々としたり、それで、悪いやつは、武士になったり町人になったり、名前を騙っては適当に渡り歩く、といった風で、まるで固定しないのである。これは劇だからなのかもしれないけど、やはり、読んでいて、これらいい加減に貧乏と金持ちを行き来している人たちを支えている「江戸時代」という屋台骨のおおらかさを感じる。

それから、これら江戸の人々の、固定化しない生活のあり方も印象的である。ひるがえって今の日本はどうだろう。例えば、今の生活から逃げ出したい、と思っても、職にしても住居にしても実際に転々とするのは容易ではなく、最低層の生活を余儀なくされることを意味したり、また、国民として登録済みなのでいなくなればすぐ分かるし、失踪したって行く先で素性を隠しおおすことは難しく、結局のところ、僕らのほとんどはみな、いま住んでいるこの土地にきっちりと縛り付けられている。国家による管理は既にかなり行き届いていて、江戸時代みたいにいい加減に世の中を渡り歩けなくなっている。加えて、人民の相互監視はかなりひどくなっていて、隣人に対する許容力が物凄く低くなっている。互いに侵害をしなければ、助け合いもしなくなるのが道理で、ますますめいめいの生活に閉じこもり、固定化する方向になって行く。カネで固定化し、寛容の精神の欠如で固定化し、モノとココロの両面から管理社会に向かっているように見えるのだが、考えすぎだろうか。昨今のネットでの匿名による混乱や退廃は、こんな現実社会の閉塞感のはけ口にすぎないように、自分には見える。

江戸時代は、士農工商という身分に縛られた階級社会で、それで封建社会だから自由が無く、どうの、などと言われるけれど、現代と比べていったいどっちが自由だったか、と本気で疑問に思う。たしかに現代の東京に生活している自分は、前代未聞の自由を手に入れているように見えるけど、よくよく見ると、ひどいがんじがらめの枠の中での自由を、最大限に与えられているに過ぎない。ほとんどの「悪いおこない」は、どんなちっぽけなものであってもほとんど公式にネガティブ扱い、または禁止されており、それらは良識に反すること、あるいは犯罪にカウントされている。要は、僕らの取り得る「行動」は、この社会の中で、厳密に分類分けが既に済んでいて、何かすれば、すぐにその「表」に照らし合わせてその「評価」が定まってしまう。さいきん習った学問でいえば、生活と行動のカタログ化が極端に進んでいて、そのカタログから自由に行動することは、社会から疎外されることを意味する。

カタログ化を嫌って生活している人たちは時々いる。たとえば、社会に束縛されずに気ままに生きたり、貧乏人から金持ちになってそれでまた貧乏になって、と波乱万丈の生き方をする人もたしかにいるけれど、そういう人がときどき話題のネタになったりもしているところを見ると、ごく少数だと思わざるを得ない。大半の人は、やはり、その人生のかなり早い段階で、持ち金の量が決まってしまい、あとは、その決まったカネの範囲内で身分相応の生活を組み立ててゆく、という人生を送るはずだと思う。先の江戸時代の印象に比べると、ずいぶんとノリが違う。江戸の人たちも、カネで幸せになれることは同じだけど、なんと言うか、人々の「生活」の方が先にあって、その上にカネが行き交っている感じがある。それに比べると、今は、カネの方が先にあって、それに応じて人々の生活が必然的に決まるような、そんな感じを持つ。世の中カネだ、という言葉があるけど、あれは、カネがあれば何でもできる、というアクティブな意味じゃなくて、カネに応じて世の中で出来ることが決まってしまう、という受動的な意味合いの方が、今では強いんじゃなかろうか。

東海道四谷怪談の四幕目の始めの方に、当時の貧しい町民生活が描写されている。花やなにやらを売る小商いの軒下に、米屋が米を持ってきて、反物屋が洗濯を頼みに来て、忙しくしているところで、ふとみると、ザルにシジミを入れたちっちゃな子が立って「おばさま、しじみかふて下されな」という。これを見止めたお袖が答えるに「しじみいらぬ程に、これもってゆきなさんせ」と小銭を渡す、そして、「おまえは利口な子じゃナ」と送り出す。こんな何気ない風景に現れている、お互いに迷惑をかけもするし、だからこそ助け合いもする、そんな相互信頼に基づいた社会は、ほんとうに、すでに古くなって、取り戻すことのできないものなのだろうか? そんなこともなかろうに。僕達の気持ち一つで、取り戻せるんじゃないか、と思いたい。

 

東海道四谷怪談にちなんで

東海道四谷怪談の文庫を持ち歩いて、暇があるとぱらぱらとめくっている。のべにしてずいぶんと何度も読んだことになるのだけど、だんだんとその情景がはっきりとしてくる。およそ二百年前の江戸の言葉で書かれているので、読むのには少し苦労するけれど、古文ではないので辞書を引かずとも何とか意味が分かるのである。しかし、この江戸言葉の脚本を読んで、ずいぶんと新しい経験をした。情景が頭の中に再現されて行く、というより、その当時のありさまが自分の心の中に少しずつできあがってくるみたいな感じなのである。

たしかに僕らがある小説を読むとき、当の小説で起こっている出来事を心に思い描く、と表現はするけれど、具体的な映像を目の裏に明確に思い描くわけではない。たしかに、小説が映画化されて主人公を俳優が演じているのを見たりすると、小説を読んだ自分が思い描いていたイメージと違う、などということが起こる。こうなると、読者のめいめいが恐らくは全員違う主人公のイメージを思い描いていたはずで、いったい、たくさんの読者はほんとうに一人の主人公を共有できていたのだろうか、という疑問も湧く。しかし、特に優れた小説であれば誰にも異存はないと思うのだが、たしかに主人公は共有されているのである。でなければ時代を越えて生き長らえられるはずがない。では、何を共有していたのだろうか。現実に思い描くことのできる「何者か」ではないことははっきりしていて、やはり得体の知れない「何か」なのだと思う。だから、「思い描く」という言葉はひとつの比喩に過ぎないわけだ。「視覚」というのは人間の能力の全体から見て、実は驚くほど小さな一部に過ぎないのではないか、と思える。

さて、いま現代は、「視覚的なもの」が前代未聞に重要視される時代だと言えないだろうか。映像の威力にみんな参っている。映像、というのは一種、暴力的な力を持っていて、それを見た人に有無を言わせないリアリティを与えるものである。下手をすると、誰も逆らえず、映像に批判力が負けてしまうのだ。さいきんは、メディアリテラシーも広まってきたので、映像のマジックに気づいている人も多く、そうなると今度は、例えばテレビを見て、一種他人事のように懐疑的に、あいまいに映像に接して、日々をやり過ごしてゆくような状況も起こっている。一枚の静止した映像だって、ときには人の人生を変える力を持つことがあるんだから、動いている絵の氾濫に、人が知らず知らずのうちに防御線を張っても無理からぬことだ。

映像によって定着させる、ということがあまりに進みすぎると、世の中のできごとは、すべて映像に変換されてメモリの上にデジタルデータとして保存され、そして確定事項として、ほぼ永劫に残り続ける、という事態になる。デジタルデータに定着してしまった「できごと」から、もう一度、生き生きとして、可塑的で、アナログ的な「できごと」をよみがえらせるのは、僕ら人間にしかできないことだ。でも、今は、当のデジタルデータの非人間性や暴力性に当面は反抗できず疲労しているようすが見て取れる。いま現在、たとえばテレビを一種シニカルな目を持って見ない人が、いるとは思えない。でも、この時代がしばらく続いた後には、きっと、人間は、むかし持っていた「想像力」をもう一回取り戻すと思うよ、そう、信じたい

それで、東海道四谷怪談の原文だけど、なんとも形容しがたいのだけど、むかしの言葉で言うと「紙背から浮かび上がってくる」みたいにそのようすが感じられる、「江戸時代」が、じかに心に感じられるようになるのである。これはかなりの驚きだった。歴史もののテレビドラマは僕は見ないのだが、ああいうものをいくら見尽くしても、決して得られないと思われる、経験の塊みたいなものが心に現れるのである。歴史ドラマが取りこぼしているものは、僕には何となく分かる。それは、きっと、身体の「動き」と「リズム」なのだと思う。昔の人は、あんな表情はしなかったし、あんな風にしゃべらなかったし、あんな風に歩かなかったし、あんな「間」で動かなかったはずなのだ。そういった、歴史ドラマの主題として取り上げられる事件の、当の「事実」に、単に付随するものと一般に考えられている「動き」の中に、実は本物の霊が潜んでいるのではなかろうか、そう思える。仮に、劇中で展開されている「事実」を「絵画的」とするなら、もうひとつ同じだけ重要な「音楽」を聴く耳が必要なのではあるまいか。

じかにものを感じる、というのは不思議なことだ。四谷怪談は、かなり長い物語だが、最後は割りとあっけなく、唐突に終わるのだ。お岩の亡霊に悩まされる伊右衛門は窮地におちいり、幾人かの人間を切り捨てて、とりあえず門戸を出て、逃げようとする。すると、そこに與茂七が待っていて、立会いになる。お岩の亡霊は、伊右衛門の白羽に取り付き、思うように刀をふるえず、伊右衛門は與茂七の一刀の元に倒れるのであるが、伊右衛門の最後の言葉は「おのれ與茂七」、それだけである。そして、「どろどろはげしく、雪、しきりにふる」そして「幕」、そして「めでたく夜討」、で唐突に長い物語が終了する。

このときに、ふりしきる雪が、本当に自分の心の中でも降るのである。こういう感動は、一生、忘れないと思う

 

日本ギライ

日本人が自分で自分の首を絞めているように見えるのは、これは気のせいなんだろうか。仕事をいたずらに作り出して、その作った仕事に追い立てられて、回りを巻き込んで無意味な仕事の山を作って、みながそれに窒息している。私生活をも巻き込んで追い立てられる、そんな状況のことである。欲望と煩悩のかたまりだね。次から次へと欲望の対象を作り出し、集団で煩悩の虜になっている、そんな風に見えるのは、弱った自分の心のなせる、気のせいなのだろうか。しかし、こう感じるのは、何も今に始まったことじゃなく、何十年も前から日本についてそう思ってきた。だから、ずっとむかし、外人と会うたびに「俺は日本が嫌いだ」と言っていたのだ。今のように大人になって言わなくなったのは、日本人という自分から逃げるのが難しいと感じるようになってきたからかもしれない。むかしは、自分は、日本人なんか捨ててしまったって、リベラルな、囚われない、一個の人間でいられるはずだ、という根拠のない自信があったのだ。やはり、自分に無防備なパワーがあったからだ、と思う。どうやって、もう一回、取り戻そうか? いっぺん、もういちど徹底的に嫌ってみようか。ニーチェがドイツに対してやったように

 

風邪を引かない体なこと

職場そのほかでよく話題になるのだけど、僕は体質上ほとんど風邪を引かない。実は自分が風邪を引かなくなったのには理由があって、その顛末をネタとしてよく話したりする。何度も同じ話をしているので、ここで一応書きとめておこうかと思う

中学3年の秋の終わりぐらいに、僕はギターを弾き始めた。いま思うとちょうど高校受験のときだったはずで、勉強もせずギターばっかり弾いていたわけだ。もっとも、たしか自分は偶然、そのときの内申書の出来がとてもよく、試験はおざなりで受かることになっていたはずで、きっとそのせいだったのだろう。友達に借りたんだか、買ったんだか忘れたけど、ボロボロのフォークギターを手にして、夢中になって練習していた

さて、そうこうしているうちに冬になる。勉強部屋と呼んでいた当時の自分の部屋は完全な北向きの部屋で、ストーブひとつない殺風景ながらんとした部屋だった。当時、家族5人で住んでいた鉄筋コンクリートの社宅である。それで、冬だったからか、ほぼ毎日、風呂を沸かしていたのだが、自分はいつも最後に入る慣わしになっていた。だいたい、夜11時ごろに風呂を出て、それで暖房のない勉強部屋でギターを弾くのである

なぜだかわからないのだが、真冬だというのに自分のぼろいパジャマは、ほとんど1年中きたきりのぺらぺらの一枚もので、冬でもそれ一枚、ほとんどこの前、網走刑務所で見た囚人なみの状態であった。そんなかっこうで、暖房もない北向きのコンクリートの部屋で、11時から、おそらく1時過ぎまで、2,3時間に渡ってひたすらギターを弾いていたのであった

中学生ぐらいの年頃というのは、夢中になり方が半端でなく、集中力もものすごく、極寒の環境でも寒かったなんていう思い出はまったくなく、とにかくひたすらギターであった。それを、一冬、ほとんど毎日やっていたわけである。今思うと、あの集中力がいま手に入ったら、きっとすごいことになるだろうな、と思う。我ながら少しうらやましい

さて、自分が風邪を引かなくなったのは、その冬以降である。ほとんど武者修行に等しいあの一冬の訓練で風邪を引かない体に生まれ変わったのである。たしか、結局、高校生、つまり15歳ぐらいから、30歳を過ぎたころまで15年ほど、まったく風邪を引かなかった覚えがある。これが、もう、どんなことをしても大丈夫なのである

回りがどんなに風邪引きだらけでも、風邪菌を直接注入しようが何しようが、どんな状況でも絶対風邪を引かない。あと「寒いと風邪を引く」という文字は、かの真冬の修行以来、自分の辞書からはすっかり消えてしまったせいで、「寒い」と「風邪」がまったく結びつかないのである。そうなっちゃうと、これが本当に大丈夫なのだから、病というのは本当に気のなせるものなのだなあ、と思う

しかし、30歳を過ぎたころから、たしか、ごくまれに風邪を引き始めるようになった。おそらく、これが「歳」、ということなのであろう。抵抗力が落ちてきたわけである。それにしても、一般人に比べると、おそらく圧倒的に少ないのは変わらずである。今現在では、どうだろう、2,3年に一回ぐらいじゃないだろうか。それなので、たまに風邪を引いて、仕事を休んで寝込んだりするとちょっと嬉しい。特に、2,3日後に熱が下がって、それでも大事をとって寝てたりすると、すごく幸せを感じる。これは、みな、そうであろうか

実は、長年の経験から、風邪を引かない、というのはそれなりに寂しいものなのである。回りで、皆が、風邪うつされちゃってさー、とか、インフルエンザがどうの、だとか騒いでいてもほとんど他人事で、仲間に入れず、ちょっと寂しい。それに、風邪だ、と言って合法的に仕事を休んで、みんなから心配なんかもされて、それで家で十分休息できるんだから、風邪っていいよね。少なくとも自分にとっては、ちょっとうらやましかったりする

と、いうわけで、僕が中学のときやったような修行を子供にさせれば丈夫な体に育つよ。もっとも、やめた方がいいと思うけど(笑)