ツレヅレグサ・ツー
            ッテナニ?

十一 十二 十三 十四


自転車
カラスが好きだ
いい加減に生きるって?
ゴッホ
ゲーデルの不完全性定理
電柱と雀

卑劣漢と泥棒
なぜ今週はあっという間に終わるのか?
今どきの芸術
やっぱりテレビは無い方がいい
芭蕉
いまどきの赤子
道徳
高尚について
ドストエフスキー
手に入るなら何をしてもいい
鯖とビール
滑稽
本は時々読めばじゅうぶん
オヤジギャグ
ゆるぎない大人
ナスとキュウリ

 

GO HOME

自転車

自転車で坂を下ってて思ったんだけど、もしこの道が平らでつるつるで道がずっとまっすぐだったら、こがないでどこまでも行けるよね。てことは、遠くへ行くっていうのは労力のいらないことなんだね。ただ、時間だけかかる。なんだかよくわからないけど、あーそうだったんだ、と自転車に乗りながら思った


カラスが好きだ

前々から思っていたが、カラスはかわいい。あのひょうひょうとした風貌が好きだな。ゴミ捨て場を荒らすカラスは、いまや人間の生活のちょっとした敵になっているけど、願わくば強制排除(人間主体の場合、これは殺す、ということだよね)に踏み切らないで欲しい。今のところ、ゴミの出し方を工夫しましょう、で済んでいるところは、僕らの生活がまだそれほど荒んでいないことの表れのように思い、ほっとする。お互い迷惑をかけながら一緒に暮らそうよ、と言いたい。


いい加減に生きるって?

成り行きまかせに生きるって、やっぱり間違ってるのかね・・ 僕の理論(適当 笑)によると、人が成り行きまかせに生きると、その人の素養、生まれ、素性、そういった地のものが表に出るほか無く、その人以上にも以下にもならない。でも、その人の地という生涯動くことの無いあるレベルがあって、そこにその人の人生が収斂して行くことにはならない。なぜかというと、人間にとって生涯動くことの無いものってのは無いから。だから、その人の地は確かに動かないけど、その地から生まれるその人の、なんというか自己開花のようなものは生涯に渡って常に動いていて止まることがない。

ま、とにかく、人生がその人そのものになる、っていう結末になるはずなのだ、いい加減に生きると。ということで、今の自分を状況を見てみると、どうもうまくない(笑) 成り行きまかせが間違ってるか、そうじゃなければオレってこんなていど、ってことか??


ゴッホ

そういえばゴッホ展をやってるね、この調子だとたぶん行かないかも。ゴッホの絵は、心の中で簡単に再現できるほど熟知しているからね、改めて行かなくてもいい。最近は、たまたま彼の絵を目にするときも、心の中で挨拶して通り過ぎるのが常だな。僕がおよそ20年前に上野のゴッホ展で体験した、ほとんど神秘体験とも呼べそうな光に関する開眼は、いまでもかけがえのない思い出としてしっかりと刻み込まれている。それにしても、思い出というのは妙なものだなあ、当の陶酔感はまったく再現しないけど、その意味は思い出せるものとして心に残っている。心のどこかに、図書館の中の書物のようにひっそりと収まっている。永久に、止まったものとして留まっているのだろうね。まるで肉親と死に別れたみたいな気持ちだよ。


ゲーデルの不完全性定理

「数学には証明が不可能な命題が無数にある」という有名な結論を久しぶりに思い出した。昔は、これは自分を科学から引き離す口実に使ったもんだが、最近は感覚がちょっと違うね。ゲーデルエッシャーバッハっていう分厚い本をぱらぱらと眺めていて思った。「時間の海の中で自由に楽しげに泳いでいる人間」というイメージが湧いてきて、楽天的という性質の本当の意味が見える気がする。人間はどうしても「時間」というものを「止まった」イメージで想像するが、それはすぐに自分の手を逃れて、どこかへ泳いで行ってしまうのを止められない。「止めよう」とすると「逃げる」のが「時間」なのだ、と本当に得心するには、人間はずいぶんと「不安」と戦わないといけないようだね、そういう風に生まれついてしまったのだ。でも「時間」と同じ速さ(正確に厳密に)で「自分」が流れて行けば、時間という「魚」と一緒に泳げる、というか、自分が魚(時間)そのものになって、自由に、楽しく、楽天的に泳げるじゃないか。それで、このことを、生きることに対する「感謝」と言うんだね。感謝の心がぐらつくと、「時間」の速さより遅くなったり、速くなったりして、その差分から「不安」が生まれ、そしてそれがさらに「感謝」に水を差す。この「感謝」というのが、実際、僕がいろいろなものに接するときに一番のよりどころにしていることに思える。僕にとってこれを一番、鮮やかに、高らかに歌ったのはニーチェだね。それで、僕は彼が好きなんだ。


電柱と雀

うちの四階の窓のすぐ前に電柱が立っている。真正面がちょうど電柱の上の方にあたるので、黒っぽい太い電線と細い電線が醜く絡み合い、ところどころビニールテープが汚らしく巻きつけてあり、お世辞にもいい風景とは言えない。それでも、その向こうには一面に公園の緑が広がっているので、朝になるといろんな鳥たちが飛んできてさえずっている。今朝は、たくさんの雀たちがこの入り組んだ電線の間を、やかましく鳴きつづけながらぴょんぴょん飛び回っていた。遊んでるんだか、言い争いをしてるんだか、はしゃいでるんだか知らないが、こちらから見るとずいぶんと楽しげである。雀から見ると、こんな醜い電線のかたまりも遊び場みたいなものなんだね、まあ、どこでも遊び場にしちゃう子供たちみたいなもんだ。醜いと感じるのは、外から見ている僕の方で、そのとたんに視界からシャットアウトしようとするけど、違った方向からもう一度見直すのもいいものだな。そういえば、小学生のころ、とある電柱の下に色とりどりの細い電線が一面に落ちているのを発見し、夢中になって収集したのを思い出した。電柱もたまには捨てたもんじゃないと(笑) 


桜というのは本当にきれいだね。それにしても桜の木って花をつけないとほんとに地味だ、不思議だ。他にも木はたくさんあるけど、桜みたいに大きいのに一面に小さな花をつける木って思いつかない、桜以外はみんなそこそこに一年じゅう地味だ。いや・・ ああ、そうだ、モミジの紅葉って手があったな!(笑) あ、それと、イチョウに生る旨い銀杏って手もあった。タケノコの竹や、松かさの松や、ヒノキ風呂の檜や、柳の下の幽霊もあった。考えてみると、みな結構エンターテインメントしてるや


卑劣漢と泥棒

カラマーゾフの兄弟の長男ドミートリーの言葉に「俺は卑劣漢だが泥棒じゃない」というのがあって、学生時代に強烈な印象を受けた僕は、この言葉がトラウマになって困っている。芸術作品を、情操教育だ、個性だ、教養だ、何だと呑気に若者に薦めるのは、本当はよく考えてからにした方がいい。芸術作品はときに爆弾のように作用することもある。


なぜ今週はあっという間に終わるのか?

時間の立つのが速く、あっと言う間に今週が終わっちゃった、というときは、たぶん、無意識の時間が占める割合が大きいからだと思う。歳をとると年月の過ぎるのが速いもの同様みたい。かなりの時間を自動的な行動、つまり無意識ですごしていると、無意識中は時間が飛んでしまうので、時間経過が速く感じるわけである。「意識」というのは、新たな外乱とそれに対する新たな対応によって生まれるもので、大半の外乱に対して対処方法を心得てしまっている人は、たぶんあれよあれよと年月が過ぎるはず。あと、外乱と対応が完全に一体になって動いているのが陶酔状態と言えそうである。陶酔しているときに時間は無い、だからやはり時間は速く過ぎる。前者と後者は同じように月日を短くするけど、終わってからふと我に返ったとき、陶酔はおそろしく大きいものを心に残すけど、自動行動は何にも残さない。つまり、終わったあとのその人の人生を変えたり、変えなかったりする。そこが違うね。


今どきの芸術

仕事の関係で芸術について考えないといけなくなり、ちょっと考えたけど、いまどきの芸術って、面倒くさいんだねえ。モダンアートについての批評文などまぐれ当たりに読んでみると、非常にややこしいことが書いてある。でも、これって字面がややこしいだけで、内容は非常に分かりやすく、何の裏もないみたい。分かり易すぎて気が抜けるぐらい。むかしどこかの有名な、でも歳なアーティストが、現代詩を読むコツは行間を読まないことだ、と言ったそうだが、それと似ている。表面は難解だったり、不可解だったりするけど、その内容は気が抜けるほど簡単、というところから、一つの型からモノを「大量生産」する、という言葉を思ったりするけど、うーん、ちょっと違うか・・ いずれにせよ、受け手(批評家も含め)に作品の価値付与を分担させる手法が発明され定着してから、芸術も生活も格段に豊かで楽しく雑多で、軽々しくなった。


やっぱりテレビは無い方がいい

さっき飯食いに入ったラーメン屋にテレビがあったんだけど、絵も音も騒々しいねえ、まったく。とかなんとか言いながらもラーメン食ってる間じゅうテレビから目が離せず、時々一緒に笑ったりしている。家に帰ってくるとほんとに静かだ。テレビが無い生活はもう何年になるかわからないけど、いまだに、あーなくてよかった、と思う。ラーメン食いながらあんなに夢中で見てるくらいだから、家にあったら絶対見るよね、それがいやだ。ということでテレビがないので、新しい情報があまり入ってこない。そのせいか、ときどきは考え事をしたりするけど、それがまたいつも同じ主題で考えてることが多い。パソコンはあるので話題は事欠かないはずだけど、ネットはおざなりにしか見ないし、ネットサーフも苦手である。テレビはスイッチを入れれば、自分の日常では気付かないことを強制的にやってたりするから、それをきっかけに新しいことを発見したりして、世界が広がったりするでしょう。テレビがないとそれがない。ということで、同じことばかり考えている。進歩はまるでないけど、進歩がないことに焦ることがなければ、別に支障もない。なんといっても世の中(いや東京が、かな)が騒々し過ぎて、家でぐらい静かでいたい、ということかな。


芭蕉

し ば ら く は 花 の 上 な る 月 夜 か な

芭蕉は好きだなあ。この句は、とある地方でたまたまみつけた句碑にあったもので、しばし情景を想像して佇んだ。ふと上を見上げたら花のすぐ上に月が出ている、しばらくの間は月も花の上にいてくれるだろう。長くは続かないけど、何の文句があるものか、それに気付いたら、もうそれは永遠じゃないか、という風に思った。

過去というのは、現在が流れて行くにしたがって、1秒1秒、雪だるまのように膨れ上がる不気味な塊としてどこかあの世に放置されて行く「なにものか」なんだろうけど、その塊から何かをすくい出して形にすることで、未来へ延長することができるんだな。

ブログやインターネットやデータベースは、その心無い過去を、未来で、再利用可能にするけど、それに心を入れるのはいつまでたっても人間だろうね。ただ、僕のイメージでは、コンピュータの記憶装置上の「再利用可能な過去の塊」は、なんか、秩序なく雑多にはがれたスクラッチ板のような感じだけど。

それにしても、ただでさえ捨ててしまわないとやっていけない過去が、残ってる、ってのも時々鬱陶しくなるね。ま、気にしなけりゃいいか。


いまどきの赤子

いまどきの赤ん坊は、生まれたときから目を開いてこっちを見て、髪の毛もかっこよく生えてるんだってね。昨日、孫ができた人に聞いた。昔の赤ん坊は、目閉じてて、毛もなく、赤くて、しわくちゃで、不細工だったよね。なんか、最近は、生まれたときから人生コースがだいたい決まってるってことの現われなのかな、と思った。


道徳

僕の道徳的トラウマは次の2つらしい。親父からは「卑怯なことをするな」、祖父からは「だますよりだまされるほうがいい」 しかしこんな歳になっても、まだ、これらの言葉が心の中でぐるぐる回っているって、オレって進歩ないなあ。要は、自分の言葉として定着していない(だからトラウマといいたい)。しかし道徳って何だろうね。いまどきじゃ、小学校のとき習った遠い思い出、って感じに見える。代わりを取ったのがエチケットってやつだろうね。エチケットは人と人の間の不快をひたすら減らす努力だと思うけど、道徳は違うね。道徳は真の友情も作るけど、真の敵も作るもんな、したがって争いも。うーん、考え方が古い(笑)やはり、こういったものも文学や哲学の悪影響だ。でも、まあ、いいか、少なくとも、人生決まって後は老いるだけ、という事態にはなりそうもないから。


高尚について

今の世の中、もう「高尚」なものなんて無いよね。というか、「高尚」という言葉そのものが死んだんだと思う。ニーチェがその昔「神」は死んだ、と言って、その代わり「高尚な芸術」を残したんだけど、今度は「高尚な芸術」も死んだ。これできれいさっぱり「高尚」なものは無くなった。回りをよく観察してみると、これは自明のことなんだけど、いまだに「芸術は高尚だ」と思っている人がなんと多いことか


ドストエフスキー

懲りもせず、また「悪霊」を読んでいる。北京往復の飛行機の暇つぶしのためだけど、やはり今読んでもすばらしい。やっぱり僕がちょっと前に書いたことは僕としては当たっている。つまり、生きることに対する感謝と喜びに溢れている。ありとあらゆる人間の型が出てくるが、すべてに共通していることは、一人として人生を「諦めて」緩んでいる人間がいないということだ。皆が恐ろしく強い渇望と欲望のもとに行動している。これは実は現実には有り得ないことだ。小説中のどんなちっぽけな、取るに足らない、凡人、変人、卑劣漢ですら、人生の一種異様な大コーラスの一員でないものはいない。たしかに、小説というものは、おしなべてそういうものかもしれないが、彼ほど、その異様なコーラスと現実世界とを大胆に巧妙に混合した人を他に知らない。主人公のスタブローギンは、ロシアが生み出した深刻なニヒリストの典型とされるが、はっきり言うが、これが「ニヒリスト」と呼べるか? これはニヒリストでは断じて無い(ニーチェ的な意味で。徹底的にニヒリストであることでニヒリスト自体を越えている)生に倦んでいる(飽きている)んじゃなくて、生の過剰からニヒリスト的行動を取っているのは明らかで、スタブローギンはニヒリストなんかじゃなく、これは悲劇的人物であり、苦行僧であり、その外面以外は、およそニヒリストの性質の逆を行っている。ドストエフスキーが言っているのは「ロシアでは」ニヒリストはこのように現れる、ということなのだ。つまり、ロシアには西欧的ニヒリストは育たない、と言っているのだ。ロシアは生の過剰だ、と言っているのだ。つまりロシア礼賛である。

何度読んでも生きる希望がわいてくるなー、ドストエフスキー


手に入るなら何をしてもいい

「目的のためには手段を選ばず」という言葉があるけど、現代ではこれは普通のことになったね。そんなことは無い、極端に言えば欲しいものを盗んだりしないだろ、と言うかもしれないが、盗んで見つかったら損害をこうむる、したがってリスクが最小な方法で手に入れる手段を選んでいるだけである。当の目的を手に入れたときの利得と、とろうとする手段による損失を計量して損が最小になるように手段を選んでいる。冒頭の言葉は、目的の利得が非常に大きい場合の一例に過ぎない、ということかな。しかし、これが現代なのである。最近の若者の犯罪で、本当の意味で悔悟のない、反省のない、罪悪感のない事件(万引きひとつ取っても)が非常に増えていて、大人たちは嘆いているけど、実際、しらばっくれるな、と言いたい。そういう社会を選んだのは僕ら大人なんだからねえ(この言葉も言い古されて皆実感なし、って感じ)。自分だって仕事でしょっちゅうやってるじゃないか、とも言いたいよ。とにかく、もう僕らは昔には戻れないんだから、なんか新しい、昔と発想の違う道徳を作らないといけないんだろうね。


鯖とビール

僕の友だちの韓国人が、そのむかし日本に単身やって来て、ようやく仕事が順調に進みだしたころ、仕事が終わると一人で汚い一杯飲み屋に入り、鯖の煮付けを注文してビールを飲むのがとても気持ちがよかった、と話してくれたことがある。お金はいくらでもあるけどわざわざ安飲み屋に入って、そんなところでビールを飲んでいると、前途に何も無く、未来が広々と開けている、そんな感じだったんだろうなあ、と、聞いている僕もとてもいい気持ちになった。今でも、時々この彼の言葉を思い出す。持つべきものは友達だね。それも外国人が結局は一番うまく、わだかまり無く気持ちが通じ合える気がする。相手が日本人だと、つまらないことまで分かってしまったりするからね、悲しいことに。 


滑稽

才能をそなえたほとんどすべての人が他人から滑稽だと思われることだけを恐れて不幸でいる、という文句、ひっかかっていたけど、何のことだか分からなかった。こんな何気ない言葉も、こんな歳になって、あれ?このことかな? などと思い当たったりするというのも、まあ、人生って果てしがないものだね。自尊心に悪魔が乗り移って時代を荒らしまわっている、と続くんだけど、言葉だけ取り出してみると激烈な言葉で驚き。小説の中では、主人公が中学生あいてに言った言葉なんだけど。ちなみに小説はカラマーゾフの兄弟


本は時々読めばじゅうぶん

やっぱり僕のばあいは、本はときどき偶然に読むのがいいみたい。けっこういいタイミングで、いい本に出会えるんだよ。ひたすら多読するってタイプじゃないんだな。結局は、人間の変化や進歩やなにやらがスローなんだな、だから入ってくる情報もスローじゃないとアンバランスになる。月一冊でじゅうぶんすぎるぐらい。とうぜんこんな調子なのでテレビはいらない、知識のインプットの調子が早過ぎて調子が狂う


オヤジギャグ

おととい行った近所のライブバーのマスターがキャサリン(男)って人なんだけど、この人の連発オヤジギャグがスゴイ。で、僕をそのお店に連れてってくれたアーさん(男)がまた連発オヤジギャグ王で、深夜のお店でオヤジギャグバトルを繰り広げていた。あまりに激しい応酬のため、我々ギャラリーはギャグに反応して苦笑してるヒマもなかった。そういえば、仕事でサラリーマンオヤジギャグ人間(男)と同行したことがあるのだが、ギャグの頻度は同程度に連発だが、やはり、お水系のオヤジと比べるとオヤジギャグの輝きがいま一歩である。オヤジギャグにも微妙に優劣があるらしい。


ゆるぎない大人

この前、僕と同い年ぐらいの外人に会ったのだが、彼はテクノロジー嫌いだそうだ。ついちょっと前までの僕たちの生活は、朝起きると、窓を開け、階下へ降りてポストの郵便物を取り、テーブルについて封筒を開け、新聞を広げ、朝食をゆっくりとる静かなゆるぎない生活だったのに、現代のこのざまはなんだ。自分はパソコンのメールなんかまっぴらだ、俺は郵便配達人の音が聞きたいのだ、と言っていた。僕がずっと若い頃、どんな事柄についてもゆるぎない自分の見解と態度がある、という人間になることにあこがれたこともあったが、こうして中年になって、結局僕はそういう風にはまったくなれなかった。「何々についてどう考えますか?」などと真顔で聞かれて、先の外人みたいに言下に答えられたことなどほとんど皆無だ。僕の答えはいつでも「うーん、よくわかんない、まあ、どっちでもいいんじゃない・・」という感じ。四十にして未だ混乱だ。情けないと同時に、これでもいいのだ、と頑張って意地をはり続けるしかないや


ナスとキュウリ

三週間前ぐらいに安くて買ったナス三本とキュウリ三本、ずっと食べなくちゃと思いながら忙しさにかまけて冷蔵庫に放置してあった。今日、とうとう料理して全部食べた。三週間もたってるんだけど、切ってみるとナスは種が黒くなり、キュウリも種が茶色くなっていたけど、腐ってないんだよね。ナスは油焼きしてショウガ醤油、キュウリは鶏肉と豆板醤で炒めて、両者ともおいしい料理に仕上がった。味は、たしかにちょっと落ちるけど、十分おいしく食べられた。変なんだけど、ここ三週間、ほんとに毎日毎日、もうダメになってるよな、早く食べないと、と思いながらすごしてきた。すごく気になっていたのである。ふたつとも腐ってなかった、ということは、冷蔵庫の中で三週間も生きて、僕が取り出して食べるのを待っていたんだね。たぶん、僕が気にするのをやめたとたんに腐ったんじゃないかな。二つあわせてたかだか二百円なんだけど、ホント、無事に食べられて良かった、感謝してる


トイレに入って便器にまたがってよく見たら周りに人々がいておでん食ったりビール飲んだりしてるのでああここは新手のトイレ居酒屋なんだと思い人に話したくなった、変な夢