ツレヅレグサ・ツー ッテナニ? |
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いまどきの居酒屋
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さいきん、居酒屋とか食い物やとかでチェーン店のがやけに増えてきて、みんな似たような味と雰囲気とサービスでときどきイヤになっちゃうことがあるね。おいしいところはそこそこにおいしくしてあって、若者中心のところはそれなりの加減がしてあったり、なんかグループ会社の企画室かなんかのミーティングルームでリサーチとディスカッションを繰り返して作った味と雰囲気っていう気がして、なんか人間味が感じられないんだな。もちろん、飲んだり食ったりしているときは気に留めないけど、いい加減うんざりすることがある。そんなときには、やっぱり昔ながらの超オヤジ飲み屋へ行くと、アーヤレヤレと落ち着いたりする。給仕のオバちゃんが出てきて、チャチな白いプラスチックの皿の上に、その辺で売ってる安売り豆腐のせて、ネギにおろしショウガ、それで、さ、ショウユかけて食え! みたいな冷奴とか、いつ茹でたんだかわかんないマズイ枝豆とか、テキトーに作った煮込みとかね、食いながら、ビール飲んでると、まずいナー、とは思うけど、うんざりはせず、なんかほっとするんだよね 地元の上野毛の駅前にラーメン二郎っていう有名なラーメン屋があるので、さっき行ってみた。いやー、二日酔いの胃にはちょっと辛い。大盛りなみの量の太麺、たっぷり浮かんだ脂にニンニク、ステーキぐらいの厚さに切った煮豚、と、不足はまったくないけど、「勘弁して、もう、おなかいっぱい」って感じ。店内のポスターに「聖地三田より降臨」とか書いてたので、本店は三田なんだ。今から30年前、都立三田高校の学生だったときから、たしかにラーメン二郎あったね、あそこが元祖か。あのころラーメンといえばあっさりした鶏がらスープに細麺しかなかったのが、ここラーメン二郎は当時すでにスープの上に5mmぐらい浮いた脂にニンニクが入ったギトギトラーメンで、他にない味ってことで繁盛してたっけな。高校生の自分も友だちに連れられて一回だけ食べたけど、出てきたラーメンのルックスを見て、いやーこりゃすごいな、と思ったことだけ覚えている。リピーターにはならず、一回だけ。で、今日、なんと30年ぶりに再会というわけだ。感想はやっぱり同じ、いやーこりゃすごいや。 ニューギニアの子供たちは、ホントにお行儀がよくていい子達だった。そういえば、昔、ウイグル地区のカシュガルに行ったときも、子供たちのお行儀がよくてびっくりしたっけ。大人たちの邪魔をしない、わがままを言わない、忍耐強い、ききわけがいい、騒がない。東京に帰ってくると、いたるところで見るわがままいっぱいな子供たちとの落差はすごいね。僕自身は、そういう東京の子供たちを見て、まあ、子供だから仕方がないか、それにしても親も親だよな、云々と、どちらかというと容認派なのだけど、ニューギニアから帰ってきて、改めて東京の子供たちを見たらちょっと違う風に思った。なんか、東京の子供たちが哀れに見えてね。現代の大都市のすみずみにまで行き渡っている、尽きることのない欲望や、それゆえの不満や、フラストレーションや、なんやかんやが、子供の態度を通して表れているように見えてさ。まあ、子供のいない僕だからそんな風に見えちゃうんだろうけどね 自分にとってロバート・ジョンソンの歌を歌うのは、慰めみたいなところがあって、何もする気がしなかったり、新しいものを作るのが面倒だったり、というとき、よく生ギターを手にして彼の曲を歌ったりする。なんか、落ち着くんだね。でも、そこは、やっぱりだてに音楽を30年以上やってないから、歌うたびに、なんとかうまくやろう、と思うんだね。完全コピーではなく、その心を自分でも表現したくてね。ほんの少しずつだけど、だんだん良くはなってきた。で、今日、あらためて、久しぶりにロバート・ジョンソンの原曲を聞いてみると、やはりびっくりする。今まで聞こえなかったディテールが聞こえてきてね。彼の演奏も、あるいはジミ・ヘンドリックスの演奏も、好きな音楽はみなそうだけど、彼らの演奏って、もうこれ以上良くできない、っていうところに達しているんだよね。というか、演奏そのものが歴史でたった一回起こった事件、みたいな姿をしているせいで、およそ、これをさらに良くしよう、改良しよう、ということが思いつかない、そういう演奏なんだな。だから、彼らの演奏から学ぶことは多くて、まだまだたくさん残っていると思うんだけど、最後の最後、どうあっても学ぶことのできないモノが残るんだよね。それは、たぶん、彼らの人生そのものだろうね。そこについては、真似もできず、学んでも自分に応用できず、それは僕独自のものを作っていかなくていけないんだなあ、と、思ったりする。とにかく、何かと、いろいろ思うことが多いね、ああいう人たちの演奏を聞くと 自分のエネルギーって、やっぱり有限だったんだなー、と、仕事を変えてここしばらくで思った。テレビを買わずにテレビを見ない、とか、雑誌や漫画も読まない、とか、仕事も増やさず適当にさぼるとか、なるべく早起きするとか、いろいろな手段を講じて、それでエネルギーを温存して、自分にとって一番いい活動へ丁寧に使っていたというわけみたい。このへん、めいめい自分なりの衛生学があるんだろうね。そういえば、さいきん、通勤の地下鉄の中で、漫画を読んでるスーツ姿のサラリーマンを見て、ああ、なるほど、こんなシチュエーションで漫画を読んで、それで日々の生活のバランスを取ってるんだろうな、この人、などと思った。これまでは、なんだこいつ、と気にも留めなかったんだけど、違って見えるもんだね。かといって、僕が漫画を読み始めることは有り得ないけど、そろそろ新しい衛生手段を考えないとなー たしか小学校の2,3年生のころ、人体の内臓に凝ったことがあった。今のこんな世の中では、子供が、日がな、人体解剖図をカラー刷りで載せた図鑑に見入って、内臓の様子をノートに書き移したりしていたら、親は心配するだろうね(笑) しかし、当時は、今みたいに子供が猟奇殺人を犯すなどということは考えられなかったので、親も、そんな僕を見て、この子は将来は医者かな、ていどに思って放っておいたのだと思う。今、思い起こすと、別にこれらの内臓が自分の体の中にも入っているのだ、という意識はまったくなく、ただただ、図鑑に載っていた、色とりどりの内臓と、その奇妙な形と、それらが立体パズルのように組み合わさっている様子が、たまらなく魅力的に見えたのである。何と言うか、純粋に視覚的な興味だった。そういう意味で、医者ではなく画家か彫刻家といったところだろう。 そんなころ、「人体模型」というプラモデルが発売された。当然ながら、僕は欲しくてたまらず、親にずいぶんとねだったのだろう、誕生日かクリスマスかなんかのプレゼントでとうとう買ってもらった。30cmぐらいの高さの全身の模型で、まず骸骨を組み立て、それから内臓類を個別に組み立て、これらを透明の人型のケースの中に、順序良く収めてゆくことで完成する。たしか、色の指定があり、色をつけたかったのだけど、塗料というものを知らず、クレヨンで塗った覚えがある。プラモデルを作ること自体がたしか初めてで、当然、きちんと出来上がることはなく、何となく中途半端で終わってしまった。そうこうしているうちに人体趣味も終わり、興味は他へ移っていった ところで、なんでこんなことを思い出したかと言うと、さっき、竹ひごと竹ひごを細いアルミのニューム管というもので接続する、という記述を読んだからである。実は、人体模型の骸骨は、骨の部品同志を金属製の細い針金のようなものでつなぐのである。つまり、プラスチックとプラスチックを金属でつなぐので、その連想らしい。それで、鮮やかに思い出したのだけど、プラスチックの骨どうしを金属でつなぐ、ということが、その時の自分には、なぜかものすごく魅力的に感じられたのである。しかし、なぜなんだろう。分からないけど、何かどこかに秘密が隠れていそうだ 実は人体模型は、人体趣味が終わってから何年かたったときに、なぜか再び買って作った。そのときは、自分も少しは大きくなっていて、プラモデルも器用に作れるようになっていたので、ラッカーを買って、とってもきれいに内臓を塗り分け、完璧にできあがった。しかし、そのころの人体模型は微妙にリニューアルされていて、もう、あの金属の小さな針金はなく、代わりに柔らかなビニール線のようなものが使われていた。昔、同じ模型を手にして作ったときの奇妙な快感は、もう、無かった。その代わり、ショーウィンドウに飾れそうなぐらい、うまく仕上がった完成品ができた 自分のホームページの方で、ツレヅレグサ・ツーというのをオープンした。何のことはない、ここのブログの過去ログに若干手を加えて、レイアウトしてまとめなおしたものである。兼好が徒然草を書いたのは、30代で出家した後とは知っていたが、さっき調べてみたら、この随想は兼好が47歳のときに書いたものだそうだ。なんと、僕の今の歳であり、少しびっくりした。こういうのを偶然の一致、というのだけど、何かと因果をつけたがるのが人間の性質なわけで、なんか特別な感慨を残してゆくね、こういう偶然というのは。身の回りや、世の中で起こっていることの、因果や、連想を何かと見つけてくる、というのが、顧みると、自分が特に文章を書くときにやっていることだね。考えてみると、論理の力で因果や、連想を抽出応用する、ということに自分は何の興味もない。つまり、たとえば、「これこれの事が起こっているから、次には、これとこれとこれが起こるはずであり、そしてさらにその次に起こることを考えると、2番目のことが起こる可能性が高く、云々」、という詮索のしかたに、ほとんど興味がない。したがって、能力としても出来ない。なぜ、こんな風になってしまったんだろう。 ツレヅレグサ・ツーをまとめているとき、むかし自分が書いた文章に、こんなような文句を見つけた。いわく、魚が水の流れに乗ってきままに泳ぐように、自分も、片ときも止まらず、変化を作り続ける「時間」の流れの速さと、正確に同一の速さで流れて行けば、いいじゃないか云々。なるほどね、しかし、これって、人間をやめていわゆる動物になれ、ということでもあるよね。どうやったら人間のままそういう風になれるんだろう。こんなときに登場するのが、因果と連想かもしれないな、あれこれ想いながら泳ぐってわけだ。ここで、因果と連想を「歴史は繰り返す」的に使っちゃあいけない。歴史は繰り返す、っていう言葉は嫌いだな。歴史がもし繰り返すなら、なんで歴史なんていう無駄なものがいるのか、一回だけで十分じゃないか、と思う。 ま、あれこれ、いろいろ思うってわけだ。そういえば、因果っていえば、徒然草の中の僕の好きな逸話を 思い出した。あるとき、ある土地になんらか御殿を建てることになり、土を掘り返したら、人の高さより大きな巨大な蛇塚がでてきたそうだ。人々は、これは何かのしるしに違いない、こんなところに御殿を建てたらたたりがあるぞ、と恐れおののいて、建立の指示をしたある位の高い人に報告に行ったそうだ。そうしたら、その人、そんなものでたたりなどあるものか、撤去して川にでも捨てて、工事を続行しなさい、といわれたので、その通りにし、はたして御殿が立派にできあがった。その後、特にたたりなど起こりはしなかった。というお話し。記憶はあいまいだけど、こんな感じ。この人は、僕の理想の人だ 昭和43年発行の婦人倶楽部のお料理特集号がどっかから出てきたので、ぱらぱらとながめてみたら、これがなかなかに面白い。たかだかハンバーグとかポテトサラダひとつ取っても、数ページにわたってあれこれと解説してあって、昨今のレシピーの単純さとずいぶん違う。ほとんど、プロの参考書としても通用しそうな部分もかなりある。この頃の主婦というのはすごいなあ、これだけのことをマスターしていれば、ほとんど教養すら身についちゃう感じだよ。とかなんとかいっても、けっこう時代がかったところもあり、「スパゲッティ・カルボナーレ」というのなど、作り方とかが古臭くて面白い。卵と粉チーズを混ぜて最初にいり卵を作って取り出し、タマネギとピーマンとマッシュルームを炒めて塩、コショウ、味の素で調味し、卵を加え、ゆでたスパゲティを加えて炒めて仕上げる、とある。400gの麺に対して、サラダ油がたった大匙2杯、というのも、オリーブオイルをどぼどぼ入れる昨今の本場風とまるで違う。それより、何より、いり卵でカルボナーラというのも、日本式スパゲッティということで、なんか懐かしい。というわけで、昨晩、昭和43年のカルボナーラを正確にレシピーどおりに再現して作ってみた。そうしてみたら、あら不思議、本当に懐かしーい味のスパゲッティができあがった。いや、それなりにうまかったよ、タバスコとパルメザンチーズが食卓に無かったのがいまいちだったけど バッハのピアノ譜があったので、その中の一曲の最初の何小節かを、なぐさみに、クラシックギターで弾いてみた。曲の出だしはシンプルで、ちょっとだけ練習するとギターでも弾けるのだが、そのメロディとハーモニーのあまりの美しさに陶然としてしまった。それ以来、最初の4小節の旋律が頭を離れず、なにかと思い出してしまう。奥さんにピアノで弾いてもらったけど、なんか、ピアノだとふつうに聞こえてしまう。それが、ギターになると、素晴らしい響きに聞こえるのは、自分がギター弾きだからかもしれないけど、単純な下降フレーズが、本当に慰められる、癒される響きなのである。でも、音楽というのは不思議だな、いったい、人間の心のどこからこういう響きが生まれてくるのだろう。ほんの数秒の短い一片の旋律なのだけど、人の、苦しみも、悲しみも、不機嫌も、何もかも知っている、というふうに聞こえる。それで、何もかも知っていて、それでも慰めてくれる。そんな風に感じられる。全音づつ下降する旋律が、まるで、落ちてゆく涙を、高速度撮影しているみたいに見える。こういう貴重なものに、偶然、こんなふうにめぐり合う、という、出会いに感謝しないとね ファニー・ゲームという映画を借りてきた。なんかサスペンスらしい、というていどの知識で見始めて、どうにも展開の遅い、セリフの多い映画だなあ、と、ぼーっと見ていたら、急に展開し出して、それからもう10分ぐらいで、えらく不愉快になってきて、ぶちっとDVDのスイッチを切ってしまった。もう、耐えられない、って感じ。先を見るのがイヤなのだけど、一応筋書きが知りたいので、ネットでレビューを調べてみたら、次から次へと出てくること、至上最悪の不愉快映画、後味の悪い映画ナンバーワン、人には絶対勧められない映画、云々、とひどい評判で、最初の10分しか見ていない自分も、大納得した。あらすじを読んで、案の定、最後の最後まで不快のまま終わることを確認したのち、DVDの3倍速で残りを5分で見て、それでもう十分なので、もう返却しちゃう。それにしても、こんなひどい映画をよく作ったもんだ。僕も、むかしは、けっこうカルト映画が好きで、最低最悪映画をずいぶん見たもんで、たとえばディヴァイン主演のピンク・フラミンゴなどの悪趣味映画などが思い浮かぶけど、それらと比べて、この映画はちょっと違うね。ネットでは、ここまで人を不快にさせる映画を作れるという監督はある意味で天才だ、という評判だけど、そうかな。ひょっとしてひょっとすると、意外にそれほど難しくないのかもしれない。まあ、皆が言っているように、現実に起きている快楽殺人の実態を見ているようなもので、それが人を不快にさせるのだけど、ここで展開される世界こそが、世の中で隠蔽されている真実の姿だ、それを思い知るのだ、みたいな事で、確かにその通りだけど、それって割と想像力をそれほど必要とせずに出来ることかもしれないよ。だって、日常の僕らの生活だって、たとえば誰か他人を喜ばせて信頼を勝ち得るのはとても難しいことだけど、不快にさせて怒らせて信用をなくすなんてのは、ほとんどたった一言で一瞬で出来ることだからね。ま、というわけで、この映画、見ない方がいいですよ〜 日曜日、たまたま溝の口に用事があって、自転車で多摩川の橋を渡ったら、大山街道がすごい人手で、なにかと思ったら高津区民祭ってのをやっていた。街道の3駅分ぐらいの長さに渡って出店が並び、前へ進めないほどの人手の中、ひっきりなしにお御輿やら、パレードやら、マイナーっぽい団体の集団やらが通り過ぎ、なんともすごい盛り上がりであった。それで、さすが、川向こうの川崎っていうか、金髪のヤンキーママがすごくたくさんいて、ガキ連れでガンを飛ばして歩いていてちょっと怖い(笑) それにしても高津おそるべし、というか、この人出とこの熱気はなかなかで、けっこう楽しかった。その後、多摩川の橋を逆走して、世田谷に戻り、こんどは上野毛小学校でやっていた盆踊り大会へ寄ってみた。そうしたら、まあ、さっきと違って、集まっている大人も子供も上品なこと! 勉強できそう、というか、IQ高そう、というか(笑) 自分は世田谷住民だから自分を棚上げで言うけど、川向こうの方がぜんぜん楽しいし、だいたいがお祭りって田舎へ行くほど面白くてわくわくするよね 休みの日にファミレスに一人で入ったら、親子3人が入ってきた。お父さんはたぶん40歳ぐらいで、かなりできそうな頭の切れそうな人で、お母さんはふつうの感じな奥さんで、子供は賢そうな小学校低学年の男の子だった。ひとしきり注文が済むと、お父さんはノートパソコンを広げ、お母さんは文庫本を広げ、男の子はゲーム機を広げ、そのまま静かになった。料理が来たらふつうに戻ったけど、今風だね。僕は一人でビールを軽く飲みながら、真夏の殺人的な日差しに照らされた外の風景を見ていた。車がひっきりなしに通り、街路樹の緑は見えるけど、薬屋にパン屋にDPEの赤や青や黄色をめったやたらと並べた乱雑で不調和な看板を眺めながら、ぼんやりと考え事をしていた。ファミレスへ行く前に寄ったところでたまたま読んだ、とある人の言葉を反芻していた。いわく、現代という時代は、もし、その意志さえあれば、計量と計算によっていかなることでも実現できる世界である。そして、そのようなところには神様は棲むことができない。だから、神様は居ないのではなく、隠れているのだ、と。ファミレスに神様がいるかどうか知らないけど、自分の心の中は、ずっと神様が棲めるようにしてきたし、そのために生活も調整して来た。きっと、世の中のもっと違う世界も見聞きしてきなさい、ということなんだろうな、などと思いながら、店を切り上げて、うだるような暑さの中、自転車で家に向かった うちの奥さんが、昭和40年のお料理本に載っている麻婆豆腐の作り方を正確に再現して作ってくれた。そうしたら、僕が小学生ぐらいの頃にあちこちにあった高級中華料理のお店の味でびっくりした。実は、僕は、この味、一回まねをして失敗しているのである。ベージュ色の挽肉に白い豆腐、柔らかな香りに、まろやかで滑らかな味で、わずかに辛みがあって、それはそれとしておいしいし、何より、昔、食い物事情が悪い時代にたまに親が連れて行ってくれる高級中華の思い出が染み付いているのか、けっこう幸せな味なのである。作り方をあらためて見てみると、なるほど調味料の内容も配分も相当に違う。豆腐2丁に対して、なんと日本味噌がたった小匙1で、ミソは香りていど、そして、味付けはほとんどショウユで、砂糖も入り、油はもちろん少なめ。ネギ、ショウガ、ニンニクは最初に油炒めして出来上がりの香り付けに一役買う。僕が作るのは、四川省の成都の元祖の陳麻婆豆腐で、こちらは似ても似つかず、別の料理と言ってもよいと思う。陳麻婆豆腐はたしかにめちゃくちゃに旨いのだが、たまにはこういう優しい味もいいもんだね、感心した。この前は、昭和40年のスパゲティカルボナーラを再現して、それはそれで感心して、おいしく食べたのだけど、今回も外れてないね。 僕が生まれる1年前の昭和32年の日本映画を見たら、当時の生活の場面が多く出てきて、とてもなつかしかった。特に、乗り合いバスの風景がとてもなつかしい。僕がちょうど物心ついたころは、まだ、バスは、運転手さんと車掌さんの2人で運行していたのである。しゃべるのは車掌さんだけで、運転手さんは運転だけに専念している。車掌さんは女性で、紺色の制服を着て、馬鹿でかい黒いがまぐちのようなものを首から提げて、お客さんの間を回り、あれこれアナウンスをする。そして、がまぐちの金具をパチンと開けて、お客さんに乗車券を売るのである。この光景と、その独特の言葉遣いと、イントネーションがあまりにデジャブだったので、映画を口述筆記した まず、バスが止まると、お客さんが降りる 〜「ありがとうございます」 人が乗ってくる 〜「お待たせいたしました、日向ヶ浜行きでございます。お早くねがいます」〜 全部乗ると、運転手さんに対して「オーライ」これが出発の合図である。そして、客は行き先を告げて乗車券を買う「ほかに乗車券おすみじゃないかたございませんか」 バス停が近づく 〜「つぎはー、野上神社でございます」 降ります、と告げると、車掌さんが運転手さんに対して「次、ストップ、ねがいます」 次の停留所で停車する。お客が降りる 〜「ありがとうございます。 オーライ」 これで、また出発する。こんな感じである これらのセリフを、独特の鼻にかかった発声で、ゆっくりと、独特の平坦なイントネーションでしゃべるのである。文章じゃ伝わらないけど、なかなか旅情を感じさせていいんだな。むかしの国鉄の車内アナウンスもそうだったけど、あの鼻にかかった発声と、変なイントネーションは、いったいどこから来たんだろうね。電車の車内アナウンスは、ほとんど電子化されたとはいえ、今でもかろうじて肉声が聞こえてくるけど、だんだんなくなりつつあるね。あの声を聞くと、ああ、自分は外出して、乗り物にのって、どこか違う土地へ行こうとしているんだなあ、という感慨が湧くんだよね。 昭和40年シリーズの今回はチキンライス。バターでごはんを炒めて、塩、コショウ、味の素とケチャップで味付けしてさらに炒りつける、という作り方なのだけど、これがやってみるとすごく大変。というのは、このやり方でチャーハンのようにパラパラに炒め上げるというのは無理なので、固まったごはんをいかに鍋肌に押し付けて炒り付けるかがポイントになるのだけど、これにかなりの腕力がいる。中華のチャーハンは、慣れればほとんど力がいらず、鍋を返しながら、ごはんには杓子で軽く触れるていどに扱っているうちにあっさりと出来てしまうものなんだけど、チキンライスはそうはいかない。これも慣れかもしれないけど、鍋肌にごはんが焦げ付くのは仕方ないことで、それにめげずに炒めるので、かなりの悪戦苦闘だった。作り方にも「強火でジュッジュッと一気に炒めます」という記述があるように、わりと腕力で押さえつける感じである。当時の料理本の解説は詳しくて、フライパンの持ち方、木べらの持ち方、脇をしめてどうの、など、炒めるときの姿勢にまで及んでいて、なるほど、うなづけるものがある。それで、肝心の出来上がりだけど、派手さはないけど旨い! 実に昔風の、優しい、喫茶店のヒゲのマスターの手作り、みたいな味で感心した。いやー、手作りっていうのはいいもんだね。こんなチキンライスを出すお店は、たぶん、けっこう探さないと無いし、ときどき「昔の洋食屋」ってあるけど値段がかなり高めになっちゃう。むかしの、日本流メシってあなどれないね、ホント 日光の温泉へ行ったのだけど、来てみたら平家の落人の集落から興った温泉地だった。まあ、旅の計画をオール人まかせにしているせいで、到着するまで気がつかない、ということが起こるのだけど。湯西川というところで、来てみると、どうやらずいぶんと人気のあるうるおった温泉地のようで、ひなびた雰囲気はあまりなく、きれいに整備された町並みで、ふつうの田舎に来た、という印象である。平家の里、みたいなところを散策して、ちょっとした展示物などを見物したのだけど、当時の位の高い人たちの万能な様子には驚くね。一級の政治手腕、宗教と思想への造詣、そして芸術に対する才能、といったものが一人の人間の中に同居している様子が、今現代に生きる身としては不思議に映るぐらいだ。特に、現代の、あまりに品の無い様子を見るにつけ、雑念のない昔のこういった人たちの及びがたさを感じるね。ただ、ひとつ言えているのは、当時は、こういった人はごくごく少数で、大半の一般の人たちは呑気だった、ということ。現代では、これらは均されて、大多数の僕ら一般民衆の平均レベルが上がった。いいか悪いかは知らないけど、こんな風にブログ書いたりして日々を送れるのもそのおかげのことは確かだよね 今、広島にいる。それにしても、広島はこれで数回目だな。それで、一緒に来た同僚にも飲みながら言われたのだけど、原爆記念館ぐらいは行かないといけない、と思いつつも、ひょっとして、まだ行っていない気がする。僕は、ここに来ると、どうしても、ひろしま美術館へ行ってしまう。ここに、ゴッホが死ぬ一週間ぐらい前に描いたと言われる「ドービニーの庭」という絵があるのである。実は、僕の考えでは、この絵画は、彼の最高傑作である。フランス北部のオーヴェールというところで描かれた横1メートルぐらいの横長の絵で、草花や木々で閉ざされた初夏の屋敷の裏庭を描いただけの絵である。今回もまた見に行ってしまうかもしれないけど、実は、もう改めて見る必要がないほど熟知しているのである。この絵の素晴らしさについては、かつて十年ほど前に出版したゴッホに関する本で、言いたいことはすべて言ったので、付け加えることも無いのだが、こういう異様な美しさというのは、本当に特殊なもので、我々の実生活とは、ほんのかけらぐらいしかつながりを持っていない。でもね、例えば、宗教のようなものも、本物に遭遇するとそんな風に見えないだろうか。そういうものは、実際に触れてみると、本当に静かで、実際のところ、何も主張していないようにすら見える。僕らの日常生活は言葉で言われた主張でごったがえっているけど、言葉の届かないものというのは、僕たちの人生の要所要所でときどき、ふいに現れて、僕らを絶句させる。ひろしま美術館にあるドービニーの庭の美しさにはいかなる雑音も入り込めないように見える。ゴッホの人生について少しでも聞き知っている人は、その騒々しいあれこれの事件を知っていると思うのだが、この、彼が、絵画の上で最後に到達した世界には、そういった現世的なものは一切現れていない。それなのに、現実にある屋敷の裏庭を写している。ということは、僕らの周りに広がるあらゆる混乱した風景というのは、実は「なんでもない」のかもしれない、という気がしてくる。つまり、意味を持たない単なる「現象」としてしまっても、それほど差し支えないのかもしれない。仏教では「無」ということが言われるけど、そういうものなのかもしれないね。まあ、この辺にしておこうか かの、有名な、海から突き出た大鳥居のところへ行ってきた。ここは宮島の厳島神社、日本三景のひとつだそうである。ふだん観光をしない自分も、なるほど、なるほど、と見物して回ったけど、それにしても真夏の広島はとにかく暑い。海に浮かぶ社殿の作りは確かに美しいが、海上の大鳥居の風景は対岸の街のごちゃごちゃのせいで名勝とは言いがたいものがある。特にひどいのが、鳥居のちょうど正面に立って眺めると、対岸の山の中腹にひどく悪趣味な形状の巨大なコンクリートの塊があって、それが鳥居の姿にちょうど重なって見える。聞くところによると、新興宗教のお堂らしい。神のお告げがあったとかで、厳島神社の鳥居の正確な延長上に建造したとのこと。ひどい話だが、これは、いわばダメ押しのようなもので、まあ全体に、過去に名勝と呼ばれた風情はほとんど感じられない。ギラギラした太陽の照り返しの中、ぼんやりと海を眺めると、定期的にペイントを繰り返したと思われる大きな鳥居が、海の上にチョンと立っていて、こんな風に言っている気がした「ヤレヤレ、いつまでこうして立っていればいいのやら。まあ、立っているのは俺は苦にはならんので、連中の気の済むまで立っていてやるけど、いい加減お役御免にしてくれないかな・・」なんてね。時の流れというのはふしぎなもんだ。厳島神社を早々に切り上げて、お土産ショップロードをぶらつき、焼き牡蠣に生ビールでほっと一息つく。そうだよな、こんな典型的な観光っていうのに風情を求めちゃあいけない、ナニはともあれ名所回りのあとのビール、そのために歩くっていうのが現代の名所めぐりさ、などと、ほろ酔い加減で呑気に思った むかし、小さかったころ、家族旅行で遠出するとき、電車に乗る前にホームで買うものといえば冷凍ミカンだった。まるごと冷凍にしたミカンが赤いネットにいくつも入っていて、電車が出発してしばらく乗ったころに取り出すと、外の皮のところは溶けてむけるようになっていて、皮をむいて、それで凍ったミカンをそのままガリガリかじっていると、しばらくして今度は実がシャーベットみたいになって、すごくおいしかった。自然解凍の時間と、電車の乗り合い時間がうまくつりあった、この素朴な食いものも、今じゃもう見ないね この前、広島まで新幹線で行ったのだけど、初めてグリーン車というものに乗ってみた。飛行機と違って、実はたいして高くないんだよね。まあ、いくらか座席がゆったりして、フットレストがあって、おしぼり持ってきてくれるぐらいで、それほど豪華でもない。ただ、すいていて、比較的静かなのがいいくらいかな、と思って、東京に戻るときには普通車に乗ったら、なんか、乗っていて、どうも揺れがひどく感じるんだよね。電車のグリーン車ってバネが違うの?? 広島行き3回目にして、ようやく原爆記念館に入った。けっこう時間があったので、順路どおり回り、キャプションをいちいち全部読み、結局、3時間ぐらい館内にいた。改めて、戦前から、戦中、原爆投下、戦後、と色々知るところがありよかったと思うけど、それにしても、やはり改めて悲惨なものだね。僕は、いくらかひねくれているので、これを見て、このような恐ろしい結果を招く戦争というものは絶対にしてはならないと思う、という感想を口に出すことはないのだけど、やはり、実際に見て回るとやたら大量の感慨が起こって、どうにもしようがなくなる感じだね。 僕が、一番強く思ったのは、こういう悲劇を起こしてしまった人類というのは、いわばスネに傷ある身のようなもので、もう決して清廉潔白な身には戻れない、ということ。罪をご破算にする手段はもうどこにもないというか。ずいぶんと暗い考え方かもしれないけど、戦争の悲惨さを忘れてはいけない、というのはいわばそういうことだよね。それで、原爆投下というのは、その罪の最大級のものだと思うけど、実は、この罪というのは、大きいものから、中ぐらいのもの、小さいもの、ほんのちっぽけなものに至るまで、満遍なく連続して、僕ら人間の行動と結びついていて、僕らの中の誰一人として、その罪からは逃れられない、ということでもある。すなわち、みんな罪があるはずだと思う。この考え方は、キリスト教的かもしれないけど、これを意識した「後」が大切で、罪の重さに潰されてしまって内向して閉じてしまうのが一番怖い いつだったか、ずいぶん昔、労働組合の集会で、広島の原爆記念日参加レポートのようなことをやっていて、参加させられたことがあったのだけど、そのとき紹介された話にこんなのがあった。反核を唱える広島在住の牧師さんの話しを聞いた。彼曰く、広島に原爆が投下される前に日本はアジア諸国に残虐行為を行っていた、その罪の報いが原爆となって日本に落とされたのだ、と。つまり、他人を非難する前に、自身を振り返って反省しなさい、そうすれば共通の悪というものが見えてくる。それこそが我々が憎むべきものです、という意味だと思うのだけど、当時、僕は、この話しと、それを聞いて帰ってきた人たちの、しゅんとしてしょげたような「戦争の恐ろしさについて考えさせられました」というコメントにえらく腹を立て、なんで日本人はこうまで反省好きなんですか、と暴言を吐き、会場を出てきても怒りが収まらず、心臓の鼓動が止まらず、倒れそうになったのを覚えている 人間から悪を切り離すことはできないと思う。アメリカ人の、日本人の、自分の、他人の、それらの中に共通する悪を見つけて、それを切り離して、これこそが私たち人類同胞の共通の敵なのです、と宣言して、それを皆で叩き潰せば人類に平和がやってくる、という考え方、いわば、「悪のせいにする」ことには僕は反対だ。「みんな罪がある」というのは恐ろしいことかもしれないけど、それが人生というものさ。というか、罪から本当に自由になったら、僕らはもう、恐ろしく光り輝く大調和の中に同化してしまって、もう生活する意味がなくなると思う。でも、その大団円を僕らは常に目指しているのは確かで、そこに至る道では、「オレたちは善だ、同時に、オレたちは悪だ」、と言ってはばからず、そんな混沌として、理不尽で、荒削りな「生命」というものを誇りを持って、賛美して、受け入れることが大切だと思う。というか、そういう人になりたい 原爆記念館を出ると、夏の広島の夕暮れどきは、暑さも和らいで気持がよく、広々とした公園のベンチに座ってしばらくぼんやりした。それから、公園の中央へ行って、記念碑の前に立つと、その向こうに平和の火が燃えていて、そのまたちょうど延長線上に原爆ドームが鉄骨を曝して立っている。展示場の最後の方で見た、火と煙ときのこ雲に閉ざされた地獄の光景がしばらく重なって見える気がした 昨日、コンサートへ行ってきて、男女何人かの黒人シンガーのソウルフル系の歌を聞いてきたんだけど、何かみんな歌い方が一緒で飽きちゃった。隣の奥さんが「音程がこれっぽっちも外れるところがないって驚異だね。歌のヘタな黒人って居ないの?」と言うから、「いるよ。ジミヘン」と答えた(笑) 僕はボーカリストだと、ダントツにジミヘンを挙げるんだけど、彼の歌い方って、昨日見た黒人シンガーと真反対だよね。「音楽」より先に「人間」を感じるというか。大ノリの客席の中、ちょっとばかり食傷しながら眺めていて、アメリカのモンタレーに突然現れたジミが最初に演奏したキリングフロアは、あれは、やっぱり事件だっただろうなー、とか思っちゃった 広島で焼きカキを初めて食べたら、風味よく、ほどよく塩味がきいていて、えらく旨かった。それで、身を食べたあとの殻を見ると、黒いショウユのようなものが内側についている。あれ、焼いてるの見てたけどショウユなんか入れて無かったよな、と思いながらそれを舐めてみると、あら不思議。これはオイスターソースの味ではないか! いや、不思議でもなんでもない、オイスターソースはカキから作るんだから。焼きカキにすると、こんな風にオイスターソース状のものがしみ出して、焼けた身を薄く包むんだね。それで、生カキにはない風味が得られるってわけだ。すごいマジックだ! この前、広島から家へ帰る途中、品川駅のホームの端で電車を待っていた。駅の端っこはあれこれ物が置かれ雑然として、上を見ると高架の駅の裏はすすけて黒くなった汚らしい配管がごちゃごちゃと走っていて、斜め上は視界が開けて、向こうに見えるのは再開発の近代ビル、夕方前の雨上がり、まだ暑くて湿度も高い、そんな中ぼんやりと突っ立っていたら、どこからともなく、むっとするような中華料理の調理の臭いが漂ってきた。あれ、この辺に料理屋あったっけ、などと思っていたら、突然、あたりにこだまするような甲高い鳥の鳴き声。とたんに香港の街がフラッシュバックした。 香港の油麻地のビルの合間に、背の高い木に囲まれた天后廟という場所の広場がある。外装だけはきれいなビルの一階の店舗はごちゃごちゃして、剥き出しのビル裏は無秩序な配管と配線、エアコンの室外機が水をしたたらせ汚らしく、車がひっきりなしに通り、そんな近代的といえば近代的な街中の公園に、老人や職にあぶれた人たちがすることもなくたむろしている。この公園の周りの通りは夜になると、およそ前近代的な怪しい露天が立ち並ぶのである。一度、この公園に一人で昼下がりに行って皆と一緒にぼんやりしていたことがある。コロニアル風の木々の緑と、時々流れてくるあくどいむせかえる料理の臭い、ときおり聞こえる甲高い鳥の声、気持がトリップして、ああ、ここは地上のパラダイスだ、と思ったことがある 僕にとっての天国は、はすの葉の池に御殿に美女(笑)なんかじゃなくて、雑然としたアジアの街中だというわけで、安上がりだね〜 さて、この話しにはオチがあって、品川駅だけど、実は、柱の上に小さなスピーカーがあって、鳥の声はそこから流れていたのだった。JRにしたやられたというか、JRに感謝、と言うか(笑)
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