ただ明るい、それも極端に明るい、およそ肖像画の背景としては最もそぐわないとしか考えようのない色があるだけである。その色の中に奇妙な人物が居る。独得なデッサンである。彼は、弟への手紙の中で、「日本の坊主を思わせるために目のはじを少し釣り上げた」と言っているが、彼の絵筆は何かしら別のものを描き出してしまう。僕は長い時間見てようやく気が付いたが、この顔の右の眼と左の眼は、全く異なる性格を以て描かれているのだ。右側の眼を隠して見てみると、悲痛な殉教者のような眼を持った、悔悟の念に沈んだ人物が浮かび上がって来るが、反対に左側の眼を隠すと、冷酷で不可測な眼を持った殺人者が現れる。殉教者にして殺人者、これがこの奇怪なデッサンの秘密ではないか。そして、僕にはこれが、ゴッホとゴーギャンを待ち受けている、あの悲劇的な破局の予言であるかのように思えるのだ。

 


ノート

自画像 1888年 アルル フォッグ美術館

文中で言っている、まったく性格の異なる二人の人格の同居については、下記のように顔を二つに割って、逆にしてみると分かりやすいかもしれない。

                     

左側が「殺人者」に、右側が「殉教者」に見えないだろうか。アルルの黄色い家でのゴッホとゴーギャンの共同生活は長続きせず、最後にはゴッホが自らの耳を切り、ゴーギャンは家を出て行く、という悲惨な事件で幕を閉じる。この奇妙な自画像と、二人の間に起こった事件の関連についての僕の文章を以下に載せておく。

最後の夜、ヴィンセントは剃刀の刃を開いて、道を行くゴーギャンの後を追ったという。既に理性を失ってしまったヴィンセントは、ゴーギャンに殺意を抱く殺人者としてアルルの夜道に現れる。足早にゴーギャンの後をつけるこの男は、目前の単純な目的に集中して他の一切を忘却する、生来からの殺人者のような眼を持っていたに違いない。ゴーギャンに宛てた自画像の右半分にこの男の表情が描かれている。振り向いたゴーギャンの威厳におじけずいたヴィンセントは、そのまま向きを変えて逃げ帰り、黄色い家の一室で、同じ剃刀の刃で自らの耳を切り落とした。切り取られた耳を封筒に入れ、淫売宿の一娼婦に届けたという。自画像の左半分に描かれた苦悩に満ちて、悲し気な眼を持ったこの男は、自責の念で他の一切を忘却する狂信者のごとき純一さで、自らを傷つける。切り取られた耳は、懺悔の明かしであったのか。しかし、許しを与えるはずの僧侶は淫売婦であった。既に教会に失望した彼が、狂おしい程の宗教への渇望の果てに見いだした教会は、淫売宿であったのか。何という陰惨な茶番であろうか。………