目次
信念の対立
悪意について
チンパンジーと凶暴性
邪悪とは何か
ドストエフスキーの慧眼

信念の対立

そう、それで、そういう風に自らを巻き込んで進む世界の状況が、本当に、自分に考えることを迫ったんです。

その一つはね、これら大量の武器のもとで、いったい何が起こっているのか、いったいこれが理性的な解決法だなんて、だれがそんなことを考えることができるのか、ってことね。こんなことがいったい起こるなんでどういうことなんだろう、そして僕らはいったい何を考えているのか、それはそう、そして、いったい人々は、すべてを犠牲にするリスクを冒してまで、両陣営の自らの主張をここまで頑固に確信しているけど、それはなぜなんだ。これは、完全にまっとうな疑問だよね。

それから、そこには悪意のある問題もあって、どれだけの人が自分の陣営が勝つところが見たいのか、そして反対に、相手の陣営のすべてが負けるのが見たいがためにするすべてのことについてのね。

あと、それで、そこにはまた別の問題があって、それは、どっちの陣営も間違っているのか? それともどっちも正しいのか? そういうのは、むしろ文化的な相対主義者がよくやるアプローチでね、はい、はい、共産主義者はこれを信じていて、それで資本主義のやつらは別のものを信じているけど、彼らは同じぐらい悪いね、という風にね。信念システムは任意だからって、そんな完全に任意なものを、誰が信じるんだ? で、結局、たぶん、それらはどちらも正しいか、どちらも間違っているか、だろう?

それで僕は考えたよ、どちらの結論にしてもそれらはひどく、見られたもんじゃないってね。なぜかって、もしどちらも正しいとしたら、君はそれでどうするの? 彼ら、それについて何か言ったっけ? 言わないよね。で、もし、どちらも間違っていたとしたら、そっちの方がいいとも言えないよね。それで、もし、片方が正しくて、もう片方が間違っていたとして、それが何か意味のあるものになるかね。

ひとつの信念システムが、他の信念システムより、より正しいなどということが可能なのか、もちろんそれは道徳の相対主義によるはずなく、君はたぶん、きっと、道徳に関する、これまでの過去に何百年も考えられてきた標準的な知的なアプローチの結果と考えるだろうね。ところで、僕は思うけど、そんな道徳があればそれは非難されるべき道徳だと思うね。

それがなぜか、この講義が進んでゆくにつれ、君たちに話してゆこうと思う。なぜなら、僕が明らかにしようとしたことの一つは、僕らは何に対して戦っていたのか、ということだったんだよ。僕らが、懐疑の効用のいくらかを西洋に見て、僕らが寄って立っているものを仮定してね。というのは僕らは確かに何かに寄って立っているわけで、僕らは単に何かの上に立って、行進して、ポーズしているだけではないんだよ。あるいはこれは、ただの勝手な意見だろうか? 

だから、それがこの講義で僕が話そうとしていることです。僕は、なぜ人々が自らの信じるものを信じるかについて話しましょう。そして、どんな心理的な機能がその信念を行動に変えさせるのか。

悪意について

それからここでは悪意についても話します。僕が分かっている限り、悪意とは、悪いことをしたいと願うことです、そして、それが悪の定義だと思う。このことについて僕は長い間考え続けてきたんです、すなわち、何が悪というものを構成しているのか、それは複雑です、でも思うのだけど、もし君が一行でそれを言い表したいなら、悪とは、害をなすために害をなす欲求、ということになると思います。だから君は、これは一種のアートの一形式と考えなければならないんです。

たとえばね、もしいま君がテロリストを知っていてね、彼が原爆をスタジアムのどこかに隠していると君が思っているとしてね、君は、彼は自分にはそれを言わないだろうと思うよね。でも、君はそう思うだけの証拠を持っている。でも、彼を拷問にかけない限り白状しないだろう。でも、拷問にかけるべきじゃないと思うよよね、だって拷問は悪いことだ。

でも、ねえ、もし君が彼を拷問をする、つまり彼がスタジアムに原爆を隠していると本当に信じているなら、少なくとも、君がする拷問を正当化する理由を持っているとはいえるし、その拷問することは必ずしも邪悪であるとは言えないよね。それはただ、悪いことかもしれないし、間違っているかもしれないけれど、そんな状況の時に誰がそんな風に言うかね? 拷問はそりゃあ当然違法であるべきだよね。でも、少なくとも君は、それをするだけのもっともらしい説明ができると言えるよね。でも、世の中には、心底恐ろしくて、なんであっても妥当な説明なんか無い、そういう状況というのがたくさんあるんだよ。

ひとつ例をあげよう。アウシュビッツでかつて起きたことの一つです。自分の記憶が正しければ、それはアウシュビッツだ。君たちがアウシュビッツの強制収容所を思い描くとき何を思うか知らないけど、強制収容所って、まずそもそも変な名前だよね。だって、それは実際は収容所なんかじゃないんだから。言ってること分かるでしょ? その強制収容所は監獄じゃないの。監獄を思い描くのが一番簡単だろうだけど、違うの。そのひどい所は、それは街なの。その街には何万人も人がいるの。本当に膨大な数の人間。少なくとも、それは大きないくつかの街で、だから、それはすごく広い土地なんだよ。

とにかくね、その典型的な強制収容所ではね、列車が街に到着するんだけど、当然、そのひどい車両に人々がすし詰めになってるの。で、動物よりひどい扱いで、みな立ったまま詰め込まれてて、たくさんの人がその車両の中で死んでしまう。特に、それが年寄りや子供や呼吸に問題のある人とかそういうのがあるとね、なぜかというと、詰め込まれた人々の真ん中で身動きができない人は熱気で、壁に押し付けられた人は外枠の木が凍えて、死ぬわけだ。でも、それでいいわけで、最後にアウシュビッツに着いたときの仕事を楽にしてくれるからね。

さて、それで、彼らがアウシュビッツに着くとね、看守が彼らをからかうんだよ。そのひとつがね、その哀れな人々をつかまえてね、それらの人たち、もちろん、故郷から引き離されて、家族を破壊され、自分がこれからどうなるか知っていて、6つもあろうかという理由で半分死にかけている人たちさ。たぶん、彼は、そして彼女は、しゃべることもできなかったはずで、そこではそれが普通のことだったわけで、その彼らが、完全に非情な野蛮人の看守の下にいて、そいつらは、人々を悲惨にさせること以外何もできないようなやつらで、それも考えうる限りもっともひどい、もっとも創意のある、あれこれの方法でね。

それでね、やつらがやったことというのが、囚人たちにね、湿った塩の入った袋を渡してね、それはだから50キロもある代物で、それを、それがあるところから、別のところへ運ばせるの。ああ、それはそれほど悪かない。でも、君がもし本当に邪悪なことを犯す創意があったらね、次に彼らにさせることはね、運んだ袋をまた同じところへ戻させることだよ。

これについて考えてみてよ、ねえ、これはね、これが何を意味するか君は本当に理解しなきゃいけないよ。もし、君が、悪というのは一つの美学でありアートの一形式だってことを本当に理解したいならね。

なんでこれがそんなにひどい拷問なのかというその理由はね、そりゃあ、一面では、これらの人々はすでにだめになっていて、50キロの塩袋は本当に重くて、それでたぶんそれは冬で、靴も履いていない状態だったかもしれない、これは単なる残酷な労働だっただろう。

でもねえ、これはソルジェニーツィンが「収容所群島」を書いたときに言ったのだけど、たとえ君が囚人で、囚人は壁を建てる労働を強制されているとするよね、でも、囚人はその壁を作り上げた、ということに少なくとも多少の達成感は感じるんだよ。君はレンガを取り出して並べる、君はこんなこと糞だし本当に最低だ、と言ったとしても、でも俺はまっすぐな壁を建てたわけだ。それはやはり、なにか価値なんだよ。それでもちろん、その強制収容所の敷地の外側には有名な看板がかかっていて、それが「労働があなたを開放する」だよ。そうなのか? さあ、これはまた別のジョークだよ。相互保障破壊(MAD)みたいなもんだ。それで、こういうジョークは悪魔的だね。それ以外に考えようがない。このジョークは、人間の邪悪の最も深いところから出てきたものだね。

それで、労働が君を開放する、だ。でも、それは労働ですらないよね。それは労働のパロディだよ。その労働の目的は、君を破壊することだ。ただし一発で、じゃなくてね。一発でやるより、ゆっくりとやった方が残酷だからね。だからこれは本当に本当にひどいことだよ。

チンパンジーと凶暴性

さて、人々の信念システムに関係して僕が考えていたことの一つは、人間はテリトリーの動物だということです。

チンパンジーだけどね、君たちがこれを知ってるかどうか知らないけど、チンパンジーは戦争をするんだよ。ジェーン・グドールが20年ほど前にこれを発見したとき、それは彼女にとって本当に本当に重いものだったんだよ、なぜなら彼女はルソー主義者だったからね。

ルソーを知らない人のために言うけど、ジャン・ジャック・ルソーはフランスの哲学者でね、それで、フランスの哲学者たちは自分たちの心の中にひどく多くの罪の意識を持っていてね、もちろんルソーもその一人だったんだけど、なぜかというと、ルソーは、人間というのは基本的に善の生き物であるという考え方を、最初に完全にきちんと主張した人だったの。僕らはもともとは道徳的な感覚として善い魂を持っていたのだけど、それが僕らの社会制度のせいで堕落したのだ、というわけ。だからルソーがかかわっている限り、これは貴族的で野蛮な考えみたいな感じかな。

人間はその生のままの形では純粋な魂を持っていて、それで、僕らはそれを両親に与えて、先生に与えて、で、それは政治に入り込み、で、集団が争って、それで皆すべて堕落すると。えー、そういうわけだ。これについては、これ以上、説明することはないけどね、完全に馬鹿げた考えっていうこと以外はね。でも、これは馬鹿で素朴な楽観主義者には、とってもアピールする考え方だよ。

つまりね、まず最初に、それは悪意というものがどこから来るのか説明してないでしょ? なぜかって、その人々が社会を作ったわけで、それが君を無限の退行の中に放り込むわけだけど、これは鶏か卵かで、もし、社会は非難されるべきだけど、それを作った人々は非難されるべきじゃないのなら、そうしたら、その社会の非難されるべきことはいったいどこから来たっていうの? 彼はたぶん、それは人々が組織されるときに自然的に現れてしまう結果のせいだと考えたかもしれないけど、それってただのうわべだけの理論だよね。

もちろん、彼とまったく逆のことを言う人もいたんです、哲学的カウンターパートがね、それはトーマス・ホッブスで、ホッブスはほぼまったく逆のことを言ったんです。つまり、人間というのはもともと基本的には邪悪で、残酷で、その人間どもを拘束衣に入れて、従わせないと、すべては即座に地獄と化す、とね。

かつて、アメリカが戦争に勝ってイラクに入ってきて、権力構造を変更してしまったときに何が起こったか見たと思うけど、これは、もう、ルソーよりもずっとずっとホッブズそのものだったよね。トップに座ってた独裁者を追放したからって、そのあと皆がただちに平和で愛し合うことにはならなかったよね。完全にカオスが支配したじゃない。もちろん、理性的に理由づけることはできるよ。

とにかく、それでルソーはメイドとの間に5人の子供を作ったんだよ、文字通りにメイドね、でもそれは彼にとって女主人だったんだけどね、それで、彼は子供をひとりひとりみな児童養護施設に入れたんだよ。それでもちろんのこと子供らは死んでしまった。というのはルソーのころの児童養護施設っていうのは今のように贅沢で頼りになるようなところではなかったからね。20世紀の始めぐらいになる前はね、1歳に満たない子供で、そこに入れられたのは、死ぬんだよ、病気だったりその他の理由でね。食い物はあったとしても、それこそ放置されて面倒を見てもらえなくて死ぬしね。それで二百年も前になると、食べるものさえろくに与えられなかったんだよ。

とにかく、それにも関わらず、人々は、人間というのは基本的に善いもので、社会制度によって堕落するのだという、楽観的な考えを抱いてきたわけだ。それはね、大学においてとってもよくある共通した考えだよ。大学の人間というのは、いつでもあれやこれやの社会制度の堕落の傾向について文句を言っているよね、彼ら自身は、いつも電気のスイッチが入った暖かい部屋に座ってね。それはさあ、全世界の人口の1パーセントのそのまた1/10にすぎないような富に囲まれてね、それで、その彼らは、自分たちがどれだけ虐げられ、どれほど制度がひどいものであるかを常に訴えているわけだ。

えーと、あのね、君たちはひどい社会制度というところに実際、行ったことはないと思うよ、だって、それは本当にひどいからね。世界のほとんどの社会制度ってのがそんなようなものだよ。だから、人間は心は純粋だけれど社会制度の中で堕落するというのは正確には言えないんだよ、それが起こることもあることを僕は確かだと思ってはいるけどね、例えば、シリアルキラーのパンズラムにはそれが起きた。

とにかく、この考え方は、哲学的な一連の思索であり続けたんだよ。そしてこうも言える、これは、特に西洋の知識人の持つ、明確には言われない暗黙の根本的な前提を担ってきたんです。

さて、グドールはいろいろな意味で、今言ったように考えていたんです。彼女は、チンパンジーは基本的に動物なので、彼らは大丈夫だ、彼らはお互いに助け合って平和に生きているはずだ、とね。カール・ロジャースですら、彼については僕の「パーソナリティ」の講義でも触れたけど、彼も人間は基本的に根本的には善で、社会制度のせいで悪くなると考えていたのね。

でも、問題は、チンパンジーを観察するとね、彼らはやはり私たち人間みたいなんだよ。ボノボ(ピグミーチンパンジー)ね、彼らを観察してもいいの、彼らは遺伝子的に僕ら人間にかなり近い、だから僕ら人間は、二つのものの奇妙な混合なんだよね。

でもチンパンジーはね、そんなわけで、彼らが自分たちの攻撃性をコントロールできる能力を持っていた、という証拠はどこにもないんだよ。2年前に恐ろしいことが起こったんだけどね、チンパンジーと接触した女性が、切り刻まれたの、実際、彼らはそれができるんだよ。チンパンジーは彼女の顔をぐちゃぐちゃに引き剥がしたんだけど、実際、彼らは人間の男6人分の力があるんだよ。成人のチンパンジーの雄は130キログラムほどのテストケーブルを引きちぎることができるんだよ。それは本当に本当に恐ろしいほどの力で、しかも彼らはフレンドリーじゃない。

それでね、たとえばアーネム動物園には、ずっとチンパンジーの軍団がいるんだけれど、それをずっと追跡調査し続けてきた、フラン・デ・ワールという非常に優れた霊長類学者がいるんだよ。僕は彼の仕事を心底推薦するよ。デ・ワールはとっても頭のいい人で、彼はチンパンジーの中にモラルの起源を見たんだよ、生物学的な意味でね。それはすごくすごくよい仕事で、本当に明快な思考なんだよ。

でね、彼はチンパンジーのふるまいについて、本当に恐ろしいストーリーを語っているんだよ。彼が語った話のひとつにね、たとえば、雄のチンパンジーの階級社会のことがあるんだよ。雌の階級もあるというのは、だいたい正しいんだけどね、でも、とにかく、チンパンジーの世界では雄の方が牛耳っている傾向があるわけだ。だから、プロボクサーみたいな猿が牛耳ってるのを想像してもらって、そいつがその身体的な戦闘能力で支配していると。

さあ、でも、その状態は必ずしもいつもきちんと維持されているわけではない、ってことなの。この特別なケースではね、チンパンジーの群れを牛耳ってるやつがいじめっ子でね、そのボスは友人を作らなかったの。それはあんまりいいやり方じゃなかったんだよ。どんなにそいつ自身が強くったって、彼より弱いやつが複数集まればたぶん、そいつを排除することだってできるんだよ。で、それがまさに、フラン・デ・ワールスが観察しているときに起こったの。

二匹のチンパンジーがそのリーダーを襲ったのね。彼らは同盟で、彼らはお互いに毛づくろいしてて、仲間だったの。チンパンジーは交友関係をとてもよく覚えていて、友情を結びあうのね。彼らは、実に高い社会性があるんだよ。それで彼らは、そのリーダーを引き裂いた。

彼らがそのリーダーに何をしたかは君たちは知りたくもないだろうね。チンパンジーはその攻撃性の程度に本当に上限というものがないんだよ。で、彼らが狩りするときね、というのは彼らは狩猟をするからね、彼らは肉が好きで、よく15キロもあるコロブス猿を狩るんだよ。コロブス猿だって強い猿なんだよ、でも彼らそれを生きたまま食うの。で、食われる方は悲鳴を上げ続けるのだけど、そのせいでチンパンジーがひるむことなどかけらもないの。だから、チンパンジーはたくさんの共感を持つ動物だ、ということは当たり前とは言えないね、特に雄はね。雌の方はもっと共感を持っているようなのだよ、なぜって雌は長い期間子供の面倒を見るからね。

雄のチンパンジーの攻撃性を抑制するものは、彼らが内面に持っている抑制力ではないらしいのね。どうやら、彼らが群れの中で極度に攻撃的になったときはね、その群れの全体の興奮がどんどんエスカレートしてね、それによってその攻撃性を終わらせるようなんだよ。だから君たちはこんな風に想像するかもしれないね、荒っぽいバーがあって、そこに半分いかれたバカがいて2パイントほどアルコール飲んでて、それでひどい騒ぎを起こし始めたと、その彼はそれをやめようとはしないだろうけど、仲間のほかの連中は止めるかもしれない。このたぐいの攻撃性のコントロールはねえ、攻撃性を出し切って終わらせる、つまり、外在化なんだよ。それは、超自我によるコントロールの結果じゃないの。僕らは、自分たちは攻撃性をコントロールできると思いたがっているけどね、でも僕はそれについてはそうは思わないな。

素晴らしい本があるんだけど、もし君たちがこの20年前に出版された戦慄すべき本を読んでみるといいよと思うよ。それは南京大虐殺という本で、これを書いた女性は自殺してしまうのだけど、南京で起こったことすべてを語ってくれているのね。それは、第二次世界大戦のときに、日本人が中国の南京という街に入ったときの物語でね、そこで、僕の知る限り、およそ35万人の人々が殺されたの。その話の中ではナチがいいやつらだとされていたぐらいで、そんなことを言いたくなることで、そこでどれだけ残忍なことが行われたかが想像できるというものだよ。でも、その本では、完全に完璧にきちんと記述された証拠があってね、日本兵は競争して残忍なことを行うことに熱中したんだよ。

そこで実際に起こったことはね、日本人は第二次世界大戦までの間に軍事化していてね、彼らはそのためにプロセイン教育システムを取り入れたの。プロセインとドイツ、20世紀以前のドイツは、基本的に忠実な兵士を育てることに興味があったんだよ、軍事国家だったからね。それで、日本はそれを取り入れたの。なぜって、彼らはヨーロッパ諸国に小突きまわされるのにうんざりしていたからね。それで、その方針はうまくいって、20世紀の初頭に日本はロシアに戦争で勝ったの。それはヨーロッパのみなにとってひどくショックな出来事で、一方、日本では大々的な祝祭ってことになったわけだ。

とにかく、彼らは若い男たちを軍人に教育して、それで彼らに、日本人というのは最も優れた民族で、他は劣った人間だ、って教え込んだの。ところで、これはとっても共通した人間のものの考え方だよ。これは本当に、ある民族が他の民族について考えるときのデフォルトの考え方だと言える。もっとも、それよりもう少し複雑だけれどね、なぜかって、人間の民族は他の民族と貿易をするからね。

だから、それは完全に悪魔的ではないけど、悪魔的なところを多く持っている。民俗学的な文献の中の世界を見て回るとね、そこに見えるのは、ほとんどの民族が自分たちを呼ぶ名前は「人間」、そして「人民」であって、それは、その他の人間たちは実際、人間ではない、と考えていることを示しているんだよ。彼らは野蛮人で、太陽がドラゴンの支配する夜に捕らえられる、そのかなたに住んでいる。野蛮人(バーバリアン)という言葉はね、ギリシャ人が非ギリシャ人のしゃべり方をからかうところから来ててね、ギリシャ人は、彼らのしゃべりが、バー、バー、バー、バー、バー、って聞こえるって思ったの。

だからとにかく、グドールが発見したのは、チンパンジーたちが、特に若くて、さらに雄のチンパンジーが、3、4匹のグループ、往々に雌が1、2匹入ったグループで、彼らのテリトリーのボーダーをパトロールしている、ということだったんだよ。でも、雌たちはグループの一部だったけど、どうやら本当にはイニシアチブをとっているわけじゃないらしかった。

それで、そのパトロールのチンパンジーが、他の群れから来た別のチンパンジーを見つけるとね、たとえそれが自分たちの群れからそれほど昔じゃない過去に移って別の群れに入ったやつでも、というのは雄たちはときどき群れを離れて別の群れへ移ることがあるのでね、で、もし彼らが相手を数で勝っていると見て取ると、相手をばらばらに引き裂くんだよ。

それはね、どうやら、なぜ彼らがテリトリーのボーダーをパトロールしているのかを示しているようで、つまり彼らは騒動を探して歩いている、ってことなんだよ。彼らはギャングなの、おおざっぱに言えば、彼らはトラブルを探し歩いてる、ってことなの。ただ、一点ポイントがあって、それは、彼らは自分たちが数で優っているときだけ攻撃するってことね。というのはチンパンジーは数の見立てができるの、彼らが数を数えられるとは言えないけど、彼らはグループのサイズについては基本的な見立てができるのね。しゃべらずに数を数えることはできると思わないけど、彼らは一目で数を推定できるわけだ。それで、僕がばらばらに引き裂くって言うとき、それは正確に文字通りだからね。彼らの残忍さ野蛮さには上限がないからね。

だからグドールがこれを初めて発見したとき、彼女は誰にもそのことを言わなかったの。でもいまは彼女にも理由がある。ある人は、僕らは理屈で考えると思ってるかもしれない、かわいいチンパンジー、そうでしょう。でも、他の人は、そして彼女もそう考えたんだけど、たぶんチンパンジーは人間と接触しているうちに堕落して、なぜだかその当初持っていた自然なふるまいが変質していってしまったのではないか、と考えたのね。

でも、それは違うよね。チンパンジーが出かけるとき、おい、猿、戦争へ行けよ、なんて言う科学者には気を付けないといけないよね。これは革命的じゃない? そうだよな。それはさあ、僕らの戦争で発揮されるような邪悪さというのは社会の一機能である、という考えが単に終わったということを示しているよ。もしチンパンジーがそうだったら、彼らの社会の何かが彼らを野蛮行為に駆り立てるっていうんでしょ? 僕はそうは思わないね。つまり、多かれ少なかれ暴力的なチンパンジーの社会があるし、多かれ少なかれ暴力的なヒヒの社会はあるよ。社会の文化にはいろんなバリエーションがあるよ、しかし、グドールの時代からもうずっと、チンパンジーの多くの群れにあるこの種の行動についてはたくさんたくさん記述され続けて来たんだよ。

だから、それが我々なの。硬い殻の中に隠れている我々なの。もし、典型的な思春期の男をね、しかもその彼はうまく形成されたと言えない性格を持って、それで、彼はあんまり自己形成されてなくて、世の中をあんまり知らなくてね、で、そういう典型的な男は軍隊に入るってのは、それは今の社会の余剰みたいなものでね、たぶん、彼は特別に頭が良くもなくてね。こんなこと言うからって、そういう人を侮蔑しているわけじゃないよ。ただ、その軍隊の仕事はハイエンドの仕事とは言えないでしょ。

もし君がそんなような誰かを、規律の無い場所の中に放り込んだらさあ、誰がそんあ規律の無い中でリードするって言うの? そういうところではね、最高にフレンドリーで感じのいい人なんてのは本当に本当にいないわけだよ。

だからね、そういうわけで、南京で起こったらしいことはだね、日本兵は、もっとも残忍な想像力を持った人たちからその動機をもらったわけだ。人間というのは本当にひどく残忍な想像力を働かせることができるんだよ、特に彼らが互いに競争し始めるとね。

邪悪とは何か

そういうことで、僕はそれに興味を持った。もっと正確には、邪悪の本質は何かということにね。それは人間に特有のことだと思う。チンパンジーは出かけてって相手を引き裂くけど、でも基本的に彼らは単に殺すだけで、それがゴールでしょ。たぶん、それには少しは時間がかかるだろうけど、でも、人間の場合みたいに、自分たちの敵を死に至らしめるのに長い長い時間をかけて4週間も苦しめて殺すなんてことはしないでしょ。それは一面では、相手を殺す際に、同時に苦痛と苦しみを与えてやりたいという欲求だよ。

それが、創世記という書物に書かれていることを読んで僕が考えたことだよ、すなわち、人間が目を開いてそして自意識というものが現れ、そして僕らは善と悪を区別することを学んだ。そして、いったん目が開かれると、どんな風になるかというと、いったん自分が丸裸で脆弱だと分かると、僕らは、他の人間もそうだということを知り、それを利用することができることを知るのだよ。

人間だけがそういう知識を持っているんだよ。だから、我々が、自分たちが傷つけられるということを知っているということは、特に我々を危険な状態に追い込むんだよ、なぜなら、もし私がどんな風に傷つけ得るかを私が知っていたら、それは当然、君がどんな風に傷つけ得るかを知っているということだからだ。それはひどい状態だよ。僕は、そういうことの動機について興味があるんだよ。

コロンバインの事件の若者たちを見るとするでしょ、たとえば。彼らが実際にやった暴力事件は、彼らが計画した事件に比べるとずっと普通だったんだよね。もし彼ら二人がやりたかったようにやったら、彼らはデトロイトのアパートを爆破してたはずだしね。彼らは正確にそういうビジョンを持ってたの。それで、それはメディア向きの事件だったんだけど、彼らはそれをしなかった、というのは、彼らはいじめられっ子の可哀そうな若者二人だったからね。

いや、それはばかげた説明だな、そうじゃない。みんな誰だってひどいのけ者だと。これは確かだと思うけど、君たちのただの一人も、中高校のときに、何らかの形でのけ者あつかいされた記憶の無い人はいないでしょ。たぶん、君たちのいくらかはそうじゃないかもしれない。でも、それはとてもとても普通のことだよ。学校で学生たちを冷血に射撃する動機としてそれが十分か考えるとね、いや、ごめん、それはちょっとナイーブ過ぎるか。

だから結局僕は、なにが一体そういう行為の動機なのかに、すごくすごく興味があったんだよ。なぜなら、そういった悪意と核爆弾の組み合わせは、勘弁して欲しいものだからね。

自分にとっては、もうすでに我々は無意識下の悪意というものを許容できるようには見えないんだよ。だって、我々はあまりに強大な力を持ってしまったし、それで、もし間違った人間が間違った武器を持つ羽目になったら、それですべてゲームオーバーだからね。

それから、この問題についてずっと見続けている間に断言できるようになったのが、僕らが論じているこの問題は、社会問題でも、政治的問題でも、経済の問題でもない、ということなんだ。

なぜなら、君たちが読む多くのもの、そしてたくさんの政治学者がこの手のことについて君たちに言うだろうけど、なぜかって彼らは基本的に隠れマルキストで、彼らは君たちに、民族同士の闘争の理由は経済だと言うのだよ。

僕はそれはばかげていると思うね。正しくないからではなくて、それは実際、もっと根本的な問題になにも答えていないからね。まあいいさ、経済の闘争は、誰が価値があるものにアクセスしているかという闘争だよ。でも、何が価値であるか、というのはまったく自明なことでも何でもない。それが問題だよ。

天然資源についての考えがあるでしょ、あれみたいなもんだよ。石油は自動車が現れるまで天然資源じゃないよね。文化的な価値の構造と、なにが天然資源を構成するか、ということの関係は非常に強く結びついたもので、たぶん空気と水以外だけど、それは、内在的な価値のある資源というものがある、ということを言っていて、それで、人々はそれについて戦うのだよね。さて、君はいま、天然資源という言葉のミステリーはこれで消えたよね。でも、君は何も解決してないでしょ。

問題は、なぜ人々は彼らが価値があるとした物について戦うかでしょ。たぶん、君が価値があるとしたものには、あらゆる種類があり得るよね、平和とかも。

だから、経済は十分な説明ではないし、また自分には人々にとって基本的な動機は経済である、というのは少しもはっきりしていないんんだよね。それは自明なことじゃない。どころか、その動機は本当は経済ではない、と言いたいね。それはもっと、支配的なハイアラーキーのポジションに関係したもので、それは根本的には性的な動機に結び付いたもので、特に男のね。というのは男は支配的ハイアラーキーの高いところへ位置するほど、女はその男に魅了されるんだよ。

だから、君はたしかにそれは経済のせいだと言えるけれど、僕はそうは思わないよ。経済はそういうことの単なる二次的な結果に過ぎないんだよ。

ところで、僕はそれが理論だとは信じない。なぜなら、思春期の雄の極度の攻撃性についてのすばらしい記録があるわけで、その証拠が語ってくれるのは、思春期の雄はたちは彼らを、彼らが勝てないシチュエーションに放り込んだ時に、その極度の攻撃性を発揮する、ということを示しているんだよ。

それで、彼らは極度に攻撃的になって、その支配的ハイアラーキーのトップに昇って、基本的には自分たちを魅力的にするために、そのハイアラーキーを構築しようと試みるわけだ。だから、君はそれを経済と呼びたければ呼んでもいいよ。でも、僕は君はその手の、きれいな説明で、調子に乗っているだけだと思うよ。

ドストエフスキーの慧眼

さて、これが基本的な背景です。

僕がこのことについて調査していたとき、最初に政治科学の研究から初めてね、そして、最初の2年ぐらいは僕は本当にそれがとても気に入ってたんだよ。なぜなら、基本的に僕は政治哲学を読んでいたからね。

それは実際本当に読むに値する本だよ、偉大な政治哲学者の言ったことというのはね。Aという考えがあって、それを彼らが考えたのかもしれない、でも、Bという考え、それはまるで君が、彼らの考えたことを考えているかのようなのだよ。たとえ君がその哲学者を知らなくてもね。なぜかというと、偉大な哲学者の特徴の一つは、彼らの考えというのは僕らの文化に深く食い込んでいるから、それらが書かれてから何百年もたって、彼らはいつも彼らが考えたように考えていることが分かるんだよ。

フロイトに起こったこともその一つだよね。人々が理解したことの一つは、無意識というものがあって、それで、それは性的なエネルギーで動機付けされている、ということだったんだけどね、その考えは、そんなに素晴らしいものだったかね? そう、そうだよね、それはフロイトが指摘したとたんに、当たり前のことになったんだよ。

そう、とにかく、僕はそれで、政治哲学をやって、それから文学ね。文学も、本当に役に立つものだということを発見したよ。なぜかって、偉大な文学者たちは、素晴らしい言葉を残してきたからね。

たとえば、ドストエフスキーの小説は完全に自分を打ちのめしたね。彼はあまりに素晴らしくて、あれ以上深刻な道徳的な問いを扱った人を僕は見たことがない。たとえば、もし君が「罪と罰」という本を見ればわかるけどね、僕はこれを強く勧めるけど、ドストエフスキーという人は真の知識人というものの完全なモデルだよ。

というのは「罪と罰」はね、たとえば、ドストエフスキーはラスコーリニコフという登場人物を作ったのだけど、君たちはこのラスコーリニコフと同じだよ、彼は大学の学生だからね、君たちと同じ歳なんだよ。

さあ、彼は大変な生活を送っているのね、というのは彼はサンクト・ペテルブルグに住んでて、金が無くて、すごく小さい狭い部屋に住んでいて、で、そこにはベッドの上に衣服が山になってて、そこで彼は寝ていて、それで飢えて死にそうになっているわけだ。彼は少しのパンがあるだけで、彼は法科の学生で、ひどい生活をしてる。19世紀の終わりごろのサンクト・ペテルブルグはひどいところだったの。君たちの中のいくらかは同じようにひどい生活してるかもしれないね、でも、ラスコーリニコフはホントひどい生活で、空腹で熱に浮かされたみたいになっている。

それでさらに彼の考えはとても混乱したもので、なぜって、彼はその当時のロシアで、自分を無神論者と考えた初めての人間の一人だったんだよ。ロシアは19世紀の終わりごろまでは中世社会だったんだよ。それは1960年以前のケベックみたいなもんさ。(学生笑い)

これは真面目な話だよ。いわゆる宗教からの分離を経験した、最後のヨーロッパ国家がケベックでね、それはだいたい1960年ごろに起こったんだよ。ケベックの家族は、もとは一家族で12人から13人だったのが、1.2人になったんだよ。世界でも最低の出生率だよ。それでかつてのケベック人は全員結婚していたけど、いまはそうじゃない、それでかつてはみなカトリックだったけど、いまはほとんどいない。それはほとんど一夜にして変わったんだよ。

それは一面ではケベックのナショナリズムにつながるんだよ。実際、ギャラップ団体から出された調査があって、僕はそれをある会議で聞いただけなのだけど、その中で彼らが言っていたけど、もしあなたがケベックでカトリックから改宗した人だとすると、あなたは10倍ぐらいの確率でケベック州独立運動推進派になるだろう、とね。

これは本当に考えるに値することだよ。宗教がだめになると、ナショナリズムが台頭してその地位に取って代わるんだよ、なぜなら、君は何か信じるものが必要だろう? それがなくて何をしようっていうの? 目的もなくさまようの? それは楽しくないよね、よくないよね。だから、僕らは、一つの信念体系から別の信念体系に乗り換えるか、さもなくば倒れてしまうか、なんだよ。だから、これは、これで本当に考えるべき問題なんだけどね。

それはともかく、ラスコーリニコフだけど、彼は自分が高い教育を受けた人間で、頭脳明晰だと思っているのだけど、実際、彼はとても頭がいいわけだ。でも、彼は頭がよくて傲慢な人間で、頭のいい賢者ではなかったわけだ、なぜって彼はまだ21歳だからね。彼はいったい何を知っていたか、実際、彼は何も知らなかった、でも、彼は頭が良い。彼は、他の人間を見下していた、なぜって、彼はほとんどの人間よりもたぶん頭が良かったからね。

そして、彼はそういう自分に起こっていることを知るにつけ、混乱したんだよ。彼は小さなひどいアパートに住んでいる。それで、そこの家主は本当にひどい人間なんだ(訳者中:実際の小説では家主ではなくて金貸し)。ここがドストエフスキーの天才なのだけど、そのラスコーリニコフが彼の家主を憎んでいるように、ドストエフスキーが読者になぜひどいか説明するの。で、君は、ああ、本当にそうだな、って読者もその家主の婆さんを憎むようになる。彼女は最低な人間でね、いくつもの宿を持っているのだけど、間借り人から法外な金を巻き上げている。

彼女は、彼女の家を借りている人々を、あらゆる意味で苦しめている。部屋は粗悪で不潔だ。家具もない。彼女は金の亡者で、彼女自身もひどく粗末で不潔に暮らしている。彼女はあらゆる意味で酷薄な人間だ。加えて、彼女にはあまり頭のよくない姪がいて、その姪を奴隷のようにこき使っている。つまり、彼女はすべての人に対していいことを一つもしていないわけだ。

それがラスコーリニコフの考えなんだよ。

それでさらに、彼は母親から手紙をもらって、そこには、彼の妹が金持ちの男のところへ嫁ぐと書かれていて、それは妹が相手の男を愛しているからで、さらにそれによって、あなたのお金の問題も解決して、法律学校に引き続き通うことができる、と書いてある。しかし、彼はその行間を読んで、すぐさま、この金持ちの男というのは最低な取るに足らない奴で、彼の妹は本当は彼を愛してなんかおらず、彼女が結婚するただ一つの理由はラスコーリニコフを学校へ行かせたいということだけだ、ということを見抜いてしまう。

だから、彼はそれをいいと思わない、そりゃそうだよね。彼のその動機が分かるでしょう?それで、彼は飢えていて、いろんな考えが彼に充満していて、一種ニーチェ主義的なものでもあったんだよ。

つまり、そのとき、無神論の考え方がロシアを激しく襲ったわけ。なぜかって、それまでの考える限り極めてオーソドックスなキリスト教徒が、何も信じられない疑念に放り込まれるような、そんなことを経験した世代が、そのときのロシアにあったからね。それは社会をバラバラにしたんだよ。

それは、なぜ共産主義があんなにロシア人を魅了したかの理由の一面でもあるんだよ。そして、ドストエフスキーはそれについても、その詳細を「悪霊」という小説の中で、信じられないほど素晴らしく語っているんだよ。それは本当に素晴らしい本だ。その本に入って行くのは大変だけどね、本題にたどり着くまでに200ページは読まないといけないし、でも、当時のロシアの小説というのはそういうものだったんだ。

それで、とにかく、ラスコーリニコフは、超人思想的な、理性的な思想について、考えていたわけだ。つまり、現実には道徳的なハイアラーキーがあるなどという証拠はどこにもないのだとね。そして、我々は簡単にこういうケースを考えられるでしょ、すなわち、人々が道徳的な理由というのは、単に彼らが臆病なだけだ、というね。これはニーチェ主義者による観察だよね。

僕らが道徳と呼んでいるものの大半はまったく道徳的とは言えない、ということ。それらは単に、僕らが、僕らが欲していることを実行するのを怖がっているだけ、ということ。なぜなら、僕らはあまりに臆病なせいでそれを認めることをしない。君は、「私はこれらのことをしない、なぜならそれは道徳的でないからだ」と言うけれど、それは正しいとは言えない。

もし君が十分に勇敢であれば君は喜んでその不道徳なことをするだろう。しかし、君は勇敢じゃない。だから、人々はニーチェの考えを誤解している。人は、ニーチェの考えは「すべての道徳は臆病だ」という。でも、これは彼が考えていたことじゃない。彼は「すべての臆病は道徳の仮面をかぶっている」と考えたんだよ。この二つはまったく違うものだ。

だから、とにかく、ラスコーリニコフは以上のようなことを考えているんだ。彼は思う、俺は弁護士になれるだろう、いい人間になれるはずだ、そして人々を助け、貧しい人々を助けるだろう。それが、こんな風に飢えてそこらをうろうろしている、はたしてこれがまっとうと言えるだろうか。それはおかしいじゃないか。俺の妹は金持ちの男に身を売ろうとしている、それは最悪だ。そして、ここに俺の家主がいる。彼女は、どう考えても最低な生き物だし、それはみなが同意するだろう。そして彼女は年老いていて、よれよれだ。さらに、姪を奴隷として囲っている。たぶん、俺は、この老婆を殺して、この世から除去すべきなのだ、と。

僕が彼の小説を好きなのは、大学でほとんど常に起こっているようなことを思わせるからなんだよ。自分たちが賢いと思っている人々が議論するのをいつ聞いてもね。一般的に彼らがすることというのは、彼らにはある考えがある。そして、彼らには、彼らと違う考えを持っている人に対するある考えがある。自分と違う考えを持っている相手に関する考えとは、その相手の考えは下らない、ということです。

だから、次に彼らがすることは、その相手の考えを茶化して、それでそれを攻撃して叩く。そして彼らは思う、やった、議論に勝ったぞ。こういうのは、ホント、病理的だね。それは藁人形を叩くやり方だし、それは弱い心の表れだよ。もし君が本当に誰かと議論をしたいと思ったとき、君がしないといけないのは、相手を助けることだよ。

たとえばね、君が右翼だとして、君が左翼の相手と議論するとするでしょ? そのときはね、君は、相手の議論を最大限にまで強めることをして、そして、それを君が崩すことができるかどうかを見る、という風であるべきだよ。それが君がしないといけないことで、それによって君はまた別の次元へ行ける。バカなやつらは、相手の議論の藁人形を作って、それを安易に叩いてるわけだ。

ドストエフスキーは決してそういうことをしなかった。彼は、二つの陣営の相反する考えを用意して、それをもって彼らを戦いへ行かせる。つまり、彼は、それぞれの思想を宿した、考え得る限り最もパワフルな二つのキャラクタを作り出したんだよ。

だから、たとえば「カラマーゾフの兄弟」という小説では、二人の人間がね、二人の主人公がいてね、もちろん他にも何人もいるんだけど、とにかく、この二人のうちの一人の名前はアリューシャ、そしてもう一人の名前はイワンというの。

まずアリョーシャの方だけど、彼は基本的に無垢な若者でね、善い人間、少し無知な感じに近い。そして宗教的、でも、自分の宗教を弁護するような感じではない。それはもっと自然な要求としての宗教心で、彼は修道院にいる。そして、有名な長老を信奉している。彼は、善意と敬虔さによる、いわゆるオーソドックスなクリスチャンなの。ただ、彼は、知性の人という感じではない。

一方、アリョーシャの兄のイワンはね、彼はハンサムで背が高くて、たしか軍人だったはず(訳者注:軍人は長兄ドミートリーの方でイワンは大学卒業したてのインテリ)。彼はとっても目立つ若者で、かなり切れものの知性の人なの。そして、イワンは、本の全体を通して、あらゆる機会をとらえてはアリョーシャの心を引き裂くんだよ(訳注:実際の小説ではイワンは親殺しに関する自分の意に反した良心の呵責の発作から気が狂ってしまう)

君は、その本の中で、ドストエフスキーの中の二つの陣営が戦っているのを見るんだよ。一面にはドストエフスキーは非常に霊的な人間で、少なくとも、彼はてんかんを病んでいて、その病気は往々に、その人間のスピリチュアル性を高めるんだけど、その理由については後で話すけど。そう、だから、彼は深く霊的な人間なのだけど、同時に、非常に知的な人間でもある。

だから、彼の内面は戦いであって、彼は、その二つの陣営の考えをこれらの主人公に託して、そこで彼らに戦わせたのだね。これは、素晴らしいことでしょ?

イワンは、無神論に関する、かつて書かれたものでもっともすばらしい議論を展開するのね、それは本当にパワフルな議論だよ。彼は、その当時のロシアの、世紀の変わり目の1800年代の終わりのロシアの、悲惨な幼児虐待について語るんだよ。彼は、両親が小さな女の子を極寒の離れの小屋に一晩放置する話をするんだけどね。女の子は、泣いて、叫んで、自分の両親に、ごめんなさいと許しを乞うんだけど、親たちは彼女をそこに放置して、女の子は結局、凍死してしまう。これは、当時のロシアのトップニュースだったようなのだけどね、モスクワか、サンクト・ペテルブルグだかのね。

ドストエフスキーは議論を吹っ掛けて、そして言う、彼はアリョーシャに対してイワンにこう言わせる。こういうようなことを神は許すのか? 世界はこの子供の苦しみに値するだろうか、全宇宙をあげても、こんな状態の中のこの子供の苦しみに値しないではないか。君のいう間抜けな信念や慈悲深い神の世界には、このようなことが存在して横行している、そのことをいったいどう見たらよいのか。君は、真冬の離れ小屋に小さな女の子を閉じ込めて凍えさせてよいのか? それが、他の人間どもが幸福であるため、という意味だとして。

もちろん、アリョーシャは、僕にはそんなことはできません、と答える。そうしたらイワンはこう言う。ああ、そりゃあ、君はしないだろう、でも、君の信じている神は、完全に喜んで、このようなことをが起こるままにしておくのだろう?

わかるでしょ、アリョーシャは何て答えていいかまったく分からない。それはイワンの議論のかけらに過ぎないんだけどね。彼は、狂ったようにアリョーシャを叩くんだよ。たしか、アリョーシャは、人生をよく生きようとすべき、というような反応だったと思う(訳者注:実際はアリューシャは、イエスを持ち出して、それにより罪は償われるとする)。彼は議論ができないんだよ。イワンはその点、ぜんぜんそれに長けている。加えて、そこには、西欧からやってきた、宗教の批判的考察に関する悪意のある考えがあった。

そこには、300年にわたる哲学的な力が背後にあってね、そして、イワンはその代弁者なんだよ。アリョーシャとロシア自体は、それによってただ吹き飛ばされてしまったの。彼らはそれに抵抗するものを何も持っていなかったんだよ。ヨーロッパ人のやつらはね、それに慣れるのに300年の時間があったのだけど、ロシア人にはたった10年しかなかった。それで、彼らは分断されてしまったんだ。

彼らは新しい救世主が現れるのを待ったのだけど、それで確かにそれは現れた。ドストエフスキーとニーチェは、その後のロシアに起こることをその40年前に予言したのだよ。これは本当に驚くべきことだよ。遠く未来を見通して、実際にそれをちゃんと得ることができる、ということを考えてみるとね、もちろん、その昔は今ほど物事は早く変化するわけじゃなかったけれど、それでも、ビクトリア王朝のころの変化の無さほどじゃないでしょ。

そこではたくさんのことが進行していた。彼らが40年も前にそれを正しく予想するというのはね、西欧社会の基盤の底の、とても深いところで起こっていることに、彼らが触れていた、ということなんだよ。

(続く)