ヨーロッパ絵画、芸術 第4部


 ◆レンブラント
 ◆フェルメール

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レンブラント


レンブラント 夜警

アムステルダムの国立美術館にはオランダ派のよい絵がたくさんある。特にレンブラントのコレクションは充実していて、勿論有名な大作『夜警』はここに掛かっている。それにしても、オランダの多くの画家達の絵画の中で見ても、レンブラントはまるで違う光を発している。

筆触にはつるつるした感じがなく、どちらかというとざらついた感じを与える。筆跡の残る素早いひと刷けで描かれる、特に人物の肌の表現は見事で、近づいて見たときの赤や黄や白が自然に流れる筆触で混じり合う美しい画肌が、距離を離して見ると途端に血が通い体温が感じられる人間の肌に変じるところなど、見事な作であればあるほど、その変化は劇的で神秘的だ。

レンブラントを見るとき、例えばベラスケスを見ているときのようなせっぱつまった理性の動きは感じられず、さらにこの絵は幻には見えない。以前、シモーネ・マルティーニの受胎告知を目の前にしたとき、絵画という幻と現実とが画家の強い力で同一化されているという目の前の状況にかかりきりになり、これは嘘だしかしどんな現実よりも現実的だ、という想念に絶えず脅迫されるように見ていたのを思いだす。

レンブラントは違う。レンブラントは嘘をつかない。彼は現実が自ら美に変じる瞬間を捕える。あるいは変哲ない風景を、部屋の片隅を、肉屋に吊るされた肉を、奢った兵士達を、盛りを過ぎて脂の乗り過ぎた不格好な女達を、全て黄金に変えてしまい、しかも、そこには大いなる『自然』がある。


フェルメール


フェルメール ミルクメイド

北欧デルフトの画家フェルメールはその生涯で僅か三〇点ほどの作品しか残さなかったが、最近、そのほとんどの画布がオランダに集められ、特別展が行われた。それを前後に、雑誌やテレビで特集ものが組まれたりしたが、フェルメールほど劇的なもののない画家もなく、画家その人の分析から画布に至る道がほとんどない。そしてその画布もごくごく変哲ないものばかりである。特集を担当した人もさぞかしやりにくかったろう。

フェルメールの魅力はその画布の表面に完全に集中していて、絵画技法を詮索しても、描かれた対象について調べても、画家その人を想像で追求しても、すべてその中途で終わってしまい、あの独特な怪しい魅力に辿り着けない。今までこの不思議な画布について言われた色々な言葉を聞いてきたが、とある友人の言葉を紹介したい。彼女はフェルメールの特別展へ行き、あれだけの点数のフェルメールを一度に見て「寿命が縮まった」ように感じた、と書いていた。

今まで聞いた言葉の中で、もっともフェルメールの怪しい魅力を良く表している。その通り、あの画布には人を催眠術にかけるような、そしてそれよりもっと深刻な何かがある。僕が、友人の言葉より新しい何かをつけ加えられるとも思えないが、何か書いてみよう。

初めて彼の絵を見たのは、アムステルダムの国立美術館でだったと思う。ここには確か二、三点のフェルメールがあるはずだが、今思い出せるのはミルクメイドだけだ。この美術館へは何度も行ったが、そのたびにこの、レモンイエローの胴着に、真っ青の前掛けを付けたメイドが、レンガ色のカラフェから白いミルクを壺に移すところを、真珠色した淡い灰色の部屋の中で描いた小さな画布の前で、それこそ催眠術にかかったようになってしまう。

さあ、つまらない分析を後回しにして、見えるものを描写しよう。ふたつある──ひとつは画面の至る所に規則性なくばらばらに飛び散った光の粒、そしてもうひとつはべったりとビロードの様な質感で塗られた純度の高い色面の対照である。このふたつは対照的だ。点と面の対照、あるいは意識の中の鋭い点と満遍なく広がる気分のようなものの対照。

こう書いてみると、線はどこへ行ってしまったのか。線は「意味」だと思うが、なぜか後回しだ。

近くによって観察すれば分かるが、フェルメールの光の粒は、一番最後に盛り上げて置かれた絵具の点である。このミルクメイドでは、置かれたパンの表面、カラフェの縁、窓枠の一部、などにこの粒が見られる。他の絵では特に、椅子に打たれた真鍮の鋲、額縁の金、布に織り込まれた光りもの、ピアスや首飾りの真珠、壺のうわぐすりが反射する光、といったものが光の粒として描かれている。

彼の描き加えたハイライトは、他の画家の誰でもが使う手法だが、フェルメールに限って、これは絵の全体を調和させるためのある絵画的効果として計算して置かれたハイライトに、どうしても見えない。それは何か全く別の原理で置かれているように見える。

四角い画布の上で、彼の置いたこの光の粒だけをそのままにして、その後ろにある絵を意識の中で暗くしてみよう。そうするとこれは暗黒の宇宙に輝く星々のように映ってくる。そしてその星々がひとつのある星座を形作っているように見えてくる。

これは次のダリの言葉からの連想だ「フェルメールの絵にはいくつもの点があり、そのひとつひとつの点の回りを全宇宙が回転している」良い言葉である。フェルメールの光の粒の秘密は、何かそういったとんでも無く絵画から離れたところにあるように見える。

このミルクメイドは他の彼の絵と比較して、はっきりと明瞭度の高い色面で構成されている。それは先に紹介したように青とレモン黄と煉瓦色と白と灰色である。絵に描かれた人物やら小物やらの輪郭線を意識の中で見ないようにして、色の面だけを残してみる。そうするとこれらの色が奇妙な形に塗り分けられた地図のように見えてくる。その色は三原色である青、黄、赤、そして無彩色の白と黒に要約される。

それにしてもこの青とレモン黄について何と言ったらよいのか。これほど純度の高い二色をこのものすごく静かな画布の上に並べるのはほとんど無謀に思われる。この色だけを見るとむしろ、イタリアルネッサンスの地中海の青と卵黄の黄色や、フランスのプッサンが彫刻的姿態のデッサンの上に並べたよそよそしい青と黄色を思わせる。

しかし、このミルクメイドの画布全体に漂う空気はあきらかに北欧のものだ。彼は一体どんな方法を使って、このとても相容れないような対照をひとつの画布の上に同居させているのか。それは呆れるほど完璧なのは分かるが、何故可能なのかは分からない。

絵画技術に関して無知な僕に分かるはずもない、と言ってしまえばそれまでだ。あるいは、技術というものを単に極限まで持って行くと、素人の眼には幻想に見えるというだけ、と言ってしまえばこれも終わりだ。それにしても、僕の目に映っているものは、技術を越えた何かまったく異なるものだ、となると、ここには絵画のみならず、人間が知覚して思考するという技術にも通じる何か特別な事情があるに違いない、と考えたくなる。

まあ、いい。点と面について書いたので、最後は線だが、特に言うことはない。主題としては極端に平凡なものを好んで選んだ、としか言いようがない。また、そのデッサンはまさに写真的な正確さで、誇張や抑制といった手心はまったく加えられていない。厳格極まりない北欧的几帳面さである。

フェルメールという人間にも、彼の手になる画布にも劇的なものが見あたらないせいなのか、彼の絵はよく当時発明されたと思われる暗箱、つまりカメラの影像を基に製作したという説が一般である。すなわち光の粒はレンズで収斂する光線束が、色面はピントが外れてディテールの失われた光が、その正体だ、という訳である。この説明には確かに説得力がある。ときどき古いカラー写真の上にフェルメールのような効果が現れるからだ。

しかし、実際はそれでどうした、である。フェルメールという人間の精神が、カメラという血の通わない機械の仕事と同様のことを行うに至ったとき、その精神があらゆる雑事を越えて、客観性そのものに成りきった、と言ってもそれは構わない。間違ってもいないだろう。それが客観性を追い求める人間と客観そのものになった眼の違いだ、といっても無論問題なしだ。しかし、問題はその次なのだ。なぜ、そのようなものに接したとき僕達はある衝撃を受けるのだろう。

線が後回しで、光の点と色面が始めにその幻想のきっかけになる、との感想はここから来るのだろうか。天空の宇宙に描かれた星座、そしてまるで宇宙船から見た大陸ののような色分け、といったものは、我々がどうすることも出来ずに一方的に定まる自然、というより物理の作った模様だ。そういったものにある神秘的な意味を読み取ることは、とても人間的な作業だ。僕達はその客観を客観のままに放置するに耐えられないのだろうか。

物理的秩序に身をゆだねる、物理的秩序を克服する、は非常に異なるふたつの方向ではないだろうか。身をゆだねる事ができれば、それはすなわち人間にとってたちまち然り、となるだろう。しかし、それに抵抗すれば人間は苦しみながらも新たな秩序を見いだそうとするかもしれない。ぼくには、近年の自然思想が前者に見える。後者の道には人間の全歴史の血肉がかかっている、全努力の重さがある、なぜなら人間は自然を克服しようとしてきたからだ。しかし、なぜだろう。何のために人間は人間であったのか。

カメラそのものに成りきるのに、どれだけの人間にしかできない秘密の創造力が必要だったか。すべては幾重にも塗り重ねられた絵の具の層の中にある。けっして自然にはできない、とんでもない量の秘訣が必要だったのだ。客観に成りきるために消費された主観、ならこれは無駄だったのか。最近よく眼にする、宇注意志そのものに瞑想により同化した方が早かったというのか。いや、フェルメールの創り出した客観は、何かいままで地球に存在しなかった客観ではないか。それはやはり人間が何かを世界につけ加えた、すなわち創造することの誇りを表しているのではないか。

(以上推敲、以下執筆中)


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