目次
信念システムについて
社会的生き物
イデオロギー
ヘンゼルとグレーテル
真実とはなにか?
存在の分析メソッド
直観

信念システムについて

オーケー、それでね、僕は、いろいろな信念の構造について考えて、悪意について考えて、これらもろもろのことが演じている心理的な役割について考えて、というのはそれはある意味、この自分にも起こったからね、そのようなことがね。これは実に6か月にわたって自分をひどく苦しめたんだよ。こうも言えるよ、これらのことについて考え続けていたとき、この点について5年間に渡って、自分は完全にそれに憑りつかれていたとね。僕はこのことについて、文字通り一日中、毎分毎秒、朝起きてから、夜寝るまで考え続けたんだよ。それはたぶん本当に狂ったようになってたんだね。

それでね、ある一点について自分は結論に辿り着いた。僕は考えたんだけどね、オーケー、これがその状況だ。まず、人が自分が信じるシステムを必要としているのは、これは完全に自明のことだ。なぜなら、まず最初に、その信じているシステムが彼らの行動の羅針盤になっているはずで、だから、君はある一つのものが他のものより価値があるからその行動をする、と信じていないといけない。鶏はなんで道を横断するんだ? それは、その鶏が、自分がいる側より、道の向こうの方がいいと思ったからだろう? 明らかに。(学生笑い)

というのは、君が動くときというのはいつでも、そこには、その動きについての内的な仮定があって、それは、君が何かに向かって動くことは、君が離れようとしているものより、良いと思うからでしょ。さもなくば、君は自ずと破滅してしまうじゃないか、だって、さもなくば、なんで何かを避けようとする?

それが何を意味するかというと、君は価値の体系がなくして動くことはできない、それが無くちゃ何にも得られない。君は言うかもしれないね、いや、自分は何も信じてませんよ、とね、うん、でも君が何も信じてないと言うということは、実質的に君は君が信じているものについての議論はできないということだよね、あるいは、君は君が信じているものを分かっていないか。でも、もし、君がそこにそうして座って植物みたいにじっとしてるんじゃなければ、それなら、君は何かを信じているということで、さもなくば、それを行動に移すでしょ。

君は自分が信じるシステムを持たないといけない、さもなくば破滅なんだよ。そしたら、君はニヒリスティックになるか、鬱病になるか、希望が無くなるか、だよ。それはそうなるんだよ、実際それを誰が望むの? それはよくないし、苦痛でしょ。本当の鬱病は冗談どころじゃないよ。

僕はある重篤な病気にかかった人を知っていてね。その病気は身体の一部を破壊していたんだよ。それは関節を破壊したのだけど、それで同時に彼は鬱病の診断もされていた。僕はその人に聞いたことがあるんだよ。あなたに選択肢があります。あなたの関節を破壊している病気を治して、関節を取り換えるか、あるいは、鬱病を治すか。どちらにしますか、とね。彼は言ったのだけど、私はまず鬱病から治すと思います、間違いなく。

だから、それは考える価値のあることだよ。もし、君が信じるものが何もなければ、君は希望もないし、価値の体系もないし、君が最終的に向かうところが良いところとは到底思えない。

君たちのほとんどはそういう経験をしているはずだと思うよ。特にこの僕のクラスに来ようっていう人はほとんど、そういう暗かった時期っていうのを、一つや二つはくぐりぬけてきたと思うよ、理由はさまざまだろうけど。友人関係が壊れたかもしれないし、生きる意味を失ったかもしれないし、誰かに裏切られたかもしれないし、誰かが病気になったかもしれないし、君が病気を患ったかもしれないし、そうでしょ、ある悲劇が襲ってきて、打ちのめされてね。君は思うよね、ちくしょう、どうなってんだ。なぜどれもやりがいが無いんだ、とね。それは良い問いかけだよ、でも、君はそっちへはいけない、なぜなら、そっちは死のようなもんだからね。

それから、また別の問題もある。君がある信念システムを持っているとしよう。オーケー、じゃあ、僕がまた別のシステムを持っていたら何が起こるだろう。僕らはどうすることになるだろうか。君は君のシステムを捨てられない、なぜなら、それをすると君は終わってしまう。僕は僕で同じ理由で僕のシステムを捨てない。でも、もし、僕らが同じものを信じなければ、地球上の同じ場所に平和に一緒に暮らすことが果たしてできるかどうかは、はっきりしない。

だから、こういったことすべてを整理していたとき、僕は考えたね、ああ、ここまでだ。僕らは基本的にそういうものだ。これで終わりだ。僕らは信念システムを持たないことはできない。で、もし僕がそれを持ったら、戦わずににはいられない。でも、僕らはこの現代、戦うにしてもあまりに武装しすぎている。でも、僕らはただニヒリズムに向かって自滅して行くわけにもいかない。もっとも、そういうことはけっこう起こるけどね。そうしたら、終わり、ゲームオーバーだ。でも、そういう道は間違っている、ということは判明した。ああ助かった、でも、それらがどんな風に間違っているのか、ということを理解し始めることですら、自分にはえらく長い時間が必要だった。なぜなら、僕に言える限り、それにはいろいろな選択肢があったからね。

だから、もう一つ僕らが明らかにしないといけないのは、なぜ人々が信念システムを持つかということだけでなく、その信念システムは正確なところ何なのか、そして、なぜそれらは互いに競争するのか、そして、なぜ僕らは、それらを簡単に捨て去ることができないか、といったことだよ。

しかし、僕らはさらに明らかにしないといけない。僕らが、自分たちと同じ信念システムを持っていない他の人々と、ひとつ所で共存しようとするということについて、それはいったいどういうことなのか、ということをね。で、それはそういう意味で完全に、社会的存在の問題だよね、そうでしょ?

それで、生物たちは、この問題を大昔からずっと解決しようとしてきたわけだよ。それがどれほどの時間か分からないけどね。僕は例題としてロブスターを引き合いに出すのが好きでね、なぜってロブスターは自分たちを支配的ハイアラーキーに組み入れているし、それで、彼らはとても複雑な社会的ふるまいを取るんだよ。彼らには、そんな大きな脳は無いんだけどね。

社会的生き物

だから、実はたいした大きさの脳を持たなくとも、すごく複雑な社会的ふるまいというものは持てるんだよ。ロブスターはすでに400万年も地上にいるわけだ。だから、おおざっぱに言って、僕らがロブスターと同じ祖先をもっていた大昔からね、僕らは正確に同一の信念システムを持っていない生き物どうしが共存するにはどうすればいいのかを、400万年にもわたって解決を試みてきたわけだ。

それで、僕らはその共存に十分に成功してきたわけだ、社会的生き物としてね、それで僕らはここにいる。だから明らかに、そこには、何とかそれとうまくやって行く道があったわけだ。もっとも、それを知るのに彼らロブスターをそれほど熟知している必要もないけどね。

僕は、いろんな信念システムとか、その必要性とか、その機能とか、それで彼らが結局、病理学者になる道のりとか、そういうことを理解したかったわけじゃないんだよ。そうじゃなくて、異なる構造に基づく異なる信念システムが一つところで平和に共存できるために、信念システムが改変されて折り合いをつけるそのプロセスに、あるパターンがあるかどうかということを明らかにしたかったんだよ。

これはとても重要な問いでしょ? だって、君たちの多くは将来結婚するでしょ、それが成功でも失敗でも。で、もし結婚しないとしたって、君たちは誰かほかの人と長い間一緒に住むことになるでしょ。それで、君は、その他の人が君と同じじゃないってことを見出すことになるよね、でも、それはひどくうっとうしいことだよ。

でも、だから、どうする? 君は、奴隷になるか、あるいは暴君になるか、あるいは折り合いをつけるか、だよね、それが君の持ってる選択肢だ。それで、折り合いをつけるのは特別難しいはずだよ、なぜなら、君は、自分が何を欲しているか明らかにする必要があって、でも君はたぶんそのことを認めるのが嫌で、さらにそれから、君はその君の愚かなパートナーが何を欲しているかを、ちゃんと聞いてあげないといけない。

で、結局、君はどうするれば双方がうまく行くことが可能になるか、明らかにしようとしないといけない。

えーとね、奴隷と暴君の方ね、これらは認知的な観点から言って、比較的簡単だよ。同じ場所にいて双方が満足するにはどうしたらいいか考えるのに比べればね。でも、折り合いをつけることは可能なんだよ。

それがこれから話すことです。それにはちゃんとプロセスが存在するんだよ。

だから、僕は君たちに、信念システムについて語ろう、そして、その心理学的な重要さとね。それはどんな風で、どんなことができる機能があるのか。そして、それらがどのように形を変えて行くかについて語るよ、それは変形できるんだよ。システムは変わってゆく、特に人間においてはね。だから、それは変わりうるし、つまり変形させることができるものだ、という意味だよ。

それで、それはね、少なくとも原理的には、僕らは対話することができる、ということだよ。さて、対話をする、それは大変なことだ。でも、さもなくば戦争さ。それが、僕らは、なぜ自分の敵の言うことを聞かないといけないのか、ということの理由の一つだよ。なぜって、もし君が敵の言うことを聞かなかったら、あと残された道は敵と戦うことだけでしょ? そういうこと。

イデオロギー

(学生の質問)先生は、どんな風に信念システムが変え得るのかについてお話しましたが、ということは、それらは歩み寄って一緒になることもできるんですよね? それは、政治学的見解ではないのですか?

君が言いたいのは、その政治的解決を起こそうとする希望のことだね? ああ、そうだね、たしかにある程度はその希望のことだね。

それはねえ、僕が政治的な動きを見るときはいつでも、特にイデオロギー的な政治団体を見るときはねえ、こう思うんだよ。わかった、OK、そこにはあなたたちのための事柄が束になってある。いいでしょう。では、あなたたちが敵対している相手は、何ですか? ということ。

なぜなら、一つ言えるのが、イデオロギー的な立場を取っている人々が思い込みたいと思っているのは、すべての権利が自分たちの側にある、ということだよ。これは、ユング的な見方をすると、そのせいで彼ら自身の「影」を意識することを非常に難しくしてしてしまう、ということだよ。

ナチはねえ、彼らにとって自分たちがやっていることについてのあらゆるポジティブな理由を持っていたんだよ。けれど、そこにはネガティブな理由もあったでしょう? そして僕たちはナチのケースでは、ネガティブな理由こそが本当の理由だ、という風に話を持って行くことは、簡単なことだよね。

僕がイデオロギーを見るときはね、いつでもこう考えるんだよ。ああ、ああ、分かった、分かった、それを目指してるんだね? でも、僕は、その君のイデオロギーに良識あるよい人々が付くとは思えないよ。そして、二番目。僕はね、ネガティブなモチベーションの方がポジティブなそれよりずっとパワフルだっていうことを知っている。君には君の望ましいものがあるが、君には君が敵対しているものもあるよね。なら、まず、そっちから考えようじゃないか、と。

僕はこのことについてジョージ・オーウェルを読んだ後に考え始めたんだ。僕はジョージ・オーウエルが好きでね。ところで、ジョージ・オーウェルを知っている人はここにどれぐらいいるの? へえ、本当? そんなにいるんだ、それは感動だな。知らない人はどれぐらいいる? なるほど、いや、OK。しかし、驚きだ。君たちジョージ・オーウェルをどの本で知ったの? 「1984」?それとも「アニマル・ファーム」?

(学生の反応) アニマル・ファームです

OK、OK、それはいい。というのはね、ジョージ・オーウェルは、これから話すけど、彼は西洋の知識人として初めてソ連で何が行われていたかを明らかにした人だったんだよ。それで、彼は、その仕事を1940年代の半ばにやった。早かったね。それは複雑な話だった、僕らは20年代、30年代に行われていたことをだいたい知っていた。レーニンがいて、それはあまりいいことじゃなかった。そしてロシア市民戦争があった。共産主義という全世界的な理想があった、でもそれはそんなにいい思想ではなかった、少なくとも、共産主義者にはなりたくないと思っている人々にとってはね。

それで、結局、それが1930年代にウクライナで起こったことだった。その証拠は増え続けていた、でも、残念なことに、それで起こったことはスペイン市民戦争で、左翼の人々はそのスペイン市民戦争では良い人々だったんです。それは第二次世界大戦のミニチュア版でね。左翼の人々はファシストと戦っていたんだよ、それで左翼の一部は共産主義者だった。でも、その左翼の多くの人は純粋に自由のために戦っていたんだよ。

北アメリカの文学者の多くもスペインへ行って、ファシストに敵対する側について戦ったんだよ。それは、まったくフェアなことで、ファシストは明らかに邪悪だったからねえ。

だから、そのたぐいのことは、事を見えにくくするんだよ、なぜって、ファシストは悪だ、そして、それは、そのファシストに対して戦っている人々は良い人々だということを意味して、そして、その良い人々の一部は共産主義者だ、ということになるからね。

人類の歴史の中にね、人々が過激な社会主義者になる十分まっとうな理由がある、そういうときがあったんだよ。というのは、そのとき、労働者というものが非常に劣悪な環境に苦しんでいたという状況があったからね。

ジョージ・オーウェルは「ウィガン波止場への道」という本で、その中で彼は炭鉱の町へ行って、そこで働く炭鉱夫の生活を見て、それについて、書いたんだよ。では、彼らの生活の一部を見てみよう。

炭鉱夫は、基本、7時間半の仕事が単位でシフトになっている。君たちはたぶん、へえー、それは1930年当時にしてはぜんぜん悪くないね、と思うだろうけど、それはね、炭鉱夫がトンネルを下って仕事場に行くんだけど、でもそのトンネルはねえ、2メートル半もある天井にカーペットの敷いてあるよう代物とは大違いでね、天井はたったの1.4メートルで、地面はでこぼこで明かりもちゃんとしていない、それで空気もひどく悪い。だから、基本的に、炭鉱夫は仕事場へ行くだけで、猿のように歩いたり、這ったりして、5キロメートルほど進んで行かないといけない。それで、仕事が終わってからも、同じようにして戻ってこないといけない。しかも、その行き帰りは給金なしだ。それはただの通勤だからね。

それで、もちろん、仕事場について彼らがする仕事は、もう不潔そのものだ。信じられないぐらいうるさい騒音の中、暴力的なほどにきつい。炭鉱夫はねえ、彼ら歯は無くなっちゃってるけど、身体はボディビルダーみたいに完璧だ。彼らは信じられないぐらいの力と体力があって、それは、すべて、彼らが物凄く過酷な肉体労働をしているからだよ。本当に粗野な話なのだよ。

それで、ほとんどの労働者の家はひどいもので、50戸の家族がたった一つの野外の便所を共用している。たぶん、それを言えばどんなにひどいか描写するに十分だろう。彼らの家は平屋でね、その平屋には裏口が無いの。だから、つまり、冬で外がマイナス20度のときに、それで風邪でも引いて病気になったときも、その野外の便所へ行くのに、長い平屋をぐるっと回って裏へ行かないといけない、そうして便所に行くと、そこにはすでに誰か入ってるかも知れないし、あるいはすでに50人も並んでて、そこに並ばないといけない、そんな風だよ、分かるよね。

オーウェルはね、彼は基本、上流階級の人間だったんだよ。それで彼は、その自分の持っている上流階級的な偏見をなんとか克服しようとしたんだよね。彼は、労働階級の人々のひどい労働環境に関する、本当の記録作家だったよ。

彼はこの「ウィガン波止場への道」という本を書いたけど、オーウェルの言ったことの一つはね、いや、彼はそのひどい環境にいる炭鉱夫の不幸な人々の物語を語ったけど、でも、そうだよ、それじゃ、これらの人々やその子供たちが延々とこんな野蛮で過酷な扱いを受けないように努力するはずの、その社会制度を推進する側はどうなんだよ、って話だよ。

でも、彼は、それをこの本の後半に書いたのだけど、それは「左翼クラブ」のために書いたのだよ、それは、ある社会主義者のグループが毎月かそこら出版していた雑誌なのだけれどね。

彼がしたことはね、つまり、彼は社会主義を批判したのだけど、イギリスの社会主義をね、それで彼は、そう、それって最低だろ、って言ったの。それはね、彼らは、我々は労働者の側に立たねばならない、と言いながら、僕が実際に会った社会主義者は、労働者の側には立っちゃいない。彼らは、中産階級でツイードスーツに身を包んだ過剰な知識人たちで、労働者階級のいるところに決して近づいたことすらないんだよ、自分のいる階級の持つ偏見やその他いろんな理由でね。それに、彼らは貧困がまったくに大嫌いで、彼らは単に金持ちが憎いだけだってこと。

僕はね、かつて長い間、NDP(New Democratic Party:新民主党)のメンバーだったのだけどね。そこでは、いつも、何かがなんとなく外れているんだよ、特に急進的なところではね、いったい彼らには何があった? 僕が分かる限り、そこに善意があったようには見えない。代わりに、そこにはたくさんの泣き言や文句や恨みがあったのだよ。これは何なんだ? それで僕はオーウェルを読んで、ああ、そういうことか! って思ったの、そう。

もし君が成功者が憎くて、それで、もし君が裕福な人々が憎くて、裕福ってのは、君よりカネを持っている人すべてのことで、だって、それが君にとっての裕福の定義だしね。それで、自分のその恨みを隠す最もいい方法は、君が貧困の側にいるふりをすることだよ。それで、僕はオーウェルを読んで、その考え方は完全に正しい、と思ったんだよ。

そして、それはまた自分を精神分析的な考え方にさせたことでもあったよ。というのは、精神分析者がいつもすることはね、本当に毎回ね、それはもし君が、これが私がいつもすすんですることです、と言ったとき、精神分析者はこう言うんだよ。あなたは、あなたが、なにか安易で悪いことをしていることを、隠すために、それをどのように使っているのですか? とね。

それはね、本当に本当に役に立つ問いかけだよ。いつも正しいわけじゃないけどね、それは一般に人々が思いたい以上に、当たっている考え方なんだよ。

ヘンゼルとグレーテル

それはね、ちょうどヘンゼルとグレーテルの中の母親、あるいは魔女、みたいなもんだよ。君たちこの物語、知ってる? ある男が再婚する。彼には子供が二人いるけど、でも、彼の新しい妻はその子供たちを実は好きじゃないの。ところで、実の母より継母にいじめられる方が、100倍も可能性高いよ。それはね、そういうもの。

だから継母はその子供たちが嫌いなわけだ。そして彼女は夫に言う、この子供たちを森へ連れて行って、置いてきてしまいましょう。そこで、彼らは子供を連れて森へ行って、彼らを置いて帰ってしまう、さあ、子供たちは森の中で迷子だ。そう。どこにも行くところがない。

そこで、彼らは森の中をさまよい歩く。それでどうなった? 彼らはお菓子の家に辿り着くんだよね。おー! 腹ペコな子供が迷子でお菓子の家だ! そりゃ凄い、そうでしょ? それはただの家なだけじゃなくて、お菓子でできてる! これより素晴らしいことなんかいったいあるものだろうか!

それで、彼らはその家に入って行く。

そうするとそこにはおばあさんがいて、それで彼女はその二人をのしてしまう。それで、一人を、たしかヘーゼルだったと思うけど、檻の中に入れてしまう。それでしばらくしたら、もう一人のグレーテルを食卓を用意するメイドとして使い始める。それでその子供たちは完全に悟るのだけど、彼女は彼らをのして、彼らをオーブンに入れて食べるつもりだってね。

それで、たしかヘーゼルがやったのが、グレーテルはどっかの動物の骨を持ってきて、それを檻の中の彼のところに置いて、その魔女が檻のヘーゼルの足に手を伸ばしたとき、その痩せた動物の骨を魔女に握らせて、というのは魔女は目がよく見えなかったから、それで、魔女は彼を食べる気がなくなってきて、それでとにかく、結局、子供たちは魔女をオーブンの中に突き飛ばして、扉を閉めてしまう。それで、やっとその家から脱出するのね。

そう、だから、これはハッピーエンドだね、少なくともお話の上ではね。でも、これはエディプス・コンプレックスの話だよね、そうでしょ? これは古典的な物語だけど、エディプスの家族だよね。

君にやたらといいことをしてくる人間には、十分に慎重に注意しろ、ということだよ、そうでしょ? それは、もし君にそんな母親がいて、あるいは親戚がいて、それで同情やらお菓子やらを持って君を誘惑して、最後には平にのしちゃおうということで、そういう時には、その彼らは、君が離れられないようにして、最後に食べてしまおう、という目的である可能性がものすごく高い、ということだよ。それは冗談じゃなくて本当なんだよ。

あのね、君たちがぜったいに学ばないといけないことの一つはね、もし、君たちが、自分たちの母親の地下室から突然出て行って、ドーソン・カレッジで銃を乱射するようなたそんな人たちについてのことを知るとするとね、それは往々にして、その彼らが生活していた状況がそのものだってことだよ。彼らは、その彼らの住んでた地下室の部屋の中で5、6年もの間、ずっと自分たちの無能さについての恨みを燃やし続けている。彼らはその場所を離れる必要がない、独立する必要もない。自分たちのために何もかもしてもらえる。だから、彼らは自分たちについてのことは何一つする必要がない。

これはいいことじゃないよね。だから、人々とやってゆくための一つのルールはね、あと、これは実際、引退した歳を取った人たちとやってゆくルールでもあるのだけど、誰であろうと彼らが自分でできないことを代わりにやってはいけないということだよ。それは彼らからそれを取り上げていることになるんだよ。

そして、それは子供たちに対しても重要なルールだよ。自分で服が着られるようになったら、子供は自分で着る。テーブルセットができるようになったら、たとえそれが20分かかろうと、子供にはテーブルをセットさせる。自分でできるようになったことには、手を貸しちゃいけない。

それは厳しいかもしれないけど、それによって、ヘンゼルとグレーテルは魔女を撃退したのだよ。

真実とはなにか?

とにかく、だから、それともうひとつ僕らが見ないといけないのは、ポジティブな動機の暗黒面だよ。じゃあ、僕らはそれをどうすればいいか。

君が自分自身にたずねることの一つは、もし何かが真実だとして君はいったいそれをどうして知っているのか、ってことだよ。

さあ、最初に君たちに勧めたいことはね、君たちが僕のクラスに対する態度をね、僕の話すことはぜんぶ正しくないとすることなんだよ。いやいや、あのね、それは君たちに懐疑的で傲慢になれって言ってるんじゃなくてね、だってそれはふさわしくないでしょう? そうじゃなくて、君たちは批判能力を身に付けて、それをクラスに持ってくるべきで、僕が話すことを、君が崩すことができるか、ってことで、というのは、君がしたいことというのは、崩されることのない知識の実体を身に付けたい、ということでしょう?

それで、その君がしていることというのが、つまり、言論を崩してゆくということでしょ、君の身に付けたすべての根本的な知識を総動員してね。それで、もしその考えが、その徹底的な攻撃に耐えられたら、そのとき、君は何かを得たことになる。君の思想の基礎をね。事が荒れたときにでも君の思想がそれに耐えられるだけのものを得たということだよ。

それでは、事が荒れたときに、僕が見つけた僕にとって役に立ったことについて話そう。ただ、しかし、それが君たちの役に立つとは特に期待していないし、僕は君たちに、そう、僕の話を聞いて考えて欲しいけど、でも、君たちには自分についての知力をきちんと保持してもらいたいんだよ。

さあ、それでは、僕がどうやって何かが真実か否かを決めているか、について話そう。まず最初に、真実の定義には異なる二つがある。だから、僕らはその二つを行ったり来たりすることになるわけだ。

真実の定義の一つは客観的な定義だけど、これについては君たちはすでにそれが何か知っているから多く語る必要はないよね。でも、実はもう一つ別の真実の定義があるんだよ、そして、僕はそれがいちばんよい定義だと思っているのだけど、それは実践的真実です。

実践主義はアメリカの哲学の一つの流派でね、それは非常に高度な哲学だよ。実際、僕は、それがもっとも高度な哲学だと考えているんだよ。それは、もっともクレームを少なくするような哲学だからだろうね、たぶん。実践主義者たちが基本的に何を言うかというと、私たちは本当には何も知らない。私たちはあらゆるものについて最終的な知識というものを持たない。だから、私たちの知識は常に最後には無知に行き着く。そういうわけで、私たちは、もし何かが真実であるとき、私たちはそれをどうやって知るのだろう、と問いかけるよね? そして、その問いかけに対して、実践主義者たちは、つまり私たちには知ることができない、と言うだろうね。

私たちが知っていることというのは、ある特別な働きに対して、その何かが十分真実である、ということだけだということ。

だから例えば、あそこのドアのところへ行く、という君のセオリーがあったとすると、それはたぶん、君は立ち上がって、そこまで歩いて行って、それで、という風に進むだろうけど、でも、君がそのドアのところへ行くまでの間に何が起こるかなんて誰にも分からないでしょ?

ひょっとすると、地震が来るかもしれない、天井のタイルが君の上に落っこちてくるかもしれない。誰が予想できる? 君は心臓発作を起こすかもしれないでしょ? だから、君は、君がドアのところまで行けるかどうかについては、分からないということなんだよ。君は、過去の経験から推論しているだけで、でも、もしドアまで行けたら、そのときは真実についての君の命題は十分なものになり、それで、君のセオリーが予想したことがその通り起こったということになる。

だからある意味、実践主義者が言っていることというのは、君が何か命題を立てるときはいつでも、特にそれが行動に関係しているとき、君がその命題に沿って正しい理論を提出する、ということは、実は暗に、もしそこで何かが起こることを予言したことが実際に起こったときに、その理論は十分に真実である、ということなんだよ。

これ、すごくいいセオリーだと思わない?

それは、私たちにあらゆることについての真実をすべて知っている、ということを要求しないのだよ。私たちは無知だ、何についてもそのすべてを知っていはしない、そして当然ながら、私たちはこの世界にあってその一部の知識をもって生きて動いている、そして、それでうまく行く。いつもとは言えないけどね。

我々は老いる、我々は病気にかかる、我々は死ぬ。我々は完全に徹底的にやるわけじゃない。そして、僕らは実践的真実のフレームワークを使うし、そして、僕らは客観的真実のフレームワークも使う。

それでね、僕が君たちに提案することはね、僕らが本能的に持つ最も深いところにあるモラルに結び付いた物語というのは、実践的真理である、ということです。そして、だから、僕らは実践的真理が必要なの、客観的真理とともに実践的真理をね。なぜなら、僕らはこの世界が本当は何からできているのか、それを知る必要はないからだよ。世界は物からできあがっているという事実のもとで、僕らに必要なのは、そこで何をすればいいのかを知ることなのだよ。

なぜなら、人間というものはもともと動く生物で、僕らは世界の中で演ずるのだよ。世界の上で演ずるんだ。だから僕らが知る必要があることは、この世界の上で何を演じるべきか、ということなんだよ。これは、客観的な方法ではアプローチできないタイプの問題だよ。論理的に言って、正しいでしょ?

これは実際には価値の問題なんだ。何をすべきか、という。

科学、これはねえ、その方法論から言って、こういうタイプの問いかけに対して答えることを拒否するんだよ。人々は、科学は価値の問題を含まないという事実と、存在というのはそれ自体定まった価値がない、というようなことについて、混乱をする。それは哲学的に原始的なことだけど、こう言えるよ、科学というのは、テクニック的な意味でね、この客観的価値という価値を捨て去ることによって成立しているとね。だから、価値を得るために科学的真実を打ち立てる、とは言えない。価値はぜんぶ落ちてしまうから。

まるで価値などというものは無いみたいにね。いや、違うか、それじゃあ、考察の範囲を超えてドメイン設定しちゃってるか。これは、価値が存在しないという意味じゃないんだ。

それは単に別のこと、ということなんだよ。そこでは別の哲学が要求されているんだよ、別の見通し、別のテクニック、別の道具、そして別の証明法をね。そういったものすべてをね。

だから、これから僕らが検討して行く中で、僕は客観的真実をできうる限り使うよ。なぜなら、ここ百年ぐらいの間に心理学が、科学の一つとして、僕らに提供してきたことがたくさんあって、それらは、これから僕らが話し合ってゆく問題を明らかにすることについてものすごく役に立つからね。

実際、精神を理解することにおいて僕らは進歩を遂げていて、特にそれは、生理学的、そして行動学的なレベルにおいてね。僕らはかなりしっかりした情報をそこから得ることができるんだよ。完璧ではないけれど、とても役に立つ。

だから、僕らは、たくさんの文献から引っ張って来るよ、物語からも、文学からも、哲学からも、宗教からも、神話からも、生理学と心理学からも、それらいろいろなソースから知見を持って来ようというわけ。

存在の分析メソッド

ここに君たちが学ぶべき理論があるんだけどね、それは特に君たちが心理学者なら知らないといけない。それは、Multitrait-multimethod matrix(複数特性・複数メソッドマトリクス)という方法なの。これは1950年代に提案された手法で、たしか、メールとクロンバッハによるものだと思う。それは50年代に出版された有名な論文でね、みな知るべきものだよ。もっとも誰もあまり注目しなかったんだけどね。彼らが興味を持ったことは、何かが存在すると君が言うとき、君はどのようにしてそれを知ることができるか、ということなのね。例えば「怒り」と言ったとき、その怒りは存在する?

その答えはほとんど自明のように見えるよね。でもそれは微妙な問題でもあるよ、だって、誰も君のところに来て、これが怒りです、って言わないしね。彼らは、ストーリーを語るでしょ。そのストーリーの中での怒りに関係するあれこれの言葉を使ってね。それで君は、彼らが怒りについて何を意味していたか、そのストーリーの文脈からその怒りがどこから来たのかを見るでしょう?

現実を定義するには、その文脈が重要なんだよ。それで、君は、その今問題になっている怒りを文脈からうまく引っ張り出して来れるか分からないけど、君は、たとえば鉄に見えるもの、これは鉄だと言えたり、あるいは、水銀でもいいけど、でもひょっとすると違うかもしれない。ひょっとすると、それはある種のパターンとか、慣例みたいものかもしれないし、あるいは、たぶん、その物に関係するあらゆる種類のことがあるんだよ。

だから、クロンバッハとメールが根本的に主張したことの一つは、何かが存在したり存在しなかったりする、ということを言うためには、僕らはたくさんの異なる方法をもって、それを検出できるようにしないといけない、ということなんだ。

さあ、それでも微妙だよね。だって、何をもって異なる方法というのか必ずしも自明じゃないからね。だから、君はある意味、決めないといけない、でもこうは言えるよね。つまり、複数の方法を使おう、と。マルチの特性というのは、複数の根拠によって何が真実かを決める、という意味だよ。じゃあ、それはいくつある? 感覚的に言って6個かな? なぜ? もうちょっとシンプルにするために5個って言おうか? でも、なぜ? なぜ1個だけじゃいけないの?

(学生の答え)それが真実であるという確からしさを増すためです。僕らはそれを見れますが、触ることはできません。蜃気楼かもしれないし。なので、それが真実である確からしさを指摘するには、多くの方法で確かめる必要があるからです。

そう、その通りだね。そして、僕らはそうであって欲しいよね、だから、感覚をベースにした考え方はとてもいいものだ。なぜなら、僕らの感覚は異なる様相を持っているからね。

これは当たり前のことだけど、目は光という電磁波に頼っているし、耳は空気の振動によっている。そして、触感はある意味、原子的な現象だよね、だって、僕らの身体という分子の外殻が、物という分子の外殻を感じるのだからね。そして味覚は、やはり分子レベルの現象だ、そして嗅覚も。

だから、僕らの考えでは、もしこれら5つのことが検出できたときは、その対象は十分に本当であろう、それで、僕らはそれについて何かアクションを起こすときの基準として使えるだろうし、それなら僕らは間違えないだろう、とするわけだ。

そう、だから、5次元ね。5次元の解析が必要なんだ、それで、それは進化している。君は、それはたかだか妥当な推測だ、と言うかもしれないけどね。君が、あるものが正しいという前に、5つの互いに異なるものを検出する必要がある、というわけだよ。

さあ、それで、実験心理学について学ぶとね、pという基準があって、そのpの値が0.05以下なら、なにかが現れたときに、それが現れる確からしさがあるレベルを超えている、と判断できる。

いや、実はそれは正しくないな、それは実験心理学ではまだ正しいと言えない。実験心理学者たちはそれを50年代後半から知っていたんだよ。君は、その当の対象が存在することを、複数の異なるやり方で示さないといけない。

それで、何をもって、複数の異なるやり方ということになるのか、というのは議論の対象だね。それは複雑なので整理するのは難しいけど、それを何とかしないといけないのは確かだよね、でしょ? たぶん、心理学的な尺度を使って、自己報告かそのようなものとか、他の報告とかね。たぶん、5つは必要ないかもしれないけど、たぶん3つは要るだろうけど、それは状況に依るわけだけど、

だから、これから僕がするのは、君たちにある物語を語ることでね、おおざっぱに言って、僕は、5つか6つかの異なるレベルの分析の証拠を持つ物語を語りたいわけだ。

さあ、それで、この方法の考えられる欠点の一つは、これだよ。

たとえば、ジョセフ・キャンベルは英雄伝説について書いた。たぶん、「千の顔を持つ英雄」って本を読んだ人もいるでしょう。

ジョセフ・キャンベルや彼のような人に対する批判の一つは、彼らは複数のカルチャーの物語を読むのだけど、彼らには先験的なフレームワークがすでにある。その先験的フレームワークのせいで、彼らは彼らの理論に沿って、見ようとするものしか見ないということです。

彼らは例外を見ようとしない。だからこれはパターン認識の問題なんです。パターンが存在しないところで、パターンが見えてしまうかもしれない。さあ、これで、そういう意味で私の方法が批判されたわけだ。

でも、そうした批判から自分を擁護するために取った僕の方法はね、十分な多くの根拠から結果を引き出すように努め、そうすることで、一貫した物語をそれら多くの異なるタイプのやり方で語ることができ、それが間違う可能性を無視できるぐらい小さくすることだった。

さあ、君はそれが真実であることを決定しないといけない。僕は君たちに、多くの分析の次元について、これからざっと語ろう。これから僕が君たちに話そうとする考え方は、個人的に僕がすでに実践して確かめたもので、それは僕の場合うまく行った。

その考え方は、僕がこれまで教えてきた人々がやってもうまく行っている。だから、それには仲間がいるんだよ、そして、仲間だけにとどまらず、他のたくさんの人々もそうだ、なぜって僕は精神科医で患者を持っているからね、そうでしょ? だから、それはとてもうまく行くやり方のようで、たくさんの人々が、それがうまく行ったことを僕に書き送ってくれているんだよ。

だから僕は複数の評価者からの信用があるんです。それで、それには、生物学的な証拠があり、文化的な証拠があり、これらとてもとても古い物語の人類学的な証拠があり、といった風にたくさんある。それらを聞く決心をしてよ、それが見えるから。

直観

もう一つあります。実際、これをどうしていいか、どう説明していか分からないんだけど。君たち、おそらくたまに、直観的に真実が分かることがあるでしょ。たとえば、君が誰かにある問題を説明しているとき、相手が、そこが核心じゃない? と言うことがある。彼らは君に公式を指し示す、そうするとそれがきっかけのようなものになる。そう、それが、あらゆる物事がよって立っている様子なんだよ。それはね、パターン認識のメカニズムなの。

人々は一般に、何か事が起こるときに、それについてのある感覚のようなものを持っていてね、そのせいで、何かが、あるいは真実が姿を現すんだよ。

さあ、それでね、この僕のコースを取っている学生からの一番多い反応はねえ、僕は、誰に対しても何についても、その人間が知らないことについて、語っていない、ということなんだよ。

その理由はね、これがその理由であって欲しいと願うけど、この授業で僕が描いて見せているものは、原型としての構造なんだよ、つまり、僕は自分の仕事の多くをユングに負っていて、それで、その原型構造に非常に興味があったからね。

だから、これからここで起こるのはね、それは、僕がある物語を語るでしょ、そうすると君たちは思う、あ、そっか、そういうことか、って、そういう意味だよ。それで僕は、ここで、あらゆることがそういう風に説明されるように、するわけだよ。

だから、君たちはこれからこの感覚を実感することになるよ、それで、それはねえ、僕らは、スピリチャル的に覚醒した友人のことを話したでしょ。スピリチュアル的覚醒を伴う認知現象の一つはね、しばしば、一つの大きなアーチの中で統一されたたくさんの拡散した現象同士の結合の結果なのだよ。それで、君は、これは過激なほどの単純化だと感じると思うよ。それは何かそんなようなものだよ、エントロピー減少のような、そういうものだよ。それは、すごくすごくパワフルな感覚なんだよ。

つまり、君がスピリチュアル的な経験と呼べそうなものは他にもあるけれどね、でも、これは確かにその中の一つだよ。

そして、だから、君たちは分かるようになるよ、僕はこういった物語をこれから君たちに語る。それで君たちは、感じると思うよ、これらの物語が、君たちの経験の中でそれ自身をどのように現すようになるかをね。それは現象学的なレベルでの真実だよ。

そう。現象学ね。哲学の一つの流派だ。ハイデッガーによって始められたね。正確にはそうじゃないけど、多くの人によって拡張されたように、ハイデッガーによっても拡張された哲学、と言っておこう。

ハイデッガーはこう考えたんだよ。西洋哲学は基本的に、ソクラテスの遠い昔の時代からすでに、間違った方向に進んでしまった。僕らは、この世界が何からできていて、それを僕らがどのように知るか、ということを探究するようになったのだけど、彼いわく、そうではなく、僕らが探究するべきだったのは、存在の本質と性質についてのことだった、というんです。

彼が存在という言葉で意味したのは、客観的な世界のことではなく、彼が存在という言葉で意味したのは、僕らが世界で経験するその仕方、のことなのね。だから、世界には、客観的な要素ではない、存在の要素がある、ということだよ。

だからこう言えると思うよ、「痛み」は現象学的な現実だよね。それは、なにか、客観的に整理分類できない何かだよね。分類というのは現象じゃあないでしょ。それでも、君の痛みは現実かな? これは、この世には意味としてそういう実体があるわけじゃないと考える人々による問いかけなんです。

君も、自分自身でその痛みについてよくよく議論してみて、それがどこまで行くか見てみるといいよ。

君はこう考えるかもしれない。いや、自分が意味したのは、それは「意味」といったたぐいのものと違った何かだ、とね。

えーと、分かるよね、否定的な意味というのはスタートポイントになる。そうでしょ? なぜなら、もし何かが否定的で、それが事実だったら、そのことは、そこになにか肯定的な事実があるということを示しているわけだからね。それは把握するのが大変かもしれないけど、少なくともそれは痛みじゃないと。 

でも、「痛み」ね。デカルトがね、いや、これで止めるよ、そしたら休憩。

デカルトはね、方法的懐疑というものを使って、彼の哲学の旅を始めたんだよ。デカルトは、彼自身が疑うことができないものを追い求めたんだ。だから、彼はひょっとすると精神的に鬱病の気があったのかもしれないけどね、彼はすべてを疑ったのだよ。僕たちは、この世界が、自分の現実を惑わす邪悪な悪魔によって作られた単なる蜃気楼ではない、ということをどうやったら知ることができるか。で、彼の結論は、疑わしいと抗議することのできないことがたった一つある、それは、自分が存在し考えていることだ。

僕はデカルトのいう「考える」が、現代の僕らが意味している「考える」と同じだとは思わないよ。たぶん、彼の「考える」は、僕らがいま「経験する」という言葉で意味するものに近いと思っているよ。というのは、デカルトの時代に比べると、今では、思想において使われる言葉の意味がかつてよりずっと狭くなっているからね。

だから、彼が言いたかったのは、「我考える、ゆえに我あり」という意味ではないと思うよ、そうじゃなくて、むしろ「経験する、ゆえに我あり」というほどの意味合いだったと思う。

ハイデッガーは違うことを言った。ハイデッガーが言ったのは、基本的に、疑わしいと抗議することのできないたった一つのことは、君の経験は経験だ、ということなんだよ。それは確かに存在する。それは、ほとんど定義から明らかだ、それは「存在」の定義のようなものだ。

それで、彼は、存在の根本的な要素はなんであるかについて探究したんだよ。そして、それらは「原子」じゃない、それらは客観世界の根本要素ではない。そうじゃなくて、それはむしろ「痛み」のようなそういう要素だよ。それで、僕にとっては、そこが、あらゆることを疑うのを止めた地点だったんだね。つまり、僕は僕の痛みの存在を疑うことはできない、それは事実らしい。こうも言えるかもしれない。他の何よりもそれは事実らしい、とね。

さあ、君は言うかもしれないね、私はそれを信じない、とね。でも、僕はこう言うよ。僕は君が信じていると思っていることについて、知りもしない、とね。痛みを感じている君を僕は見るとする、そして、君の取る行動の一つ一つは君が痛みを信じている、ということを指し示すだろう。そして、それだけでなく、君がそれを信じていないことも指し示す。それはそこにある。そして、それはそこにあって、それは一つの意味としてより多くそこにある、と言える。

それで、それこそが、ハイデッガーが存在について徹底的に考えたそのやり方だったんだよ、あるいは、意味によって構成される経験としてのね。

だから、このコースの名前が「Maps of Meaning(意味の地図)」になっている理由の一つは、僕らがこのコースで見て行くことは、意味の構造のことだからで、それで僕らはまず、否定的な意味から始めるつもりで、それはなぜかというと、僕の見方だと、君は、善が存在するか否かを疑え、ということだから。

でも、このコースで僕がいったん、人類の歴史について僕が知っている事々を語ってしまったら、この部屋にいる誰も、「邪悪というのは存在しない」、と考える者はいなくなると思うよ。君はひょっとして、そんなことを学ぶなんて最悪のことじゃないか、と思うかもしれない。でも、それは違うんだよ。それは、信じられないぐらい役に立つことでね、なぜなら、いったん君が、君が否定できないことについて確固たるものを確立したらね、君はそこから動き出すことができるからだ。

君たちは、その仮説を立てられるようになると思うよ、もし、このコースを通して、極端な邪悪というものを発見する能力を得ることができればね。僕は、君たちに731部隊のことも話すよ、あるいは自分で調べてみてもいい。もっとも、あまりお勧めしないけどね。

いったん君が極端な邪悪を認めることができて、そして、君は、その懐疑の先は、それはただのそれに対する非難というだけと思うだろう。でも、そこにはそれが何であろうといつのことであろうと、一切どんなにしても正当化できないのだよ。そう、それで、君は依って立つところを手に入れたことになる。君はその地点から考え始めることができる。つまり、その正確に反対のものは一体何なのか、ということをね。

でも、ひょっとすると、僕らの影響範囲内において、そのようなことを、これ以上減らせないというところまで減らすために、自分をどのように律したらよいのか、という問題かもしれないね。あのね、それはあるていどまでモラルの問題ということになるよ。それで、僕は、それが無関心なニヒリズム無しで済ませられるものとは、思わないね。ニヒリストがそれ無しに済ませられるとも思わない。なぜならニヒリストですら苦悩するものだからね。

神に感謝だよ。それは彼らニヒリストの唯一可能な救済の元だからね。ときに彼らはそれに気づいているのだけど、ああ、僕はこれらすべてのニヒリズムに苦しんでいるよ、たぶん、それは、それが、その中に何かの欠陥のある物がある、ということを示唆しているからだと思う。それは常に可能だからね。

オーケー、じゃあ、休憩しよう。今何時だ? 2時58分? じゃあ、3時15分から始めよう。コースの事務的なこと、話すから。

 

(講義第1回 はじめに概観 終わり)