オーヴェールの聳え立つ教会に阻まれて左と右に裂けた道の形は、ちょうど、彼がピストルの弾を自らの腹に打ち込む日の直前まで塗られていたと言われている、あの烏の大軍の舞い飛ぶ麦畑に描かれた、ふたつに裂けた赤茶色の道の形と似ている。かたや彼を苦しめ追い詰める精神病の発作の機縁になった宗教的性質の象徴である教会の姿であり、かたや彼が追い求めてきた自然と農民の生活の象徴である黄金色の麦畑に舞い降りる烏の群れである。しかし、この両者は同じものであった。彼はアルルからサン・レミにかけて、彼が信じてきたキリスト教的感情の奥底に潜む本能と欲望の誘惑と、何も語らずに沈黙をもって人を誘惑する壮大な自然の見せる劇が、分かち難く結び付いていることを体験から骨の髄まで知っていた。そんな意味で、このオーヴェールの教会と烏のいる麦畑の二枚の絵は、彼の苦悩に満ちた人生の象徴でもあった。

 


ノート

烏のいる麦畑 1990年 オーヴェール アムステルダム・ヴァンゴッホ美術館

文中で言われているこの二枚の絵をこのように並べてみると、たしかに同じ構図意図で描かれているように見える、不気味なほど藍色をした空も同じくである。左の絵では、教会が手前に倒れ掛かり、右の絵では、麦畑と烏が手前に押し寄せている。僕には、どちらの絵も、押し寄せてくる危険を避けられず、むしろその危険に引き寄せられるように飛び込んで行く図に見える。

  

このように、主題が支配的な絵は、ここオーヴェールで描かれた絵の中では例外的である。一般には、どうしてもオーヴェールでの傑作として、この二点の絵をあげることが多い。反対はしないが、僕としては、オーヴェールで描かれた、ただただ美しい沈黙した他の平凡な画布のすべてを傑作としたい気持ちである。その中でも僕が特に美しいと思うのが、この後に出てくる「ドービニーの庭」である。本の中では、この画布をキリストになぞらえている。