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屎を吐く男

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男がひとり、しゃがんで、孤独に糞を吐いている。詞書には

「ある男がいて、尻の穴がなく、糞が口から出て、臭くて、耐え難くて、どうしようもない」

とある。

それにしても、この光景は、わびしい、わびし過ぎる。口から糞を吐くのは常態化しているのだろうか、右手に紙を用意して持ち、このあと、尻を拭くがごとく口を拭くのであろう。

木の塀の向こうには草木が生え、花も咲き、のんびりした陽気に見える。

石のようなものに腰掛け、高下駄ではなく草履をはいているし、おそらくここは例の共同青空便所ではなく、なにかそのへんの裏手でやっているのであろう。

きっと、みなにいやがられているせいで、共同便所へは行けないのだろう。おでこもぽこんと出ていて、なんとなくあまり人好きのする感じでもない、孤独なおっさんなのであろうか。

ところで、尻の穴がなくて、と書いているが、そんなはずはなく、これは病名でいえば腸閉塞であろう。腸閉塞がひどくなると、最初は胃液や胆汁やらを吐くが、しまいに腸の便が逆流して、口から便臭のあるものを吐くそうである。

現代日本ならば即病院行きで、原因はいろいろあれどそれなりに治るらしい。

しかし、この男、紙で拭こうとしているところから、慢性化している可能性も高く、これは、やはり、早晩、死ぬるであろう。

こんなに孤独で淋しい光景はめったに見れるものではない。

鼻黒の親子

武士の男の一家の風景だが、男の鼻の頭が黒く、遊んでいる二人の子供も、乳を吸っている赤ん坊まで、鼻の先が黒い。ひとり母親だけがふつうである。詞書にはこうある。

「大和国平郡の郡幸山というところに、男がいて、鼻のさきっぽが墨を塗ったように黒かった。それで、その子孫の子供たちもあいついでみな鼻の頭が黒い」

子孫みな、ということは一時的な病気ではなくなんらかの遺伝と思われるが、なんなのかは分からない。一説には、回虫の寄生とか、赤鼻の進行したもの、などと言われるが、まだ乳しか吸わない赤ん坊の鼻まで黒い、ということになると、そういう遺伝だとしか思えない。

不眠の女

不眠症の女である。みな寝ているのに、ひとり起きて、右手の指を折って、ひとつ、ふたつ、と数を数えているようだ。詞書にはこうある。

「大和の国、葛城の下の郡の片岡というところに女がいた。取り立てて、痛いところがあるなどではないのに、夜になっても寝ることができず、夜じゅう起きていて、本人、それはなんとも侘しいことです、と言ったという」

不眠症には女性が多いそうだ。まったく眠られない人というのもあるそうで、そういう症状の人の言葉で、なにが辛いかといえばそれは孤独で寂しいことです、というのがあったが、この絵の女も「わびしい」と言っていて同じであり、興味深い。

頭の上がらない乞食法師

腰が完全に曲がってしまった乞食僧である。まわりの人が奇異の目で見て、子供がはやし立てている。詞書にはこうある。

「さいきん、都に、首の骨が硬くて、腰を曲げて、目も動かず、頭をまったく上げることができず、明けても暮れてもうつぶせになって歩く、乞食の僧がいた」

この絵は「せむしの乞食法師」とも呼ばれているが、どうもこの絵を見た限りは、単に前かがみになって頭が上がらないだけに見え、背中に瘤のできたせむしな感じにはあまり見えない。

ところで、せむしという言葉は、現代では差別語として使われないが、そもそもは、背に虫がいるみたいだ、という意味の日本語だそうだ。漢字では傴僂と書くが、これは背が曲がった人、という意味のようである。先天的なもの、あるいはビタミンD不足による後天的なもの、など原因はいろいろあるが、現代日本ではほとんど見ることがなくなった。

眠り癖のある男

貴族たちの集まりの場のようだが、右端の男が眠っていて、周りは呆れて苦笑したりしている。詞書はこうある。

「良家の子の男がいた。少しでもあたりが静かになると、そのまま眠ってしまう。人がまわりでなにをしていても本人知るよしもないので、みなで集まった席などにおいて、まことに見苦しい。これも病であろう」

嗜眠癖のある男である。現代では意識障害のひとつとされていて、強い刺激を与えないと起きない状態が続くのだそうだ。原因はさまざまだが、精神性のもの、薬物、中毒、脳障害などらしい。

顔にあざのある女

宮仕えと思われる女の顔にあざがあり、鏡をのぞき込んで悩んでいる。詞書にはこうある。

「ある女、顔にあざがあり、朝から晩までこれを嘆いていた。あざというものは人の体に出る、ありふれたものであるが、誰もいないところなら特段の苦しみもないが、顔にあざがあるとなると、人の中にいてふつうに振る舞うこともかなわず、まことにかたわのようなものだ」

この絵の女のあざは、左の眼の上の部分であろうか。化粧箱が床に置いてあり、女はなんとか化粧でごまかそうと、白塗りして懸命に努力をしているのであろう。まわりの女たちはどうもあんまり同情的ではなく見える。この時代は、女の顔にあざがあるということは、たいへん大きな悩みで、かたわ同然ということだったわけだろう。もっともかたわという言葉も現在では差別語なので、この世界を理解するうまい言葉が現代ではあまり見つからないということでもある。

侏儒

小人症の僧である。子供たちは笑ってはやし立て、侏儒の僧はそれに怒って振り返り、なにか言い返している。大人二人は宮仕えと坊主だろうか、やはり小人の僧を指さして、その小さな体でよく言うよ、という顔をしたり、笑ったりしている。詞書にはこうある。

「侏儒がときどき出て、食を乞うて京都の町を歩く。子供たちがその後にまとわりついて、笑ってはやし立てる。本人、それに腹を立ててなにかを言うも、お前がそんなこというのはおこがましい、とさらに笑う」

差別が激減した現代から見ると、小人症の人を寄ってたかって馬鹿にして笑うなど、まことに残酷な話だが、このころはこれが当たり前であった。

背骨の曲がった男

背中の骨が完全に折れ曲がってしまった男で、おそらくせむしの男であろう。二人の若い男の子が指さして笑いものにしている。詞書が完全に分からないのだが、背中に大きな瘤ができて、救える人もなく、都にやってきて、頭を反らせて乞食をするが、見る者はみな笑った、というようなことが書いてある。他の絵でもそうだが、この時代は人と形の違う奇形は明らかな差別対象で、皆でおおっぴらに馬鹿にしていたことがよく分かる。

白子

真っ白い髪の毛の、まだ若い女がいて、子供も大人もそれを見てはやし立てたり、笑ったり、怪訝な顔だったりしている。詞書にはこうある。

「白子というものがある。幼いころから、髪の毛も、眉も、ぜんぶ白く、目には黒い瞳が無く、昔から今に至るまで、たまに世の中に出て来ることがある」

なんらかの遺伝的な問題で、身体の色素が無い、いわゆるアルビノの女である。目に瞳が無い、というのは言い過ぎで、色素が少なくウサギのように赤い目をしていることが多いようだ。この時代では、このような身体の外見的な異常は差別対象であったことがはっきり分かる。女は鼓を持っているので、楽師なのであろうか。

小法師の幻覚を生ずる男

左のこれら小さな人間は、右で寝ている男の幻覚なのである。詞書にはこうある。

「ちょっと前、持病を持った男があり、発作が出たときには、四五寸ぐらいの小さな法師の紙の着物を着ているのが、大量に連れだって枕元にあるように見えるそうだ」

いわゆる幻視である。高齢者の認知症系の脳の病気で、このようにこびとや、虫や、小動物や、子供の幻覚を見る症状が出るそうなので、それであろう。右はじのカミさんは赤ん坊に乳をやっているし、この男もそれほどの歳でもなかろうが、この病気は男に多く、40歳ぐらいでも出ることがある、とのことなので、若くして認知症になってしまったのであろうか。

肥満の女

相撲取りのように太った女が、両脇を支えられながら歩いている。詞書にはこうある。

「最近、七条あたりに金貸しをする女があった。家は裕福で、食が豊かなせいで、体が太り、肉は余って、歩くのも容易ではなくなってしまった。付き添いの侍女たちが救けても、汗が流れて滴り、とにもかくにも苦しみは尽きなかった」

高利貸で儲けて金はうなるほどあって、食ってばかりいて、こうなった、というわけだ。侍女を三人も使っているが、たしかに本人、だいぶ苦しそうである。家の出口のあたりには貧しいと思われる女が地べたに赤ん坊に乳をやっている。裕福だけれど苦しみ多いのと、貧乏だけど健康、というのを対比させていて、おもしろい。

鳥眼の女

今のところ画像が見つからない。鳥に目を突かせている女が描かれているそうだ。