ずいぶん日記、書いてないよな

今日は金曜の夜。いつもは遊びに出て、さいきんはだいたい目黒のバーにしけ込んで、ギターなど弾き倒しているんだけど、今日はなんだかミーティングが長引いたせいもあり、家に帰ってきてしまった。

ホッピー飲みながら、書いてる。その前はハートランドを飲んでた。あまり書くこともないので、なんとなくタイプしてるだけなんだけどね。

この前の土曜は大倉山のMuddy'sでライブだった。オレと、Jiroさん、オノデラ君の3人バンドで、林正樹ブルースバンドという超ベタな名前で出演である。ブルースバンドなんて言いながらよく考えてみるとシャッフルの曲は皆無だし、ほとんどロックバンドである。ブルースを黒人っぽくやるのは、もう、自分にはあんまり興味がないのかも。ロックにするか、アレンジするか、何でもいいけどやっぱ自分が黒人っぽくやるのって客観的にサマにならない。じゃあ、今みたいにジミヘンっぽくやるのがサマになってるのかっていうと微妙だが、ジミは世界的、宇宙的な人だったから、きっと、いいんだ。

おととい、池尻大橋のチャドって店でライブを見た。元キャロルのギタリストの内海さんの弾き語りライブである。しかし、その演奏は、さすがだった。ところで内海さんのしゃべりで覚えてるのが

「世の中さ、90パーセント、、、 あ、いや、98パーセントはカネだね。でもさあ、カネがいくらあったってギターがうまくなるわけでも、歌がうまくなるわけでも、ないよな」

って文句だったっけ。98パーセントなんって言っちゃうってことは内海さんもカネで苦労したのかな。内海さん、すごくいい人だった。2曲ほど一緒にセッションやらせてもらい、帰りしなに握手した。

実は7月7日に僕もチャドに出るのである。今回は、シュウちゃんっていう超ハイ系のファットマンブルースシンガーのバックで出るのね。クニちゃんっていうシュウちゃんの弟子のギターの人と一緒にね。僕は人のバックはやらないはずだったんだけど、まあ、今回は自分のソロも2曲ほどやらせてもらい、チャドデビューをしようと思ってね。あそこって、プロばっかみたいな店らしいから。

それで、内海さんのライブはシュウちゃんとクニちゃんと3人で行ったんだけど、シュウちゃんが、もう、歌うたうのイヤになっちゃってさ、みたいなことを酔っ払って言ってた。そりゃ、いざ歌えば歌えるしクオリティも出るけどさ、何回歌っても一緒だし、イヤになった、みたいに言ってた。シュウちゃんはスタイルがはっきりくっきりしていて変えようのない感じだから、なんだか、すごく分かるような気がした。

ちなみにシュウちゃんは元プロシンガーだから、すごいうまい。ブルースマンでいうとハウリングウルフみたいな迫力。そのくせして、この前、オレさ、ホントはナットキングコールみたいにしっとりさらって歌いたいんだよ、なーんて言ってた。オレは、うーん、それはちょっと難しいかもな、って言った、正直。でも、シュウちゃんはあのままでいいと思うけどな。でもさあ、ミュージシャンって自分を見る目と、人が自分を見る目って、いつでも乖離してるもんなんだよね。

オレがもう、黒人ブルースをやるのがイヤ、ってのも同じような理由かもね。

ロバートジョンソンを歌うときでさえ、やっぱりね、ロバートのようにはオレは歌わないよ。もちろん歌えない、とも言うけど、真似しても意味がない、っていう雰囲気が濃厚に漂うんだよね。

そういや5月の始めに、阿佐ヶ谷のOil Cityでアメリカ人の2人組みとジョイントで出演した。僕はロバートジョンソンのカバーといくらかのシカゴブルースを弾き語りでやった。楽しかったな。一通り全部演奏が終わった後、アメリカ人たちとしばらくしゃべった。これは自慢だけど、そのうちの一人がオレにこういってくれたよ。客席であんたの演奏を注意深く聞いていたんだけど、一音一音ロバートジョンソンの音をコピーしてるんじゃなくて、ロバートの魂を自分の物にして音を作っている。ところで、そこまでできるんだったら、なんで、スキップジェームズや、トミーマクレナンや、トミージョンソンなどなど他のブルースマンのカバーをやらないんだ?

オレは、難しくてできないって答えたけどね。あと、ロバートは他のあのころのブルースマンに比べて格段にモダンだから現代でもカバーしやすいんだ、って言った。もちろん、トミージョンソンだってチャーリーパットンだって演奏はできるけど、どうも人前でできるクオリティまで持って行けないんだよ。

ロバートジョンソンはずっと自分のために歌ってきたけど、ここ何年かは人前でやってるね。オレって結局、このロバートジョンソンのカバーのウケが一番いいみたい。でも、オレ的にはそれじゃ、困るんだ。

突然、話は、変るが、さいきん図書館から借りてきた弁証法の入門書を読んでる。弁証法って、テーゼ、アンチテーゼ、アウフヘーベンっていう、あのヘーゲルのやつね。これまで何もしらなかったけど、この本を読んで初めて知った弁証法には、感動したよ。そうだったんだ、こういうことを言っていたんだ、ってね。

アルものと、その反対の矛盾するアルもの、の二つをアレかコレかと選んで結論にするんじゃなくて、これらを総合して新しい継承を作る。そして、それをテーゼとして、それと矛盾するアンチテーゼをさらに総合して行く、その反復する「動いている行為」を弁証法、と言うそうなのだ。

オレはずっと、テーゼ、アンチテーゼを横に並べて描いて、これら二つの上に総合して出来た新しいテーゼを描いて、その2つのものから1つのものが出来る、その矢印をアウフヘーベンって描くんだと、ずっと思ってたんだけど、ずいぶん違うんだな。

弁証法ってのは、対話のことだって。へーえ。弁証法は静止しているものではなく、動くものだって、へーえ。ビックリだ。

それで弁証法の歴史を解説している箇所は、オレの選んだ本はものすごく分かりやすくかかれている。そこで、初めて、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲルといった人たちのアウトラインを知ることができた。これも感激。確かに「入門書」だよね。これから彼ら一人一人について勉強して行こうと思う。

さて、これら昔の哲学者の話を読んでいて、自分は、つくづく、プラトンとカントに近い人間性なのだな、と感じた。アリストテレスはなんだか自分にはなじまない。それからヘーゲルと、その後のマルクスも、何だか分からないけど、ちょっとノリが違う感じ。

やっぱり、オレは理想主義者なんだな。もう、51でこれじゃあ、今後も、変らないだろうな。自分は、イデアの人間なんだな、とホント思ったよ。プラトンという名前を聞くと、なんだかすごく高貴、って感じがするんだ。そして尊敬と憧憬の念を抱く。本能が澄み渡っている、というか。憧れるんだよ。

しかし、アレかコレか、という決断をずいぶんと嫌ってきた自分は、弁証法そのものの人生だな。アレとコレ、という相反するものがあったとき、これらのどちらかを取るなどとは考えずに、必ず、アレとコレを総合して「コンナノ」を作ろうとする傾向がある。

少し前に読んだ論語の孔子が言っていた「中庸」というのが、オレ的にはこのアレとコレから作るコンナノなんだよね。両極端な、反対なものをくまなく意識して、その中間にボカッと空いたところに、これまでにない新しいものを作ろうとすることを中庸というんだと、オレは勝手に解釈したんだ。

この中庸の精神と、弁証法の精神は同じなんじゃないかな、と思う。どちらも静止しておらず、動いているところがポイントだ。

なーんてね、哲学の勉強もしてるってワケよ。それも、大学生のころ、とうの昔に勉強していないといけなかった弁証法なんていうものを、今ごろ勉強したりね。まあ、とにかく、今度はカントの本を借りてきて読むことにしようかな。原書はワケが分からなかったから、とりあえず解説書で。

カントの人間の限界設定は、すごく興味がある。

カントからショーペンハウエルだろ? ショーペンハウエルは反カントのヘーゲル一派をとにかくあからさまに敵視していたよね。そして、そのショーペンハウエルからニーチェだ。

哲学は本当に心を落ち着けてくれるけど、それを言うならブルースもそう、あと、文学や絵画、芸術、どれもこれも自分には貴重なものだな。カネでは決して買えないもの達だね。とかなんとか、言いながら、それは、それ、内海さんと同じく、日ごろの生活はカネだよな。98パーセントぐらいはね(笑)。でも、いくらカネがあったって、これら彼方のものに憧れる心は買えるわけじゃなし、ってことかな。

いやー、もう、眠い、限界~ 寝ることにする