学生のころの行きつけの小さなスナックバーでのこと。

マスターはいかにも水商売歴何十年みたいなちょっと怪しい系オジサンで、たしか思い起こすとカナモリさん、という名前だった気がする。そのカナモリさんと自分と何人かで、ヒマなお店で何のことはなく話しているとき、たまたまマラソンの話になり、カナモリさんが「オレさあ、マラソンが好きでテレビで見るんだけど、見ていると、こう、すーっと涙が出てくることがあるんだよ」と言ったのである。

なぜなんだか、この怪しいカナモリさんの発言で覚えてるのが、この言葉だけなのだ。まだ20代だった自分は、もちろんこの言葉を聞いてもなーんとも思わなかった。マラソンなんか好きでもなんでもないし、テレビで見ることもないし、わざわざ苦労して長い距離を走っている人間の姿に涙なんか流しようがない、そんな感じで上の空だった。

さて、今、オリンピックをやっているが、相変わらず家にテレビが無いせいで、日常的に見ることはないが、お店とか行くとテレビでやってるので見入ってしまう。定食屋でメシ食いながら、あれこれの競技を見ていると、やはり、自分も、一般大衆のご多分にもれずに、感動したりする。勝った選手は嬉し泣き、負けた選手は悔し泣き、で、いい歳をした大人が涙を流すなんて、そんなには無いことだろうが、これら選手たちは、4年間、本当に辛く苦しい修練を重ねてきたのだなあ、と思うと、見ているこちらも自然ともらい泣きするもんだ。

それにしても、かのカナモリさんの言ってたことが、ようやく、この歳になって、さんざん苦労してきた自分にも分かるようになったか、と感慨にふけるかと思うと、そうでもなく、泣けてくる、という現象については、これはごく自然なことで、特段に感慨することでもない。今から30年前、自分はカナモリさんを理解しなかったが、それは、自分が、それまで単に本当の苦労をしていなかったからである。

しかし、思うのだが、苦労をしていない、というのは一種、時々は、必要な条件なのだと思う。と、いうか、持って生まれた才能の一種に思えることもあるのである。うーむ、才能というと誤解を招くと思うが、ある物事に対し、一般大衆の反応に染まることなく、自分だけの特異な感受性を発揮させることを考えると、やはり、その特異な「苦労しない才能」や「苦労と縁の無い生まれ」が必要になってくるということである。

少し前に、澁澤龍彦の書いたサド侯爵の生涯という本をたまたま読んで思うところがあったのだが、若いころのサドは、やはり正真の貴族であり、一般大衆が当たり前にしている苦労などは、ハナから縁のない人だった。その彼が、その本性にしたがって、人も知るあのサディスティックな儀式に及んだわけだが、サドにしてみれば、別に当たり前の自分の本性に従ったまでで、悪いことだという意識はなかったのだ。

しかし、結局、彼の所業はごく自然に衆目を集めることになり、有罪を宣告され投獄されることになる。そして彼は獄中にあって初めてさんざん苦労することに相成り、そうやってひどい獄中生活に耐えて中年になった彼は、そこで初めて欺瞞的な社会に対し、自らの本性を高らかに歌うことになる。それが、彼の「美徳の不幸」を始めとする小説群だった。

さて、何が言いたいかというと、少なくとも芸術的天性を後に開花させたいのであったら、若いころには苦労などするな、ということ。

我ながらひどいことを言っているな。若いうちの苦労は買ってでもしろ、という良く知られた言葉を誰が言ったか知らないが、まるで正反対のことを言っている。しかし、ただし書きはあるわけで、それはやはり、芸術的感性を発揮させるために、ということなのである。芸術に用が無いのなら、それは、絶対苦労した方がいい。自分のためにも、他人のためにも、およそあらゆる人にとって、苦労人というのはとてもいいものを与えるものだから。

しかし、苦労をせずに、退廃し、堕落し、それゆえに異様に鋭い感受性を身に付ける、っていう才能に恵まれた若者の特権を、実は、今のこの世の中、もう少し見直したらどうだろう、と思ったりする。単純に言って、若いくせして分別臭いヤツがやけに増えてきて、世の中はそいつらを甘やかせ過ぎだ、ということ。

澁澤龍彦の若い頃の写真とか見てみると、あの自由奔放な退廃はやはり貴族的で、なんか、長髪で、サングラスをかけて、パイプをくわえてシニカルな無表情を装う彼ね、やっぱりカッコいいんだよ。これを見るといいたくなる。かつてアンダーグラウンドで繁栄したかの昭和の高貴な悪徳はどこへ行った?