ドストエフスキーの「白痴」を、最初からまた読んでいるのだけど、やっぱり面白いね。なんで物好きにも再三また読み始めたかというと、この小説の脇役的な人々の生態観察をしようと思ったからなのだけど、やっぱり読んでいると主人公のムイシュキン公爵のヘンな言動に惹かれてしまう。

読んでいると、ところどころで、長いせりふや言動や状況描写などの物語のディテールが目の前から見えなくなって、大きな流れだけが感じられるような錯覚に陥ることがあって、それがとても快感に感じることがある。時間や空間がなくなってしまった感じ、と、言うか。

いや、ワケの分からないことを言うのは止めて、ワケの分かることを言えば、この小説は物語として単純に、面白い。ドストエフスキーの長編群の中では、一押しで面白いかもしれない。「罪と罰」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」あたりは、あまりに重苦しいと思うかも知れず、そういう意味では「未成年」が面白いが、この「白痴」にはかなわないかも。

と言うわけで、ドストエフスキーでも読んでみるか、という人にはこれをお薦めしたい。

僕はこの小説をかなり昔から、もう何度も読んでいるのだけど、何度読んでもこのムイシュキン公爵という主人公の得体がうまくつかめない。人物のディテールが明確でない、というか、行動原理がはっきりしないというか、性格がはっきりしていない、というか、そんな印象なのである。今回、読んでも、やはりそんな印象がある。これは批評家もそう思った人が多いようで、ドストエフスキーが生み出した幾多の主人公の中でも失敗に属する、という評もずいぶんあったようだ。

しかし、これを逆に言うと、このムイシュキン公爵という人物は、読むたびにその形や解釈を縦横に変化させる、なんだか「可能性の塊」のようにも見えてくる。不可解な行動をする人、というのではなくて、不可解が人間の形になって出てきた人、みたいに感じる。それでいて、謎めいたところはまったく無いというのが不思議なのだ。

あるいは混じりけのない「水」のような人にも見える。どんなものにも姿を変えるけど、その本質はこれ以上単純化できないほど単純で、そしてすべての生き物にとって絶対的に必要不可欠な、そういう存在にも感じられる。そういう「水」のような「物」が、もし、生身の人間の身体を持って、歩いてしゃべって行動したら、どんなことになるのか、そんな実験をしているようにも思える。

もっとも、まだこの小説を読んだことのない人が以上のようなことを聞くと、さぞかしこのムイシュキン公爵という人物は変人で取り留めの無い行動をしているのだろうと思うかもしれないが、そんなことはないのだ。物語の進行に沿って、極めて多彩な言動を取りながら、あるときは率直な人、あるときは情熱の人、あるときはちょっとした策を弄する人、といったように、普通人のごとく振舞っている。

それなのに、不思議と実在感のない感じなのだ。というか、物語の全体に偏在しているような、浸透しているような、そんな印象を与えるのである。

ムイシュキン公爵の周りには、強烈な人物がたくさんひしめき合い、加えて雑多な人々がその隙間に入り込み、まあ、変人のオンパレードというか、押し合いへしあいのドタバタ劇のような騒ぎを畳み掛けるように繰り広げているのだけれど、そのたくさんいる彼ら同士の心身の隙間に、ムイシュキン公爵が水のように入り込み、浸透しているみたいな、そういう感触を感じるのである。

まあ、いずれ、自分の勝手な感想なのであるが。

さて、黒澤明の映画に、この小説を原作にした、原作と同名の「白痴」という作品がある。うちにDVDがあったので、昨日、見てみた。映画が始まりタイトルが終わった後に、プロローグの文章が映し出され、そこに、「一人の素朴で純粋な人間が、俗世に投げ出され、そのごたごたの中でどのようにその身を破滅させていくかを描いた」というくだりが出てくる。

そう、確かにそういう主題だと言えなくもない。

ドストエフスキーのこの「白痴」に関する初期の創作メモには、主人公について「無条件に善良な人間を描くこと」と書かれている。そして、「この現代において無条件に善良な人間は滑稽たらざるをえない」みたいなことを書いていたはずだ。そして彼の作家としての苦労は、ひとえに「現代社会の場で滑稽に振舞う人間を描写することで読者にその善良さを認めてもらうのではなく、血肉を具えた自立した一個の人間として振舞う善良な人間を描き出す」、ということに注がれたのだと思う。

しかし、これは、やろうとしていることが最初から矛盾している。まとめるとこんな論理になるだろうか

善良な人間が現代に現れるとそれは滑稽に見えざるを得ない ~ 滑稽な人間に人々は同情し共感しそこに善良さを見る ~ 逆に自立した活動家は現代では善良さを何らか損なう ~ 現代社会そのものが善良さを欠いているためだ ~ しかし自分は真の善良を現代社会において描き出したい ~ 失敗は目に見えている 

作者は誰よりもこの矛盾の大きさを知っていたはずで、まったくの失敗に終わるかもしれないと危惧しながらも、とにかく書き始めた。これが成功に終わったか失敗に終わったかは、なんとも言えない。先に書いたように失敗に終わったとする評家はたくさんいたようだ。無理もない。

自分はどう思うかというと、前述したとおりで、出来上がった小説は、やはりドストエフスキーの当初の狙いとはなんだか違うものになっている、と思う。結局、このムイシュキン公爵という人は、行動する善良な人、というよりは、このごたごたの俗世に翻弄されながらも、その俗世と何かもうこれっぽっちも関係ないまったく別の世界で生きているような人、という風に見えることの方が、大きい気がする。

しかし、それでも、小説をよくよく読んで吟味すると、作者の並々ならぬ工夫が見えてくることもある。

ムイシュキン公爵は、善良さゆえのその言動の滑稽さ、と、過たず行動して効果を上げる能力、という対照的な性質を合わせ持たされて登場する。善良さは滑稽になって現れざるを得ない、ということについては、そのままの通りに描き出されているが、加えて、状況を的確に判断して活動する論理的な振る舞いについても書いている。さらに加えて、唐突で突飛で不思議な行動をする、という神秘的な部分も持たせている。これら、滑稽、論理、神秘、という3要素を、あれこれと、ない混ぜにして、ムイシュキン公爵という人間像を作り出している。

滑稽、論理、神秘の三要素は、ひょっとすると、特に、イエス・キリストに関する考察においてキーになるものかもしれない。ムイシュキンはイエスとは似ても似つかないが、何かしら共通したものを、どこかあの世あたりで持たされている感じもする。

さてさて、こうして書いているとどうしても評論じみてしまうな、いかんいかん

さて、では、今度は、黒澤明の「白痴」の話へ行こう。この作品は、上述の原作に極めて忠実で、プロローグにドストエフスキーその人の言葉を載せることでも想像されるように、どうやら原作者と同じ意図を持って、ムイシュキン公爵を映画の中に登場させようとしたらしい。ふつう原作を映画化するときは、原作を映画のために利用するもので、原作者の意図をそのまま映画化する、ということはあまりないと思うのだが、黒澤のこの映画は原作者に忠実だという意味で珍しい映画のように思える。

黒澤はそれほどこの白痴という小説に心酔していたのだろうか。分からないが、結果はどうだったかというと、僕は、残念ながら、成功していないと思う。と、いうか、ドストエフスキーその人が、この主題は困難だ、と言った程度より、もっと困難なことをやろうとして失敗した、という感じで、無理もないように思う。

映画の中のムイシュキン公爵は「亀田さん」という名前で登場するが、この人は全編に渡って、「世間知らずで、他人の心の中しか見ようとしないせいで、他人の気持ちをあっさりと踏みにじる言動をし、周囲の状況がきちんと見えず、ゆえに滑稽で、極めて子供じみた人」という脚本の性格設定の元に見えている。すなわち「滑稽さ」と「非常識さ」のみで出来ているように見えてしまっている。

原作のムイシュキン公爵は、前述のように「滑稽」に加えて「論理」と「神秘」を持っているのだけれど、それらをそぎ落としてしまっている。「論理」は変だと思うかもしれないが、実際、物語りの中で公爵は、かなり論理的に自分の哲学を披露する長い弁舌をふるったりするのである。それゆえ「世間知らずの哲学者」などという軽い侮蔑の混じった扱いをここそこで受けたりもする。

とにかく、映画の方では滑稽ばかり目だってしまい、なぜこの人が特別な人なのか伝わってこない。

あと、けっこう決定的に問題なのが配役で、亀田さん役の森雅之はどう考えてもミスキャストとしか言いようがない。森雅之その人もこの役は自分じゃないと言っていたようだ。ただ、この亀田さん役を誰にするかについてはかなり紆余曲折があったそうだ。と、いうか、このムイシュキン公爵役をきちんとできる人はいるのかしらん、という気がする。

森雅之は僕の大好きは俳優なのだが、彼は、心に一物があり、ずるくて、それで色気たっぷりで、そこはかなく堕落したような男の役を演じると完璧なのであるが、そういう意味で、ムイシュキン公爵役と正確に正反対な感じである。目に色気がありすぎてどうしても善良に見えないのである。そのせいで、その類まれな善良さゆえに人々を惹きつけている、ということが伝わらず、特に、なんでこんなヘンな男をナスターシャとアグラーヤという二人の美女が取り合っているんだか、まるで分からない感じ。

原作者の言うことを忘れて、脚本を変えて、もう少し亀田さんをふつうの人にして構成すればよかったのに、と思えて仕方ない。

もっとも、この映画には仕方ない事情もあって、それは、黒澤が最初に完成させた時点では4時間の大作だったそうなのだが、配給会社の意向で大幅にカットになり、結局2時間半ぐらいにしてしまっているのである。ひょっとして、さっき言った亀田さんが哲学的考察を披露するシーンなんかも存在していたのかもしれない。

さて、ずいぶん黒澤の「白痴」をミソクソに言ってしまったが、これはひとえに亀田さんが変だ、というだけで、映画としては面白いと思う。特に、森雅之以外の配役が極めて秀逸である。

激しい情熱と行動の人である粗野なラゴージンは赤間伝吉という名前で三船敏郎が、ラゴージンとムイシュキン公爵の間で揺れる謎に包まれた絶世の美女ナスターシャ・フィリポヴナは那須妙子という名前で(ネーミングが面白い!)原節子が、そして、公爵に恋をする、気が強く純真な、やはりたぐいまれな美女のアグラーヤは大野綾子という名前で久我美子が演じている。

これら、三船敏郎と原節子と久我美子の3人の演技だけでもこの映画を見る価値はある。

特に僕は久我美子の綾子がとても気に入った。潔癖で気が強くて羞恥心が強く純真で、それゆえに怒ってばかりいるアグラーヤの性格がとてもうまく出ている。あと、ナスターシャ役の原節子の美しさと貫禄と隠されたナイーブな感じもいいし、三船敏郎のラゴージンの粗野な美男子ぶりもよい(原作のラゴージンはむしろ醜男だったはずだが)。原節子と三船敏郎のツーショットは本当に絵になる。

森雅之は、もう、これは仕方ない感じ。率直に行動するムイシュキンが下心ありありの男に見えちゃったり、人々を知らずして惹きつける純真であけすけな笑いが色目を使っているように見えちゃったり、さんざんである(笑) だって、そういうタイプの役者だもんね。

ちなみに森雅之は、僕は、何といっても成瀬巳喜男の「浮雲」が素晴らしいと思う。女好きでだらしないダメ男の役を、抜群に美しく魅力的な高峰秀子と演じている。ここでの森雅之は何ものにも変えがたい感じ。あと、雨月物語や、羅生門、女が階段を上る時、武士道残酷物語などなど森雅之が秀逸な映画はいくらでもある。

さてさて、こんなに長く書くつもりはなかったのだけど、長くなったね。

まとめをすると、ドストエフスキーの白痴は面白い。そして黒澤の白痴もなんだかんだで面白い、ということかな。