先日、ひとりで自転車で世田谷の祖師谷図書館へ行った。

自転車を置き場に置いて、入り口に向かったら、図書館の前の歩道の落ち葉を二人の男の人が箒で掃いていた。かれら二人とも、見てすぐにわかる障害のある人たちであった。また、この祖師谷図書館には、何とかいう名前の喫茶軽食のお店があり、店の名前の上に小さく「福祉喫茶」と書いてある。障害者の人が働いている喫茶店なのである。ここ祖師谷図書館はそういう方針なのだろう。

うちの奥さんに聞いたのだが、以前、彼女がこの福祉喫茶にランチセットを食べに入ったときのこと。注文を聞きにきた給仕の女の人は障害を持った人で、彼女は食べものの注文を聞いた後、「ドリンクは、オレンジティーとレモンティーのどちらにしますか」とお客さんに聞くわけだが、それに対して奥さんが「オレンジティーください」と答えたその直後に、カウンターの向こうのキッチンに向かって大きな声で「レモンティーひとつ!」と叫んだそうだ(笑) そして当然のようにレモンティーが出てきた。

そうこうしていたら、今度は客で来ていた一人のおばさんがキッチンに怒鳴り込んでいるのでビックリしたそうだ。案の定というか、注文が間違っていたようで、それがすごい剣幕で怒りが止まらず、怒鳴るたびにエスカレートして、一時はどうなるか、みたいな感じになったそうだ。うちの奥さんはそれを見て呆れたそうだが、それはそうだろう。注文を間違えて当たり前、それがイヤだったら他へ行けばいいのに、というお店だからである。キッチンには健常者の普通のおばさんがいるので平謝りしていたそうだが、ひょっとすると怒りが収まらないそのおばさんも、精神に障害がある人だったのかもしれない。アルツハイマー系で怒りが制御できない病気があるそうだから。

僕は、図書館の中をひとわたり歩いたあと、この福祉喫茶をのぞいてみることにした。ガラスばりの入り口の外から中を見たら、店の端っこに待機して立つ給仕の男性と一瞬目が合った。すると彼は、すっと、中に隠れてしまった。不思議なもので、一瞬でも彼が障害者だとは分かった。

何となく悪いことをしてしまったかな、と思い、そのまま図書館を出たのだが、そんな風に思うならコーヒーの一杯も飲みに入ればよかったのだけど、その日はたしか二日酔いかなんかで飲む気がしなかったせいもあり、入らなかった。

外に出て、またもう一回、今度は往来側のガラス越しにちらっと中を見たら、カウンターの向こうのキッチンが見え、普通のおばさん二人が働いている横に、おそらく洗い場担当と思われる障害者の女性が見え、彼女とも目が合ってしまった。彼女は僕をぽかんと見ていたが、僕の方がなんだか恥ずかしくなって、すぐに目をそらしてしまった。

これら全体の自分の行動と、気持ち、なのだけど、変なものだな、と思わずにいられなかった。なんで、こんなに後ろめたいような感触があるんだろう。自転車に乗って家へ帰る道すがら、あれこれと考え込んでしまった。

今では、ああいった精神に障害のある人たちを何と呼称するのが正しいのだろう。いま僕は「障害者」という言葉を使って書いているけど、何だか使いにくい言葉だ。それで、仕方ないので「障害者の人」とかいう二重形容で表現をぼやかしたりして書いている。

それで、いま仮に「障害者」という言葉が妥当な呼称だと仮定すると、実際には、その日に出会ったように、ボランティアで道を掃いたり、福祉喫茶で働いたり、彼らには、実にいろいろなピンからキリまでのバリエーションはあるはずなのに、「障害者」という名前でひとくくりにされていて、僕らの方はその呼称を持った人たちに対する常識的態度をもって扱わざるを得ないような感触がある。

健常者に分類される自分には、社会から無言のプレッシャー、というか、タブー視のようなものを受けていて、障害者と言われる人間たちに対する扱いや態度や感情を一律に強制されているように感じたりする。障害者は、障害者というくくりゆえに健常者社会から隔絶された存在に見えてしまったりする。言い方が大げさだが、もっと普通に言えば、「仲間になれない感」が漂ってしまう。

さて、やっぱり自転車に乗りながら、考えたもう一つのことは、彼らと自分で、どちらが人間として価値があるのか、という馬鹿げた問いであった。もちろん、これには答えは無い。「人間としての価値」という問いかけそのものが間違っている、とも言える。それは重々分かっているのだが、そんなことを考えてしまったのだ。ぼんやりとペダルをこぎながら色々考えてみるが、これは全く、どちらとも言えない。ある一つのことが浮かぶと、必ずそれへの反証が見つかるたぐいの問題なのであろう。

こんなに長く書くつもりじゃなかったし、この辺で止めにしたいので、そのとき自分が考えた上記の人間の価値云々の具体的事例をここで説明はしない。それでも、まあ、テーマだけ抜き出して書いておくと、「どちらが社会のためになっているだろう」、「どちらが人類の発展へ寄与しているだろう」、「どちらが社会の平和に貢献しているだろう」、「どちらが幸せに生活しているだろう」、「どちらが一日を感謝と満足のうちに生きているだろう」、「どちらが生命の本当の秘密を知っているだろう」、「一体どっちが病気なのか、彼らか自分か」などなど、切りがないが、どのテーマも明確な答えが無いことが分かるだけだ。

ただ、いえることは、「どちらが人間として価値があるのか」という回答不可能な問いかけをあえて自分の心に聞いてみる、ということは無駄ではなさそうだ、ということぐらいか。

逆に、「人はみな平等なのだから、そういう問いかけ自体が悪である」、という風に、問いかけそのものをタブー化してしまうことで、彼ら障害者たちは、社会のどこか無害なエリアに閉じ込められ、生活させられ、そして実社会の日の目を見なくなってしまう、ということが起こる、ということなのかなとも思う。

本当は、こんなことを書き飛ばしていないで、彼らのいるところへ自分が入り込んで行けばいいわけなのだけど、何だか自分にはそれは、あまりすんなり、できそうもない。

あと、こういう内容のことを、こうやって公の場でずけずけと書いてしまうこと自体は社会常識に反しているのだろうか。なんだか、もう、すでにずいぶん長きに渡って続いている、この日本の規制社会と相互監視の風潮が、自分の心にも染み付いてしまっているようで息が詰まるね。

だからこうやって書いちまうわけだが、歯切れの悪い文章になってしまったな。