凡例

これから大衆食について調べ、そしてまとめるにあたって、ここで、何をもって「大衆食」と定義するのかを決めておかなければならない。この定義では、二つのことを考慮しなければならない。それは、まず、どんな食べ物が大衆食でどんな食べ物がそれから外れるか、ということ。これは、食について調べる時のその対象を何に置くかということである。二つ目は、食に関する何を調査し、そしてそれをどんな切り口でまとめるか。すなわち、食べ物の味なのか姿なのかレシピなのか、あるいは店構えなのか客層なのか、といった観察対象に関すること、そして、その結果を、食べものに沿ってまとめるのか、あるいは店を単位にするのか、土地を単位にするのか、といった分類に関することである。すなわち、調べて、まとめる、という行為についての指針を与えるということである。

少し考えてみると分かるが、これらの定義を与えることは必ずしも簡単なことではない。どんな定義を持ってきても、おそらくは、その定義から漏れてしまう「食」というものが常に現れるであろう。さらに大衆食自体が常にその形を変化させていることを考えると、なお容易ではない。こうしたことを避けるために取られる方法として、あらゆる切り口で漏れなく情報を網羅してしまう、いわゆる旅行ガイド的なやり方がある。しかし、序文でも書いたように、ここではそういう網羅的なやり方は取りたくない。現実を、単に多角的に調べ上げ、それを羅列することで「現実」を書類の上で再現する、というルポルタージュ的なものにしたくないのである。

それでは、ここで何を目指しているのかというと、それは「ある傾向を持った大衆食」というものを作り出すことである。それでは、それはどういう傾向なのか。ここで「大衆食」などという古い言葉をわざわざ持ち出してきたのは伊達ではなく、実は、ここ数十年にわたって続いてきた「グルメ」という言葉に対するアンチテーゼとしての食の傾向を探ってみたいのである。「グルメ」という言葉のもとに築き上げられてきた日本の食の巨大な伽藍の、ちょうどカウンターに相当する世界を築いてみたいのである。目立たないが綿々と打ち続いてきた、食の快楽よりはむしろ生きて生活するために黙々と供されてきた食の姿を描き出してみたいのである。

もちろん、グルメとここで言う大衆食の間にはさまざまな段階がある。生きるために食っている人たちだってみな旨いものを探して食べるわけであるし、食の快楽を求める人たちだって裕福でなければ大衆食の中に旨さを見つけるわけである、これらをきれいにすっきりと分離することは原理的に不可能なのは言うまでもない。ただし、分離が出来ないからと言って、「グルメ」と「大衆食」の定義は無意味だということにはならない。ここで問題とするのは「分離する」ことではなく「傾向」を明確にすることなのである。昨今の「グルメ」という傾向が進んでいる「方向」と、ちょうど逆を向いて進んでいる傾向として「大衆食」というものを置いてみたいのである。

さて、くどくどと書いたが、以上が「理念」である。それではこの理念に従って、冒頭に述べた二つの定義を、大雑把に与えてみることにしよう。あまり長々と定義を書き下すのは面倒なので、簡単に箇条書きしておく。

1 どんなものを大衆食とみなすか

  • 日常食であり、値段が高くない。
  • 旨いかまずいか、サービスがいいか悪いか、を基準にしない食の姿。
  • グルメ的視点をなるべく廃し、B級グルメにはあまり引きずられない。
  • あるていど長期に渡って食べられてきたものとする。廃れてしまったが昔はやっていたものは取り上げる。逆にさいきん流行り始めた一時的なものは入れない。

2 何を観察し、どうまとめるのか

  • 東京の大衆食を対象とする。
  • 食べものを中心とせず、食回りの生活を中心とする。
  • 基本的には店舗の種類を手がかりに分類し、調べる。
  • 本ページ立ち上げ現在は2013年である。