ドストエフスキーそして小説について


思いつくままに文学趣味の話をしよう。

好きな作家、そして本はそれほど多くないが、何か特別なものを選べと言われればこれは圧倒的にドストエフスキーをあげる。僕は彼から計り知れない影響を受けている。一言二言でとても書けるような生やさしいものでないのでここではその周辺を書くに留める。その内容については、いつかきっと書くことにしよう。

僕は世代的に言ってやはりまだ、人生とは何かという命題が第一に上る世代の最後あたりに育ったので、文学の趣味もいきおいシリアスであった。高校の頃「罪と罰」の帯に書かれていた文句「これは著者が与えた人生に対する鉄槌のごとき回答である」を読んで、買って読んだが、人生とは何々であるなどという回答は当然どこにも書かれておらず、よく分からないまま本棚に放っておいた。

青春時代などというやくざな時代は、とにかくやくざな事が次から次へと起こるものだ。女の子とのごたごたその他を経て数年後、何気なしに再び手にとって読んだのはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」であった。しかし、この出会いは決定的であった。突然僕は彼の書いている事のその隅々まで手に取るように分かるように感じたのであった。それからはほとんど耽溺に近い状態でのめり込み、当時はあの長い小説の中の一行読むだけでどこを読んでいるか分かるほどであった。

ふん、しかし依然と青春時代はやくざなのだ。やくざな悩み事を小説の中のあれこれと結び付けて正統化することなど朝飯前だ、臆病心、虚栄心・・・いやいや止めておこう。

ついこの前またひさしぶりに「罪と罰」の一節を読んでみた。再びもの凄い力で引きずり込まれてしまう。しかし感じることは青春時代の頃とはかなり違う。きっと僕にとってはこれはバイブルに相当するらしい。順に読む必要なく、開いた所を読めばそれでいい。

カテリーナの追悼式、そして路上での醜態と、ソーニャの部屋での死に至る章を読む。これ以上のものを人間が書けるとは思えない。ヨーロッパ芸術にさんざん接してきた今読むと、読んでいるとベラスケスの絵画が目の前にまざまざと浮かんでくる。ほとんど字を見ているのか絵を見ているか分からないほどである。ベラスケスが想起されるというのも、やはりこれはリアリズムの極地なのだ。現実は常に不完全であり、そして完璧でないものが如何に完璧でないかを完璧に描き出した。

ドストエフスキーは絵画の美を理解しなかった。彼が絵画の中に見ていたのは美ではなく、ひたすら描かれている人間であった。しかしこういう気の狂ったリアリストがまさにヨーロッパの最上の美を期せずして現してしまうとは一体どういうことか。

ドストエフスキーから離れよう。彼とは随分違うがモーパッサンが大好きだ。一見楽しそうに世の中のあらゆる雑事を小説に仕立てて書き飛ばしているように見えるが、彼のリアリズムは現実と同じく過酷だ。田舎を舞台にした短編を集めた短編集がある。どの作品も素晴らしいが、特に「田園悲話」が好きだ。愚かでただ理由もなく頑固で残忍な百姓の親子の間に起きた事件を描写している。まあ、悲話でよい、悲劇などという大仰な言葉が使えるような立派な事件ではない。

彼ほど、人間の現す愛情、優しさ、思いやり、心地よさ、といったものと憎しみ、残酷さ、愚かさ、薄情さ、といったものを、完全に同列にいささかの区別もなく描き出した者はいないのではないか。愛情ゆえの憎しみ、そして憎しみゆえの愛情という行き来の中にカタルシスを感じながら生きているのが都会人だが、こういった慰めが、最後の最後まで突き詰めれば彼の中にはない。

「小説家をあわれんでくれ」という彼の言葉は有名だ。彼は慰めのない世界を描いたのではない。慰めの横行する世の中を、慰めを信じない小説家の本性に従って描いたのだ。彼の師であるフローベールはこれを外から見える形でやったが、どうもモーパッサンはずっと強行にこの中に生活できた強さがある。彼は自らのラテン的気質に従って、生活と創作をたいして区別もせずに突き進んでいった。肉体の衰えと精神の衰えが同時に襲い、気が狂って死んだ。

彼が精神を病んでからの創作はあまり面白くない。モーパッサンの良さはその精力の中にあるようだ。

と、フランスの作家と言えばスタンダールが居る。「赤と黒」、あれほど軽々しく、趣味の良さだけで出来上がっている小説もない。本を開いている間は夢中になっているが、本を閉じるときれいさっぱり忘れてしまう。人間の心理の弱みや隙に引っかかるところがまるでない。ほとんど神々しさまで感じられるほど極端にそうなのだ。

死罪が確定してからの主人公ソレルは、これはもうほとんどツァラトストラだ。ソレルは完全なゼロから出発して最後は貴族として死ぬ。精神の貴族性を完璧に描いて行くと、最後は不可解で幻想的な神のように映ってしまう。もっともこれが不可解で幻想的に映るということがそもそも読み手の精神的貴族性が不足しているということなのだが。

ニーチェはスタンダールを愛していた。当然だろう。

僕はロココの絵画が何故か好きだ。フラゴナール、ワトーなどなど皆、女性的で、きれいで、飾りたてていて、優雅で、例えばドストエフスキーなら一瞥もくれないだろう。トルストイなら即座に火を付けて燃やしてしまうに違いない。ロココの画家の中でも特に好きなのがブーシェだが、このただただ趣味の良さだけで出来上がっている芸術が、ちょうどスタンダールを思わせる。つまりこれが「良い」フランスなのだろうか。

トルストイなら燃やしてしまう云々は冗談ではない。彼の「芸術とは何か」は過激派の檄文のようだ。彼はあの中で、ヨーロッパの長い伝統の中に生まれた芸術の大半を焼き払っている。その中には自らの書いた小説も入っているのだ。民衆を正しい道に導くキリスト教的道徳観から少しでも外れるものは断罪されている。トルストイは道徳家ではなく革命家だ、という小林秀雄は正しい。

トルストイのアンナ・カレーニナ、これほど夢中になって読んだ小説も珍しい。この小説の特徴は生々しさだ。最後にはアンナは、鉄道の線路に横たわり胴体をまっぷたつにさせて死ぬ。生身の女が絶望して死ぬ所を間近で生のまま見ているように生々しい。作者はこの不道徳な女を本当に殺しているのだ。読む者はその殺人現場に立ち会っているような気になる。

それにしても何という違いだ。フローベールのボヴァリー夫人の死は限りなく詩的だ。彼女は同じように絶望して砒素を飲んで死ぬが、死に至るまでのその克明な描写はちょうどボードレールの書いた一編の詩のようだ。トルストイのあの残酷な扱い方に対して、ここでは作者はこの同じく不道徳な女を詩の材料に、ほとんど詩そのものとして扱う。

アンナ・カレーニナというと、終わりの方でフランス人のニセ占い師、千里眼のジュール・ランドーというのが出てくる。このまるで唐突に出てきて唐突に消えるランドーが、あの10代で天才詩人と呼ばれ、20代には全てを捨てて死ぬまで放浪の旅にあったアルチュール・ランボーであることに間違いはない。トルストイはランボーを戯画化して偽物扱いするためにこのエピソードを挿入したのだろう。小説家の特権だ。ドストエフスキーも「悪霊」の中で同じ事をやっている。

ランボーも一時よく読んだ、というより眺めたが、詩は原文でないとやはり無理がある。とはいえ「地獄の季節」は散文、韻文折り混ざったもので、その決してすり減らない堅い鉱物的なきらめきは伝わってくる。

ボードレールはどうか。詩の方は置いておいて、彼の批評文は素晴らしい直観と、何より高貴さがある。例えばドラクロア論、これは構想して書かれた批評文でなく、思いつくままの断片を寄せ集めたような文だが、最高の直観力と最高の分析力が決して組織されずに、ないまぜになっている。いわゆる印象批評の傑作だが、今では印象批評は完全に古い手法としてほとんど顧みられない。というのも印象批評に必要な高貴さを持ち合わせた人間が現代にはもうほとんど居ないからだ。

ボードレールという人間の形容としては、ニーチェの言葉「芸術家の一種族全体が一身のうちに姿を宿していたあの典型的なデカダン」が見事に表現している。僕の持っているボードレールの写真、これはまさに高貴にして残忍な貴族の姿だ。

パリのモンパルナスの墓地にボードレールの墓がある。平らな墓の上には詩を書き付けた紙切れがいくつも置いてある。フランス人の青年ふたりが墓の前の石に腰掛けてなにやら話し込んでいる。高貴な精神と、何よりあの残酷さを失わないように。

同じ墓地をうろうろしていたらモーパッサンの墓を偶然見付けた。腰掛けて煙草を吸ってぼんやりしていると、日に焼けて深い皺の刻まれた顔のいかにも労働者然とした老人がバケツを手にしてやって来た。すでに秋だったが、晴天の空に太陽がぎらぎらと輝く暑い日だった。彼は僕を見て空を指さしてはっきりとした発音で「ソレイユ」と言って立ち去った。僕は妙な気分になった。

太陽がまぶしいから人を殺した、というのはあの有名な「異邦人」のムルソーだ。イントロダクションで彼は母の葬儀のために養老院へ行くが、この時から既に輝く太陽と、昼下がり、そしてコーヒーの黒がとても印象的だ。

後半、刑務所に入って独白したりしているムルソーはあまりに格好悪いと思ったものだ。カミュはその後「シーシュポスの神話」で不条理の一点張りで古今の思想家や文学を検討しているがこれも不満だった。今読めばそうは思わないかも知れない。もっとも面倒くさいので気が向いたらいつか。

カミュが下したドストエフスキーに関する診断は、彼は不条理な問題と格闘しながら最後まで不条理に留まれなかった、というものだが実に不満だ。ドストエフスキーを小説の結末で判断するのには僕は反対だ。例えば「罪と罰」で殺人を犯してさんざん苦しむラスコーリニコフが最後の最後、シベリアで突然精神的に更正する。だからといってあの小説の結論が道徳的解決にあるなどとするのはあまりに扁平な考え方だ。

ひとつだけ注意しておけば、ラスコーリニコフが更正する直前に彼が見る風景にもっと注意すべきだ。さらっと簡潔に描写されているだけだが、彼はまるで「時そのものまでが歩みを止めて、恰もアブラハムとその牧群との時代がまだ過ぎ去っていないかのよう」な広大なシベリアの光景を、これは時計上の時間でほんの一瞬見る。ソーニャが現れ、彼は我を忘れて自らの罪を悟る。

彼は精神的に生まれ変わった、とだれもが言う。その通りだが、言い方を変えればラスコーリニコフその人は死んだのだ。そして死ぬ直前に見たのがあの光景であった。僕にはこの瞬間が限りなく美しいものに見える。それは一瞬だが永遠に続く何かだ。なぜならそれが「美」だから。

この極端な美を現すために、道徳的転向があり、それは悪から善に飛躍する瞬間だが、さて、結末を除いたあの長い長い善悪の極端な対照の中で執拗に追求される小説の全体の全重量が、あの触れたとたんに消え失せてしまうような重さを持たない美の瞬間を作り出しているというのは異様な事ではあるまいか。

ツァラトストラが「喉の奥に食らいついた重力の魔の頭を噛みちぎって吐き捨てて哄笑した」人間を見る場面、あれはこのようなものを言っているのだ。ただしこの人間はラスコーリニコフではない。ツァラトストラにあっては美は瞬間ではなく永遠に続くものだ。瞬間であって同時に永遠であるものを彼は永遠回帰という考え方で手に入れた。

なぜあんなに軽くて、単純で、瞬間的なものが、その真反対の重くて、複雑で、延々と続く拷問のようなものの果てに現れるのか。これはヨーロッパ的なものの謎だ。

さて、少し戻そう。ドストエフスキーは確かに極端で、あまりに極端なせいでほとんど幻想的に見える場面すら出てくる。彼がホフマンに傾倒していたというのも面白い。

ホフマンの砂男では、人形師コッペリウスの作った自動人形に主人公が恋をする。さて、その人形の描写の中に、その口には歯がきれいに植えられて、とある。あるいはその下腹部にきれいに拵えた性器があったとしても驚かないが、この歯はどうだろう。一体何のために人形に歯が必要なのだ。

フィレンツェのウフィーツ美術館の第二室に、シモーネ・マルティーニという14世紀のシエナの宗教画家の描いた受胎告知の絵がある。左に天使ガブリエル、右にマリアを配置し、ガブリエルは跪き、左手にオリーブの枝を、右手で天を指さして、受胎を告げる言葉を発している。このガブリエルは恐ろしく美しく、あまりにも優雅に描かれているが、よく見るとその僅かに開いた口から小さな歯が二本のぞいている。

一体何のために天使に歯が必要なのか。ホフマンの自動人形と同じことだ。歯──人間の中で唯一露出した骨、噛みつき、引き裂き、咀嚼し、そして他の生き物を自分の体に同化させるための道具。これこそ死、そして同化と生殖の狭間にあるエロティシズムの象徴ではないか。

歯といえば、ポーの短編の中に、主人公が夢遊病の内に、埋葬された恋人の墓を掘り返し、その歯を全部抜いて持ち帰る、というのがある。生、愛、性、死、歯、死体、埋葬、といったものの関係を探り出せる気がするが、分析は止めておこう。これらを包んでいる全体の匂いを感じ取るだけで十分だ。

しかし、こういったエロティックな小説群は僕のある特殊なものと結びついていて、例えばドストエフスキーなどとの関係が全く見えない。恐らくこれは考えるべき問題だろうが今のところその糸口すら見つからない。そこでこれも周辺ということにしよう。

ポーの短編には好きなものが幾つもあるが、例えば「落とし穴と振り子」これも濃厚なある快楽と結びついているが、それと共に最後の最後の場面が面白い。四方の壁がいきなり倒れて進軍のラッパの音が聞こえ、彼はこの暗闇の密室での機械仕掛けの拷問から救われるが、この鮮やかな光景がまたひとつの幻想を誘う。

それは壁一つ隔てた外では全く異なる世界が広がっているということだ。つまり心理的距離と物理的距離のあまりに極端な食い違いがある感覚を呼び覚ますということだ。この分野ではやはりカフカが素晴らしい。

ひと頃カフカの「審判」を読み耽っていた。あの感覚は、本を読むというよりは、あの独特の世界に麻薬のようにどっぷりと浸かっていた、といったものだった。次から次へと象徴的な代物が現れるが、どれも皆象徴まで達しない妙な物、事件に終始する。すぐ隣の部屋で、ひとつ上の部屋で、まるで違うことが執り行われている。

ちょうど子供のとき味わう感覚に相当するのである。子供には大人の社会の仕組みがまだ分かっていない、大人の使う言葉も理解できない、そういう子供をしばし大人の格好にして、あの煩雑で、入り組んで、細分化し、繰り返しの多い昔の役所に放り込んでみれば、「審判」の世界が分かるだろう。

行われている事は何一つ完全に分からない。それゆえに彼は、自分に言われた謎めいた言葉、隣の部屋で行われる事、ふとその存在に気付いた扉の向こう、にとろけるような好奇心と期待を抱いてさまようだろう。その快感は、心と体がまだ未分化なときに接する外部によって引き起こされる心と体の食い違いに起因している。

外部の構造が分かってしまえばその快感は消え失せるが、依然として入り組んだ役所が残っているとするなら、その心理的残り滓は役所の建物と書類の至る所にこびり付いている。さて、こうして幾多の評論家がカフカの小説に社会批判や実存主義的世界観などを読み取った。

最後に主人公ヨーゼフ・Kは役所から外に連れ出される。外は夜、よそよそしい外界を、二人のよそよそしい男に連れられて、石切場に達すると、接した家の最上階から明かりが漏れる。彼は処刑される。最後の文句は「犬のようだ!」このセリフはこの長い長い審判という小説の中で唯一大人の発言に聞こえる。

幻想文学に類するものについて書いたが、一般には知られていないが魅力的な作家がまだたくさんいる。しかし、深入りは止めておこう。話をいわゆる大家の方へ戻してこの文学雑感をひとまず終わりにしよう。

結局、あなたの文学趣味は何ですかと端的に聞かれれば、ドストエフスキーとモーパッサンとニーチェと答える。ドストエフスキーは思想的に、モーパッサンは文学的に、ニーチェは哲学的に、と要約できそうだが、実際に読んだときの感覚には似通ったものがある。

ものを好きになるときに、理性がそんなに支配的とは思われない。少なくとも僕は相手を徹底的に信じた後でしか理性が働かない。ものを論じるにはその対象に対する愛情が必要だ、という古典的な考え方から離れる気はない。離れる時は、むしろそれは休息の時だ。いつの間にかその休息の方が自分の人格を覆い尽くしてしまう、ということも当分はなさそうだ。

先の3人、みな精神病を病んだ。もっとも病名ははっきりしないが。ドストエフスキーは癲癇持ちだった。ニーチェは広場で昏倒し、昏睡状態から覚めた時は既に自らを意識せず、思い出の断片のみが時々閃く廃人のような状態で、10年生きて死んだ。モーパッサンは幻覚を伴う狂人の状態で精神病院に入り、しばらくして死んだ。3人とも遺伝的に精神病的な気質を受け継いでいたようだ。

僕は気違いが好きなのだろうか。むろん僕は正常である。ならば病気に憧れているのだろうか。確かにその気はないとは言えない。しかし僕は病人の振りをするのがひどく嫌いだ。あの3人は病気のすれすれのすぐそばに身を置いて、そこに現れるある本質的なものを目撃し、それを断固たる口調で肯定した。彼らは狂った正真のリアリストだ。ニセ病人は病気を本質と取り違える。

しかし、まあいい。このままではメモ帳のようになってしまう。覚え書きは別の項で書くとして、文学雑感はひとまずこれで終わろう。

以下気が向いたら執筆再開