ヨーロッパ絵画、芸術 第1部


 ◆絵画について一般
 ◆ヨーロッパ旅行以前─印象派
 ◆京都で見たゴーギャン

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絵画について一般


ゴッホ 刈り取る人のいる麦畑

ヨーロッパ絵画に惹かれるきっかけになったのはヴィンセント・ヴァン・ゴッホであり、彼については本まで出版して、ほぼ言いたい事はその中で書いた。彼に出会うことで僕がもっとも変わったのは、非常に単純な事だが、色と線というものが独立して何かを主張する、という事に気付いたことだった。

絵画には描かれた内容というものがある。特に現実物理世界をカメラの視点、すなわち遠近法、そして対象物の微妙な色合いの再現、というひとつの目的に沿って画布の上に写し取ろうとする長い伝統がヨーロッパの絵画にある。ヨーロッパの絵画芸術はリアリズムを極めようとして来た、と一応言えるだろう。 さて、ならばリアリズムとは何か。目に見えるもっともはっきりしたものは、対象の形と色と見え方を忠実に写し取る努力に違いないが、それだけでは当然不足している。仮に肖像画を描こうとするなら、その人物の性格、性癖、思想、彼の生きた社会、そして時代、などなどを写し得て初めてリアリズムと言えるだろう。

すなわち画布の上に描き込まれた内容をひとつひとつ点検することで、その描かれた対象の全幅の情報を得ようとする事、これこそ絵画鑑賞のもっとも通常のあり方と言える。画家が画布の上に残した秘密はおよそ大量なもので、それを余さず受け取るためには、当然見る側の教養、すなわち時代背景、当時の社会のあり方、そこに生きた様々な階級の人間達のものの考え方、感じ方、などなどに関する知識はどうしても必要になる。ある国に旅行をして美術館へ行くときはその国の歴史を知らなければ楽しめない、という一般論は以上に述べた鑑賞態度からの当然の帰結である。ここまでは誰でも言うことだ。

しかし、これとは全く異なるもうひとつの鑑賞の仕方がある。それは絵画の内容を読もうとせずに、ただひたすら色と線を見るという事だ。人類にとって色と線よる表現は文字よりもずっと古い、洞窟の壁画を見れば分かることだ。そしてこれは国籍も時代も越えて僕達人間が持っている共通の表現手段である。だから色と線による抽象というのは誰の中にも眠っているひとつの衝動なのである。

この色と線を享楽するという事については、モダンアートが興ると共に物凄い速さで一般人の隅々にまで浸透した。現在ちまたで氾濫しているデザインはその適応範囲として人間の生活ほぼ全域に渡っている。ポスター、建築、インテリア、日常品、衣服、書籍、などなど、現代人は色と線(そしてこの場合形)の独立した魅力に頼ったデザインに浸かって生活している。

さて、ではなぜ色と線の力を既に知っている現代人が、例えば今から語ろうとしているヨーロッパの古典絵画を見て色や線を享楽することよりも、むしろその内容に引っ張られるか。僕の感触では、ヨーロッパ古典絵画では、色と線の力は入り組んだ内側に隠されている。画布の上の一見写真的な様子の下に隠れた微妙なものとして発見されるのを待っている。

これを感じるにはまず訓練がどうしても必要だ。当時の画家達が画布を塗るに当たって、現代の画家達とは比較にならぬ量の訓練を必要としたのと同じ事である。そして次第に画布の上の色と線が、そこに描かれた内容と寄り添ったり、反発したり、気まぐれを起こしたり、口裏を合わせたりしている様子が分かってくる。

いやいや、こんな説教はきっとどこかで誰かがいくらでも言っているだろう。この辺で止めておこう。ここは僕個人の体験を元にエッセイとして固有なものを書くことにして一般論は止めておこう。さて始めよう。

ヨーロッパ旅行以前─印象派

僕の絵画趣味は、1985年上野の西洋美術館で開催されたゴッホ展から始まる。前述の通り、画家の扱う線と色という単純な手段が如何に独立した純潔なものかということを、彼から習った。このゴッホという画家は、ヨーロッパの古典絵画の画家達の仕事の、何よりもその堅実さに全幅の信頼を置き、それを疑ったことはなかった。

その彼が、彼の後に続くモダンアーティスト達の先駆者として絶大な影響力を持ったというのは、一種の時代の皮肉にすら見える。最終的に一般人の所まで紆余曲折の果て降りて来たときには、彼は炎の画家、あるいは狂気の画家という大仰な形容詞と共に呼ばれるようになってしまった。

ゴッホの絵に目を開き、彼のそのエゴイズムとは正反対の愛情と、その裏にあるヨーロッパの伝統に基づく強靭な知性に惹かれる身にとって、彼に関して飛び交う風評はほとんど全て不満であった。僕がゴッホの本を書いたのも、彼について一般に言われている事に対して、僕の感じたゴッホを書きたかったからだ。そしてそれを彼への贈り物にしようと考えたのだ。

そんな風に偏狭だったので、彼の後に続く画家達、特に表現主義や、フォーヴィズムすなわち野獣派の絵画を当時は忌み嫌っていた。全てゴッホの悪い弟子に見えたのだ。僕にとってゴッホというのは決して継承されないたった一回しか起こらない事件であった。これを本の中に全て書いてしまった今思うと、あれは愛情ゆえの独占欲のようなものだったのかも知れない。

当時もっとも嫌いだったのはホラーじみた絵ばかり描く表現主義的画家のひとりフランシス・ベーコンだったが、そのベーコンの絵が最近では最も印象的な絵だったというのだから、年月と共に変わるものである。当然である。これらモダンアートについてはまた項を改めて後ほど書こう。


フランシス・ベーコン

さて、後期印象派にあたるゴッホの絵画で色と線に目覚めた後は、いわゆる印象派の画家達に苦もなく惹かれていった。当時気に入っていた美術館は東京八重洲のブリジストン美術館だった。印象派のコレクションの密度の高さは特筆すべきだ。それに比べると上野の西洋美術館は散漫である。

ブリジストン美術館にあるセザンヌの後期の絵、「サント・ビクトワール山とシャトー・ノワール」の山や木々に囲まれる中、僅かに覗く空に塗られた青の美しさに僕はひたすら魅せられていた。木々に塗られた様々な色価の緑、山に塗られた様々な明度のねずみ色、そして城に塗られた様々な黄色などなどを、緊密に構成しながら配置して行き、その最後の最後、僅かに残った空の部分に、細心の注意を払って生のままの青を塗った、という感じがする。


セザンヌ サント・ビクトワール山とシャトー・ノワール

素晴らしいモネの絵も数枚ある。これほど執拗な光の探求というのも他に例がなかろう。モネの絵を見ているとおよそ雑念というものが浮かばない。物体の外側に纏った光によって実にすっきりと当の物体と遮断されているという感じがする。そのせいで言い換えれば一種非人間的に見える。

そういえば、モネは風景画ばかり描いたが、彼の未完の自画像がある。赤身がかった肌色の顔の回りに黄みがかった白い髭のある、白髪の老人だが、見ていると、まるで皿の上に盛られた酢漬キャベツとソーセージのように見える。で、それで一向に構わないよ、と当の本人が言っている、そんな風に見える。
後年のルノワールの絵はバターとミルクで出来ている。ちょうど、フランスの田舎料理か田舎菓子のようである。光と食感が結びついていると言えば、ルノワールを他に置いて無いのではないか。思い描いてみると他の印象派の画家達のほとんどの絵は、見ていると食欲減退である。

ルノワールは実際そういう人だったらしい。当時の批評家連中が、大発見をしたかのように光だ、光だ、と大騒ぎしているのを苦々しく見ていた。光というものが独立して何かを主張するようになったら絵画はおしまいだ、それは単なる思想であって、絵画技術を言葉に置き換えようと言うのか。と、そう言いはしなかったが、彼は光そのものの独立性を追求するのでなく、古典画家達の大きさと単純さに基づいた健全さを、ひたすら絵画技術の精進によって光に置き換えようとした。そして成功した。
 

京都で見たゴーギャン


ゴーギャン おまえはなぜ怒るのか

ゴッホはゴーギャンを才能ある先輩画家として尊敬していた。ゴーギャンは南仏のアルルのアトリエでゴッホと二か月同じ屋根の下に暮らし、彼に最も接近した人間のひとりである。ゴッホはこの共同生活が終わる直前に、最初の精神病の発作に襲われ、忘我の裡に自らの耳を切り落とした。傲慢で野心家のゴーギャンに対して、純真で傷つきやすいゴッホという構図が世間では定着しているようなのだが、もう少しよく見ると、実際にはその逆に思えてくる。

ゴッホの思想は揺るぎ無く、人の思惑など寄せ付けない強さがあり、精神病を患った後の彼の絵画は不可解さが最後まで残っていて、単純な解釈など受け付けはしない。それに対してゴーギャンの思想は攻撃的で、腐った世間に対する皮肉と侮蔑に満ちていたが、その芸術は純真でナイーブで傷付き易い心を持つ詩人のそれであった。極端に言えば彼の絵画は非常に感傷的だ。それに対してゴッホの絵画には感傷的と呼べるようなものはひとつも見つからない。

京都国立博物館で開催されたシカゴ美術館展で、僕はそういったゴーギャンに初めて触れた。それまで僕は彼の絵の線と色のコンポジションの面白さに惹かれていた。また、南国の絵に登場する偶像達は、漂流する心の中に動かし難く立っている不可解な像というイメージが好きだった。美術展の呼び物はルノワールの「テラスにて」、物凄い人だかりで絵を見るどころじゃない。うんざりして次の間へ入ると目の前にゴーギャンンの大きな絵があった。

タヒチで描かれた絵である。鮮やかな緑色に塗られた草の上に座る2、3人の手仕事をする女達、右に横を向いて立つひとりの女、奥には薄い明るい黄色に塗られた小屋の前に座る老婆、遠方は鬱蒼と入り組んだ森に遮断されて、中景に数人の女達。「おまえはなぜ怒るのか」これがその絵の題目だった。

絵の前に立ったとたん、何かが僕にはっきりとした声で語りかけた。それはゴーギャンその人のようだった。おまえはなぜ怒るのか、彼はそう言ったのだ。

怒っているのは一体誰なのか──たくさんの人が絵の前を通り過ぎていった。ほとんどの人が絵の中の誰が誰に怒っているのか詮索している、こいつだ、いやこいつだ・・ある人はしばらく眺めた後「失敗だ」とつぶやいて立ち去った、ある人は自分が昔からゴーギャンが好きだった事を力説している・・ある人は、色彩の対比の美しさを語り、ある人は様々な姿態で描かれる女達のその象徴的な意味について解説している・・

怒っているのは誰なのか──絵画のために妻子を捨てたゴーギャンを、妻のメットは一生許さなかった。ゴーギャンは二度目のそして最後の南国行きの前、友人のシャルル・モーリスにヨーロッパから永遠に別れる事を告げると、カフェの片隅で顔を覆って泣いた。友人はこの男が泣くのかと思うとぞっとしたと書いている。タヒチで長女アリーヌの死の知らせを受け取った彼は、「本当の墓はここにある、私の涙は花だ、生きている花だ」と書き送った・・・

僕にはこんな風に聞こえた──怒っているのは、君達と、この私だ。ここ南国は、そんな現代文明に浸った僕達が生み出す自尊心の競争や、滑稽さや、饒舌や、醜さとは、まったく無縁なのだ。僕達は毎日毎日、十回抱き合っては、十回いがみ合っている、一体何がそうさせるのか。しかし、ここ南国も既に現代文明の洗礼を受けている。

少なくともこの画布の上に定着した世界では、すべてが野蛮のまま留まっている。彼の創り出した世界は彼の理想郷であった。彼は、彼自身も、彼の回りの人間達も誰も脱出できない現代文明に対して、この画布の上の世界だけはそういったものから自由である事を願った。デッサンはますます沈黙し、色彩はますます純潔を求める。彼の創り出した世界は芸術的創造物と言うよりは、彼の悲しみと感傷の産物だ。

僕はこの絵の前に長く立っている事ができなかった。こんなにはっきりと心を揺さぶられたのは初めてだった。あまりに悲しいではないか。僕はこんな感傷に付き合うのが嫌になった。その後ゴーギャンの絵から一歩遠ざかることにした。後日東京で大々的なゴーギャン展が開催されたが、その時はこのようなことは起こらなかった。



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