翠園酒家の広東料理


新橋の外れにある高級広東料理店である。遠い昔、学生だったころ、母親が中国出身の友人に連れられて入った覚えがあった。そのときは、あんかけヤキソバを注文し、そのタレが普通よりなにか黒くて、そして厚手に切った牛肉がふかふかでスポンジのようだったことだけ覚えていた。特にうまいとも思わなかったのだが、店内にいくつもぶら下がっているシャンデリアだけ妙に印象的で、ずいぶんと高級な店なんだなあ、という印象だけ残っていた。

ある夜、さてどこで飯を食おうかと迷って銀座あたりをぶらぶらしているとき、たまたまこの中国料理店を思い出したのだった。実は名前も正確に思い出せず、確か、翡翠とか玉緑とかいう言葉に関係あったかなあ、という程度、まったくのうろ覚えで、新橋の外れを歩いて行くと、いくらか迷ったものの割とすぐに見つかったのがこの翠園酒家であった。

入り口は比較的地味だが、店内に入ると、広い待合い場と、決してだだっ広くない店内に高い天井、調度品の数々、ウェイターの服装など、確かに高級料理屋の風格、それも一昔前の雰囲気が漂っている。シャンデリアもちゃんとまだぶら下がっている、なるほど、ここだったか。

その頃僕はもう既に香港へ十回以上行っており、香港のどこでも食べられるあの広東料理が、日本の広東料理屋で食べる味とずいぶんと違うのを不思議に思っていた。香港旅行が年2、3回の年中行事になる前、趣味が趣味だけに日本の中国料理をずいぶんと食べ歩いた。おいしい料理は至る所で見つかったし、好きな店もいくらもあった。元来が奥手の僕は、そうしてずいぶんたってから、遂に香港旅行を決心し、実際に行ってみて、そのあまりのカルチャーの違いに呆然としてしまった。これについては別項で書いておく。

もっとも大きな発見は、日本の中華料理と香港大衆料理の厳然とした違いにあったのだが、その感覚を前提として、香港の至るところにある中級広東料理レストランに入ると、これがやはり日本の広東料理とずいぶん感触が異なることに気付いたのだった。それ以来、香港広東料理に夢中になり、香港へ行ってはその独特の味を楽しみ、日本に帰ってきてはその味がここで見つからないのを嘆いていた。もっとも積極的に探しはしなかった、年に二、三度現地へ行っているのでそれで十分満足してしまう、というところか。

さて、この翠園酒家でテーブルに付いて、前菜盛り合わせ、イカの炒め、鳥モツの炒め、青菜の干し貝柱煮、その他数点の点心を注文した。食べてみると、これが香港の広東料理と全く同じ味で、実際、僕はものすごく喜んだのだった。そうしてみると、店内の様子も何か香港のレストランにいるのかと錯覚するようなところがあった。店内の装飾というよりは、僕には、店内をすたすた歩く愛想のないウェイターの姿に香港を見る気がした。もともと、中国人のウェイター、ウェイトレスは実に愛想がなくて、店のレベルが高級であろうが大衆であろうが、必要な仕事をする以外はにこりともしない。必要以上のサービスはしない、その簡素で、すっきりした雰囲気が、この店にも確かに漂っている気がした。

味と香りはまさに本場香港の広東料理と全く同じで、蒸し鶏の独特の鶏臭さや、香港で定番の鴨の焼き物の香ばしい風味、塩味の炒めものの大ぶりの野菜のしゃきっとした歯触りと食べ飽きない味と香りも、どれもこれも申し分なし、ビールに老酒を飲んで大満足で店を出た。ただしここは東京である、値段の方は実に高く、二人で軽く二万円を越えていた。香港ならこの半額で食えるはずだが仕方がない。

ちなみに店を出るとき、レジに置いてあった小パンフレットを見てようやく気が付いたのだが、この店は、香港、九龍の中心地であるチム・シャ・ツイにある同名の店、Jade Garden Restaurantの東京支店であった。なるほどこれが種明かし、であった。