昔の電気部品がかっこいいのは できることしかできない奴らだからだ


電子工作に夢中になり始めたのは、小学5年生あたりからだったと思う。まさに来る日も来る日も、当時持っていた数少ない電子工作本に見入り、わかりもしない回路図を紙に写したり、手持ちの部品をいじったりしていたものだった。そうこうして中学生になり、今度は少し科学的な志向になり、たしかトランジスタ回路の設計本を買い込み、自ら回路設計をやろうと試み始めたのだが、これが当時の僕には歯が立たず、いくら読んでも意味がよく分からない。そうこうしているうちに興味は別へと移り、いつしか電子工作からは遠ざかっていった。思うに、もっとも夢中になっていたころに僕を惹きつけてやまなかったのは、あの電子部品たちのあれこれの個性的な姿かたちと、その独特の臭い、そして回路図の記号の簡素な美しさだったように思う。集積回路、すなわちICやLSIがポピュラーになる前のトランジスタ全盛の時代だったのだが、そのころの電子部品は、すべて単機能であった。ひとつの部品は、ひとつの機能しか持っていない。機能がひとつに決まっているから、その機能を最大限に発揮するようにデザインされるわけで、そのためか、形にあいまいなところがない。加えて、ひとつの機能を果たすために、さまざまなアプローチを取るせいで、次から次へと、ありとあらゆるバリエーションが生まれ、形状の豊富さは現在のデザイナーがデザインしたあれこれの製品に勝っているのではないかと思う。昔の電子部品の設計の場にもデザイナーのような人はいたとは思うが、今現在のデザイナーとはずいぶん異なっていただろう。おそらく、機能と性能の実現が優先で、まずはそれによって部品の形状が決まって行ったはずで、残されたいくばくかの余地にデザインセンスをつぎ込んだのだと思う。だから、これら電子部品は、人間の美的センスによって作られたというよりは、機能が作っていった姿かたち、ということになっているのだと思う。秋葉原の部品売り場へ行って、これら電子部品がぎっしりと並んでいる風景を見て連想するのが、森の中の昆虫たちである。昆虫もやはり、ある達成したい本能としての単機能があって、それによって姿かたちが選択され作られていったように見えるからである。僕がそのむかし、小学校の高学年から電子部品に夢中になったのも、低学年のころ虫取りに夢中だった、その延長だったのかもしれない。