おいこら、どうでもいいマジメな話ってなんだ
ああ、ちょっとここ最近、心が安定しないせいもあって、マジメな話を真面目に語るのが微妙にイヤでね
なにがイヤなんだ
なんとなく自信喪失してるんだよ。だから大上段に、ばすっと、マジメな自分の考えを展開するのをためらうようになったってことかな
ふーん、あっそう
それにさ、オレが今のこの境遇でマジメな持論を展開したってあんまり誰も聞いてくれないしさ
ずいぶん自虐的になったもんだな、情けない
まあ、仕方ないよ、人生、調子の悪いときもあるさ
ま、そうだな、余計な前置きだよ、まあしゃべれよ
うん
だからしゃべれって
ああ
健忘症か?
あ、いや、このまえ夕方に自由が丘へ行ってちょっと時間が余ったんでさ、古本屋に立ち寄ったんだ。実は自由が丘の裏側の改札を出たところに一軒だけタイムスリップしたみたいな古本屋があるんだ
おまえの自由が丘で思い出した。おれたち大学生のころ自由が丘のパブで仕事で生演奏してカネもらってたよな。あの、山口さんって人と2人で演奏して
おお、そうだ。山口巌だな? うーむ、そんな名前を出されると話がそっち行っちゃってマジメな話はどこへやらになっちまうな。その話はまた後にしようぜ。
分かった、でも、山口巌はともかく、あのころ、自由が丘のバスロータリー側の一帯と、その反対側の一帯は街の性格が真反対に見えていて、あそこって変わったところだったよな。ロータリー側はオシャレ、逆側は場末
そうだったな。当時のオレたちは、「だから」自由が丘って街は嫌いだと言ってたっけ
うん
まあ、それはともかく、その元場末の方の出口でね、数十年前に戻ると、たぶんあの古本屋以外の店はぜんぶ総とっかえになってると思うよ、あの一帯。で、その古本屋に、オレはよく立ち寄るんだ。
ああ、知ってるよ
で、行くとだいたいマジメ系な文庫かなんかを一冊買うんだよ
あそこはマジメ系の本以外はないからな
そうそう。いまどき珍しいよ、アイドル写真集やらグラビアやらエロ本とか、まったく置いてないからな。店の一番奥の目立たないところにエロ関係のコーナーが少しだけあるんだけどさ、それが、また、なんていうの? 芸術系エロだけなんだよ。エロティシズム文学系とかロマンポルノとか江戸時代艶本とか、とにかく今風の性欲系はなし
それがあの欲望の街の自由が丘にあるんだからな、面白いや。それで何か買ったんだな?
うん、ヴァルター・ベンヤミンという人の評論集を買ったんだ。前々から聞いていた「複製技術時代の芸術」という評論が収録されていたんでね
なんで知ってたんだ? ベンヤミンって実はあまり知らないだろ?
うん、オーディオ研究者の宮原誠先生から聞いてたんだけどね。ベンヤミンという人が芸術のアウラというものを提唱していて、複製時代にはそのアウラが喪失したと結論付けたんだけど、また再びこの現代に、テクノロジーによって喪失したアウラを、新しいテクノロジーで蘇らせよう、というような趣旨のことを言っていたんでね
なるほど。アウラってオーラだろ? AURAだよな、英語でつづると
ああ、ベンヤミンによると、アウラはある芸術作品にとって、それがそこにあるという、たった一回しか起こらず、かつ、それが在るそこだけにしか存在しないモノで、完全に一回性のもの、それがアウラだ、って言うんだな。そして、そのアウラが芸術作品を芸術たらしめている時代が長く続いた、というんだ
うん、それで?
そして、そのアウラこそが歴史の材料となり伝統を形造る、と。オレから見ると、アウラは「生きている」という風に思えたな。生きるということ自体がまさに空間と時間において一回性の事柄だからね
で、そのアウラが複製時代に喪失したと
そうだ。ベンヤミンがこの論文を書いたのが1936年。すでに写真があり、レコードがあり、映画があり、音付き映画のトーキーが出たころなんだよ。で、ベンヤミンは特に「映画」を問題視して詳細に論じているよ。写真やレコードどころじゃない、このトーキーの出現こそ本質的な意味で芸術の転換をうながす事件だっていうんだ。決定的なアウラの喪失、というわけだ
で、テクノロジーによりアウラが喪失してしまったせいで、芸術のお先は真っ暗だって言っているのか?
それは違う。「芸術」の意味が決定的に変質したのだ、と言っているのであって是非を論じているのではない。人間にとって芸術作品のアウラの及ぼすもっとも強い力は「礼拝的側面」だと言っている。それに対して、アウラの喪失によって何が代わりに現れて強くなったかというと、それは、「展示的側面」だ、というわけだ
なるほど。人々の礼拝の対象になりえる一回性のそこだけのものではなくて、アウラの喪失と引き換えに、作品は時間と空間の障壁を限りなく低くして人々の「近く」に容易に到達できる。それにより作品は人々によって「展示的関係」を築く、というわけか
うん、ベンヤミンはその芸術の変質を、市民生活の民主化の過程に伴う必然的な変化だと見ているってわけ
およそ、言われている通りだな
そうだろ? 今から70年以上前にこういう洞察をするってのは、たいしたものだな
で、そのベンヤミンのアウラのことを聞いた宮原先生という人は何をしようとしてるの?
うん、どうやら先生自体も、このアウラの話を仕事で付き合っていた東京藝大の先生から聞いたみたいだ。その藝大の先生は、宮原先生のオーディオシステムを称して、「ベンヤミンにより、複製時代に失われたとされるアウラをテクノロジーによって再び蘇らせた」という解釈を語ったそうなんだ
なるほど、で、お前はそれを聞いてどう思ってたんだ?
オレは、マユツバだと思っていたよ。アウラを蘇らせるなんて、そんな幽霊みたいなものはオレはいらない、と思ったよ、正直。オレにとって作品のアウラは、経験と歴史と伝統という回りくどいものを経た挙句、「自分」という一回性の生き物の中に位置を占めるに至って、そこでまさに生きているものだ。アウラは喪失したけれど、生きている僕らの中にその「生」の位置を変えた、と思いたいね
うーん、だいぶ抽象的な話になったな
ああ、仕方ないよ、アウラ自体が抽象的なものだからな
ところで「複製技術」とベンヤミンが言っていたころから70年たって、現代では、その「複製」に関するテクノロジーはほぼ極限にまで達しようとしているな。ベンヤミンもさぞかし驚くだろうし、現代を見たら、やはり自分の論は間違っていなかった、と自負するだろうな
宮原先生のオーディオがアウラの蘇らせだ、という藝大の先生が正しいとすると、オレは考えるよ。たとえば歴史的な演奏がどこかの場所で一回だけ為される。それをマイクで拾って電気信号にして蓄積してミキシングしてCDに焼いてこれをプレイヤーにかけてアンプを通してスピーカで聞く、という一連のテクノロジーによる複製技術の全体がさ、その「そのシステム自体」が、「芸術」と呼ばれ得る価値を獲得するに至ったら、そのテクノロジー自体がまたアウラを持つはずだ。そのアウラは、当の演奏のアウラと引き剥がせないアウラだけれど、それ自身がある未来的な翼を持っている。そうなれば、オレはアウラの再現というよりは、アウラの正統な嫡男としてそのテクノロジーアウラを認めるよ
ふむ、技術屋がみな芸術家になれば、ということだな。それはほとんど、ジョットーやレンブラントの工房で弟子たちが師匠の作品の複製を作っていた行為と等しくなるな
まさに、そういうことだ。その場合、アウラは喪失しない。伝統に組み入れられて永遠に残ることになる
おまえは、そういう技術屋集団をどう思ってるんだ?
オレはそんな技術屋集団の一員になるのは金輪際、御免だ
ははは! そのくせして宮原先生を手伝ってるのはなぜだ?
そりゃ、上記のような理論をオレが理解していて、その理論については自分も正しいと思っているからだ。宮原先生という人はこういう芸術論や哲学論が苦手な人で、もっと本能的に行動する行動人だからな、オレがその理論の翻訳をかって出ているってわけだ
なんか得になるの?
なーんの得もない
そうか、それでもやるか。お前らしいが、もうちょっと世間ずれしてれば、お前も今のようにならなかったのにな
うん。それにオレは思うが、あの人の上記のアプローチは決して次の世代のメジャーにはならないと思うよ。オレは悲観してるよ、実際。
物好きだなあ。で、お前自身のアプローチはどうなんだ
ああ、オレのアプローチは、宮原先生とちょうど正反対だ。アウラの息の根を完全に止めようという魂胆だ。まあ、ニーチェがかつて言ったように「神は死んだ」んだよ。「アウラを纏った作品」というものを止めてしまいたいんだ。
どういう意味?
あ、いや、アウラを纏った作品は、これからの世の中にもあふれるだろうが、それには興味がない。勝手に作っていてください、だ。 で、オレは、アウラがまったくない作品、というものを作り出したいんだ、テクノロジーの力で。そうなると、アウラが無いせいで、その作品は簡単に時間空間を超えて拡散する。重力の法則に従わないんだ。無限に複製されるのでエネルギーの法則からも自由になる。
SFだな
ああ、そうだな。でも、オレが15年前に発明した「文字を映像に自動変換する」技術というのは、本質的な意味ではそこを目指したものだよ。映像というものが必然的に持つ一回性なものを清算してしまえ、ってことだ。つまり映像を人間が作る代わりに機械に自動的に作らせようってわけだ。複製技術を使って。それによって映像のアウラはその最初の時点で消え失せているだろう?
やっぱ、SFだな。それで、それはうまく行ったのか
いかない
聞いていると、宮原先生のアウラ蘇らせと、おまえのアウラ抹殺は、映像のあり方の両極端に位置しているように見えるぜ。先生のが次世代の主流にならないのと同じく、おまえのも次世代の主流にならないと思うな
ああ、それはそう思う。1年前ぐらいに読んだ論語の中の孔子の言葉に「中庸」ってのがあったけど、その中庸を作り上げるべきだろうな
そう。そこに現実があるし、そこに価値があるんだと思うよ。あんまりかたくなにならずに、少し考え直せよ
わかったよ。でも、まあ、ベンヤミンのアウラについて読んで思ったことはこんなところかな
それにしても、おまえほど一回性のアウラを何ものにも代えられない貴重なものだと体感している人間もいないはずなのに、なぜ、そんな貴重なアウラを抹殺しようとするんだ?
うん、そこだよ、分からないのが。ただ、オレはこれからのデジタル社会というものを、アウラをベースに組み立てることに不賛成なんだ。オレがデジタルで一番いいと思うところは、完全な複製が可能なところと、それゆえに時間と空間をいとも簡単に取っ払ってしまう性質なんだ。これはね、やはりすごいことだよ。アナログ時代にはあり得なかったことだよ。このデジタルの本質にようやく世の中が気づき始めたんだよ。最初出てきたときはアナログの代理でしかなかったからね
でも、今でも、デジタルって言ったって、結局人間が享受するときはアナログに変換するだろ、だって生身の人間がアナログだから。その「変換」は避けえないだろう?
そうだ。でも、きっと遠い将来では、それを乗り越えてデジタルだけでカタが付く時代が来るよ。きっと。オレが仕事でやっている「文字の映像への自動変換」はその不気味な時代に対する今の時点における、ささやかな貢献の一つ、とオレは位置づけているよ
なるほどな、それがお前の仕事の哲学的論拠ってわけか
そうだ
もし、お前がそのままの考え方で世の中渡ろうとしてるんだとすると、お前は不幸になるぜ
なんで?
だって、誰もお前の言ってること、理解しないもん。お前の言葉には大衆性が欠けているよ
そっかな、同意しとくか
それにしても因果なやつだな。そんな過激な、昔のダダイズムみたいな理論を振りかざしておきながら、お前自身はベラスケスや、ゴヤや、ゴッホの絵を見て涙してるってんだからな
ああ、特に、オレはさ、最後の最後、昔のカトリックの宗教絵画に戻って行くよ。ドゥッチオっていう宗教画家、あれがオレの心のふるさとだ。
イタリアのシエナの巨匠だな、1300年ごろの人だよな
ああ、キリストの受難劇の20枚ぐらいの連作があるだろう。あの中の最後、十字架から下ろされるイエスと、弟子たちに囲まれて棺に収められるイエスの絵があるな。ああいうものはさ、強烈なアウラの塊だ。そして、はっきり思うのが、アウラも不死なんだよ。一回性で時間も空間も超えるものというのは定義から言って「不死」なんだ。
ふむ
それでその対極が、オレがやろうとしているアナログを介さないデジタルだ。これは無制限の複製が可能でやはり時間も空間も超えるということで定義から言って「不死」だ。要は、両極端のものはけっきょく一致するんだよ。
でも、その性格は真反対だな? え?
ああ
再度忠告するが、あまり両極端に走るなよ、危険だぜ
OK、そうだな、それにしても、いつもながらまあ、ずいぶんと書き飛ばしたもんだ
さて、今日はこれからどうするんだ
さあ、調子が悪いことは変わらないからな、おとなしくしてるか。でも、だんだんおとなしく引きこもっているのも辛くなってきたな。
昨日も缶ビールで自分の部屋に引きこもってたしな
ああ、今日も同じじゃ悲しいな
どっかでかけるか? 当てもなく
それもいいが外は寒そうだな
いいじゃないか、目が覚めるぜ
わかった。とりあえずコーヒー淹れて、飲んでくつろいでから考える
そうしよう!
新どうでもいいこと10