科学 vs 哲学

三、四年前だったか、どっかのスレッドで、科学者と哲学者の他流試合があって、それが公に公開されていて、僕もスレッドを読んだりした。スレッド上議論だけでなく、双方からの寄稿、フィジカルな討論会まで催し、そのフォローアップなど、かなり激しくやり合っていた。これ日本の話である。

僕はそれを読んでいて、いたたまれなくなり、途中で止めたし、たぶんまた見つけても読まないと思うけど、激しかった。

そもそも、そのスレッドは、科学系からアプローチした哲学的な謎を議論する場(たとえばクオリア論争とか)みたいなところだったのだが、そこにどっかの理科系の大学の准教授かなんかの、まだ若い科学者がやって来て(スレッド主が呼んだらしい)、それはもう、ガチな科学をもってして哲学を正面切って攻撃したのである。

彼いわく、哲学の議論はあいまいで、定義もあいまいではっきりせず、しかもそのあいまいな定義を自分勝手な推論で大きくして理論を作るのはいいけれど、何一つその後に検証しない。そのせいで、その結論が正しいか正しくないかまったく判定もされていない。なぜ科学のように、明快に定義された前提と、その推論と応用、そして実証を経て論理を補強する、という正しい道を哲学は取らないのか。科学界では歴史的に何百年もそれを繰り返し、今や科学的学説の信頼度は最高度まで上がっているのに、哲学は、いつまでも個々の哲学者が勝手な前提と定義で勝手に説を為して実証もせず正しさを保証しようともしない。そのようなものは無意味とまでは言わずとも、少なくとも信用するには値しない、うんぬん

と、まあ、こうやったわけである。科学者というのは、それまでわりと哲学者に負い目があったりして、科学者は科学の世界で地道にやりますよ、っていう科学者が多かったのだが、その積年の恨みが彼に至って爆発したかのように、哲学を完膚なきまで全否定したのである。さらにたまに哲学者は、科学者は世界について何も分かってない、とか言って小バカにするような発言をすることもあり、腹に据えかねたのであろうか。哲学のいい加減さをこれでもかと攻撃したのである。

科学者の彼いわく、いままでも哲学者たちに、その理論のあいまいさや前提を問い正したことがあったけれど、話をはぐらかすばかりで、一向にはっきりと答えようとしなかった。これは、要は、彼ら哲学者自身も、自分が何をしているか分かっていない、という証拠ではあるまいか。一方、科学者は何を問われても明快に回答することができる。もし、自らが間違っていれば、それを認め、自らの説を修正する謙虚さも持っており、それこそが科学をここまで信頼できるものに育てたわけである。哲学者はなぜそういう知的誠実さを持ち合わせないのか

とこういうわけである。それで、スレッド上ではらちが明かず、実際に、その科学者の彼と、哲学者二名だかが討論会の場に出てきて、討論をしたそうだ。もちろん、科学者は一歩も譲らず臨戦態勢だったわけだが、哲学者二人はどうも煮え切らず、やはり科学者の正面切った反論にはきちんと答えられず、話をはぐらかしたらしい。

その科学者の彼は、この世界は遠い将来科学によってすべて解明されるはずだ、ということを自分は信じている、と何度も書いていた。

こうなると哲学者は、だいぶ分が悪い。そう言い切ってしまう科学者に論理で勝つのは、僕が思うに、論理的に不可能であろう。なので、討論会で哲学者が話をはぐらかしてしまった、その気持ちが自分にはよく分かる。

昔は、科学者は、目の前の現実だけ見て理屈で分かることばかり言うが、哲学者は難解で高尚なことを言う、というふうで、科学は青年、哲学は大人、みたいな感じがあったが、いまや、これはまったく通用せず、いまでは、科学は青年から立派な大人になり、堂々と世界の仕組みを科学で語り、勝ち誇っている。一方、哲学は大人から老人(?)になってしまい、哲学はもう、人間の心をケアする心療内科みたいな役割に変わりつつあるのではないか。

心療内科なんて変なことを言うが、自分が哲学の歴史の進行を見ていて思うに、ものすごく大雑把とはいえ、まずそれは存在論から始まり、近代に認識論に移り、現代で実践論へ移っているようで、この実践論のところになると、下手をすると言っていることが、臨床心理学とかその辺に近くなったり、心理学でなくとも、人間はいかに行動すべきか、とかになってきて、そうなると政治も経済も入ってきてしまう感がある。

昔の存在論や認識論のころの「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物の哲学者」はもう時代遅れ、という風に思えて来る。そのせいで、もう、哲学は「世界を成立させている本質とは何か」とか「人間はいかに世界を認識するか」とかの問題追及より、人に行動指針を与えて人の心をケアする学問に移っちゃうのかな、と思えたりもするのである。たとえば、ちょっと前に話題になったた哲学者のサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」 とかそう思えないだろうか。

ところで、「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物」は昔の科学者もそうであった。哲学が心のケアに走ったとすると、現代の科学はどうだろう?

現代社会は、すでに、科学にほぼ完全に支配されているので、科学者は、僕らの生活面での指針を与えてくれる頼れる知者、ということになっている、と僕には見えている。たとえば日本だと、みんな山中先生の言うことなら信用する、みたいな感じ。科学にはその方法論に「謙虚」が含まれているので、みな余計に信用するのかな、と思う。

でも、実際には、その「謙虚」は科学的方法論における謙虚であって、決して「倫理」では無いのだが、みな、容易にその謙虚を倫理と取り違えているように、これまた僕には見える。要は「謙虚な人はいい人で、自分より他人のことを思える人だから、その人の言うことなら私たち全員にとっていいに決まってるよね」ということである。でもこれは、科学という方法の謙虚、という意味だと、ぜんぜん間違っている。だって、もし、上述の通りだったら、科学者は原爆作ったり、人体実験したり、結果見たさに遺伝子操作したり、しないはずである。

科学的方法の謙虚を身につけた科学者たちが、科学の進歩のために、倫理を無視してそれらを進めるのではないか。で、案の定、結果は死屍累々になるのだが、それは人類の進歩のためには犠牲が必要、という大義名分で正当化される。現に、そういう多大な犠牲を払ったうえで、この超快適な現代文明社会になったのだから(もちろん、これは平均的に、である。世界の生活レベルの平均値が上がった、という意味である) 

そういう意味で科学は政治ときわめて親和性が高い。やり方が一緒である。犠牲を払って進歩。人を殺して戦争に勝って発展。

長くなったが、最初に戻ると、とにかく、勝ち誇った科学者は、完全に手に負えず、オレなら、たぶん、逃げる。科学 vs 哲学の討論会に出て来た哲学者、えらいなあ、って思った。

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