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戦争

ウクライナでの戦争についてはこれまでも意見表明してないし、これからもするつもりはないけれど、一点、自分の立場をはっきりさせておこうかなと思う。

僕はもう66歳で、もし戦争が自国で起きても前線に出ないのだけど、もし、自分が実際に戦争に出兵する若さだったとしたら、僕は逃げる。国のために戦って死ぬなんて、僕は絶対に嫌。卑怯と言われようが弱虫と言われようが屑と言われようが、人を殺し殺されるところに大義を持って出て死ぬのはイヤだ。

戦後反戦教育のせいと言われるかもしれないけど、それは思ったほど関係ないかも。僕は士族の嫡男だと父に言われ続けて育ったから、大義のために命を懸けることは美しく、そこから逃げることは人として最大限に卑怯な行いである、と叩き込まれた過去があるけど、それへの反発があるからかもしれない。

それにしても、戦争当事者も、特にヨーロッパの首脳たちも、呑気に笑いながら、よくやった、我々のために、祖国の未来のために戦おう、とかよく言うもんだよ。そう言ってる間にも、人間が殺し合って死んでるの、忘れてるでしょ。口先ではいくらでも言うだろうが、忘れているはず。

かつて、とある日本の若者が、もし自分が戦争に徴兵されて、前線に出て、自分が人を殺さなかったら、そして皆が殺すことを放棄したら、どうなるだろう、という空想的なことを言ったのをかつて僕は聞いたことがある。実はすごく感心した。それは、その通りだし、そうあるべきだから。

現在、戦争の立役者たちが、ああだこうだと劇を繰り広げていて、そしてそれを世界中で恐ろしい数の人間が取り巻いて、ああでもないこうでもない、と言いまくっているけど、知らぬ間に人は生々しい現場を忘れるものだ。戦争の悲惨さとか言ってる人ほど、悲惨を引き起こした不正義に敏感で、直接自分が殺し合いの場にいないのをいいことに、戦争を続けさせるものだ。

ま、とにかく言いたいことは、僕は逃げます、ということ。もし若者に相談されたら、逃げなさい、と即座にアドバイスする。現実には逃げるのは難しく、金持ちや権力者ばかりが逃げるのであって、一般人は逃げられず殺し合いをすることになるんだけどね。

だからこそ、可能なら逃げろ、って言うと思う。国のために死ぬなんて馬鹿げている。

考え方のゆくえ

自分のこれまでの考え方の変遷を見てみると、幾人かの自分のアイドルによってこれまで形成されて来たのは明らかなのが分かる。それは、ドストエフスキー、小林秀雄、ニーチェ、ベルグソン、ゴッホなど数えると十ぐらいになりそう。

そのやり方だが、まず、直観でそれら信頼できるもの、愛するものを手に入れたら、それに対して一切批判的にならず、完全にその人の言うことを正しいと信じて、ひたすら摂取する。

いちばんはなはだしかったのはドストエフスキーで、僕は、罪と罰をはじめとするあの糞長い複雑な長編小説群をそれぞれのべ十数回以上読んでいる。読んでいる際、これはなにか言っていることがおかしいのではないか、と疑問を持つことを一切せず、ひたすら読んだ。

そういう期間を経た後の、それらの自分への影響は、これは絶大なものになる。しかも批判的に読まないので、ロジックを通して身に付いたのではなく、対象が自分に乗り移るに近く、悪い言葉でいえば憑依とか洗脳に近い状態になる。

でも、結局のところ、そのやり方は最初にその十人だかの対象を選ぶところにかかっていて、それを間違えると取り返しがつかない。選ぶのには「直観」を使っているので、その直観が間違えば、僕は間違った人間になってしまい、いったい何をしでかすか分からない危険人物になる。

唐突だが、この前も話題になったアメリカ副大統領のヴァンスには、自分は同じ臭いを感じる。彼もそういうタイプじゃないか、って気がする。

それはともかく、その最初の僕の直観は、対象についていったい何を根拠に、何を見ているのだろう。しかし、僕のこのやり方は学生時代からずっと続いているので、すでに後戻りはできない。こういうやり方の悪いところは、前述通り間違った人間に仕上がると、ほとんどテロリスト級の厄介な人間になることだ。

では仮に直観が間違ったとして、では、その「間違った」とは何のことかといえば、それは誰にも分からない。だから余計に厄介なのだ。

それで、こういう厄介な人間が増えると社会は収拾がつかなくなるので、そうならない方法論が、ほぼ社会のコンセンサスとしてこれまで出来上がってきた。それが、科学に基づいた批判精神であろう。科学とは、何事についても、まず見て接したら、いったん疑って、「なぜ」と問いかけることである。僕のように直観で無批判にいきなりその対象に夢中になってしまう、ということを本能的に警戒する精神である。それによって、統計的に見ると、社会で人間がダークサイドに落ちる人数が減る。結果、社会は安定して機能しやすくなる。

自分は高校までは理科系だった。小6の卒業文集の寄せ書きに、将来なりたいものというのがあって、自分は堂々と「科学者になりたい」と書いたのだ。理科系の大学に入ったが、科学精神は一気に減退し、それから40年以上そのままで今に至る。学業や仕事の上では理科系のままだったが、それら仕事について自分はずっと上の空だった。結果、モノにならないまま終わった。

結局、自分の人生への処し方は、まったくに科学的でなく、対象を愛して相まみえる、というやり方しか取っていない。それで良かったかどうか、というと、今の自分の様子を見ていると、いいと言い難い。それで、結果、ここずっとオレの標語であった、孔子の言葉が出てくる(孔子が言った意味は違うけどね)

君子もとより窮す(笑