健康年齢ってのがあって、男性は72歳ぐらいだそうだ。オレはいま66歳なので、あとたった6年ってことになる。一方、会社の家畜になって働かされるというような目に遭う人を社畜って呼んでる。
ある社畜だった人が定年になって、それなりの備蓄があれば社畜を卒業して、こんどはのんびりと自分の好きなこと、社畜ゆえに余裕がなくてできなかった、本当に自分のやりたいことをやれる時間になる。
しかしそういう身分になってから、実際に残された時間は、たとえばオレならたった6年でまったくに長くはなく、思ったより短い。だから、老人は限られた時間を自分のために使うよう心掛けるべきだ、とかとかみたいなことが言われたりする。
しかし、これ、おかしくないか? オレから見ると、こういう考え方というのは、せっかく社畜から解放されて自由人になったかに見えて、こんどは健康年齢に至るまでの時間を自分のために使わないといけないという指令が脳のどこかから出ていて、その妄想に憑りつかれているだけではないか?
それって、会社に使役されて社畜をやっていたことと、あんまり変わらない。今度は生物学的本能に使役されて、残り少ない時間を追い立てられて生きる、ってことで、社畜と構造があまり変わらない。
ということで、社畜を卒業したら、こんどは人畜か、生活畜か、生畜か、なんかそういうものに見た目が変わるだけだよなあ、とさっき考えていたら、解決した。まさにそういう生き方を、六道における畜生道と呼ぶのであった。
畜生道とは、いつ襲われるか、取って食われるか、という状態に常にびくびくしながら生きる存在を言うのだが、健康年齢というバカげた数字にいつ襲われるか、やられるかにびくびくしながら生きることは、まさにこの畜生道そのものではないか。
ってなわけで、この現代はどうも、餓鬼道と畜生道に満ち溢れて見える。
しかし、オレ、仕事人生であんまり社畜じゃなくて、良かった。囚われの状態が長く続くと、そういう発想自体に知らずにトラップされるもんだ。そういう妄想から解脱しなさい、アーメンだ。