ジャムセッションへ行くのに、とある急行の止まらない私鉄の駅を降りた。開始までの1時間弱、ひとりで前飲みをしようと、駅を降りて店を物色する。
思えばこの駅の周辺を歩くのは初めてである。5時を過ぎてすでに暗く、しきりにざあざあと雨が降っている。それにしても、なんとか商店街という表示があるわりには、そこを歩いても何にもない。メジャーどころのチェーン店すらないのは、ひょっとすると自分は駅の裏側をうろついてしまったせいかもしれない。
少し歩くと、奥まったところに赤い提灯が5つ6つぶらさがった中華料理屋が見えた。よく小さな町なんかにある、あの奥まった路地のようなスペースは、あれは何なんだろう。上にはビルが建っていて人が住んでいそうで、しかし、地上階は空きスペースになっていて、だいたい地味なスナックや小料理屋や定食屋などが並んでいる。
中華屋のあるここは、たぶん、他の店は儲からずに閉めてしまったんだろう。いちばん奥まったところに、その店はあり、周りは閑散として暗い。通りから見ると、暗がりの向こうに輝いている赤と黄色の中華屋、といった風情である。小皿料理うんぬんと書いてあるので、つまみにビールで入ってもいいだろう、とその店に入る。
相応に広い店内で、僕が入ったときは、右側のスペースに15人ぐらいの団体がいて宴会をやっていた。その反対側の二人席に座って、ぼんやりと宴会の様子を見ていた。
おばちゃんに、とりあえず生ビールを注文した。持って来てくれたメニューから適当な小皿を2、3選んで、おばちゃんを呼ぶ。注文を取りに来たそのとき、僕は初めておばちゃんと顔を合わせたが、一瞬、引いてしまうほどいかつい怖い顔で、ほとんどマルコス大統領みたいな顔で、にこりともしないし、少しびびって注文する。中国人だろうか? そうかもしれない。しかし、久しぶりに見るアジアの醜さで、なんだか懐かしい気持ちにもなった。
店は、このおばちゃんと、厨房にいる赤いTシャツに赤帽をかぶったおじさんの二人でやっているようだ。たぶん夫婦だろう。けっこうな席数をこの二人だけでこなすのはなかなか大変だろうな、と思ったが、その後も観察していたけど、二人ともほとんど慌てることなく、淡々と仕事をこなしている感じだった。怖い顔をしたおばちゃんも、見ていると実に無駄のない動きで、客の注文にも素早く応えて、遅れることもなく、これはなかなか堂に入った長年の技なのだろうと感心する。
15人の団体は男女半々で、おそらくみな60歳以上でリタイヤした人も多いようで、要は自分と同じぐらいの年恰好に見えた。僕が席についたときは、右端のおじさんが大きな声で自分の武勇伝を語り、それにいちいち別の相棒っぽいおじさんと、おばちゃんたちが相づちを入れ、場を仕切っていた。インドネシアだかの東南アジアを旅行したときに、なぜか自分は現地人に間違われる、というよくあるプチ自慢で、このネタは鉄板なのか、あいの手の言葉もほとんど予定調和的で、聞いていて面白い。
「オレが屋台に座って食ってたらさあ、そこに現地人2、3人がきてインドネシア語でオレになんか聞いてくるんだよね」
「現地人だと思われたのね」
「この人ねえ、いつも海外へ行くとこうなんだよ。現地人に間違われるの」
「そうなんだよな、なんでだろうな」
「そういう雰囲気を醸し出してるからじゃない?」
「そんなつもりはないんだけど、だいたいどこへ行っても間違われるね」
「土地にすぐに馴染んじゃうのね」
とかいう会話で、横に長いテーブルを囲んだ団体は、右端にいるそのおじちゃんを中心に右側にいる人たちだけがしゃべっていて、左側の人たちはそれをおとなしく聞いている。しかし何の団体だろう。なにかのサークルか、あるいは年恰好が似ているので同窓会かもしれない。
僕はビールを飲みながら、注文した卵焼きと豚耳と高菜漬けをつまんで、ぼんやりと彼らの会話を聞いていた。
そんな間でも、マルコス顔のおばちゃんは働いている。見ていると、深い皺で顔の部品がひとつひとつ区切られた鬼瓦のような顔なのだが、相手に合わせてその顔の部品の位置を変えて笑顔も作って愛想よく応対していることが分かった。実際、怖いところはなく、意外と人好きのよいおばちゃんに思えてきた。不思議なもんだ。ちなみに料理しているおじちゃんは、それほど特徴の無い普通のおじちゃんだった。
僕は団体客の席の方を向いていたのだけど、その真正面に、おばさんに囲まれて一人のおじさんが座っていた。話題をさらっている右側の人々ではなく、おとなしい左側の中の一人である。緑がかったポロシャツに灰色のジャケットをはおって、髪の毛が真っ白なちょっとだけ太ったおじさんである。このおじさんは、この団体の中でいちばん目立たなく見えるゆえ、自分にはいちばん目立って見えたので、ずっと観察していた。
話に加わらないだけでなく、人の話を聞いているかどうかも分からず、ずっと、なんだか居心地の悪そうな戸惑ったような表情で前を向いてじっとしている。なんだか、左を向くのも、右を向くのも、肘をテーブルにつくのも、身動きするのも、そのすべての動きが白々しく感じられるゆえに、なんの動作も取らずただ座っている、という風に見える。周りに合わせて適切に雰囲気を作るのが苦手な、コミュニケーションを取れないタイプの人のようだ。
そのおじさんを遠目でずっと見ていたのだけど、こういうタイプの人って、僕はたまに見るのだけど、どうしてもどうしても引きつけられるように見入ってしまう。最初に浮かんだのは、感受性の鈍麻、という大仰な言葉だったが、すでに感覚が自分の中に閉じ籠って外に出ず、それゆえに身じろぎもせずに座っている感じが、あるていどは哀れに見えるけれど、すごく物珍しくも感じられ、ついついずっと観察してしまうのである。
実はこのタイプの人が、とある会社に一人いるのを僕は知っている。会社は中規模の技術会社だが、そこに、わりと閑職っぽい一人のおじさんがいる。なんと、彼は、いまからおよそ30年前、僕がまだ30代のころ、他のメンバーと共に僕の当時の会社に打ち合わせに来たことがある人なのである。当時は彼もおそらく20代なかばで、新入社員として経験のために同行させられたようだった。そのときの若い彼は、なかなか忘れられない雰囲気があって、それでよく覚えていた。
とても社会人とは思えないほど、子供っぽい顔をした若者だった。特に、打ち合わせのとき、みなが笑う場面で、彼も何にも分からず周りに合わせて笑うのだが、その笑い顔の無邪気なこと、まるで5歳児ぐらいの笑い顔で、それがあまりに子供子供しているので、ひときわ、きせずして目立ってしまう、という風だった。あまりに子供なんで、この人は無害であること即決定、そして、ほとんど子供仲間でいうところの半人前、すなわち「おみそ」扱いしてしまうような、そんな若者だった。
その彼は新入社員からそのままその会社で働き続け、おそらく60歳手前であろう。その会社に30年以上ぶりで久々に入ったとき、彼が歩いているのを目撃し、すぐに彼だと分かった。ただ、新入社員時代にひと目会っただけなので面識はないに等しく、挨拶を交わす間柄ではない。しかし、30年たってそのおみその彼がどういうおじさんになったのか。
おじさんになった彼だが、彼が若かった時に僕が見て驚いたあの無邪気で子供っぽい笑い顔がそのままそっくり失われることなく残っているのである。これは驚きだった。そして、もともとがぽっちゃりした体系だったが、中年になって助長し、体系がかなりだらしなく、衣服もどうもだらしなく、なんと言っても、お腹の出かたが尋常でない。よく欧米人などで腹だけぽこんとまん丸に突き出している人を見るが、あれそのものである。しかし、あの巨大な半球の中にはいったい何が詰まっているのであろうか。
髪の毛はそれほど禿げてはいないが、すでに完全にまっ白になっており、それなのに、顔の表情だけは20代のころと同じなのである。言ってみれば社会人としては完全に救われない人材の雰囲気を醸し出しており、子供がそのまま大人になった人であり、僕にはものすごく物珍しい人間なので、けっこう見るたびに観察していた。
その会社は昔ながらの会社で、定期的に敷地の駐車場で野外宴会みたいなイベントをやる。社員たちがお祭りの屋台みたいなのを出して、食って飲むのである。僕も何回か出たことがあるが、そこには必ずその彼がいて、つい自分は目で追ってしまうのだが、見ていると、すごく旺盛に食っている。あの大きな腹は伊達ではなく、やはり食い意地がすごく張っているようだ。いまでも彼が焼き鳥の串にかぶりついて肉を引きちぎっている光景が目に浮かぶ。
そのあとあまりに不思議だったんで、その会社の古株の知り合いに彼について聞いてみた。そうしたら、ああ、ナニくんね。彼はね、社内でいちばんの閑職について、それでも毎日元気でやってますよ、とのことだった。そういえば僕が見たときも、台車に機材を載せて、人々の間を回っていたっけ。
さて、だいぶ会社の彼の話をしてしまったが、元に戻ると、中華屋の宴会で僕の目の前に座っていたおじさんが、ちょうどその彼と同じ雰囲気を醸し出しているのである。さっき書いたように感覚が鈍ってしまって、周囲への反応が適切にできず、妙に孤立して見えるけど、本人ぜんぜん気にしていないあの感じ。
以上は僕が直接その二人に接して言っているわけじゃないので、ひょっとするとほとんど言いがかりに近いかもしれないが、そういう人を見ると、僕は、言いようもなく驚き、目が釘付けになってしまう傾向がある。しかしなぜだろう。
ときどき窓ガラスなんかに、なんだか知らない虫がとまっていて、触手をわけもなくくるくる動かしていたり、歩いたり、止まったり、方向を変えたりしているのを見ると、いったいこの虫はなんのために生きているんだろう、とついつい見入ってしまうことが、僕には多いのだけど、彼らのような人々を見ると、それと同じことを感じる。なんのために生きているんだろう、と。
これは、傲慢や、見下しや、侮蔑から言っている言葉では決してなく、僕にはそういう存在に強力に惹かれてしまう性癖があり、そこから出てくるのである。思いつくままに書けば、何のために生きているか分からない存在こそが、業から自由な生命の本来の在り方なんじゃないか、と思ったりする。彼らから目が離せない自分が、そのとき何を感じているかは定かには言えないが、やはり、不思議でおもしろい、というのがいちばん大きな感覚かもしれない。
ちなみに、以上のような雰囲気を持った人間は、ほとんど例外なく男である。女性にはいない。中華屋の15人の団体でも半数の7,8人のおばさんたちは、男連より、なんだかとても元気そうで、個性的で、人間的である。そういうものなのであろうか。
そろそろ時間だ。店も客でいっぱいになった。たった二人でやっていてその一人が調理という状態なら、本来なら目が回るほど忙しいはずなのだが、僕が席を立ったら、すぐに慌てることもなく、マルコス顔のおばさんがお会計にやって来た。お金を払うと、例の鬼瓦の顔を崩して笑顔を作って、ありがとうございました、と愛想よく僕を送り出してくれた。
外は暗く、まだ、どしゃ降りの雨だった。