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神社とトリップ

世田谷区はもともと畑だったので、農地がいまでも多く残り、地物野菜が栽培されて、それがローカル地域のここそこで、直売で売られている。そういう野菜はおいしくて安いので、今日のような日曜に、電動自転車でのんびり買いに行く。

さっき、岡本から喜多見あたりまで走っていたら、氷川神社という巨大な神社を見つけ、自転車を降りて入った。

考えてみると、日本という国は、もう、いたる所に神社と寺がある。無宗教な国だけれど、この様子は外せず、そのおかげで、ごく自然と日本人には日本的宗教心が染み渡っている、と言っていい。だって、界隈を歩けばすぐに神社と寺にぶつかるんだから。それらが古代のオーラをその地域一帯に放出していて、そこに住む人はそういう宗教的な人に、なるんだよ。

で、氷川神社だが、都会の住宅地のどまんなかの広大なエリアが、背の高いうっそうとした木々に覆われていて、ここはどこなんですか? みたいな様相になっている。

人はほとんどいないけど、散歩している人たちがごくふつうに神社に立ち寄り、賽銭やってお参りしている。

僕も賽銭をやったが、手を合わせて目をつぶって「イヤー参ったなあ」と心の中でつぶやいて5秒ぐらいですぐに掃けた。人のを見ると、2回だか3回だか手を叩いて、そのあと2回だか3回だか礼をするんだね。みんなよく心得てるわ。あ、そうだ。その前に、あの水が出てるところでみんな手をすすいでたっけ。オレ、それもしてない。

昔、僕が小さかったころ、よく父に連れられ界隈を散歩したもんだが、父は神社があると必ずお参りして、小さい僕にやり方を教え込んだもんだが、僕はなぜか恥ずかしくてたまらず、ロクに覚えもしないし、ちゃんとやらなかった。それというのも、そんな小さいときから、みなで同じ動きをする、というのが恥ずかしくてたまらず、そのせいである。

というわけで、65歳になっても礼拝の仕方ひとつも知らない不信人な人間になったが、いやいや、心の中は、僕はその日本人的宗教意識でいっぱいになっているのである。行動に出ないだけで。

うっそうとして昼でも暗い人のいない氷川神社を出ると、今日は晴れたおだやかな日だったので、晩秋の柔らかい光を受けた木々や草や花々にそこらじゅうで出会う。

どうやら氷川神社のオーラに自分は占領されてしまったようで、周りのその光景がいちいち異様な宗教感に満たされて見えて、どうにもならなくなった。

小さいころに刷り込まれた日本の原風景と、昨年まで住んだスウェーデンのゴットランドの自然と、建造物や、古びた工業施設や、小学生のとき電信柱の脇に大量に落ちていたカラー抵抗とカラー線材を見つけた驚きとか、西洋美術館でゴッホの絵を見て愕然として呆然自失した記憶とか、そういうものが一気に噴出して、頭が完全にトリップしてしまい、わけが分からなくなった。

オレ、たまにこういうことが起こる。これを人に言うと、それ、脳の病気の前触れかもしれないから医者で検査してもらった方がいい、とよく言われたっけ。

いまのところ脳に異常はないのだけど、なんか、やはりあっちの世界と通じている狭い通路がどこかにあるらしく、それがなにかのきっかけで開くみたいなのだ。でも、時計上ではほんの短い時間なので、気が狂わなくて済んでいる。でも、元来がこんな感じなので、人間社会の現実的対処がうまくできなくて、当然といえば、当然。そのせいで、トラブルが絶えないが、守護霊の爺さんが守ってくれているせいか、それほどひどいことにはなってない。

自転車で帰路につき、さっきの氷川神社から離れるにしたがって、怪しい気分は激減し、ちょっと走ったら完全に正気に戻った。ヤク中が癒えるのとおんなじだ。

それにしても、あのトリップな時間は、おそろしいほどの幸福感に満ちているので、あの世界にずっと浸っていたい、と思うことしきりだが、それはだめ、ってどこかでストップがかかるようで、長続きしない。でも、そのときに得たものは、回り回って自分の生きるアイデアの元になるのだろうな。そうじゃなけりゃ、おかしいし、そうじゃない生き方なんて、奴隷の生き方じゃないか、って極論もしたくなる。

でも、なあ、奴隷、というと極めて悪い言葉だけれど、古代の古い規範になり切って平凡に生きることが、本当はいちばんまっとうな生き方だ、と、どうしても自分には感じられるので、そういう人々を奴隷呼ばわりは決してしない。自分にとって奴隷、と言って罵る対象は、大半の場合がいわゆる進歩に満足した現代人だ。

というわけで家に着いて、でも、まだわずかに怪しい感覚が残っている。昼飯でも食えば、じきに消えるでしょう。

素性

島崎藤村の「破戒」という本を読み始めた。本の名前はよく聞くので知っていたけど、意味が分からずなんじゃこれ、って思ってたけど、少し読んで分かった。

主人公の青年が穢多で、小さいころ父からそれを告げられ、おまえがこの社会で生きていく道はただ一つ、どんなことがあっても穢多であることを隠せ、という戒めを受ける。で、どうやら小説では最後の方でその戒めを破ってカミングアウトしてしまう。それで破戒、だったんだね。なるほどな(ちなみに穢多は差別語で、いまは被差別部落という言葉を使うらしい)

しかし、父は、おまえの家系の元は武家の落ち武者で、正統なのだ、と言うのであるが、そういうこともあるんだな。

そこを読んで、ひょっとすると、このオレもそれかもしれない、なんて思っちゃった。自分はいろんな経験を総合すると、どうやら自分の祖先に、戦に敗れて没落した落ち武者がいて、それが自分に投影されているんだ、って思っていた。そう考えるに足る経験は多数あれども、理性的根拠はゼロなので、およそ寝言に近い自分だけの感触なんだけどね。

でも、オレ、そうじゃなくちゃ、なんで幼少時代からこれほどはっきり執拗に、位の上の人間たちを避けに避けて、底辺庶民ばかりに懐いていたのかが分からない。青年になって酒が飲めるようになったら場末に入り浸るしね。実はかねがね不思議に思ってた。

しかも、場末で酒を飲んで、その反知性的な群れの中にいると、ときどき無上の多幸感に包まれることがあり(ふつう長くて5分)、それはいったいなぜなのか。そして、それ以外のシチュエーションで多幸感を感じることはほぼ無いのはなぜなのか、ってずっと不思議だったの。

こういうのは、もう、先祖のなにかの名残りと結論せざるを得ないのよね。これを言い出すと、上記以外に自分にはたくさん、そういう、おかしな性癖と、おかしな人生選択があるわけで、ますますそう思う。

落ち武者の非人か。それなのかもな。

いま現代でこんな時代錯誤なことを書いてると、気を悪くする人が多数かもしれないね。穢多非人は、日本では一種のタブーになっていて、昭和が終わるころから社会から隠された状態になっている。特に東京は、そうでしょう? 

そんな暗い過去は忘れて捨てて、新しい、差別のない人権社会をポジティブに構築して行きましょう、というのが現代都会のありかただからね。

歴史のほうぼうに開いた暗くて深い穴、その穴は個人的事情でぎっしり詰まっている、と小林秀雄がどこかで書いていたが、ま、それだな。オレのこの話も。

とある中華屋で

ジャムセッションへ行くのに、とある急行の止まらない私鉄の駅を降りた。開始までの1時間弱、ひとりで前飲みをしようと、駅を降りて店を物色する。

思えばこの駅の周辺を歩くのは初めてである。5時を過ぎてすでに暗く、しきりにざあざあと雨が降っている。それにしても、なんとか商店街という表示があるわりには、そこを歩いても何にもない。メジャーどころのチェーン店すらないのは、ひょっとすると自分は駅の裏側をうろついてしまったせいかもしれない。

少し歩くと、奥まったところに赤い提灯が5つ6つぶらさがった中華料理屋が見えた。よく小さな町なんかにある、あの奥まった路地のようなスペースは、あれは何なんだろう。上にはビルが建っていて人が住んでいそうで、しかし、地上階は空きスペースになっていて、だいたい地味なスナックや小料理屋や定食屋などが並んでいる。

中華屋のあるここは、たぶん、他の店は儲からずに閉めてしまったんだろう。いちばん奥まったところに、その店はあり、周りは閑散として暗い。通りから見ると、暗がりの向こうに輝いている赤と黄色の中華屋、といった風情である。小皿料理うんぬんと書いてあるので、つまみにビールで入ってもいいだろう、とその店に入る。

相応に広い店内で、僕が入ったときは、右側のスペースに15人ぐらいの団体がいて宴会をやっていた。その反対側の二人席に座って、ぼんやりと宴会の様子を見ていた。

おばちゃんに、とりあえず生ビールを注文した。持って来てくれたメニューから適当な小皿を2、3選んで、おばちゃんを呼ぶ。注文を取りに来たそのとき、僕は初めておばちゃんと顔を合わせたが、一瞬、引いてしまうほどいかつい怖い顔で、ほとんどマルコス大統領みたいな顔で、にこりともしないし、少しびびって注文する。中国人だろうか? そうかもしれない。しかし、久しぶりに見るアジアの醜さで、なんだか懐かしい気持ちにもなった。

店は、このおばちゃんと、厨房にいる赤いTシャツに赤帽をかぶったおじさんの二人でやっているようだ。たぶん夫婦だろう。けっこうな席数をこの二人だけでこなすのはなかなか大変だろうな、と思ったが、その後も観察していたけど、二人ともほとんど慌てることなく、淡々と仕事をこなしている感じだった。怖い顔をしたおばちゃんも、見ていると実に無駄のない動きで、客の注文にも素早く応えて、遅れることもなく、これはなかなか堂に入った長年の技なのだろうと感心する。

15人の団体は男女半々で、おそらくみな60歳以上でリタイヤした人も多いようで、要は自分と同じぐらいの年恰好に見えた。僕が席についたときは、右端のおじさんが大きな声で自分の武勇伝を語り、それにいちいち別の相棒っぽいおじさんと、おばちゃんたちが相づちを入れ、場を仕切っていた。インドネシアだかの東南アジアを旅行したときに、なぜか自分は現地人に間違われる、というよくあるプチ自慢で、このネタは鉄板なのか、あいの手の言葉もほとんど予定調和的で、聞いていて面白い。

「オレが屋台に座って食ってたらさあ、そこに現地人2、3人がきてインドネシア語でオレになんか聞いてくるんだよね」

「現地人だと思われたのね」

「この人ねえ、いつも海外へ行くとこうなんだよ。現地人に間違われるの」

「そうなんだよな、なんでだろうな」

「そういう雰囲気を醸し出してるからじゃない?」

「そんなつもりはないんだけど、だいたいどこへ行っても間違われるね」

「土地にすぐに馴染んじゃうのね」

とかいう会話で、横に長いテーブルを囲んだ団体は、右端にいるそのおじちゃんを中心に右側にいる人たちだけがしゃべっていて、左側の人たちはそれをおとなしく聞いている。しかし何の団体だろう。なにかのサークルか、あるいは年恰好が似ているので同窓会かもしれない。

僕はビールを飲みながら、注文した卵焼きと豚耳と高菜漬けをつまんで、ぼんやりと彼らの会話を聞いていた。

そんな間でも、マルコス顔のおばちゃんは働いている。見ていると、深い皺で顔の部品がひとつひとつ区切られた鬼瓦のような顔なのだが、相手に合わせてその顔の部品の位置を変えて笑顔も作って愛想よく応対していることが分かった。実際、怖いところはなく、意外と人好きのよいおばちゃんに思えてきた。不思議なもんだ。ちなみに料理しているおじちゃんは、それほど特徴の無い普通のおじちゃんだった。

僕は団体客の席の方を向いていたのだけど、その真正面に、おばさんに囲まれて一人のおじさんが座っていた。話題をさらっている右側の人々ではなく、おとなしい左側の中の一人である。緑がかったポロシャツに灰色のジャケットをはおって、髪の毛が真っ白なちょっとだけ太ったおじさんである。このおじさんは、この団体の中でいちばん目立たなく見えるゆえ、自分にはいちばん目立って見えたので、ずっと観察していた。

話に加わらないだけでなく、人の話を聞いているかどうかも分からず、ずっと、なんだか居心地の悪そうな戸惑ったような表情で前を向いてじっとしている。なんだか、左を向くのも、右を向くのも、肘をテーブルにつくのも、身動きするのも、そのすべての動きが白々しく感じられるゆえに、なんの動作も取らずただ座っている、という風に見える。周りに合わせて適切に雰囲気を作るのが苦手な、コミュニケーションを取れないタイプの人のようだ。

そのおじさんを遠目でずっと見ていたのだけど、こういうタイプの人って、僕はたまに見るのだけど、どうしてもどうしても引きつけられるように見入ってしまう。最初に浮かんだのは、感受性の鈍麻、という大仰な言葉だったが、すでに感覚が自分の中に閉じ籠って外に出ず、それゆえに身じろぎもせずに座っている感じが、あるていどは哀れに見えるけれど、すごく物珍しくも感じられ、ついついずっと観察してしまうのである。

実はこのタイプの人が、とある会社に一人いるのを僕は知っている。会社は中規模の技術会社だが、そこに、わりと閑職っぽい一人のおじさんがいる。なんと、彼は、いまからおよそ30年前、僕がまだ30代のころ、他のメンバーと共に僕の当時の会社に打ち合わせに来たことがある人なのである。当時は彼もおそらく20代なかばで、新入社員として経験のために同行させられたようだった。そのときの若い彼は、なかなか忘れられない雰囲気があって、それでよく覚えていた。

とても社会人とは思えないほど、子供っぽい顔をした若者だった。特に、打ち合わせのとき、みなが笑う場面で、彼も何にも分からず周りに合わせて笑うのだが、その笑い顔の無邪気なこと、まるで5歳児ぐらいの笑い顔で、それがあまりに子供子供しているので、ひときわ、きせずして目立ってしまう、という風だった。あまりに子供なんで、この人は無害であること即決定、そして、ほとんど子供仲間でいうところの半人前、すなわち「おみそ」扱いしてしまうような、そんな若者だった。

その彼は新入社員からそのままその会社で働き続け、おそらく60歳手前であろう。その会社に30年以上ぶりで久々に入ったとき、彼が歩いているのを目撃し、すぐに彼だと分かった。ただ、新入社員時代にひと目会っただけなので面識はないに等しく、挨拶を交わす間柄ではない。しかし、30年たってそのおみその彼がどういうおじさんになったのか。

おじさんになった彼だが、彼が若かった時に僕が見て驚いたあの無邪気で子供っぽい笑い顔がそのままそっくり失われることなく残っているのである。これは驚きだった。そして、もともとがぽっちゃりした体系だったが、中年になって助長し、体系がかなりだらしなく、衣服もどうもだらしなく、なんと言っても、お腹の出かたが尋常でない。よく欧米人などで腹だけぽこんとまん丸に突き出している人を見るが、あれそのものである。しかし、あの巨大な半球の中にはいったい何が詰まっているのであろうか。

髪の毛はそれほど禿げてはいないが、すでに完全にまっ白になっており、それなのに、顔の表情だけは20代のころと同じなのである。言ってみれば社会人としては完全に救われない人材の雰囲気を醸し出しており、子供がそのまま大人になった人であり、僕にはものすごく物珍しい人間なので、けっこう見るたびに観察していた。

その会社は昔ながらの会社で、定期的に敷地の駐車場で野外宴会みたいなイベントをやる。社員たちがお祭りの屋台みたいなのを出して、食って飲むのである。僕も何回か出たことがあるが、そこには必ずその彼がいて、つい自分は目で追ってしまうのだが、見ていると、すごく旺盛に食っている。あの大きな腹は伊達ではなく、やはり食い意地がすごく張っているようだ。いまでも彼が焼き鳥の串にかぶりついて肉を引きちぎっている光景が目に浮かぶ。

そのあとあまりに不思議だったんで、その会社の古株の知り合いに彼について聞いてみた。そうしたら、ああ、ナニくんね。彼はね、社内でいちばんの閑職について、それでも毎日元気でやってますよ、とのことだった。そういえば僕が見たときも、台車に機材を載せて、人々の間を回っていたっけ。

さて、だいぶ会社の彼の話をしてしまったが、元に戻ると、中華屋の宴会で僕の目の前に座っていたおじさんが、ちょうどその彼と同じ雰囲気を醸し出しているのである。さっき書いたように感覚が鈍ってしまって、周囲への反応が適切にできず、妙に孤立して見えるけど、本人ぜんぜん気にしていないあの感じ。

以上は僕が直接その二人に接して言っているわけじゃないので、ひょっとするとほとんど言いがかりに近いかもしれないが、そういう人を見ると、僕は、言いようもなく驚き、目が釘付けになってしまう傾向がある。しかしなぜだろう。

ときどき窓ガラスなんかに、なんだか知らない虫がとまっていて、触手をわけもなくくるくる動かしていたり、歩いたり、止まったり、方向を変えたりしているのを見ると、いったいこの虫はなんのために生きているんだろう、とついつい見入ってしまうことが、僕には多いのだけど、彼らのような人々を見ると、それと同じことを感じる。なんのために生きているんだろう、と。

これは、傲慢や、見下しや、侮蔑から言っている言葉では決してなく、僕にはそういう存在に強力に惹かれてしまう性癖があり、そこから出てくるのである。思いつくままに書けば、何のために生きているか分からない存在こそが、業から自由な生命の本来の在り方なんじゃないか、と思ったりする。彼らから目が離せない自分が、そのとき何を感じているかは定かには言えないが、やはり、不思議でおもしろい、というのがいちばん大きな感覚かもしれない。

ちなみに、以上のような雰囲気を持った人間は、ほとんど例外なく男である。女性にはいない。中華屋の15人の団体でも半数の7,8人のおばさんたちは、男連より、なんだかとても元気そうで、個性的で、人間的である。そういうものなのであろうか。

そろそろ時間だ。店も客でいっぱいになった。たった二人でやっていてその一人が調理という状態なら、本来なら目が回るほど忙しいはずなのだが、僕が席を立ったら、すぐに慌てることもなく、マルコス顔のおばさんがお会計にやって来た。お金を払うと、例の鬼瓦の顔を崩して笑顔を作って、ありがとうございました、と愛想よく僕を送り出してくれた。

外は暗く、まだ、どしゃ降りの雨だった。

経典

上座部仏教(小乗仏教)については文末にあげたスリランカのお坊さんのYouTubeからたくさん学んだ。

かつて、「ブッダのことば」という、釈迦が実際に当時に言った言葉とおぼわきものを集めた本を読んだことがあった。でも、やはり、繰り返しの多い、意味がすぐに取れない、それこそお経のような日本語で、だいぶうわの空で読んでしまい、読書感想文をかつて書いたけど、いま思うと、仏教の外面的な「殻」の部分を理解しただけのことで、なんにもならなかったな。

それで、このお坊さんの経典の解説を聞いてみると、どうやら、日本の学者さんたちの翻訳がかなり悪い、あるいは間違ったところがたくさんあるらしい、ということが分かる。この人も日本の学者さんたちにはもちろん敬意を表しているけど、原典の言語のネイティブで、日本語の堪能なこの人ゆえに、かなりはっきりと間違いは間違いとして指摘している。これはすごく助かる。

それで、その学者の訳した文を読むと、ほとんどわざとじゃないか、と思えるほど分かりにくい言い回しの日本語にしている。もっと簡単にすんなりと理解できる日本語はいくらでも書けるだろうに、なんで、こう、学者らしい難し気な文体で書くのか、理解に苦しむ。

このお坊さんは逆に日本語が堪能とはいえ不十分なせいで、そういう難しい言い回しに出くわすと、「これじゃなに言ってるか分かりませんね」って言って、易しい日本語に言い換えて説明してくれる。

ということで、翻訳を学者に任すだけでなく、わけの分かった日本人が間に入って、平易な現代語で経典を翻訳し直してくれたら、さぞかし理解の助けになり、仏教への誤解も解けるだろうに、と思うともったいなくて仕方ない。

少し前に超訳というのが流行ったけど、あれは逆にやり過ぎのものが多く、あんまり感心しなかった。ニーチェの超訳とか読んだけど、言葉を平易にするのを超えて、言われている意味まで単純なものに限定させてしまい、意訳しているのが多い印象だった。

オレも、なんかターゲットを見つけてひとつふたつ、そういうことをしてみようかな、って思う。かつて「東海道四谷怪談・現代語訳」でそれをやってみたんだが、あまり読んでもくれなかった(僕がアマチュアだから当然だけど)。でも、まあ、そんなことを気にしてたら文化活動(?)はできないよな。

地道に、コレ、というものを選んで、ただ、やるんですね。ちょっと考えてみる。