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最後の研究

日曜はぼんやり過ごしている。本棚の本を適当にとってながめたりしているが、そういえば、数年前、まだぎりぎり研究者だったころに、自分としては最後の学会発表をしたことがあって、そのときのテーマを思い出した。それは

「歩いている蠅はいつ止まるか」

というものだった。この研究は、今流行りのAIを使って展開した研究で、自分的には気に入っていたが、発表しても、まったく、なんの反響もなかった。別に失望はしなかったけど、それを続けるのがなんだか面倒になり、途中で放り出し、そのままになっている。

そりゃあ、現代のAIが、僕ら現代人が日々社会でこなさないといけない仕事を、恐ろしく高い効率で肩代わりしてくれてしまい、社会がそれにより大きく変革するかもしれない、というこの時代に、蠅がいつ止まるか、などという、決定的に何の役にも立たない研究を出したところで、見向きもされないに決まっている。

しかし、さっきも思い出したが、蠅が壁を歩いていて、さて、1センチで止まるのか、5センチで止まるのか、10センチで止まるのか、それとも天井にぶつかるまで歩くのかは、誰にも分からない。そして、当の蠅にもおそらく分かっていない。

僕にはそれが不思議でならない。それに、いつ止まるかによって、ときにはそれが生死にかかわることもある。蠅なんかだと、変なところへ歩いて行っちゃうと、ハエ叩きでやられるかもしれないし、殺虫剤をかけられるかもしれない。

僕ら人間だって、ぼんやり歩いているときは蠅みたいなもんで、いつ止まるか予想できない。

疲れたら止まるだろうか。あるいはいつもの習慣で10メートル歩いたら止まろうかな、と判断するだろうか。でも、やっぱり10メートルで止まるのか、10メートル50センチで止まるのか、と問われれば、あいまいでファジーとしか言いようが無い。そうなると、どこで止まるかを決定するシステムでは、確率論的、統計論的、そして乱数的なものが必ず入り込む。

僕の方法は、歩いている蠅を、確率や乱数を使わずにシミュレートするものだった。そこにAI的手法を使ったのだけど、それはAIというより、脳髄のメカニズムを真似たただのニューラルネットで、しかも、学習済みのニューラルネットを故意に破壊することで蠅をコントロールする、というアイデアであった。

この異様なアイデアを発展させ、最終的には、一種のホーリスティックな世界観をこれによって提示しようとしたのだけど、そんなのどうでもいいことではある。現実にどう対処するか、というのが現代のいちばんの関心事だからね。

しかし、自分の研究者最後のテーマが歩いてる蠅はいつ止まるか、だったなんて、なかなか趣があるな(笑

リベラル

文科系の大学の先生が言ってたけど、いまの若い人たちは基本がリベラルだって。特に性差別についてはセンシティブだそうだ。

日本には保守、左翼、リベラルなどの言葉が錯綜していて、それぞれかなりあいまいな意味を持っているので、あれこれ論争が絶えない。若者がリベラルだ、といっても、本来の意味ではなく、わりと何もかも「平等」を基本で考える、という一面だけを指しているのかもしれない。

いちおうリベラル本場のスウェーデンで12年暮らした自分としては、リベラルが何を指すか自分なりに考えがある。

それは、「宗教(神)を完全に排除して、その代わりに論理科学を教条とする、人の在り方」だと思っている。

それを公理にすると、論理必然的に、まず真っ先にあらゆる事柄の平等が導き出され、それを元に、性差別のみならず、環境問題やらなにやらいくらでも派生した体系ができあがる。平等以外でも、たとえば科学的結論の重視と、科学に必須な倫理の議論も付いてくる、などなど、とにかく、一大形態を形作る。それがリベラル総本山ってもんだ。

日本の若者のリベラルはうわべだけで浅いし、結局、大人達が言うリベラルも大半が狭い。

リベラルが、万物の平等を言う、リーズナブルで元気で快活で寛大な人々ばかりなのに、なぜ僕がそれらの人々の底の底は傲慢だ、と傍若無人に言うかというと、それは先に書いた「公理」に集約されている。彼らは神を科学に見かえただけの人々で、宗教一色だった昔の、その侵略的性格を、ほとんど無傷のまま維持している人々に見えるからだ。