親鸞の歎異抄は何度か読んでるんだけど、再読。さいきんは現代語訳とかすぐ読める。短いので30分もあればぜんぶ読める。
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よく知られたように、これは親鸞の死後、弟子の唯円によって書かれたもので、前半の十章までが生前の親鸞の言葉、後半は唯円の言葉で、親鸞の死後、間違った教えが広まってしまったことを嘆き、そして正す内容になっている。歎異抄というネーミングは、異を嘆く、という意味で、間違った異説を嘆く、ということなわけだ。
その後、この文が過激で誤解されやすい、ということで門外不出だったそうだ。実際、この書の最後に
「仏縁の浅い人には見せないようにしてください」
と書かれている。
さらに、この唯円の歎異抄という書をのちに見つけ、重要な書だと驚いた蓮如という人がいて、彼はこの書を管理下に置いて門外不出としたのだが、彼がこの書の最後の最後に
「親鸞の教えを余り聞いたことのない人には、誰にでも拝読させていいというものではありません」
と書いて、この一文で、この書は終わっているようだ。
なんか、カッコいいねえ。
この歎異抄で、たぶん、いちばん有名な文句は、善人だって往生できるんだから、悪人が往生しないはずがない、だろうね。悪人正機と呼ばれるやつだ。ならオレ悪人になって救われよう、って人がずいぶんたくさん出たそうだ。いまだに浄土真宗の人たちは躍起になってその誤解を正して回っている。
しかし、なぜそういうバカげた混乱が起こるか、といえば、その中心にやはり親鸞という人間がいるからだ。
親鸞という人はやはり、飛んでもない人だったと思う。オレ、歎異抄で親鸞の言葉を読んで、彼の人生を眺めて、あれこれの逸話を聞いて切実にそう思う。いいか悪いかじゃなくて、とんでもなく非凡な人だった、としか言いようがない。端的に、真似はできない人、だろうね。やっぱそういう意味ではちょっとロックスターかもしれない。
親鸞については、僕は、次の逸話が好き。
親鸞は関東に二十年ほどいて布教したそうだが、あるとき親鸞は弟子たちを置いてひとり京都へ帰っちゃう。弟子たちが残ってがんばって精進するんだが、やがて弟子の中で意見が合わなくなり、争いになり、どうにもならなくなった。そこで、開祖の親鸞さまにどっちが正しいか訊きに行こう、ってことになり、みなで京都まで歩いてゆく。しかし何日かかったんだろうね。ついに京都の親鸞に会ってそのむねを伝えたら、親鸞は
「そんなのオレはしらん。自分たちで勝手になされい」
って追い返した、って話。まー、歴史小説家的に盛ってはいるが、おおむねそんな感じ。
この逸話での親鸞の言った言葉そのものは、歎異抄の中に書いてあるので、それが読める。それによれば、オレが言ったことは本願を信じよ、というたったひとつのことだけで他には何にもない。もし何かある、と思うならワシに訊くんじゃなくてどこかよその学者に訊いてこい。ワシが言えるのはたったひとつだけなのだから、その後、あんたらのひとりは念仏で救われる、ひとりは念仏だけでは救われない、などと詮索したいのなら、そんなのはあんたらの勝手になさい、と言ったそうだ。
おもしろいよなあ。
親鸞の説は論理的に完全に円環をなしていて、完璧で、潔癖で、純粋で、美しい。で、それだけのことなので、それを詮索すんなよ、ってことだ。
一方、論理的構築物だけでは衆生との接続も切れてしまうので、それは親鸞のような人間には許されない。そこで、人間としての自分自身は、凡夫中の凡夫で、誰よりも深い煩悩に苦しむ一個の禿だ、っていう風にならないといけないし、事実、そうだった。それで、ようやく、宗教として成立する。
でも、まあ、人間は言葉をしゃべって理屈をこねまわす分だけ愚かなんで、親鸞その人がいなくなると、この円環構築物は瓦解するんだろうな。
そういう、「本人がいなくなるとすぐに堕落するモノ」が自分は大好きで、そんなものばっかに夢中になる。それ以外のものはぜんぶどうでもいい。
というわけで親鸞は自分にはきわめてわかりやすい。