大森駅から山王小学校へ上る坂の途中に千成飯店っていう町中華がある。むかし大森に住んでたころ、よく行った。もう五十年はやってるんじゃなかろうか。
あそこは町中華らしくオープンキッチンでカウンターから中が見える。だいたい料理人が二人体制でシフトを組んでいた。で、オレ、その中の一人のおっちゃんのファンだった。
小柄で、痩せてるけど筋肉だけあって、いってみればフライ級ボクサーみたいな体形してた。鉄の中華鍋を常に振り回すにはそれぐらいの筋肉が必要なのだろう。で、顔が小さくて、ツルっとしてて、二つの目は小さくて、まるでつるりとした顔面に人差し指で二つ穴を開けたみたいな感じだった。で、さらに、右目が白くなっていて、おそらく見えてないと思う。ものを見るときにいつも見える方の左目を向けるので、そのせいで何かを見るときは首が斜めに傾くのである。真っ白に濁った右目は隠しもせず、かなり変な顔。さらに、口だけど、唇がほとんど無い。そういう人ってたまにいるんだけど、上と下の唇を口の内側に折り込んだみたいになっていて、なんか入れ歯の外れた老人みたいな口をしているのである。
で、そのおっちゃんの動きがまた独特で、なんかこう、常に振動しているような動きをする。中華鍋を振っている時も、上半身だけ動くのではなく、明らかに腰を振って下半身も使って鍋振りをしてる。僕、中華鍋をせかせかとせわしく振る動きは好きじゃないのだが、このおっちゃんのは、なんだかダンスを見てるみたいで、けっこう客席から見とれてた。
それで料理ができると鍋を持ってくるっと皿の方に向いて、料理を盛るが、そのときの動きもなんだか、全身をプルプルプルッと揺らしながら盛っていて、独特なの。
ほとんどしゃべらず、ときどき、唇のない口をもぐもぐして、またプルプル震えて、それで次の料理に取り掛かる。
オレはカウンターに座って、ずーっとそのおっちゃんにくぎ付けだったっけ。
へんな話だけど、本当に根っからの肉体労働者で、そういう意味で天職であろう。僕みたいに頭脳労働しかしたことの無い人間には、まったく縁の無い、人間性の姿である。
世の中では、これまで、頭脳労働の方がおしなべて待遇は良く、裕福な人はほぼ例外なく頭脳で稼いでいた。僕も、結局、頭脳と口先で生計を立てていたわけで、そんな扁平な一能力しかない自分に比べて、このおっちゃんの、この全身から発散している唯一無二な魅力はどうだろう。
頭脳や口先なんてものは、いくらでも替えがきくが、このおよそ底辺なルックスをした片目の不自由なおっちゃんの替えは、金輪際、世界のどこにもない。
どっちの方が凄いか、言うまでもないのである。
最近、大森のお袋の家にときどき行くので、千成飯店をのぞいたり、一度は入ってはみたが、あのおっちゃんはいなかった。そうだよな。単純計算すると八十過ぎだ。いるわけがないよな。
で、こういう価値が貴重になる時代が必ず来る、とオレは思ってるよ。ただ、例によって五十年後にね。