私たちが分からないものから、私たちを守っているのは、私たちの目に見えないものである。私たちの目に見えないそれとは文化。私たちの内なる精神、あるいは内部から自ずと現れ出る文化である。そして、私たちが分からないものはカオスなのだが、そのカオスがまさに私たちにその文化をもたらしたのだ。この文化の枠組みが混乱すると、意図しないうちに、カオスが戻って来る。そのカオスが再び戻らないように、私たち自身を守るために、私たちはどんなことでも、本当にどんなことでもするものだ。

「...全人類的な問題がある人の全人格に取り憑いてそれを吸収してしまったというまさにその事実が、話し手が本当にそれを経験し、おそらくその苦しみから何かを得たということを、保証するのだ。そうして、彼は彼個人の人生の中に、私たちの問題を反映させ、それによって私たちに真実を示すのだ」(カール・ユング )

私はいわゆるキリスト教会の庇護の下で、育ちました。これは、私の家族が明らかに宗教的だったという意味ではありません。幼いころ私は母親と、保守的なプロテスタント教会の礼拝に参加しましたが、母は教条的あるいは権威主義的な信者ではなく、家では宗教的な問題について話したことはありませんでした。私の父親は、少なくとも伝統的な意味で、本質的に不可知論的のようでした。彼は結婚式と葬式以外に、教会へ足を踏み入れることすら拒んでいました。それにもかかわらず、キリスト教の道徳観の歴史的残滓は、私たちの家庭に浸透し、私たちのあるべき姿や、他に対するあるべき振る舞いを、生活様式の最も奥深いところで決めていました。結局のところ、私が育ったころは、ほとんどの人がまだ教会に通っていたのです。さらに、当時の中流階級の社会を作り上げていた、すべての規則やあるべき姿は、事実上、ユダヤ・キリスト教徒のものでした。当時、形式的な儀式や信心を受け入れられない人は増えていましたが、それでも、クリスチャンとしての生活を作り上げているルールを、まだそれとなく受け入れていたし、演じてもいました。

私が12歳かそこらの時、母は私を堅信礼クラスに入れました。これは教会の成人会員になる前段階として行われるものです。私はそれに行くのが嫌でした。私は、あからさまに信心深いクラスメイト(数は少なかった)の態度が嫌だったし、彼らのような社会的地位の無さを自分は望んでいませんでした。堅信礼クラスのまるで学校のような雰囲気も好きではありませんでした。しかし、もっと重要なのは、そこで教えられていたことを自分は納得することができなかったことです。あるとき私は、その牧師の先生に、現代科学の創造の理論と創世記の話をあなたはどのように折り合いをつけているのですか、と尋ねました。彼はそのような問題については考えてもいませんでした。それどころか、彼は、心の中では実は、科学の進化論的な観点の方をより納得しているようでした。とにかく、私はそこから逃れる言い訳を探していました、そして、これがとどめとなったのです。宗教は無知な者、弱者、そして迷信深い者のためのもの。私は教会へ行くのを止め、そして現実世界に加わったのです。

私は「クリスチャン」の環境で育ち、そして少なくとも部分的にでもその結果として、幸福で不自由のない少年時代を過ごすことができたにも関わらず、その私を育ててくれた枠組みを喜んで捨ててしまいました。教会や家庭での私の反抗的な言動に本当に反対した人はいませんでした。信心深い人たち(あるいはそうなりたいと思っていたかもしれない人たち)が、知的な意味で妥当な反論を彼らのうちに持っていなかったことも、その理由でしょう。結局のところ、キリスト教信仰の基本的な教義の多くは、明らかに馬鹿げているとは言えないまでも、理解できないものでした。処女懐胎は不可能だし、同じように、死人が蘇るということもあり得ないことでした。

私の反抗的な行為は、家族の危機や社会的危機を引き起こしたかというと、ノーでした。私の行動はある意味、あまりにありそうな予測可能なものだったので、誰も困らせはしませんでした、もっとも母親だけは例外として(そして、母ですらしばらくして仕方ないと諦めました)。私の 「共同体」である教会の他のメンバーたちについては、ますますしょっちゅう起こるこうした離脱行為に、既に完全に慣れっこになっており、私のそれに気づきもしませんでした。

私の反抗的な行為は、私自身を個人的に動揺させたでしょうか? いや、その時はそれをまったく感じることができませんでしたし、それが感じられるようになったのはずっと後です。教会へ行くのを止めたのとほぼ時を同じくして、私は、大きな政治的、社会的な問題について、いまだ未熟な関心をいだき始めました。なぜ、ある国の、ある人々が、豊かで幸せで成功し、他の人たちは悲惨を運命づけられているのだろう? どうしてNATOの軍隊とソ連は、絶えず争っているのだろう? 第二次世界大戦中のナチスのやり方について行くなどということがどうして当時の人々に可能だったのだろう? これらの具体的な考察の根底にあったのは、より広範な、しかしその時点では上手く概念化されていない問いでした:悪はどのようにして ― 特に集団に育てられた悪は ― この世界でその役を果たすようになるのであろうか?

私は、少年期を終えたとほぼ同じ時期に、私を支えていた伝統を放棄しました。このことは、人が成長するにつれて抱くようになる実存的な問題に気付いたときに、私の理解を助けてくれる広い社会的に構築された「哲学」を、私が手近に持たなかったことを意味します。結局、その不足のもたらした最終的な結末は、何年もかかって完全に明らかになりましたが、それまでの間に、私の道徳的正義の問題に対する初期の関心は、すぐに解決の道を見つけました。私は、穏健な社会主義政党のボランティアとして働き始め、その党の路線を選んだのです。

経済的不公平は、私にしてみれば、すべての悪の根源でした。そのような不公平は、社会組織を編成しなおすことによって、是正することができるものでした。私は、その素晴らしい革命に参加し、私のイデオロギー的な信念を実行することができたのです。疑いは消えました。私の役割は明らかでした。振り返ってみると、私はその時の自分の行動 ― 反応 ― が本当に、いかにステレオタイプであったかに驚きます。私は宗教の多くの前提を合理的に受け入れることができませんでした。それらの前提を私が理解したとおりの形のまま合理的に受け入れることは不可能だったのです。その結果、今度は、政治的なユートピアと個人の力を夢見るようになったのです。しかし、その同じイデオロギーの罠がここ数世紀に何百万もの人々を捕え、そして、殺したのでした。

私が17歳のとき、私は生まれ育った町を出ました。私は近くへ移り、そこで小さな大学に通って、最初の2年間の学部教育を受けました。私は大学内の政治活動に参加しました(それは当時は多かれ少なかれ左翼的なものでした)。そして、大学の理事会の一員にも選出されました。理事会は政治的、理念的に保守的なメンバーで構成されていました。彼らは、弁護士や医師、ビジネスマンで、みな十分な(少なくとも実質的に)教育があり、実利的で、自信に満ちて、率直に発言する人々でした。彼らはみな、するに値するりっぱな仕事を達成していました。私は彼らの政治的立場を分かち合いはしませんでしたが、彼らを尊敬せざるを得ませんでした。私は、自分が彼らを賞賛しているという事実が私をどこか落ち着かない気分にさせることに気が付いていました。

私は、学生政治家かつアクティブな党員として、いくつかの左派党大会に参加しました。私は社会主義指導者を見習うことを望んでいました。左翼は、カナダでは、尊敬される長い歴史を持ち、真に有能で思いやりのある人々を惹き付けていたのです。しかし、私はこれらの会合で遭遇した多くの末端の党活動家にはあまり敬意を払う気になれませんでした。彼らは不平を言うために生きているようでした。彼らは、何のキャリアも持たず、しばしば、家庭もなく、まとまった教育もなく、あるのはイデオロギーだけです。彼らは言葉のあらゆる意味において、不機嫌で、いつもイライラしている、小さな人間たちでした。結局のところ、私は、大学の理事会で遭遇した問題とまったくの鏡像に相当する問題に直面したわけです。つまり、私と同じイデオロギーを信じているそれらの人たちの多くが、私には素晴らしいと思えなかったのです。このさらなる複雑さが、ますます私を実存の混乱へ押しやりました。

私の大学のルームメートは、洞察力にすぐれた皮肉屋で、私のイデオロギー的な信念に疑問を呈しました。彼は、社会主義哲学の境界内に、世界を完全に閉じ込めることはできないと私に言ったのです。私は自分自身で、ほぼこの結論に至っていたのですが、あまり口に出してはそれを認めていませんでした。しかし、その後すぐにジョージ・オーウェルの「ウィガン波止場への道」を読んだのです。この本は、ついには私 ― 私の社会主義イデオロギーだけでなく、イデオロギー的スタンス自体への私の信頼 ― をじわじわと根本から揺るがしました。オーウェルは、その本を締めくくる有名な論文(British Left Book Clubのために書かれ、そしてそれを大いに落胆させた)の中で、社会主義の大きな欠陥と社会主義が民主的な力を引きつけて維持することに頻繁に失敗する(少なくともイギリスでは)その理由を説明していました。オーウェルは、本質的に言って、社会主義者は本当に貧しい人々が好きなわけではない、彼らはただ金持ちを嫌っていただけだと言っていました。彼の考えはたちまち私の心を揺り動かしました。社会主義者のイデオロギーは、彼らの失敗により生まれた怒りと憎しみを覆い隠すのに役立ったのです。私が遭遇した党派活動家の多くは、社会的正義という理想を使って、個人的な復讐の追求を正当化していたのです。

それは誰の誤ちなのだ? 俺が貧しくて、教育がなく、社会から無視されているのは? それは、教育があり、尊敬されている金持ちの誤ちに決まっている。そうなると、復讐の要求と抽象的正義とがぴったりと噛み合ってなんと好都合なことか! 彼らが、彼らよりも幸運な人たちから償いを受けるのは当然のことだったわけです。

もちろん、私と、私の社会主義の同僚は、誰かを傷付けてやろうと躍起になっていた訳ではありません ― 全く逆です。私たちはものごとを改善しようと頑張っていましたが、それを他人から始めようとしていたのです。私は、この他人の改善から始めるという論理の誘惑、その明確な欠陥、そしてその危険が分かるようになりましたが、その論理がなにも社会主義だけを特徴づけているのではないということもまた分かるようになりました。他の人を変えることで世界を変えようとする人は、疑いの目で見られることになりました。しかしそのような立場にいる誘惑は、抵抗できないほど大きいものでした。

問題なのは社会主義イデオロギーではなく、イデオロギーそのものでした。イデオロギーは、世界を、正しく考え正しく行動する人と、そうでない人に極端に単純化して分類します。イデオロギーは、それを信じる者に、自身の不愉快で許しがたい望みや妄想について、隠れ蓑を与えてくれます。これらのことが分かったことで、私の信念(信念に対する信頼さえも)と、それらの信念から私が練り上げた計画は、駄目になってしまいました。言ってみれば、私はもはや、誰が良くて誰が悪いのか区別できなくなり、誰の味方をして誰と戦えばいいのかも分からなくなりました。この状況は、哲学的にも実務的にも非常に厄介であることが分かりました。当時私は企業の弁護士になりたいと思っており、ロースクール入学試験を受け、2年間の必要な予備コースを取っていました。私は私の敵のやり方を知り、政治的なキャリアに進みたいと思っていたのです。しかし、この計画はうまく行きませんでした。世の中は明らかにそれ以上弁護士を必要としていなかったし、私はもはや自分がリーダーの役を演じられるほど物を知っているなどと信じていませんでした。

私はそれと同時に、私のもともとの学部の専攻である政治学にも幻滅してしまいました。私は人間の信念の構造についてより多く学ぶことができるように(そして前に書いたように、実務的な今後のキャリアのためとしても)その分野を選んだのです。私が短期大学に在籍して政治哲学の歴史を知った時、私にとってそれはまだとても興味深いものでした。しかし、私がアルバータ大学のメインキャンパスに移ったとき、私の興味は消えてしまいました。私は、人々は合理的な力によって動機づけられるのであって、人間の信念と行動は経済的圧力によって決定される、と教えられました。しかし、これは十分な説明とは思えませんでした。私は、商品 ― 例えば、「天然資源」 ― が内在的かつ自明な価値を持っているとは、信じることができませんでした(今でもできません)。そのような価値がない場合、物事の価値は社会的または文化的に(さらには個人的に)決定されなければなりません。この価値を決定する行為は、私にはモラルに関連しているように映りました ― 私には、それは、問題にしている社会、文化、または人が採用したモラルについての哲学の結果であるように見えました。人々が経済的な意味で価値があるとするモノは、単に彼らがそれを重要だと考えている、ということを反映しただけに過ぎません。これは、真のモチベーションは、価値観とモラルの領域になければならないことを意味しました。私が学んだ政治学者たちは、これが見えてないか、あるいは、それが重要であるとは考えていなかったのです。

私の宗教的な信念は、そもそも規範を逸脱していたのですが、私が非常に若いときに消えてしまいました。社会主義への(すなわち政治的なユートピアへの)私の信用は、世界が単なる経済の場ではないことに気がついたとき、消えてしまいました。イデオロギーに関する私の信頼は、イデオロギー的な自己規定そのものが深刻かつ解き難い問題を提起することを知り始めたときに、去ってしまいました。私は、私が選んだ研究分野が提供することになっている理論的な説明を受け入れることができず、もはや私のもともとの方向性を続けるための実質的な理由もなくなりました。私は3年間の学士課程を修了し、大学を去りました。少なくとも一時的にでも、私の存在のカオスに秩序を与えてきた私のすべての信念は、幻想であることがはっきりしました。私は物事の意味がもはや分からず、私は漂流していました。私は何をすべきか、何を考えるべきか分からなくなったのです。

しかし、他の人はどうだったのか? 私がその時に直面していた問題が、誰かによって、納得できる方法で解決されたという形跡はどこかにあったのでしょうか? 私の友人や家族の慣習的な行動や態度は、なんの解決策も与えてくれませんでした。私がよく知っていた人々は、決して私以上に決然と目標に向かっているということも、満たされているということもありませんでした。彼らの信じていることやそのあり方は、単に、常に起こる疑いと深い不信を隠しているだけのように見えました。さらに不穏なことに、世間では、本当に気違いじみたことが行われていました。世界の大国は、想像を絶するほど破壊力のある核兵器を製造することに熱狂していました。誰かが、何かが、恐るべき計画を企てつつあったのです。どうして? 建前として、正常で社会にうまく適応した人々は、何も問題がないかのように、彼らの仕事を漫然といつも通りに進めていました。なぜ彼らは不穏に感じなかったのだろう? 彼らはそれになんの注意も払っていなかったのか? 私もそうだったのか? 世界に蔓延する社会的、政治的狂気と悪についての私の懸念 ― ユートピア的社会主義と政治的策謀を一時的に盲信したことによって昇華されたその懸念は、猛烈な勢いで私に戻ってきました。繰り広げられている冷戦における不可思議な事実は、ますます私の意識の中心を占めるようになりました。物事はなぜにそのような地点に進み得たのか?

歴史は正に狂乱の場
それはすべての墓を暴いてきた
そしてそれを入念に読み取ってみれば
およそ分からぬことはない

私は核軍備競争が理解できませんでした。いったい何が絶滅の危険を冒すに値するというのでしょう ― 単に現在だけではなく、過去と未来の何が。いったい何が完全な崩壊の脅威を正当化することができるというのでしょう?

解決策はありませんでしたが、少なくとも私には問題という贈り物が与えられていました。

私は大学に戻って心理学を勉強し始めました。あるとき私は、アルバータ大学の変わり者の非常勤教授の指導のもとで、エドモントン郊外の凶悪犯用の刑務所を訪問しました。彼の主な仕事は、罪人たちの心理ケアでした。刑務所は、殺人犯、強姦犯、武装強盗犯でいっぱいになっていました。私の最初の検分で、私は最後にウェイトトレーニング室の近くのジムに来ていました。私はポルトガルで購入した1890年頃の長いウールのケープを着て、丈の長いレザーブーツを履いていました。私を連れてきた先生が、不意に姿を消して、私は一人になっていました。そのうち、私は粗雑な男たちに囲まれました。いく人かはとても大きくて強そうでした。そのうちの一人が、私の記憶のなかで特に際立って印象に残っています。彼は抜きん出て筋肉質で、裸の胸に刺青がありました。彼は鎖骨からみぞおちにかけて体の真ん中に酷い傷跡がありました。たぶん彼は開胸手術を受けたことがあったのでしょう。それとも斧の傷だったのかもしれない。とにかく、こんな傷を受けたら、普通なら死んでしまったでしょう。少なくとも、私のような人間なら。

特に良い身なりをしていない囚人の何人かが、自分の服と私の服を交換してくれ、と言ってきました。これが魅力的な取引なわけがありませんが、私はどうやって断ったものか分かりませんでした。背が低く、痩せて、頬髭をたくわえた男の姿をした運命が私を救い出してくれました。彼は私に近づいて来て ― あなたの先生が自分を寄越したと言い ― 私に彼と一緒に来るようにと言いました。彼はごく普通の人で、(彼よりもずっと大きな)他のたくさんの囚人がそのとき私と私のケープをねらって私を取り囲んでいました。私は彼の言葉に従いました。彼は私をジムのドアの外に連れて行き、刑務所の庭に出ました。その間じゅう、彼はたわいのない無害な話(なんだったか思い出せませんが)を静かだがしっかりと筋道を立ててしゃべっていました。開いた扉からだんだん遠ざかりながら、私は常にそちらをちらちらと確認していました。結局、私の先生が現れ、手招きをして私を連れ戻しました。私たちはその髭の囚人のもとを去り、事務所へ入りました。先生は、ジムから私を守って連れ出してくれたあの無害そうな小さな男は、警官二人を冷酷に殺した殺人者だと言うのです。しかも殺す前に自分たちの墓を掘らせたそうです。その警官の一人には小さな子供がおり、穴を掘っているとき、その子らのためにと言って命乞いをしたそうです。少なくともその殺人犯の証言によると、そうでした。

これは私には本当に衝撃でした。

私はもちろん、このような出来事について読んだことがありましたが、現実に経験したのは初めてだったのです。私は何かこのようなことにほんのすこしでも接点のある人にすら会ったことがありませんでした。実際にそのような何かひどいことをしたことがある人に、本当に出くわしたことなどなかったのです。一体、どうしたら、あの私が話した男は ― 彼は見たところ極めて普通だった(そして、うわべはまったく取るに足らないように見えた) ― そのような恐ろしいことができたのだろうか?

そのときに私が参加していた授業のいくつかは、大きな階段状の講義室で行われていました。学生たちは上から下まで連なって座っていました。これらのコースの一つである「臨床心理学入門」で、私は繰り返し襲ってくる衝動強迫を経験しました。私はよく誰かの後ろに座って、教授の話しを聞いていたのですが、授業中のある時点で、私は自分の持っているペン先で私の前の人の首を刺す衝動を確かに感じたのです。この衝動は幸い抑えきれないほど強いというものではありませんでしたが、それは私を困惑させるに十分なものでした。いったいどんなひどい人がそのような衝動を持つのでしょうか? どう考えても私ではない。私は決して攻撃的な人間ではありませんでした。私は自分の人生の大半の期間、私の同級生よりも体格が小さく、年少でしたから。

私は最初の刑務所への訪問の後、1ヶ月ほどしてまたそこへ戻りました。私の不在中に、2人の囚人がもう一人の囚人を密告者だと疑って襲ったそうです。彼らは彼を縛って拘束して、片方の脚を鉛のパイプで粉々にしたそうです。私はそれを聞いていま一度驚いたのですが、今回はなにか違うことを試してみました。私は、そのようなことをするためには自分がいったいどのような人間でなければならないだろうか、ということを、極力想像しようとしてみました。私はこのような想像を来る日も来る日も集中して行った結果、恐るべき啓示を経験したのです。そのような残虐行為の本当にぞっとする側面は、私が単純に思いこんだように、その非現実性やあり得なさにあるのではなく、その容易さにあったのです。私は暴力的な囚人とたいした違いはなく、質的な違いはありませんでした。彼らができたことは、私にもできたのです(私はしてはいませんでしたが)。

この発見は本当に私を動揺させました。私は自分が考えていたような人間ではなかったのです。しかし、意外にも、私のペンで誰かを刺す衝動はそれ以来消えました。振り返ってみると、こう説明できるでしょう:その行動衝動は具体的な意識の上にその形を現した、つまり、感情やイメージの中のものから具体的な現実へと変換され、その無意識の中の衝動はそれ以上存在する「理由」がなくなったのです。その「衝動」は、私が答えようとしていた問題のために起こっただけでした。「人はどうしてお互いにひどいことをすることができるのか?」 それは私ではない他人、もちろん、悪人、を意味しましたが、それでも私はその問いを止めませんでした。意外性のないあるいは個人的に意味のない答えになるだろうとする理由は、どこにもありませんでした。

それと同時に、私の会話能力に奇妙なことが起こっていました。それまで自分は、話題にかかわらず、いつでも議論することを楽しんでいました。私はそれらを一種のゲームとみなしていたのです(しかしこれは別にまったく珍しいことでもなんでもありません)。しかし、突然、私は話すことができなくなりました ― より正確に言えば、私は自分自身がしゃべることを聞くことが耐えられなくなったのです。私には自分の頭の中の「声」が聞こえ始め、その声は私の言ったあれこれの意見にいちいちコメントするのです。私が何か言うたびに、それは何かを言いました、しかも批判的なことを。その声は、決まった反復フレーズの形で、ちょっとうんざりしたような事務的な口調で聞こえてきました:

おまえはそれを信じていない
それは本当じゃない
おまえはそれを信じていない
それは本当じゃない

その「声」は、私が話すほとんどすべてのフレーズにそのようなコメントを付けたのです。

私はこれをどう解釈すべきなのか分かりませんでした。私はそのコメントの出所が私の一部であることを知っていました ― 私は統合失調症ではなかった ― しかし、この認識は私の混乱をひどくさせるだけでした。では、正確に言って、どちらの部分が本当の私なのか ― 話している私なのか、それを批判している私なのか? もし、それが話している部分だったら、批判している部分は何なのか? では、もしそれが批判している部分だったら ― そうだとすると、どうしたら私がしゃべったことほぼ全てが本当のことではないなどということがあり得るだろうか? 自分の無知と混乱の中で、私は実験をしてみることにしました。私は、私の内部の査読者が異議を唱えないことだけをしゃべるようにしてみました。これは、私が自分のしゃべっていることを真剣に聞く必要があり、あまりしゃべらず、しゃべっている途中で頻繁に停止し、気恥ずかしい思いをし、そのつど自分の考えを練り直すことになるということを意味していました。私はすぐに、私の内なる「声」が反対していないことだけを言っていれば、動揺も少なくより自信を感じることに気付きました。これには本当に安堵しました。私の実験は成功でした。つまり、私自身はその批判的な部分の方だったのです。それにもかかわらず、ほとんどすべての私の考えが、本物ではなく、真実でもなく、少なくとも私のものではない、という考え方を受け入れるには、長い時間がかかりました。

私が「信じていた」ことはすべて、私が良い考えとみなせ、素晴らしいと思え、立派だと思え、勇気ある言動だと思うことのできることでした。しかし、それらは私のものではなく、私はそれらを盗んできていたのです。そのほとんどは本から取ってきたものでした。私は、それらを抽象的に「理解」したことで、私にはそれらに対する権利がある、それらが私のものであるかのようにそれらを採り入れることができると思った、つまり、それらがまさに私そのものだと思ったのです。私の頭には他人の考えがいっぱいに詰め込まれていて、しかも、自身が論理的に反論することのできなかった主張がたくさん詰め込まれていました。私は、反論できない主張が必ずしも真実ではない、ということを知らなかったし、さらに、ある考えを我が物にする権利は獲得されなければならないものである、ということも知りませんでした。

この頃に、私はカール・ユングのなにかの本を読みました。それは私がそのとき経験していることを理解するのに役立ちました。ペルソナという概念を形にしたのはユングその人でした。それは「個性を偽った」仮面のことです。ユングによれば、このような仮面を採用することで、私たち一人ひとりと私たちの周りの者たちは、自分が「自分という本物」であると信じることができるのです。ユングはこう言います:

「われわれがペルソナを分析するとき、われわれはその仮面を剥がす。そして、個人的なものであるように思われていたものが、実は一番根底では集団的なものであることを発見する。言い換えれば、ペルソナとは集団意識の仮面にすぎなかったのだということを発見する。根本的に言って、ペルソナはまったく本物ではない。つまり、それは、人間が見かけ上どうあるべきかについての、個人と社会の間の妥協の産物なのだ。彼には名前があったり、肩書があったり、なにかの働きをしたり、あれこれである。ある意味では、これはすべて本物なのであるが、やはりその人の本質的な個性との関係においては二次的な現実、妥協の産物であるに過ぎず、そしてそのような妥協の産物を作り上げる際には、他人の方がしばしば彼自身よりも大きな役割を果たすものだ。ペルソナは、言ってみれば、見せかけであり、二次元的現実なのだ。」

私の口はすらすらとしゃべっているのにもかかわらず、私は本物ではなかった。これを認めるのは辛いことでした。

そして私は、本当に耐えられない夢を見始めました。それまで私が見ていた夢は、私が覚えている限り、比較的平穏でした。それに、私は、視覚的な想像力が特段たくましかったこともありません。それにもかかわらず、そのときの私の夢は非常に恐ろしく、感情的な力で私を捕え、私はしばしば眠ることを恐れるほどでした。それらの夢は現実のように鮮やかでした。私はそれらから逃れることも、それらを無視することもできませんでした。それらの悪夢はだいたい一つのテーマ、すなわち、核戦争と全面的な破壊のテーマ ― 私が、あるいは私の中の何かが想像できる限り最悪な悪 ― を中心に展開しました:

私の両親はアルバータ州北部の小さな町の中産階級の住む一帯の中の、標準的な牧場家屋風の平家に住んでいた。私はこの家の暗い地下室にいて、そこは居間になっていたのだが、私のいとこのダイアンと一緒に座ってテレビを見ていた。彼女は本当に、夢ではなく現実で私がそれまで見たなかで最も美しい女性だった。ニュースキャスターが突然番組を中断し、テレビの映像と音が歪んだと思ったら、画面が砂嵐になってしまった。私のいとこは立ち上がって、電気コードをチェックするためにテレビの後ろに回った。彼女がそれに触ったとたん、彼女は激しく痙攣し口から泡を吹き、強烈な電流のために直立したまま硬直した。

まばゆい閃光が小さな窓から差し込み地下室は強烈な光で溢れかえった。私は階段を駆け上がった。家の1階は何も残っていなかった。それは完全にきれいさっぱり刈り取られていて、床だけが残り、その床が今や地下室の屋根になっていたのだ。どちらを向いても地平線まで、赤とオレンジの炎が空を満たしていた。私が見ることができる限り、骨だけになった焼けて黒くなった建物の残骸がここそこに突っ立っている以外、何も残っていなかった。家もなく、木もなく、他の人間の気配も、いかなる生命の気配も完全になくなっていた。街も、平らな大草原の上でそれを取り囲んでいたあらゆる物も完全に消滅していた。

泥の雨が激しく降り始めた。泥はすべてを覆い隠し、地表は茶色く、濡れて、平らで、かすみ、空は鉛色、むしろ灰色になった。爆発のショックで取り乱したわずかな人々が集まり始めた。彼らはトウモロコシ粥と野菜だけの、ラベルのない、へこんだ食料の缶詰を運んでいた。彼らは、乱れた身なりで、疲れ果てた様子で泥の中に立っていた。そこに犬が何匹か現れた。彼らは、あの地下室の階段から出て来た。不可解にもその中に住んでいたのだ。彼らは後ろ足で直立していた。それはグレイハウンドのように細身で、尖った鼻をしていた。彼らは、ちょうどエジプトの墓から出てきたアヌビスのように、儀式に出て来る生き物のようにも見えた。彼らは前にお盆を持っていて、そこには肉のたたきが乗り、それを缶詰と交換したがっていた。私はお盆を取った。その真ん中には、直径4インチ、厚さ1インチの丸い厚切りの肉片が乗っていて、油でぎとぎとで汚く調理され、肉の中央には髄骨があった。いったいこれはどこから来たのか?

私は最悪なことに思い当たり、いとこのいる地下へ階段を駆け下りた。そこで、犬たちは彼女を殺して切り刻み、大惨事の生存者に肉を提供していたのだ。私の心臓は激しく鼓動し、そして目を覚ました。

私はこの極度に終末的な悪夢を、1年かそれ以上、週に2、3回は見ていました。その間も、私は大学の授業に通い、働いていました。まるで心の中で異常なことなどなにも起こっていないかのように。しかし、私には、いままで経験もしたことのないことが起こっていたのです。私はそのとき同時に、2つの異なる「地平」で起こっていたことに、影響を受けていました。第一の地平では、正常で予測可能な、他のすべての人と共有していた日常的な出来事がありました。しかし、第二の地平では(私だけの、あるいは、私がそう思った)恐ろしいイメージと耐え難い激しい感情の状態が存在していました。この特異で主観的な(ふつうは皆が幻想とみなしている)世界は、その時の自分には、誰もが分かって現実だと思っている世界の背後に何らかの形で横たわっているように思われました。しかし現実とは何を意味するのだろう? 私がそれを見ようと近づくほど、物事はますます理解し難いものになりました。いったい現実はどこに「あった」のか? その根底にはいったい何があったのだろう? 私はそれを知らずに生きていけるとは思えませんでした。

冷戦への私の興味は、真の妄想に変わって行きました。私は、目が覚めた瞬間から寝るまで間、毎日常に、その戦争の自滅的で凶悪な準備について考えていました。どうしてこのような状況が生じ得たのだろう? 誰が責任を負っているのか?

私は夢の中で、ショッピングモールの駐車場を、何かから逃げようとして走っていた。私はそこに駐車した車の中を走り抜けていた。片方のドアを開けて、フロントシートの上を這って、もう一方のドアを開けて、そしてまた次へと繰り返していた。ある車に入ったところで突然ドアがバタンと閉められた。私は助手席にいた。車はひとりでに動き始めた。「ここには出口はない」という非情な声が聞こえた。私はそのまま、自分が行きたくないどこかへ、連れ去られていた。私は運転手ではなかった。

私はひどく鬱で不安になりました。私は自殺についてもぼんやりと考えていましたが、大抵は、とにかくこのすべてが過ぎ去っていくことを望んでいました。私はソファーに横になり、そのまま、鼻だけを出して文字通り沈んで行きたいと思いました。ちょうど、突き出たダイバーのシュノーケルが水面に突き出しているかのように。私は自分の物の認識が耐え難いものだということを知りました。

ある夜遅く、私は大学のパーティーから、自己嫌悪と怒りに駆られた状態で帰宅しました。私はキャンバスと絵の具を取り出し、キャンバスの上に十字架にかけられたキリストの粗雑な絵を荒々しく描きました ― ギラギラと眩惑的で悪魔的に ― 裸の腰にベルトのようにコブラを巻きつけて。その絵は私の心をかき乱しました ― 私の不可知論主義にもかかわらず、冒涜的なものに感じられたのです。しかし、私はその絵が何を意味するのか、なぜそれを描いたのか分かりませんでした。いったい全体その絵はどこから来たのだろう? 私はもう長年、宗教的な考えに注意を払っていませんでした。私はクローゼットの古い服の下に絵を隠し、床にあぐらをかいて座りました。私はうつむいていました。その時、自分自身や他人についての本当の理解を、自分がまったく組み立てることができていなかったことがはっきりしました。私がかつて社会の本質と自分について信じていたすべてのことは、間違っていたことが分かり、世界は狂気に落ちたようになり、奇妙で恐ろしい何かが私の頭の中で起こっていたのです。ジェームズ・ジョイスは「歴史とは私がそこから覚めようと努めている悪夢だ」と言いましたが、私にとって、歴史は文字通りの悪夢でした。私はそのとき、とにかくそこから目を覚まして、私のひどい夢を消し去りたかったのです。

私はその時以来、悪、特に信じるということに結びついた悪に対する人間の能力、そして自分の能力を理解しようとしてきました。私は自分の夢を理解しようと試みることから始めました。結局、私はそれらを無視することができなかったのです。おそらくそれらは私に何かを教えようとしていたでしょうか? そうだと認めても、私には失うものは何もありませんでした。私はフロイトの「夢判断」を読み、それが有用であると思いました。フロイトは少なくともこの話題を真剣に取りあげていました。しかし私は自分の悪夢を願望充足とはみなすことができませんでした。しかもさらに、それらの夢は本質的に、性的なものというより、宗教的なものに見えました。私は、ユングが神話と宗教についての専門的な知識を発展させていたことを何となく知っていたので、私は彼の著作をあさり始めました。彼の思想は、私が知っていた学者からは信憑性がほとんど認められていませんでしたが、彼らは夢に特段の関心を持ってはいませんでした。私は特に私の夢に感心をもたずにいられませでした。それらの悪夢はとても激しかったので、それらが私を狂わせるかもしれないと思ったのです。(なにか他の道はあったでしょうか? 夢が私にもたらした恐怖や痛みは本物ではないと信じ込む、とか? しかし、恐怖や痛みよりも本物なものもありません)

大概、ユングが何をしようとしているのか私にはあまり理解できませんでした。彼は、私には把握できない主張を展開していて、私が分からない言語をしゃべっていました。しかし、ときどき、つくづくその通りだと感じる言明に出会うことがあったのです。例えば、彼は次のような所見を与えてくれました:

「集合的無意識の典型的な内容は、夢やファンタジーの中でしばしばグロテスクで恐ろしい形をとることを認めなければならない。そのため、最もガチガチの合理主義者でさえ、強烈な悪夢や、常に付きまとう恐怖心から免れることはできないのだ」

この言明の後半は私のケースに確かに当てはまるようでしたが、前半(「集合的無意識の元型的な内容」)は依然として不可思議で、はっきりわかりませんでした。それでも、これは有望でした。ユングは、少なくとも、私に起こっていたことが実際に「起こり得る」ことを、認識していました。さらに、彼はその原因についていくつかのヒントを与えてくれました。だから私は読書を続けました。私はすぐに彼のなした次の仮説を見つけました。これは、私が直面していた問題の解決策であるかもしれないもの、あるいは少なくとも、解決策を探すべき場所を示していました。

「黙って見過ごしたり、よく考えずに無視したりしてしまうことのできない(夢やファンタジーの)イメージの心理的な解明は、論理的に言って宗教現象学の深みへつながっている。最も広い意味での(したがって、神話、民俗学、原始心理学を含む)宗教の歴史は、元型の形態の宝庫なのである。そして、そこから精神科医は、五里霧中にある意識を落ち着かせ、明確にするために、役に立つ対比や、不明な点をはっきりさせる比較を導き出すことができるのである。心の目の眼前に非常に奇妙で脅迫的な姿で立ち現れるこれらの幻想的なイメージをより分かりやすくするためには、これらのイメージに何らかの文脈を与えてやることが、絶対に必要である。経験からすると、これを行う最善の方法は、比較神話学の資料によるものである。」

私の恐ろしい悪夢を消し去ってくれたのは、実際、その「比較神話学の資料」の研究なのでした。しかし、この研究によってもたらされた「治癒」は、しばしば痛みを伴う完全な変革を代償としました。私が世界について今信じている事、そしてその結果としてこの世界でどのように行動するかは、私がまだ若い頃に信じていたこととあまりにもかけ離れていて、私はもはや全くの別人であると言っても過言ではありません。

私は、人がなにかを信じるということがすこぶる現実的な形で世界を作り出しているということ ― 形而上学的な意味を超えて、信じるということが世界そのものであることを発見しました。しかし、この「発見」は、私を道徳的相対論者にしはしませんでした。それどころか、私は「信じることである世界」が秩序を持っていることを確信するようになりました。つまり、そこには普遍的な絶対的モラルが存在している(しかも、それらは人の多様な範囲の考えが、可能かつ有益であり続けるような形で構成されている)ということを確信したのです。私は、無知や身勝手な反発から、これらの絶対的モラルを軽視する個人や社会は、悲惨な状態になり、最終的には崩壊する運命をたどると信じています。

私は、信念システムの最も深い基盤の意味が、懐疑的で合理的な思想家にさえもはっきりと理解可能であるようにされ得ること、しかも、そうしたときに、魅力的で深遠で必要なものとして経験され得ることを学びました。なぜ人々は戦争を起すのか ― なぜ、その信念システムの領域を、維持し保護し拡大しようと強く望む心が、最も理解しがたい、集団によって育まれる迫害と残虐行為の動機となってしまうのか ― 、そして、たとえこの事情が普遍的なものであるとしても、この傾向を改善するために何がなされ得るのかを。最終的には、人生のひどい側面というのは、実は人生の存在の不可欠な前提条件になっているのかもしれない、そして、その前提条件は、結果的には分かりやすく受け入れられるものとみなすことが可能だ、ということを学びました。私は、この本を読んだ人が同じ結論に導かれることを望んでいます。不合理な「批判的判断の停止」を要求することなく、ただし、私が提示した議論に最初に向き合い、それらを検討するために必要とされるものを除いて。これらは以下のように要約できます:

世界は、物体の存在する場であると共に、行動のための舞台として、正当に解釈することができる。私たちは、科学の正規の方法を使って、この世界を、物体の存在する場として記述する。しかし、物語の技法 ― 神話、文学、ドラマ ― は世界を行動の舞台として描いている。この二つの表現形式は、これまで必要以上に争わされてきたが、それは、それぞれの領域の明確なイメージがまだ形成されていないからだ。前者の領域は「客観的な世界」であり、それは、間主観的な観点から見て何が存在するかということである。後者の領域は「価値の世界」であり、感性と行動の観点から見て何が存在し、そして何が存在すべきなのかということである。

行動の舞台としての世界は、本質的に、三つの構成要素から「組み立てられて」いる。これらは、比喩的表現の典型的なパターンでその姿を表す傾向がある。一番目は、未踏の領域 ― 偉大なる母、自然。創造的かつ破壊的で、すべての形ある物が生まれてきたところであり、最終的に行き着く場所である。二番目は、探検された領域 ― 偉大なる父、文化。保護的かつ独裁的で、先祖の知恵の集積である。三番目は、未踏の領域と既に探検された領域の間をつなぐプロセス ― 神の子、元型的個人。クリエイティブで探検的な「言葉」と、報復的な敵対者。私たちは「客観的な世界」と同じくらい、この「神性のキャラクターの世界」に適応している。この私たちが適応しているという事実は、この環境が、物の存在の場であるのと同時に行動の舞台として、「現実」に存在していることを示唆する。

未踏の領域に無防備にさらされると恐怖が生じる。そのような個人は「偉大なる父の儀式を模倣する」ことで、結果として恐怖から保護される。つまり、集団同一性を採り入れた結果として保護されるのであり、集団同一性を採り入れることにより、物の意味が制限され、また、社会的相互作用が予測可能になるのである。しかしながら、その集団との同一化が絶対化されるとき ― すべてがコントロール下になければならず、未知なものがもはや存在することが許されなくなったとき ― 、その集団自体を刷新するクリエイティブな探検のプロセスは、もはやそれ以上現れることができなくなる。この「適応能力の制限」により、社会的な攻撃性とカオスの現れる可能性は劇的に高くなる。

未知のものを拒絶することは、「悪魔との同一化」に等しいことであり、神話の世界に対抗するものであり、世界を作り出す冒険のヒーローの永遠の敵対者である。そのような拒否と同一化は、ルシファーのうぬぼれの結果なのであり、それはこう言明する。私が知っていることが、知る必要があるすべてであると。この悪魔のうぬぼれは、全てを知り尽くしているという全体主義の思い込みであり ― 「理性」によって「神の地位」を掠め取ることであり ― 個人と社会を地獄と区別できない状態に必然的に導く何ものかである。この地獄は進展する。なぜなら、クリエイティブな探検こそが(未知のものを謙虚に認めねば不可能だが)、受け入れることのできる意味を人生に与えてくれる、私たちを保護する適応力のある構造を、構築して維持するプロセスを作り上げるからだ。

「悪魔との同一化」は、自ら進んで病的な白痴化に向かおうとしがちな集団同一視が内に持つ危険を増大させる。個人的な関心 ― 主観的な意味 ― への忠実さは、異常を否定する可能性によって絶えず引き起こされている、圧倒的な誘惑に対する解毒剤として作用し得る。個人的な関心 ― 主観的な意味 ― は、探検された領域と未踏の領域の境目に現れ、個人および社会の継続的で健全な適応を確実に保つためのプロセスへの参加を示すものである。

個人的な関心への忠実さは、元型的なヒーローとの同一化に相当する。元型的なヒーローは、「救世主」 ― 集団の同調圧力をものともせずに、死を前にして、その創造的な「言葉」への連帯を守り続ける者である。ヒーローとの同一化は、未知のものについての耐え難い動機の誘発性を減らしてくれるように働く。しかも、それは、集団を維持すると同時に、それを超越する立脚点を個人に与えてくれる。

同様の要約が各章と節の前にあります。一つの単位として読んでください。それらは、この本の完全な、しかし圧縮された「姿」を構成しています。この序文を読んだ後に、これら要約を最初に読むとよいです。そうすることで、私がこの本で提供している議論の全体が、速やかに各部の理解を助けてくれるようになるでしょう。