精神のリサイクルなど

Yahooブログからの転載(6/23、2009)

先日、工学系の大学で講義をやって、4回シリーズの最後の回だったのだけど、最終回はそれまでの3回の講義の様子を見ながらしゃべる内容を決めることにしていたので、直前になってどうしようかと思い、たまたま数年前に外で話した内容を思い出して、それを学生たちの前で話してみた。芸術とランダムについての話で、およそ工学とは関係ないような、美大かなんかでしゃべるような内容で、正直しゃべりながらこんな話をして大丈夫かな、なんて思っていたのだけど、後で提出された学生達のレポートを見てみると、まあまあ興味を持って聞いていてくれたみたいだ。

学生のレポートを見ながら、ひょっとすると今の学生の中には、いわゆるシリアスものというか、芸術や文学や哲学など真面目で志の高い、一種崇高なものに憧れる者が、実はけっこういるのかもしれない、と漠然と思った。今の世の中、すべてならされて平均化し、おのずと社会のレベルが低い方に合わされて、中途半端に低俗なもの、醜く愚劣なもの、みじめなぐらい下品なもの、どれを取っても一時的な快楽、といったものが回りじゅうに溢れかえって目に見えている状態になると、逆に、そういう中で育ってしまった人間は別のものを求めるようになるかもしれない。

学生はほとんど学部1年だったので、考えてみると、なんとつい先日まで高校生だった若者たちだ。その中にちらほらと修士の学生も混じっていたようで、その学生の一人からメールで質問をもらい、それにわりと長文で答えた。なかなか面白い視点を持ち出してくる彼だった。しばらく、そのことについて考え込んだよ。機械の能力というのはスペックだけではなく要求されている能力以外のもの、たとえば外観デザインなども含めて当の機械の能力とみなさなければならない、という命題なのだが、僕は講義でそうしゃべったのだけど、彼は機械科の学生で同じことを考えていたらしい。

ああ、そうだ、やはり講義の中で僕が悪乗りして、人間が機械を一方的に使役して必要なくなったら捨てる、という時代は終わるのです。その昔、黒人を奴隷として扱ってきた世界が人間を使役して捨てる、ということを時代が進む中で止めてきたように、今度は機械を奴隷のように使うことはなくなるんです。みたいな話しをした。

これが悪乗りだと気づいたのは、学生の一人がレポートで、その喩えはおかしい、と反論したのを読んだからだった。彼は、機械はあくまで人間が作ったものだけど黒人はそもそも人間であって、人間の使役のために意図的に作られたものではない。人間が作ったものと神が創ったものという埋めようのない違いがあるのだから、それを同列に扱うのは変だ、と言ってきたのだ。

それを読んで、なるほど、と思った。僕のアナロジーは行き過ぎだったかもしれないし、今の世の中では差別発言すれすれだし、これからはこの喩えはやめよう。

しかし、何にせよ、自分は、次の時代では、人間が何かを使役して用が無くなったら捨てる、という構図について反省する期間に入る、とは思っている。まあ、いわゆるリサイクルの精神なのだけど、今現在のリサイクル運動が単なる物質のリサイクルということに終始しているのに対して、これは、精神的な意味でのリサイクルに発展するべきじゃないか、と思ったりしている。

機械であれ、何であれ、人間の目の前にある「なにか存在するもの」は、物質的な意味でも心理的な意味でも等しく「いくらでも転用ができる」と考える世の中になるのかな、と思ったりする。これまで物質的リサイクルばかり言ってきたのは前世紀の奴隷時代のなごりではないか、と思うのである。例えば、「これから高齢化社会になります。そうなったときには高齢者の労働力を社会に還元する仕組みが必要です」というようなものの言い方をする。まるで「高齢者」っていう人間たちを「労働力という物質的能力を持った物体」としてしゃべっているみたいだ。

知らないうちに僕らは20世紀に完成していまだに続いている、生産・流通・消費という物質経済に毒されているのではないかな。百何十年か前にマルクスは労働と生産の人間的な意味を奪回する仕事をしたけれど、今はそのなれの果てだ。きっと次の時代は、マルクスの言ったことをもう一回、再解釈しないといけないことになるんじゃないかな。

生身の人間も、機械も、コンピュータも、ネットワークも、みな、物質であると同時に精神である、そんな「かたまり」として扱うようになるんじゃないかな。願わくば、金を評価関数にして人間を物質として利用する、という人々に浸透してしまった考え方が、潮が引くように早く減衰してくれるように。

精神のリサイクルっていう言葉をキーワードにして話を組み立ててみるのもいいかもな。

ちなみに、先の講義の中では、西洋美術史をルネッサンス期から辿り、最後に20世紀になって、マルセル・デュシャンが男性用便器に署名と題名をつけて展覧会場に置き、作品とした、という有名な行為を紹介して、芸術の世界では百年も前にいち早く、物質と精神はいくらでも転用可能だということに気づいたのです、というような話しをしたのだった。

人間と機械という素性の元々異なるものを混同して扱う僕の言葉を批判した学生は、期せずして「神」という言葉を持ち出したが、やはり、そう考えてみると、自分はさすがにニーチェに果てしなく深い影響を受けているだけあって、神は死んだ、とどこかで本当に思っているのかな、とも思った。

ニーチェが書いたエピソードに、真昼間に提灯を下げて町を走り回る狂人が出てくる。その狂人は、「お前らは知っているのか、神が死んでしまったということを。世界は真っ暗だ、神を殺してしまった俺達はいったいこれからどうすればいいのだ」と叫んで回る。

こういうイメージのトラウマは、やはり何百年も続くんじゃないかな、と思ったり。



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