ロバートジョンソンは言わずと知れたデルタブルースマンであり、現代のロックミュージック、ひいてはポピュラーミュージックの基礎を築いたとまで言われている超有名なブルースマンである。

1936年と37年にレコーディングし、29曲を残し、その翌年に女がらみのトラブルで毒殺され、27歳で死んだ人である。残された録音は、すべて、アコースティックギター1本の弾き語り。クリーム時代のクラプトンのプレイで有名なCROSSROAD
BLUESや、キースリチャードの美しいイントロで始まるLOVE IN VAINなどは彼のオリジナルである。
ま、以上は知ってる人には言うまでもないことだが、では、いったい何の研究を始めたかと言うと、それは、ロバートジョンソンのボーカルテクニックの詳細検証なのである。
さて、ブルースの音楽的特徴について、ちょっと、しばらく能書きを書いてみよう
よく知られているように、ブルースのメロディで使われている音階は、正規の音階から微妙にずれている。一番有名なのが、短3度の音で、これが半音の半分ぐらい(つまりクォータートーン)高くなる、というものである。
ブルース音楽についてのふつうの教科書的なものには、ブルースのメロディーラインの特徴として、まず、ブルーノートと言われる音階が載っている。ブルーノートにはいくつかの解釈があるようだが、だいたいの場合キーがAのとき
A C D Eb E G
の6つを指すことが多い。説明のされ方としては、普通のドレミファソラシドの3つ目,5つ目,7つ目の音をそれぞれ半音下げる、というのが多い。
さて、これにメジャーな響きを持つ次のペンタトニック
A B C# E F#
の5音を加えると、ブルースやロックで使われるメロディーの構成音のスケールが出来上がる、と、こう言われている。ちなみに、先のブルーノートの6つとペンタトニックの5つの音を合わせると、いくつかダブっているので合計9個の音になる。12音階の中で、使えない音はたった3つだけ、となる。
さて、この9つの音に加え、ブルースのボーカルのメロディやギターフレーズなどでは、9つの音の中の3番目の音であるCが半音の半分ぐらい高めになる、と言われているわけだ。
この3番目の音(つまり3度の音)は、Cの場合はメロディーにマイナーな響きを与え、半音上がってC#のときはメロディーにメジャーな響きを与えるので、メロディーラインの「明るい」「暗い」の印象にわりとダイレクトに影響する音である。
ブルースでは、この2つのCとC#の真ん中あたりの音を出すので、明るい暗いがちょっと混濁した感じになる。ギターの場合、Cのフレットを押さえて弦を少しベンド(押し上げる)すれば、この中途半端な音は簡単に出せる。また、ピアノなどでは、このCとC#の鍵盤を経過音風に素早く続けて弾いたり、トリルしたりする(これはギターでも多用する)ことで、このあいまいな雰囲気を出すことが多い。
さて、以上がおざなりなブルース講座なのだが、ホントにこれで終わりだろうか。自分は、かねがねこれでは足りない、と思ってきた。
まず、一点、はっきりしているのは、このブルースのスケールの知識だけでは音楽にならない、というのがある。これは考えてみれば当たり前で、スケールの知識というのはまったくの片手落ちで、時間軸の事情、つまりメロディーの組み立てがまったく反映されておらず、実際には時間方向に展開している音楽の、半分しか扱っていない。時間に沿って、このスケールの構成音をどのように並べるか、という問題が解決しない限り実地には応用できない。
さて、それでは、ハーモニーを司るスケールと、メロディーを司る時間方向の構成の方法が分かれば、それでいいのか。
いや、まだあるんじゃないか、というのが、ここで紹介するロバートジョンソンの歌メロの分析なのである。
さあ、それでは、この1936年、今から70年以上前に録音された彼の歌を1コーラス、よーく聞いてみて欲しい。
ロバートジョンソン音源
この曲は、I Believe I'll Dust My Broomという曲である。そしてこのワンコーラスでは
これで明日の朝起きるんだけどさ、もうきっぱりこの部屋を出てゆくぜ、オレは
これで明日の朝起きるんだけどさ、もうきっぱりこの部屋を出てゆくぜ、オレは
そうすりゃ、あんた、ずっと好きだったとかいうその男がオレの部屋の後に入るってことだろ、え?
みたいなことを言っている。まあ、それはともかく、、、
これを、ちょっと聴くと、歌のメロディがなんだか捩れていて、音程が外れているように聞こえないだろうか? ひょっとしてこの人って音痴? なーんて言う人が出てきてもおかしくない。
あるいは、まだブルースという音楽がしっかりと確立されておらず、未整理な音程で、その場の気分であやふやに、感覚的に歌っていた、なーんて言う人がいてもおかしくない。
しかし、本当はどうなんだろう? ロバートジョンソンのボーカルテクニックはどのようなもので、そして、実際どのくらいの表現力を備えていたんだろうか?
それで、いま何をやっているかというと、この上記の曲の歌のメロディーを半音の1/10以下の精度で測定し、採譜しているのである。方法は超理科系的で、一音一音の周波数を1Hzの精度で測定する、というやり方である。
やってることがめちゃめちゃブルースっぽくない!(笑)
さて、なので、出てくる結果は周波数の数の羅列になる。最初の1フレーズの結果を記すとこんな感じである。
ROOT = 322Hz
I'm gon get up in the mor ni--n I be lieve I'll dust my broom
582 644 776 664 777 644 548 645 801 - 481 480 322
ちなみに、さわりだけだが、これじゃ、何が何だか分からない。これを見慣れたCDEFGABの音程で表記し、さらに、その音程からどれくらいずれているかをカッコの中で記したものが次だ。ここで、カッコ内の数字の単位は「セント」と言って「半音の1/100が、1セント」である。ちなみに曲のキーはEで計算している。
I'm gon get up in the mor ni--n
D(24) E(0) G(22) E(52) G(25) E(0)
I be lieve I'll dust my broom
C#(20) E(2) G(77) - A#(94) A#(91) E(0)
ま、このくらいにしておくが、今のところの分析の結果から、ロバートジョンソンのボーカルテクニックについて言えそうなことを書いておこう。
- ジョンソンのルート音を出す感覚はマライヤキャリー並(笑)に完璧である
- 3度の音が1/2半音高くなる、というブルースの定説があるが、ジョンソンは1/4半音高く音を取っている
- しかも、6度の音も、7度の音も、1/4半音だけ高く歌っている
- 5度の音はジャスト、あるいはわずかに低めに歌っている
- 歌の中での、以上の音程の再現性はかなり正確のようである
- したがって、「ジョンソンの音階」というものがありそうである
- いずれにせよ、平均律というヨーロッパで発明され、現代人の耳を牛耳っている音階感覚とは生理的に異なる原理に基づいて歌っている
- つまり、ええ加減な音程、あるいは音痴ではなく、原理が異なるのである
- さらに、歌詞の意味に応じて、メロディーの組み立てを替えている。それも非常に短いスパンでこれが行われている
- これは、「しゃべる」という行為が「感情の動き」と平行して時間系列で行われている際、その「抑揚」が無理なく自然に自己表現と平行していることを示しているように思える
- メロディーに歌詞を乗せる、あるいは、歌詞にメロディーを乗せる、ということを表面上は確かにやっている(同じメロディーで歌詞が違うのがたくさんある)
- しかし、その表面から少し深く掘り下げてみると、とたんに、「抑揚をつけてしゃべる」ということが「音楽」全体に染み渡っていることに気づく
うーむ、思わず熱くなる。。。 しかしロバートジョンソンも、海を越えた富士山芸者の国の人間が自分の歌をこんな風に根掘り葉掘り分析しようとは、思ってもみなかったろうな〜
(笑)
ちなみに、この分析は、ミクシィコミュニティの「ロバートジョンソン」にて発表しており、さらに詳細に検討されているので、ご興味のある方は以下をどうぞ。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46869408&comm_id=11136
さて、実はこのようなロバートジョンソンの歌の分析研究を進めているうちに、思わぬ結果が出てしまいそうで、ちょっと、事の重大さを感じ始め、もうちょっと、しっかり、ちゃんと、正確を期して検証を進めないといけないな、という気になってきた。
なにかというと、ロバートジョンソンの歌のメロディーは平均律よりも純正律に近い音階になっていたという思いもよらない命題が浮上して来たのだ。
こんな話をしだすと、また、長くなるんだけど、ちなみに、平均律というのが今現在使われている音階で、要はピアノの鍵盤の音階である。これに対して純正律は、ハーモニーを作ると、とても澄んだ美しい響きになる音階なのである。ピアノは平均律でチューニングされているので、純正律を聞こうと思ったら、ピッチが調整できる弦楽器などによることになる。しかし、それより何より人間の声が一番すぐにこの純正律の響きを出せる。無伴奏の合唱団のハーモニーでときどき極めて美しく天上的な音を出しているものがあるが、あれが純正律の響きである。
さて、そういうわけで、ロバートジョンソンの歌の音階を正確に測定してみたら、従来までブルースのメロディについて言われてきた「正規の音階からわずかにずれた音を使うことで不協和音的なあいまいな、すなわちブルージーな響きを出す」という事実は間違っているかもしれない、という結果になりそうなのだ。
それどころか、これまで「ずれた音階」といわれていたものは、実は現代の平均律からずれていただけで、むしろ、ハーモニーの観点からは、悪魔に魂を売った(と言われている 笑)ロバートジョンソンは、かの、天上的な和音を作る純正律に近い感覚で音程を取っていたようだ、ということが分かりそうなのだ。
ここまで来ると、なんだか、事がおおごとで(自分だけ? 笑)、きちんとした検証なしに主張するのが怖くなってきた。
これは前の日記のコメントにも書いたのだけど、自分は、30年来ロバートジョンソンを聞いて来て、彼の歌とギターを飽きずに懲りずに追求し、自分なりに演奏する、ということをやってきた。カインド・ハーティド・ウーマン・ブルースという彼の曲に至っては、計算すると、自分はすでに、軽く1000回以上、試行錯誤しながら歌ってきた計算になる。
そんな自分が常々彼の音楽について思ってきたことがあった。それは、ロバートジョンソンについては、一般に、暗い情念、コントロール不能一歩手前の激しさ、張り詰めた緊張感、呪術的なブツブツ声、すさまじいブルーステクニックの代償に悪魔に魂を売った男、などなど、ということが言われ過ぎていて、彼のまったく別な「天上的」な面があまりに語られなさ過ぎていないか、ということだった。
と、いうのは、彼の音楽は、よくよく聞くと実は、軽くて、明るくて、楽天的な雰囲気をその音の中に確実に持っているのだ。逆に、彼のフォロワーたちは(自分も含めて)、ジョンソンの暗く激しいところばかりを継承し、この明るい部分を継承していない場合がほとんどではないかと思えたのだ。
このことについて、自分はこれまで、こう考えていた。
それは、この明るい天上的な部分と暗い情念といった相容れないものの共存ということ自体は、「あの時代に生きて死んだロバートジョンソンという一黒人ブルースミュージシャンの人生そのもの」に根ざしたもので、他人には決して真似のできない、あるいは、真似しても意味のないものなのだ。だから、彼の音楽を受け継ぐ僕らは、彼の音楽を土台にして、その音楽形式の中に自分だけの人生を開花させるべきなのだ。まあ、ちょっと、こうやって書くと真面目すぎるけど、そうだと思ってきたのだ。
しかし、今回の研究の結果は、どうも違う方向に行きそうに見える。
うちには、うちの奥さんが民族系の音楽にはまったときに買い揃えたCDが何枚かあり、その中にアフリカなどの民族の歌や、合唱が収録されているものがある。あのハーモニーを聴くと、まさに天上的な和声で、なんともいえない美しい響きが聞ける。
さらに、これについては、自分は、3年ほど前、パプアニューギニアへ旅行したとき、ほとんど原住民に近い現地の人の葬式に立ち会った経験があり、そこで、参列した現地の人々が儀式の中で合唱する場面で、実際に自分の耳でも聞いたことがある。これが、ほんとうに、美しく、昇天するように響き渡る素晴らしいハーモニーなのだ。
おそらく、あの響きこそは純正律の響きなのだと思えるのだけど、ああいうものを聞くと、とてもルーツ的な、故郷的な、力強さと安心感といった感覚を持つ。
さて、ロバートジョンソンが生きた過去のアメリカであるが、おそらくは、それまで、自然の中で調和した生活を送ってきたアフリカの黒人たちが奴隷としてアメリカに運び込まれ、彼らは一転して厳しい社会と生活の場を生き抜いて行くことになるわけだ。そして、その人生を、きわめて個人的な体験を元に歌にして、これを奏で、そしてブルースという音楽を作っていったわけだ。
ブルースの成立だけを見ると、こんな辛い背景がある。そこには、自然に抱かれた故郷の安らぎと、奴隷制にあえぐ見知らぬ土地アメリカでの苦しみ、という相反する2つのものが鮮やかなコントラストを持って見えている。
そして、もし、今やっている研究で、ロバートジョンソンのメロディーが実は純正律に基づいていた、などということが出てきたりしたら、どうだろう?
彼のブルースの、一見すると暗い情念に満ちた音楽の背後に、美しく、力強く、信頼感と安らぎに満ちた天上的な純正律の響きが常に鳴っていた、ということになるではないか。
彼の血に流れる祖先の心は常に安らかな故郷へ戻ろうとしていた、ということになるではないか。
今日、一日、こんなことをつらつらと思いながら、ときどきぼんやりしていたりしたのだが、しかし、これは、切ない。切なすぎて泣けてくる。
今からおよそ30年前のことだが、たまたま手に入れた黒人民話集みたいなものを読んだことがあり、その中に、とても好きな話があった。こんな話だった。
アメリカの農場に奴隷がたくさん働いていた。そこに呪術師がやってきて、ある呪文を一人の農夫に教えた。農夫がその呪文を唱えたら、彼はとたんに腕を広げて空高く飛び去っていった。そうして一人、また一人と空へ飛び立ち、その農場の奴隷たちは一人残らず故郷のアフリカへ帰って行ったのです、というものだ。
当時、青年だった自分は、この物語を涙無しでは読めなかった。決して実現しない希望、必ず裏切られる期待、そんな中での、絶望的な詩の切なさが、若い自分の心を打ったのであった。
ああ、しかし、そんな切なくも悲劇的で、しかし甘い響きを持ったコントラストが、実は、ロバートジョンソンという不世出のブルースマンの音楽の中に、これまで誰にも発見されずに見事に表現されていたということになるではないか!
以上、あまりに文学的だが、理科系の分析というのはこんな風に文学に変ることもあるんだな。
しかし、こんな風に話が大きくなっちゃうので、理科系分析は、もっと慎重にやることにする。ひょっとすると自分のミスかもしれず、そうだとすると上記の説得力も薄れる、というわけだ。
それにしても、思えば、自分が10年前、ゴッホの本を出版したときも、ちょうどこんな風だった。あちらはもっと最初から文学的だったとはいえ、恐らく世界の誰も気づかなかったゴッホの絵画に関するいくつかの理科系的発見を礎石として組み立てた本であった。
やはり、どうやら、オレはいつも同じようなことをしているらしい。
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