仕事ネタなのだが、書くところもないので

いまプログラミングというのを自らやっているのだけど、それなりに発見がある。現在、オブジェクト指向言語ってやつでコーディングしており、プロの人と一緒にやっているせいで、全体骨格を彼らに任せ、それにしたがって書いている。

そうやって仕事してみると、「プログラムを作る」という行為のかなりの部分の「下部構造」がほとんど同一のいくつかの機能の組み合わせだけでできているのが身をもって感じられるようになる

つまり、いかなる目的のプログラムであろうと(事務ソフトであろうと経理ソフトであろうとエロゲーであろうと)、その下部組織を支えているのは、「同じような繰り返しの多い単純労働」を多数動員することでできていることが分かるのである

これは、プログラム設計理論、そしてオブジェクト指向思想では、当たり前のように言われてきた一つの「あり方」なのであるが、それが、自らの行為の中ではっきりと見えてくると、自分の中で2つの相反する反応が起こる

一つは、「おー、なんだよ、これってホントかよ、こんなラクでいいのか? 快適だ~ 今までオレはなにを単純労働で時間を無駄にしていたんだ? これでクリエイティブワークに集中できるぜー」というもの

もう一つは、「なんだか、不気味だ・・」というもの

人が生きるのも、虫や鳥や生き物が生きるのも、活動して考えて群れを作って何かするのも、およそ目的があってなされている「何か」に下部組織があって、そこには単なる物理現象のような決まりきった単純な原理で動く部品が整然と繰り返し模様のように組み合わされているだけで動いている

僕らが生きて活動するために、僕らは「物」という下部組織に頼っていて、それらは物理法則という単純な要約が可能な仕組みによって動いている

歩いて蕎麦屋へ行くのに物理法則にしたがっているのは、まあ、いい

でも、何らかクリエイティブな活動をしているとして、その活動の全幅の、実はかなりの部分が、あきれるほど単純で繰り返しの多いメカニズムで代替できる、と気づいてみると、なんだか心外な気持ちにならないでもない

ところで、コンピュータができて、一番変わった職場は「事務職」ではないか? 僕はその過渡期に社会人だったから、昔の事務職を知っている。いや、別に、黒澤の「生きる」とか、カフカの「審判」とか見ればすぐに分かる、昔の事務職場。

昔の事務職場の、あの複雑に絡み合った書類と文具と整理箱の塊みたいなあの空間は、なんと、ほとんど跡形も無く消え去ろうとしている。今のうちに文化財として残しておきたいぐらいだ(笑)

それまでやってきた単純作業としての事務作業って、実は無駄だったのだろうか?

と、すると、だ。いま現代のオレたちが「オレって最高にクリエイティブな人間だぜー」なんて思って活動している「事々」だって、明日はわが身っていうことになる道理だ 気が付いていないだけで、実は自動機械で代替可能なのかもしれないよ?

ということになると、そもそも、活動の、そして人生の「目的」を設定する、その設定の仕方に「仕掛け」が仕組まれていた、と考える方が自然ではないだろうか

その目的を根本的に変更してしまえば、自動機械なんかが決して入り込むことの無い世界で生きることだってできる。たぶん

オブジェクト指向でプログラミングしていると、なんだか、こういう色々な想念に囚われる・・

もっとも、かといって、オレは、蟹工船へ戻るのは勘弁だが・・