書き飛ばし

ミクシィの独り言シリーズの一つ (4/26、2010)

いやー、twitterを始めて、習慣になっちゃうと日記、書かねーな〜

Twitterばかりやってると発言内容がだんだん断片化して来て、書くのもラクになってるので、短い日記ですら文章をまとめるのが面倒になったりする、ってのはいいんだか悪いんだか。まあ、オレは別にいいと思うが、いま思いついたんだけど、このMixiの日記の方の文章レベルを落とせばいいのかもね。って、もうすでに十分落ちてるんだけどさw

しかし、何と言うか、隔世の感、というか、人間っていともあっさりと順応してしまう、というか、呆れる感じだね。そういや昔、「婆さんがすました顔してクーラーに当たってるっていうのは人生が連続している証拠だ」という言葉をどこかに書いた覚えがあるが、まったくのところこれは真実だよな。

だってさ、オレだっておよそ15年前は大学ノートの厚いヤツにボールペンでびっしりと日記書いてたこともあるんだぜー。特に12,3年前にA型肝炎でひと月入院したときに、ベッドの上で小さな字でノートにひたすら書き込んだ文章があってね、今でもオレの本棚にそのノートが残ってるけど、少し右肩上がりの字体でびっしりと整然と紙面を埋め尽くしている様は、唖然とするような几帳面さだ。

まあ、そういう文章修行みたいなのを経て、それで、今じゃあこんなバカっぽい文体で書きなぐってるってワケだ。これはたぶんだけど、オレがどんなに文を粗末にアホっぽく書いても、どこかしら大学ノート臭が残るかもね。うちの奥さんによれば、オレのMixiの日記の文章は湿っぽい昭和の味があるそうで、それがかえって他にない感じでいいんじゃない? などと褒めてるんだか貶してるんだか分からないことを言われているが、そんなもんだろう、きっと。

Twitterは140文字なので、考えの内容をまとめるのには、ずいぶんといい道具だろうけど、いわゆる文体修養にはあんまり向かないかもな。考えて、あるいは感じて、それを表現して、人に伝える、という一連の行為を修養するにはtwitterっていうのはいいツールだと思う。仕事のプレゼンみたいなもんだ。

それに対して、文体ってのはどうだろう。これは実は現代で言うところのコミュニケーションの分野からは何だか離れたところにある何者か、だよね。

あ、そういえば脱線するが、最近のインターネットに載っている雑誌調のノウハウ話っぽい文章ってライターやら評論家、文化人(言葉古いが)やらが書いてるんだろうけど、何だかめったやたらにコミュニケーションの大切さばっかり唱えてるように見えるけど、これは気のせいかな。何かというとコミュニケーション能力がどうのこうの、と振りかざし、コミュニケーション能力が劣るやつは社会の脱落者、ヘタすりゃ病人扱いで、イヤになっちゃうな。

インターネットが過度に発達してテレビや新聞がダメになって行きつつある現代社会は、たしかに、ほとんど思いつきのやり取りで出来上がっているコミュニケーションが幅をきかせて、内容が練られた放送的なコンテンツが劣勢になる傾向を辿っているようにも見えるが、それだからと言って、コミュニケーション万歳でいいとも思わない。放送的なものって確実に文体的なものが、あるよね。

思うに「文体」というのは、思いつきじゃ出来上がらないものだ。人柄と経験と修養の年輪のようなものが文章の姿に刻み込まれて出来上がるもんだからさ、けっこうスローな代物だよね。

そういえばファーストフードに対抗してスローフードなんていうなんていうのがひと時あったね、全然関係ないけど。オレはひねくれてるので、あれってなんかスカしてる感じが鼻についちゃったな。そうそう、スノッブ、ってやつ。ライフスタイルにことさら余裕を導入しようとする姿勢が何だかどうも自分とノリが合わない。いや、別にスノッブな方々とお付き合いないので、ぜんぜんかまわないんだけど。

その真反対な世界として、世の中の底辺のあたりをうろつくとさ、ときどき、その「人格」が、まるで「文体」のように出来上がっている人に出くわすときがあるよ。そういう人たちの個性のすばらしいバリエーションの多彩さ、というか多様さ、というか進化論的爛熟というか、そういう異形の生物の宝庫のような様子に比べると、スノッブな世界にいる人たちの姿かたちは何だかみな同じで単調だ。

いやいや、こんな風に人の悪口を言ってはいけない。と、言いながら、久々の書き飛ばしなので、面倒なのでそのままにしておくが。

そういえば、オレは、ブログとMixiとtwitterと、なにやら文章もずいぶんと昔からそこそこの量を書いているのだけど、「悪口」というものが極端に少ない。これは間違いなく意識的に避けているわけだが、一方、オレという人間そのものはそれなりに悪口を蔵しているところは、きわめて人並みである。さらに、悪口を書かないだけでなく、いわゆる「批判」もあまりしない。当然ながら「批判」と「悪口」は違うわけだけど、批判ですらけっこう避けてしまう傾向がある。

そのへんは考え始めると根が深いよ。結局、「批判」というものを健全に生活に活かせるのは西洋人、って気がしてならない。ある種とってもうらやましい人たちだ。批判と悪口を心情的にきちっと分離できている。と、いうか、メンタリティ的にそれが当たり前の人たちだ。それに対して自分は、やはりどうもその分離がうまくできない。なので悪口を減らそうとすると、批判も同じように減ってしまう。

まあ、いまさらそういう性癖は直しようもないので、批判をしないで自分を売り込む手管でも磨くさ、へへへ

さて、そろそろ寝るかな〜



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