香港の街について

初めて香港に行ったときはショックだった。この文はそれを書いたもの。たぶん1989年ごろ

香港へ行ってきた。四日間の短い期間だったが、僕は見たいものは全部見てきたような気分であった。

三日目の昼過ぎに、九龍の海側のはずれから内陸の方へ向かって延々と続く市場通りを歩いた。ここは観光コースから外れているので、回りは皆香港現地人であった。まっすぐの一本道を歩いて行くと、食料品、金物、食器、機械などの市場が繰り返し現われて、いつまでも終わりなく続いている。気温は三十数度、湿度は八十パーセントを越え、市場は人でごった返している。物珍しくない光景はただの一個所もなく、何もかもが見たこともないような異様な様相で、五感を働かせるのがやっとで、頭など使う余地もない。結局僕は白痴のようになって二時間以上歩き続けた。

それは道端のこんな光景を見たところから始まった。道の真中で蛙を売っている。かなりの数のこぶりの蛙は目の荒い網の中に入れられて地べたに置かれ、つぶれたぼたもちのように折り重なってもぞもぞと動いている。蛙売りの男は、客と短い交渉を交わすと、網の中に手を入れて注文の数だけ蛙を取り出してロウびきの袋に移し入れる。横に敷いてあるダンボールの端にしゃがみ込み、紙袋に左手を突っ込んで四、五匹の蛙をいっぺんに掴み出して、そのままもぞもぞ指を動かすと、それぞれの指の間から蛙が頭だけ出しているような格好になる。すると右手に持った中華包丁で、左手を回転させながら蛙の頭をざくざくを落としてしまう。それを横に放り投げると、また蛙を掴み出し同じことをするのだが、その間、頭のない蛙はそこらを力なく歩き回っている。全部頭を落としてしまうと、今度は一匹ずつ掴んで右の人差し指を頭の切り口の皮の下に突っ込んで一気に皮をむいてしまう。皮をむかれた蛙は横に放り投げられて折り重なっているが、赤い血管の浮き出たピンク色の頭のない蛙はまだ手足を動かしている。どうやらこういことらしい。つまり脳味噌より後ろを落とされた蛙は即死していしまうが、たまたま前の方、つまり口だけ落とされたやつはずっと生きているのだ。全部むいてしまうと、ビニール袋に入れて口を縛り、血のついた手を新聞紙で拭き、金を受け取る。そばに立って見ていたおばさんは大きな声でしきりに何やら野次を飛ばしていたが、蛙が全部おろされてしまうと左手に持った薄茶色の生卵に人差し指を突っ込んで穴を開けると頭をあおって中身を一気に飲み込んだ。

僕はというと、唖然としてしまって、とにかく一部始終を立って見ていたが、その場を離れても理性が戻らず、物を考えることができなくなった。周囲の光景は何もかも無秩序に見えた。

こうして思いだしていると、香港の市場の光景は描写の対象になるし、考える対象になるし、あれは決して秩序のない世界ではないのだが、実際にただ中を歩いているときは言葉で描写するなど思いもよらない。結局何もかも無秩序に見えたのは僕の頭から理性が逃げていったからだが、それ故に僕の見たものはある感覚になって大挙して傍若無人に心の中になだれ込んできた。恐らくそれらは心の中のどこかに直接縫い付けられたに違いない。言葉の介在しない記憶は、思いだされる時も言葉を伴わず、ある得体の知れない感覚や印象となって蘇ってくる。これらは僕の思考や行動を背後から操っている。どういうメカニズムが蓄積された印象と、外から見える行動の間に横たわっているかは、知るよしもない。

肉屋はほとんど三軒以上並んで市場の一角を占めていた。店頭の光景は皆ほとんど同じである。鋼鉄の鉤に掛けられた肉や内臓が所狭しと並んでいる。店の奥には屠殺されて内臓を抜かれた豚が折り重なり、店の真中の地べたではダンボールの上に乗せられた真二つに割られた豚が、内側から肋骨を露出させていた。店頭ではグロテスクな内臓類が目につく。肺はあまり売れない所なのか、どの店も僅かに青味がかった白い肺臓が鈴なりになってぶら下がっていた。その隣には薄茶色の腎臓、褐色の肝臓、赤茶色の心臓、胃袋はよく売れるせいなのかあまり見かけないが、おろしたてと思われる、まだ湯気を立てているような、とてつもなく大きい真白な胃袋がぶら下がっているのも見た。その時は隣に腸がだらりとぶら下がっていた。小腸は腸詰用として別に出てしまうのだろうか、ぶら下がっていたのは緑灰色をした大腸であった。その他、睾丸と思われる肌色のボールが鉤にいくつも串刺しになっていた。赤い血管に網の目のように覆われたピンク色の脳は、金属の盆の上に乗せられて、真黒い大きな蠅が時おりとまっていた。肉類は、肋肉、腿肉、フィレ肉など部位別の塊になって鉤にぶら下がっている。それらを客の注文に応じて店頭に据え付けの俎板の上で切り分けて売る。俎板は黒灰色に変色していて、恐らく毎日毎日肉汁や血を吸い込んであらゆる雑菌の温床になっているに違いない。店頭の強烈な、ほとんど刺激臭と言ってもよいほどの悪臭はこの俎板が発しているらしい。

香港の市場通りを歩いていると、この世界はあらゆるものが部分で、全体というものが見えないように出来上がっているような気がして来る。あるいは、部分の組み合わせによって全体が構成されるという考え方自体が意味を成さないように思えてくる。恐らく、西洋式の考え方で育った僕は、部品によって組み立てられた全体という構造を持ったある能力を理性と呼んでいるのだが、そういったものを理性と呼ぶのなら、この世界を支配しているものは理性ではなくむしろ得体の知れぬ本能であるように思われる。例えば、熱帯の森の中には、信じられないほどたくさんの種類の植物や動物が互いに密接に関係しながら、それぞれが自分勝手な姿格好と行動でもって生きているが、そういった世界に通じるものが現われている。あらゆる隅っこが僕の気を引く。面白いのが、どんなサイズでその光景を切り取っても必ず相似なものが見て取れるという点である。このいわゆる入れ子の構造が、西洋とまったく異なった、ここ香港の理性の形なのかもしれない。そう考えると実にエキサイティイングである。

市場通りを半分くらい来たところで、少し横へそれると、いかにも庶民然とした、気難しそうな顔をした中年のおじさん達が、やたらと小鳥を入れた小さな鳥籠を下げて歩いている地区がある。これは実はバードストリートと呼ばれる、愛玩用の鳥を売る店の集まった通りが近い印なのである。バードストリートは人が二、三人すれ違うといっぱいになってしまうような覆いの被った狭い路地で、両側に小鳥、鳥籠、鳥の餌を売る店がぎっしり並んでいる。おびただしい数の小鳥のかん高い鳴き声と、餌として売られる大小様々のバッタの羽ずれの音と、無言で這い回るみみずの類と、鳥籠に塗るうるしの臭いと、籠に取付ける様々なアクセサリーを削る電動彫刻刀のうなり声と、広東語の間断ない甲高いしゃべり声で、歩いていると気が遠くなりそうになる路地である。特に籠に取付けるアクセサリーは物凄い数の種類が売られていて、小さいものは小指の先ぐらいの代物だが、細かい細工が施してあり、何かしらの形に彫られている。これを鳥籠のひごに取り付け、これを装飾するのである。やはりここにも現われた、全体を構想して作り上げるのではなく、とにかく空いているスペースを埋めて行く、あの香港式やり方である。

中国人が大多数を占める香港の街は無論あらゆる漢字で装飾されているが、この漢字というものの持つ特性と、街の特性が不思議な符合を見せている。すなわちどんな難しい画数の多い漢字も、これを複数の部分に分けることができ、さらに各々を複数に分け、という繰り返し分解が可能で、ばらばらに解体された漢字は何かプリミティブな意味や物の形を表したものの雑然とした集合になる。すなわち巨大な複雑も、あらゆる部分に解体することが可能で、色々な段階で意味が重複したり輻輳したり反撥したりしながら、常にその特性を失わないのだ。西洋式の秩序の概念とは明らかに共通点がないように思われる。この香港を西洋風に形容してみよう。たったひとつの秩序、つまり生活するという秩序のもとに、あらゆる無秩序と混乱が大挙して押し寄せてくる街、香港。たいした光景である。この前ボードレールを読んでいたら、ヨーロッパにとってアジアは悪夢のようなものであり、耐えがたい危険な衝動だといったような事が書いてあった。いや、でも僕の感覚的趣味は中国料理だから、やっぱり僕にもアジアの血が流れているに違いない。それにしても………

香港の街並みを眺めると、色々なものが建物から飛び出している。彼らは敷地ぎりぎりいっぱいにビルを建て、自分の持ち物の目の前の空間をどう使おうと俺の勝手だと言わんばかりにあらゆる突起物を取付ける。看板、ベランダ、物干し竿、日除け等々が乱脈に飛び出して、背の高いビルはサボテンのようなイメージになる。特に商店街や飲食店街では街路に向かって看板が突き出しているのだが、彼らは看板を横に作るので、道路の右と左から突き出た看板が櫛形にかみ合って、道に立ってその果てを眺めると、折り重なった看板でアーケードができているように見える。視線を上に向けるとそこは彼らの住居であるが、突き出た鉄骨のベランダに、なんとも汚らしい草木を植えた鉢が所狭いしと並べ立ててある。この植木鉢は不思議と、貧しいと思われる住居の前ほどたくさん置かれている。枝と葉っぱで自分達の住みかをカムフラージュするかのごとくである。

夜になると、道沿いに立ち並ぶ大衆食堂は店の前にテーブルと椅子を道いっぱいに並べ、たちどころに満席になり、皆ひたすら何か喰っている。彼らはとにかく食い散らかすことは平気で、スーツ姿のOLやサラリーマンでも、手とテーブルと道をぐちゃぐちゃにして食べている。眺めると実に壮観である。僕には香港百万ドルの夜景よりこっちの方がよほど面白い。あるいは、様々な喰い物を売る移動式屋台が道端に並ぶ。コークスの移動竃の上に油が煮えたぎって、それがアセチレン燈の火に照らされて黄金色に光っている。板を渡しただけの台の上に得体の知れない材料の類が乱雑に散らばっている。忙しく働く屋台料理人の回りに群がって順番を待っている連中の顔が夜の闇の中に立てられたアセチレン燈の光の中に浮かび上がる。夜の市場のごった返った喧騒の中で瞬間々々は絶対的に沈黙している。料理人は早く料理をあげることに、客は料理を待つことに集中して他の一切を忘れ去ってしまっているように見える。

僕はやはり夢を見に来ているのだ。



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