香港の大衆料理について

香港へは返還前に十回以上は行き、ひたすらほっつき歩いては大衆料理を食っていた。香港の大衆料理をエキゾチム100%で紹介した文。これもたぶん1989年ごろ

冷房の利いたホテルから出たとたんに押し寄せる息詰まるような熱気と独特の臭いが香港の魅力の前提である。香港はあの町中に広がる臭いを抜きには語れない。それは、あの粗悪な東南アジア米のむせかえるような臭みと、料理店の店先にぶらさがる臘味(ラウェイ、腸詰や干し肉)の類に使われている香辛料の臭いの混合である。この臭いの出所に、ファーストフード風の大衆食堂と高級料理店の区別はない。きれいに整備された現代風の通りを歩いていても、雑然とした大衆商店街を歩いていても、いかにも不衛生な市場通りを歩いていても、漂ってくる臭いは変わらず、香港という街のイメージはこの独特の臭いと一番強く結び付いている。

だから、僕にとっての香港の中国料理は広東や四川や上海よりも先に、これら臘味や焼き物と、東南アジア米の取り合わせから始まる。香港の住民は広州出身者が最も多いので、料理店も広東料理を出す店が多いが、他の流派の料理店も決して少なくはなく、街中に立って見渡せば、川菜とか京菜とかいう文字が必ず見つかる。しかし、これら各派を専門にする店も、昼飯どきには飲茶一色になってしまうようだった。香港の人間は、昼飯の点心についてはそううるさいことは言わないらしく、正午を回ると街じゅうの人間が身近な店に入って行き、店はまたたく間に満席になってしまう。

婆さんがワゴンを押して回り、カン高い声に独特の節を付けて料理の名前を連呼する。中国語は日本語よりトーンが高く、またずっと大きな声で発声するので、店内は凄い喧騒だが、何をしゃべっているかまったく分からず、ただとにかく騒々しいのである。ほとんど間断なくあちこちから聞こえてくる回りよりひと調子高い売り子の声が、この無秩序な劇のアクセントだ。時折、知った言葉が聞こえてくる。叉燒包(チャーシューパオ)や蝦餃(ハーガオ)、これはすぐに分かる。その他は、とにかく人が注文するのを見て、旨そうだと婆さんに手を振って呼び止める。色々ある点心の中で気になるのがあった。それは、両手で包み込めるくらいの大きさの白い小さな陶磁器の壷に、粗末なアルマイトの蓋を乗せたやつで、婆さんはパァォファアファンと発音している。最後のファンが飯であることは間違いない。こいつの売れ行きがとてもよく、皆が注文している。注文されると蓋を開けて醤油をじゃーとかけてから手渡す。皆がつがつ喰っている、何だろう。

僕は二度目に来たときこれを注文した。蓋を開けてみると、茶色に染まった鷄の足や鷄の首や、その他得体の知れないクズ肉のようなものを飯の上に乗せたいわゆるル飯であった。といってもこの場合、ル水のダシを取るために入れる鷄の足やその他骨と脂肪ばかりのガラなど、捨ててしまうようなものを乗せてあるわけで、ル飯の中でも破格に経済的なものなのだ。しかしこれがまた抜群に旨い。その訳は、この独特の臭みのある現地米と、ル水の強烈な香辛料にある。臭い米といかがわしい鷄ガラの取り合わせはエキゾチズムの極致だ。斜め前に座っているおじさんは、これを注文して、一口かきこむと、鷄の足やら首やらに付いている皮や脂肪や軟骨を丁寧に丁寧に舌でこそげ取って、骨に染み込んだ汁をしゃぶり取って、最後に硬い骨のかけらになるとペッとカラをテーブルの上に吐き出すという作業を黙々と続けていた。

いわゆる旨い中国料理、高級な中国料理は、中国料理の発達した日本でもかなりの線まで再現できるし、金さえ使えば、あるいは本場をしのぐほどの本当によい料理を味合うことができる。これに対して、日本で出される中国料理と最も異なっているのが大衆料理である。香港の大衆食堂で日常的に出される料理に残念ながら日本で出会ったことはない。不思議なことに日本以外の他国のチャイナタウンでは、本場の大衆料理に近いものが味わえる。もっとも、近いのは確かだが、やはりここ香港のものを何倍かに薄めたような代物である。本当に魅力的な飯はやはりここ香港に来ないとだめなのだ。臭いも味も日本の中華料理とは似ても似つかないものである。最もはっきりした理由は、米の臭いの違いと、ふんだんに使われる香辛料であるが、それだけではない何かがある。それは料理全体に漂っている一種の発酵臭、あるいは腐臭のようなもののせいらしい。香港あるいは中国では特にそうだが、大衆レベルでは、どうやら冷蔵庫などほとんど使っていなくて、市場に置かれた材料から始まって調理場に至るまで、すべての肉類、野菜類、調味料、そして焼き物や煮物などの加工品等々は、常温に放置されている。そのせいで、時間がたつと何らかの形で変質するわけだが、その変質のしかたが独特なのである。これは想像だが、常温に置かれた食品が変質する際に、香港の街にまんべんなく漂っている何らかの特殊な菌が関係しているのではないだろうか。そして恐らくこの菌は香港の環境の中でしか生きられないものなのではなかろうか。

さて、香港の大衆料理として、もっともポピュラーなのはル味飯であろう。僕が初めて香港にやってきたとき、無論四日間に渡って毎日現地の中国料理を喰っていたのだが、きちんとしたレストランに入っていたので香港大衆料理の本当の魅力には気付かなかった。しかし、帰国する最終日、午前中の飛行機で帰るはずが、ダブルブッキングでフライトが遅れ、数時間の空きが出来た。その時昼飯を喰いに入ったのが完全な大衆料理屋で、そこで僕は初めてル味飯のひとつである燒鴨油鷄飯(焼き鴨と蒸し鷄のせ飯)を喰って、あまりの旨さに陶然としてしまったという訳である。大きな平皿に、あの細長くてぱさぱさでかつ強い独特の臭いのあるインディカ米がたっぷり乗り、その上に、あの街の至る所の店頭に吊り下がっている、鴨の焼き物と白く蒸した鷄のぶつ切りが乗っけてあり、さらに小皿には刻み葱の入った塩辛くて恐ろしく濃厚な味の黄色い油がついてくる。この油にはご丁寧に小さな蚊かなにかの虫が入っていて、実に不衛生だが、目の前に置かれたこのいわゆる現地のメシは何か感動的で、喰ってみるとこのあくどい味と臭いは、僕が茫然として歩いていたあの市場通りにあった生活の味そのものであることに気付いた訳である。

そして麺類である。いわゆる日本のラーメンに相当する汁そばが数多くあるが、これもまた圧倒的に異なっている。麺は細くぱさぱさでほとんど味がしないような代物で、汁は少なく濃厚である。香港では特にスープを取るときに海産物の乾物を多く入れるらしく、さらにスープの中にまで香辛料が入っていて、なにか全体的にかすかに緑色をした汁である。上に乗せる具は様々だが、安いものなら例えば豚の大腸のル水煮のようなもののぶつ切りと、香港で青菜としてもっとも良く使われる芥蘭菜の緑色の茎、そして刻み葱がのっかる。とにかく全体的にかすかに腐ったような臭いがする。野菜市場、果物市場等々へ行くと、色々なものが腐って異様な臭いがするのだが、その臭いのいくばくかを、この汁そばは持っているのである。汁がかすかに緑がかっている様子も、あの屑野菜捨て場に水たまりのように溜まって道路へ流れ出している腐った白みがかった緑色の汁を連想させる。これを良しとするか否かは好みであろうが、僕はこのいかにも不衛生な臭いと、独特な味の香港汁そばなしでは香港を思いだせないほどこれが好きである。 

これら中国大衆料理であっても、宴席料理をその基本とする本格的中国料理であっても、調理場の風景はほとんど変わらないのが中国料理の特徴であろう。香港で大衆料理を出す店として特筆すべきは、街の一角を占める、金網で囲まれた広いスペースに何店かの仮設の料理店が集合してできた場所であろう。テーブルと椅子がぎっしりと並んでいて店の区分はなく、そこらを歩いている店の人に適当に料理を注文する。ここは建物の中ではなく調理場は仮設なので、うまい場所に席を確保すれば調理している様が見物できる。古びた煉瓦を竃の形に組立て、そこにコークスを燃し、物凄い勢いで吹き上げる火の上に真黒の中華鍋を置いて、横に置いた油壷の中から黄金色の油を勺子ですくって鍋に注いで、例えばぶつ切りにした半透明の巨大な生のしゃこを一気に煮えたぎった油の中に入れる。すると凄い音とともに一瞬で火が通ってしまい、これを網勺子にあけて油を切り、再び材料を鍋に戻し入れて調味料を加えてあおり返して皿にあける、といった動作の繰り返しを延々続けている。

この煮えた油の中に材料を入れる時の眺めは、僕にとっていくら見ても飽きない魅力的な光景である。もともと中国料理に惹かれたきっかけが、この油の中の材料を撮った写真を見たことであった。それは、豚の肝臓を極々薄く切り(中国語で肝片と言う)これを油に入れ、勺子でゆっくりとかき混ぜている所を真上から撮ったもので、ぬるぬるとして不定形な肝片がかき混ぜるにしたがって油の中で花が開くようにほぐれて行き、まるで蝶々のように今にも泡立った油の中から飛び立って行きそうなそんな感じを受けたのである。

その後、中国料理について色々調べるにつけ、最初に受けた印象の意味が分かってきた。それは、中国流のメタモルフォーズの感覚であり、ある何か物が、ある操作によって元の物とまったく異なった別の物に変化する、という事に対する快感である。ここで注意しなければならないのが、あくまでもこれは即物的感覚であって、精神的因果関係による変化ではないため、そのせいで、そこに一種残忍な性格が現われる、そういった代物であるという事である。この僕の見て取った中国的性格は、常に、人間や生き物を含めたあらゆるものは、すべて精神などかけらも持たぬ『物』であると、不断に叫び続けているように見える。香港にいると、街の風景から調理場の光景まで、この根本的性格を実に至る所で見ることができる。

非常に大雑把に要約すると、自然と人間の関係というものを、西洋では論理的に関係づけ、日本では叙情的に関係づけ、中国では叙事的に関係づける。

人肉嗜好という言葉は、ここ香港でこそその残忍な性格を明らかにすると思われる。無論ここで言う残忍は精神に対する精神的残忍ではなく、精神性を持たないという意味での残忍さである。よく言われるようにあらゆるものを食用にする中国人にとって、人肉がその例外であろうはずがない。古い文献には人肉嗜好に関する多くの記録が残っているが、中国のそれは、やはり他国のそれと感覚が異なっているのである。例えば、皿に置かれた人間の生の肝臓は、西洋においては圧倒的に精神的存在である。その精神性から西欧の人間達はあらゆる空想や、あらゆる背徳的な快感や、あらゆる偽善や欺瞞に基づく精神的快楽を、その一種の二重性に基づいた隠れた快感を享受する。すなわちキリスト教的快楽である。

それに対して中国の逸話に現われる、皿の上の人間の肝臓には精神のかけらもない。これは単なる物に過ぎない。あるいは精神のかけらが残っていたとしても、この柔らかい褐色の塊は、豪々と燃え盛る火にかけられた煮えたぎった油の中に入れられ、もの凄い高温の中で、精神などは一瞬で跡形もなく蒸発してしまうのだ。彼らのこの徹底的に即物的なリアリズムは、西欧風の精神性に対する残虐で容赦のない反論だと思う。僕は、西欧風に空想して、もしソドムを焼き払った神様が中国人だったら、さしずめ煮えたぎった油を地上に注いで、大量の油の中でからからに揚がって浮いてくる人間共を、長い鉄の箸でつまんでは喰ってしまう、中国風悪魔のような神様を空想して、大笑いしてしまう。

さて、以上空想半分の中国料理に関する感想だが、香港の町並みと、大衆中国料理の話に終始してしまったが、これらに現われる動かし難い感覚を前提にして、この後に本格的な中国料理の膨大な世界が広がっている。僕の見るかぎり、本場の中国料理にはいわゆる貴賤がない。どんな高級なそれにも必ず大衆料理の感覚が現われ、その高級料理が精緻で巧妙であるほどその中に現われた変わらない民族性は感動的である。香港という街を歩いていると、この混乱した街の特性と、大衆中国料理の関連はあまりに明確で、これらは互いに一体となって襲ってくるのである。すなわち、以上の感想は動かし難い体験となって直に感じられるのである。

それにしても、まるで麻薬のように香港にどっぷりとつかった後、日本へ帰ってきて、自国の食文化に戻って見てみると、実に日本という国は二極化、三極化した文化という気がして気が抜けるのだ。日本をこきおろすのは簡単だが、とめどないグチになってしまい気分も悪いので止めておき、時々香港のように動かしようのない原理の支配した街へやってくるという訳だ。ただし、これは旅行者としてに限るようだ。香港の大衆中国料理をこれほどに恋い焦がれる僕であっても、何度香港に行ってもだいたい一度は腹をこわすのだから。



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