独り言 放言

ミクシィの独り言シリーズの一つ (9/23、2010)

さて、さいきんパッタリと日記を書かなくなったな〜

ツイッターにつらつら書いているせいなんだけど、Mixi日記はともかく、マジメブログの方なんかもう二ヶ月もたっちゃってるかもな。

と、いうわけで、久々に書いてみようかな、ということなんだけど、実はなーんにもネタが無いので思いつくままね。

15年前に自費出版した「ゴッホ」の本をまるごとスキャンしてもらったpdfが今朝、届いたので、今日は一日、こいつを一般公開すべくページをあれこれ作ってたらけっこう時間がかかっちゃった。夕方ぐらいに無事、公開。

最初は、pdfダウンロードを有料にして販売しようと思ったんだけど、結局、お金と引き換えのプロセス運営が面倒なのと、あと10月からゴッホ展ってヤツが始まるので、それに合わせてひょっとしたら少しは読んでくれる人も現れたりするかなあ、ときわめて淡い期待をかけて無料公開にすることにした。

たしかに、この本、自費で当時145万円(!)もかかったわけで、そんな金払っても出版したい、という強い意志があったわけだ。書籍コードはついていたので売れてもいいはずだが、結局、見知らぬ人に対しては3冊ぐらい売れただけで、もちろん、世の中に出しはしたが、ほんのわずかの反響すら無かった。

知人たちには、あれこれと配って、中には丁寧に感想をよこしてくれた奇特な人もいて、それは嬉しかったけれどね、やはりむなしさも、あったな。

この本は、25年前にゴッホの本物を上野で見てものすごい衝撃を受けて、それからおよそ10年ぐらいかけて書き溜めた文に推敲を重ねて出版にこぎつけたもので、まあ、自分なりに精魂を傾けて書いたものだった。当時、世間の一般的なゴッホ観に自分は飽き足らないどころか反発を抱いていたので、他の誰も触れていないような自分独自のゴッホ観を打ち立てて、それを本にまとめて発表した、という自負もあった。

でも、本なんて、内容がよければそれがそのまま世間に受け入れられるわけでは決してないのは当たり前のことで、仕方のないことなので、一抹の寂しさを残して、あきらめていたけれどね。

それを今回、電子出版で無料公開、と、こういうわけだ。もっとも、これもまた世間になんらの波も引き起こさないであろうことは、最初から承知の上なんだけど、ま、自分の義務みたいなもんだ。あと、もう一つ大切なのは、僕の人生に多大な影響を与えてくれたヴィンセント・ヴァン・ゴッホに対する、感謝の印みたいなものだ。

しかし、ツイッターにもたらたら書いたけど、ゴッホ展のホームページを見ると、なんとなく隔世の感を感じるよな。今回は、国立西洋美術館ではなく、国立新美術館から、福岡、名古屋、と巡業する。それぞれホームページを持っているけど、まあ、そのノリの軽いこと、軽いこと!

ゴッホカフェとかいう専用ブログには、街中に貼ってあるゴッホ展ポスターのスナップ写真に芸能人のインタビュー。TBSがお金を出しているらしく平井堅にオフィシャルテーマ曲を書かせてミーハーなゴッホ番組を放送するらしい。福岡ではゴッホファンクラブに入会すると特典がついて、それらをご案内するのがマスコットキャラクタ「ゴッホさん」だ。ゴッホさんは、ゆるきゃら系で、絵筆とパレットを持ってニコっとしてる。

ちなみにゴッホさんの持ってるパレットには5色の色が整然と並んでるけど、これだけはゴッホの本物のパレットみたいに色がグチャーって混ざってるのにして欲しかったな〜 

しかしまあ、けっこうはしゃぎっぱなしな企画のオンパレードで、ここまでゆるゆるで軽薄さ全開になっちゃうと、怒る、とかそういう感情もないし、呆れもせず、何と言うか、AKB48にむらがる人たちを見て「へーえ」、と条件反射のようにつぶやくのに似て、自分と違う世界、っていう風で別にそれほど罪なことではないみたい。

とまあ、こんな状況の現在の世間に、オレのくそ真面目なゴッホ本を出したところで、なーんにもならないよな。

むかし「芸術」、と言われていたものが下々のところまで、これで完全に降りてきたのだな、と感慨する。昔の「芸術」って言葉には近寄りがたい特権階級的な響きがあったわけで、下々の者には理解できないのが正常だ、という認識があったと思うのだが、それは見事に解体したね。

もちろん、この解体は芸術家自らが行ったものという言い方もできる。ピカソやウォーホールらを見ればすぐに分かることだ。ただ、彼らが決行した芸術の解体と、それが平民のレベルまで降りてきて解体することとは、実は意味が違うのだけど、解体というレベルでは一緒だ。むしろ、ああいう現代の大芸術家が今日のこの解体された民主社会のなれの果てを強く予感していた、と言うべきだ。

ま、いっか、マジメは止めーwww

そりゃあさ、ウォーホールの「キャンベルスープ缶」って作品があるが、あれって皆さん、どうしてますか?w キャンベルのスープ缶を引き伸ばしてシルクスクリーンに刷っただけだからなあ(ちなみに、オレ、実は、キャンベルのスープ缶、好き!) ああいうものを見せられて、「はい、これは芸術作品ですよ。世界的に有名なんです。みなさんこれが一枚いくらだか知ってますか」みたいに言われちゃ、アホ面して「ほほーう」とでも反応するしか、ないよねえw

こんなウォーホールを含めて「現代美術はむつかしくて分からない」と絶望的な顔をする人たちがいるが、何をいってんの? と思うよ、ホントのところ。別に、だって、そんなに分かりにくいものは無いからね。行間さえ読まずにストレートに「見る」ことだけが大切なわけで、それ以上では無いのだから。そしてそれ以下でもないか、というと、そんなことは無く、それ以下のところには「悟性」がある。そして、そこに大勢の美術評論家が生息している。なーんて、クソ、またマジメに走った。。

現代美術に比べると、たとえばベラスケスやゴヤやピエロ・デラ・フランチェスカの方がずっとずっと難しい。汲んでも汲みつくせない秘密が、あるからね。「見る」ということ「感じる」ということ「考える」ということ、それら相矛盾することを一体にしてかからないと始末できない「大きさと深さ」があるからね、彼らの作品には。

で、ゴッホなんだけど、ゴッホって、古典絵画と現代美術のちょうど過渡期の接点に相当するところにいる画家で、そこが実は彼のポジショニングの特質すべき点なんじゃないかな。それで、それゆえに、ゴッホは今現代の一般民衆にとても人気がある。たぶんね、今度のゴッホ展、大変なことになるよ。何時間待ちで入れるのかな、って感じ。少なくとも日本では集客力ナンバーワンだと、思うんだな〜

というのも、ゴッホのそういうポジショニングは「写真みたいで何が特別だか分からない古典絵画」と「むつかしくて何が芸術なんだか分からない現代美術」のちょうど真ん中じゃない? そこが、ウケる秘密じゃないかな、って思うわけ。両極端に対するフラストレーションをゴッホが解決してくれるわけだ。ゴッホが分かれば、両方分かっちゃう、っていうか。

それで、ゴッホの絵画というものは、とても易しく解釈できるネタをたくさん持っているし、なにせ、ゴッホという人物そのものの特殊性がすごくて、その人物への多大なゴシップ趣味的興味に共感すれば、その共感で「彼の画布」を解釈して納得すれば「ゴッホ理解」の出来上がりだ。「あら、ゴッホのこんな性癖がこんな落ち着きのないタッチを生んだのね」みたいな感じで、ね。

このへんの民主現代的な芸術理解の様子って、オレの記憶では、NHKとフランス共同制作の「ルーブル美術館」から始まった気がするな。女優と男優かなんかがルーブルの間を歩きながらペラペラとムダ口をしゃべるあれが、我々平民に与えたインパクトは強かったと、思うな。古典絵画の立派な画布を前にして、男の方が鹿爪らしい芸術講釈をたれちゃったりすると、最後に女性の方が「あら、でも、この絵のこの公爵の横顔、あなたにそっくりだわ」みたいなこと言ったりして女優の素敵な笑みを浮かべちゃって、男優がこれまた素敵な鼻白んだ表情をしたりなんかして、うーん、やるな、フランス人!ww

「あーら、そうなのね、芸術、芸術って偉そうに言うけど、こんな風に楽しんじゃっていいのね。そうなんだわ、だってかの俳優さんたちって、ほら、会話が洒落てて、自由で、ほんと、素敵。わたしたちも、真面目くさってないで、もっと楽しみましょう!」

みたいな〜 あの後に空前の美術ブームが来たような覚えがあるけど、間違ってたかな?

そういや、そのころにグルメブームも、来たような。これまた、同じようなもんかな。いや、グルメの方はちょっと事情が違うか。ところでグルメブームで自分が遺憾だなーと思うのは化学調味料悪者風潮だな。化学調味料といっても、忌み嫌われたのはほとんど「味の素」だったよね。

実際、中国や香港などではこの味の素は「味精(ウェイ・チン)」といって、今でも大量に使われてるんだよね。広東料理では高級料理店であってもほとんど必須と言ってもいいアイテムの味の素、かの周富徳がテレビでそれをふつうにバラして、なんとなく彼をバッシングするような風潮があったよね。周富徳は結局のところ一流じゃなくてタダの大衆料理人だ、みたいな

この前、YouTubeで香港の高級レストランの厨房を映したムービーを見たけど、塩味の炒めものに、思い切りこの味の素をザラっと入れてたけど、英語のナレーションはこれを飛ばしてたね。面白い。英語圏ではこの味の素(MSG)は非常に悪者だからね〜 あれは、アジアの味なんだよね。ウェスターンではたしかにご法度だ。

それで、グルメブームが十分に民衆に定着して、それでどうなったかというと、化学調味料は依然として悪者っぽいんだけど、変わりに大量の「味の粉」が使われるようになって、そっちの方はほとんど誰も気に留めない。人工調味料の業者のホームページに行ってみると、ホント、もう、愕然としちゃうよ。ものすごい数の種類の味の粉が販売されていてビビる。この粉がいろいろ混ぜられて、昨今のチェーン店の味を作ってるんだよね。そのくせして、下手すると「化学調味料不使用」とうたったりしている。というのは、法律上「化学調味料」に分類されない味の粉がたくさん開発されているから。

ちょっと愚痴っぽいのでもう止めるけど、あの異常に強い「コク」は、オレには厳しいな〜

そんなときに、一丁50円の安トウフに、ネギとショウガを乗せて、卓上のショウユかけて食え、みたいな冷奴を出してくれるとホッとしちゃったりするわけよ。それで、ビール、ホッピー、焼酎、と。ははは

で、ゴッホ展だが、渓谷の散歩だったかな、すごい絵が来るね。また、見たいや。25年前の上野にも来たやつだ。せっかくなら、新宿の向日葵、ポーラ美術館のあざみの花、ひろしま美術館のドービニーの庭も持ってきてくれたら、ホント、うれしかったんだけどな。特に、最後の土地のオーヴェールで描かれた平凡な画布は、自分には何ものにも代えがたい。。。

ゴッホは料理とか、ぜーんぜん縁が無いんだよね。ゴーギャンと共同生活していたときも、ゴーギャンなんかフランス人だし元船乗りだったり上層階級だったりもしたせいで舌もこえていて、しかも料理も上手、女にももてる、話もうまい、などなど、粗野で変人でブ男のゴッホには実生活上では、まったく勝ち目がなかったわけだ。

それで、ゴーギャンの思い出によれば、ある日、ヴィンセントが自分も料理がしたいと言い出しスープを作ったのだが、おおかた絵の具を混ぜる伝で作ったのだろう、要するに飲めたものではなかった、と書いてたっけ。

とにかくゴッホという人間は真性の変人なんだ。

変人ゆえのモノの見方の独自性があるんだが、あれも変人ゆえだろうな。あ、そうそう、ゴッホの病気は、臨床心理学的な研究によればどうやら癲癇だったそうだね。まあ、今回のゴッホ展ではその辺についてもあれこれ詮索が展示されるとは思うが。癲癇、といえばドストエフスキーだよね。彼の小説には、この癲癇持ちの人間が出てきて、癲癇のときの様子があれこれ描写されていて面白い。倒れる直前に、恐ろしいほどの宇宙の大調和の瞬間が現れるらしい。それの幸福感があまりに強烈なせいで、人間の体では耐えられず、それで絶叫して倒れる、などと説明されている。

ゴッホの絵には、たしかに、そういった兆候が見られるよね。

それで、「これこれの病気」だったから、その影響によって「これこれの絵を描いた」というのは、俗な意味では「そっか、それで納得!」と、こうなって、「はい、次!」、と来るわけだが、実際の話、そんな因果関係で何が証明されたわけでも、何が分かったわけでも、何が納得できたわけでもない。と、いうところに普通の人はあまり気付きたがらないけど、それは、まあ、仕方ない。だって、わかんないものをわかんないまま置いておく、っていうのは娑婆の生活ではいいことじゃないから

ま、とにかく、要点は、「これこれの病気」がこの世界から一体「何を掘り起こしたのか」ということなんだと思うな。

冒頭で紹介した僕の書いたゴッホの本では、これをひたすら追及したのであった。ただ、僕がその中で到達した「何か」はきわめて個人的なものに根ざしているわけで、まるっきり客観性がない。なので、僕のゴッホ解釈は、娑婆の役にはこれっぽっちも立たない、ってことになっちゃう。しかしながら、神のみぞ知るだ、娑婆ではまるっきり主観的なことが、天上では客観的である、という事態だってあるはずだ。

ワケがわかんないこと言っててすまん! ただね、オレのゴッホの本の中には、ゴッホの画布の視覚的な不思議をあれこれ取り上げているところもあって、それは誰にでも分かる客観的な事実だからね、そういうところは面白いかも。たとえば、ゴッホがサンレミで描いた「糸杉のある麦畑」という画布と、ルネサンス初期のジョットという画家が描いた宗教画の「十字架から下ろされたキリスト」との視覚的な類似性なんか、これ、世界の誰も気が付かなかったことなんだけどな。ちなみに、以下のページで、この2枚の絵を掲載して類似性を簡単に説明してます。

http://hayashimasaki.net/gogh/gogh80.htm

もちろんこの類似性の発見を元に、あれこれと分析考察をした章が自分の本の中にあるんだけどね。あ、あと、こういうものがいわゆる一般的な美術論文やアカデミックな美術評論にはほとんどなりえない、ということも自分は分かっているつもり。一種の「神秘」だからね。ちょうどユングが晩年に「共時性」の概念をアカデミック界で提唱して、それで結局心理学界から異端の烙印を押されてしまったように、この現代では、科学的な場に神秘を持ち出すのはご法度なんだ。

これについては、ユングの生きていたころよりずっとひどくなっていると僕は思う。科学というものがあまりに一般平民にまで降りてきて浸透してしまっていて、「科学そのもの」を批判する、ということがずいぶんと野暮なことになってしまった。それから、特に、新興宗教やもっと言うとカルト集団が一般社会の敵として扱われるに至って、「神秘」を振りかざすものは、それらカルトらと同族とみなされる傾向が行き渡った観がある。

でも、一方で、いわゆる「スピリチュアル」が幅を利かせていて、こちらは恐らくハナから「科学」と対決する気などなく、それとは全く違った土地にその木を茂らせて、人を呼び込んでいる感じだ。

少し前にスピリチュアルの世界をちょっとのぞいてみたんだが、けっこうきちんとした事を、言っているんだよね。ありゃりゃー、どうしようか、って感じ。でも、何となく同時にはっきり分かったのが「科学と対決する気はまったくなさそうだ」ということだった。

それで、何がいま現代ではヤバイもの扱いされるかと言うと、「スピリチュアル的な神秘的なものを科学と調和させて、融合させて、科学自体の足りないところを補って、科学そのものを次の世代の新しい学問に発展させよう」という態度ではないだろうか。これをやろうとする人は、アカデミックな世界ではかなり迫害されるみたいだ。ユングがいい例だ。

でも、本当の本当は、それをするべきだと、自分は思うんだけどね。。。

で、自分は、というと、そこまで過激なことはやりはしないけど、やはり基本的にはそんな気持ちをいつも持っている。オレのゴッホの本だって、それをやりたかったんだし。

しかし、まあ、いつまでもマイナーか〜 

そんな無駄なことをやってるより、ブルース弾いて歌ってた方がいいかな〜 でも、音楽やってても、オレって女の子にあんまりもてないからな〜 なんか、変身したいな〜 オレもオレをやってるのがメンドーなときも、あるさ。これは皆、一緒だよね? (そんなはずない?w)

そんなわけで、頭の上から足の先まで変相して着飾って、それでコテコテのブルースを演奏して、おまけに女の子にもてちゃう、なんていうブルースバンドを企画したのだが、ちょっとバカバカしいかー、ははは

ところで、だ、いつまで書いていたら気が済むんだろう。やはり、140文字の方がよろしいのであろうか。

あ、そうだ、最後に最初に戻って宣伝。ゴッホの本のPDF版のダウンロードはこちらです。

http://hayashimasaki.net/goghbook.html

いい加減、寝るかー あしたは仕事だしね!

誰もここまで読まないと思うけど、放言、失礼! 



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