先日、とあるパーティーのアトラクションで、京都から呼んだ芸子さんと舞妓さんの舞を見る機会があった。一人の芸子さんと二人の舞妓さんが来ていたのだが、聞いた話だと、舞妓さんの方が格下で、舞妓さんとして5年だか修行を積んで、それで芸子さんに昇格するのだそうだ。始めに、芸子さんが一人で踊った。僕はこの手の踊りは映画のワンシーンで見たことがあるていどで、理解が薄く、そのせいで感動も薄く、なるほどね、と見ていただけだった。そして、今度は、舞妓さん二人の踊りになった。僕には踊りの区別もつかないのだが、少し気づくところがあったので、その話である。

芸歴の長い芸子さんの方が年齢が上なのは当たり前だけど、こちらの舞妓さんの方は、当然かなり年齢が若く、十代と思われる。舞妓さん二人とも、とてもきれいだけど、あきらかに今風の女の子であった。着物を着て白塗りの化粧はしているが、その身のこなしや、表情や、そのほか全身から発しているオーラが今風なのである。踊っている姿を見ながらも、この子たちが今風のカッコをして渋谷かなんかを颯爽と歩いているさまが、容易に、じかに想像できてしまうほどのはっきりしたオーラが感じられる。

それで、踊りの方だけど、僕はちょっと印象的だったので、近寄ってよくよく眺めてしまった(立食だったのである)。なんというか、非常に上手である。流れるような動きと、正確なリズム感、それで思わせぶりな表情や、きれいなシナの作り方などなど、教則本ビデオにでもしたくなる雰囲気なのである。それで、はっきりと想像したのだけど、この若い今風の子たちにとって、このていどの日本舞踊を覚えて踊って見せることは苦も無く、あっという間にできる芸当なのだろう。というのは、動きの中に苦労の跡がまったく見られないのである。

こういうのは、現代という時代の環境なのだか、遺伝なのだか、よく分からないのだけど、現代育ちの若者達は、ほんとうになんでも器用にこなしてやってのける。なんでもかんでも、こんなに簡単に習得できてしまって、さぞかし楽しかろう、と羨望を感じる人も多いのではないか。僕は、ギター、歌、料理、物書きと、芸歴(!)が長いが、まったくの遅咲きで、うまくできるまでにそれぞれすべて十年以上かかっている。その自分の習得のスピード感と、若者達のそれと明らかに差を感じる。自分はもう今では芸がそこそこのレベルに達したのでそうそう羨ましくは思わないのだが、そうした若者達に対して感心して驚嘆すると同時に、少しだけ不満足に思うこともある。

この舞妓さんたちの踊りを見ていて、はっきり感じたのだけど、やはりさすが芸子さんの踊りの方が良かったのである。舞妓さんたち、これだけうまく踊れてしまうと、はてさて芸子さんになるまでの5年だかの修行期間は一体何なのか、と思わないだろうか。もう、できているじゃないか、これ以上何を付け加えろ、というんだ、と思わないでもない。では、自分が見て、なんで芸子さんの芸の方がよく見えるかというと、それは、芸子さんの一連の動きの中に感じられる一種の「ブレ」である。舞妓さんの方は、このブレがまったく感じられない、意地悪に言ってしまうと、ロボットかCGを見ているような感じなのである。このブレというのは、直接に「人間らしさ」に関係していて、芸歴の長い人の芸というのは、見ていると、「ああ、人間っていいなあ、人生っていいなあ」という、一種、怪しい感動を受けることがある。

生きて、生活して、こまごまと常に動いている僕ら人間や、動物や、なにやら生き物は、決して正確に機械のようには動かない。常に不正確さを伴いながら動いているさまは、たとえば、コーヒーカップを持って一口飲んでカップを置く動作を実際にしてみれば分かることだ。一度として同じ動作をしない。さて、芸というのは、そういった生き物の不正確さと一見相反する形式や様式の中で何かを表現することなのだけど、芸を形作るブレのない形式と、言うことを聞こうとしないブレだらけの人間の不器用との間に常に葛藤があって、それを克服することを修行というのだろう。この克服にはふつう長い時間がかかり、その中で人は、自分だけの芸を習得して行く。もし、芸の形式を真似るだけだったら、芸は個性を現さず、どの人間がやってもまったく同じものになるはず。あるいは、その芸の歴史の中に、創意のある才能のある人間が時々現れて、芸の形式自体を適宜発明し、付け加え発展させることはできる。

しかし、長い修行の果てに習得した芸人の芸というのは、動かしようのない個性が感じられ、極端に言うと、その人が死んでしまったら、はっきりともう終わってしまう、という独特のノリを持っていて、こういうものに触れるたびに驚き、不思議に思い、なぜだか分からないけど、ああ、生きていてよかったなあ、という怪しい感興を覚える。

さて、芸子さんや舞妓さんの踊りを見て、あれこれ思うところがあったという話しだけど、そういう、芸人の人生そのものを現しているような芸というのは、もういくぶんか古風なものに属していて、なかなか見る機会が少なくなっているような気もする。芸を見るぼくらの方も、そういう濃厚な芸を見させられると、人生の重みの重力波みたいなものが押し寄せ、圧倒されて、濃すぎて、ときどきくたびれてイヤになってしまうこともある。現代になって、若者達が進化するならば、こちらだってやっぱり進化するのだ。だんだん、自分たちの生活自体が、そういう濃厚な生活感や人生観を伴わない方向に向かっているような気もして、そんな希薄な世の中では、古風なアクの強い昔からの芸はノーサンキューということにもなるのかもしれない。

さっきから、「怪しい感動」という風に「怪しい」をつけているのはワケの無いことではない。なんだか、怪しいのである、いかがわしいと言うか(笑) もっと、きりっとすっきりした爽快で明快な感動というものに、この怪しさやいかがわしさは、そのうち駆逐されて行くのかな、と勝手に思ったりするが、日々の世界のニュースを見ていると、人間の煩悩は、そうそうなくなることもなさそうで、当面は変わらないかもしれないが、自分の周りを見回してみると、徐々に変わってきている。ときどき、そんなことを肌で感じることがある、というお話。