選ぶ、考える

ミクシィに書いた文 (8/11、2011)

ものすごく暑い日中、自転車で世田谷の中央図書館へ行った。

こんどの月曜、8月15日は終戦記念日。この日が近くなると、この図書館は毎回、入り口を入ったところの空きスペースで戦争に関する小展示をする。この日も、ああ、またやってる、と思ったら、そうか終戦記念日が近いんだっけ、と気がついた。

年表を見ると、まあ、日本軍はアジア界隈でずいぶんといろんな国に侵攻しては制圧していったんだね、改めてだが。

そういえば、大学生のころ、自国の近代史を何にも知らないことが恥ずかしくなり、わけても世界大戦についての知識が皆無なのに焦って、にわかで本を読んで勉強したことが、あったっけ。読んでいれば、へえ、なるほどそういう事情と経緯か、と分かりはするけど、その後、まあ1年もしないうちにきれいさっぱり忘れる。

実のことを言うと、今、たとえば二次大戦について、発端から経緯、結末などについて質問されたとしても、ほとんど答えられないと思う。入ったそばから忘れて行くところを見ると、戦争にはあまり関心がないらしい。

自国の正義および悪についての認識を正しく持つために歴史的事実の勉強は必須であることは、それは確かだろうが、自分の感覚では、事実をいくら仕入れたところで正しい認識が得られる気がしない。それよりも、自身の態度をはっきりと決める方が先だと思う。

ここで、自身の態度を決めるために事実認識が必要だ、というのが一般的な合理的な考え方だけれど、さいきん、僕はあまりそう思えなくなってきた。態度を決める方が先で、事実認識はその態度に基づいてするものじゃないだろうか。

よく、自分は、「選ぶ」ことと「考える」ことの順序について思うのだけど、「考えた末、選ぶ」っていうより、「選んだ末、それについて考える」の方が自然だし、実態に合ってるし、ひいては正しいんじゃないだろうか。

戦争であったら、まず、戦争に反対か賛成かを先に選んで、そのあとそれについて考えればいいんじゃないだろうか。考えた結果、他人と論争になったとき、結局、突き詰めて問われたとき、最終的に出てくるその人の核心は「戦争賛成」か「戦争反対」のどちらか、と。で、たとえば、なぜ反対なんですか、と聞かれたら、「反対だから反対だ」と答える。なおもしつこくなぜと聞かれたら、超個人的理由を持ち出して、そこで論争は打ち切られる。

勝手なこと言いやがって、と思うかもしれないので、ここで著名人に補強してもらうと(笑)、加藤周一の最後の本を読んだら、彼が戦争に反対する理由が語られていたんだけど、それが、また、超個人的理由なんだわ。彼はそれを、一種の「公理」にして、そこから反戦の定理をあれこれ複雑に組み立てて行く。そのすっきりはっきりしたやり方に、いたく感心した。

あと、もうひとつ思い出した。

あるとき、何人かで酒を飲んでいるとき、戦争の是非についての話になった。で、誰かが論争に熱くなって、「じゃあ、自分が戦時中を生きていたとして、兵隊として戦争に行かないといけないことになったらどうする」と、周りの人間に詰め寄ったのである。皆、なんとなく一瞬言葉に詰まったが、そこに僕と同じ歳の僕の親友の韓国人がいて、彼があっさりとこう答えたのである 「第二次大戦みたいな非人間的な機械中心の戦争はイヤだけど、第一次大戦のようにまだ生身の人間がぶつかるロマンのある戦争なら自分はやってみたい」と言ったのである。この言葉が、その場の戦争是非の論争の調子から、あまりにも外れた発言だったので、質問した主は絶句、それで結果、みな笑い出して、「えー、ほんとかよー」とかなんとか言って、論争は一気に終了してしまったのである。

やはり、この場合も、事実関係を調べ上げて収集してそれを元に理屈の上で考えて結果を与えるんじゃなくて、まず、超個人的な理由が先になっている。

ここさいきん、ソクラテスのパイドンを読んでいるが、あ、いや、プラトンのパイドンか、ま、いいや、とにかく、あそこに出てくるソクラテスは、かなり長々と魂の不死について論証するんだけど、その長い数学の証明のような論証を始めるに当たって「公理」を最初に持ち出すんだ。それが「魂は存在する」なんだよね。

現代人の僕たちからすると、その、そもそもの「魂の存在」こそが疑問だろう、と考えると思うんだけど、ソクラテスもプラトンもそうじゃないんだ。最初に彼らは「選んで」いるんだ。魂は存在する、ってね。で、その結果、論証を進めると、「われわれの魂は不死である」ということと「われわれはこの世で徳を積まねばならない」という2つの帰結が得られるわけ。

人間は、いったい、何を根拠で、たとえば2つのうちの1つを選ぶのか、というと、これは難しいよね。ほとんど答えがたい問題だと思うけど、「生きる」っていうのは「考える」ことじゃなくて「選ぶ」ことでしょう? なので「選ぶ」というのはほとんど生命そのものに根ざしていると思うんだけど、これを論理的に説明しようとすると、ほとんど複雑怪奇な途方も無くわけの分からない理論が続出する。例のフッサールから始まった現象論の解説本とかいろいろ読んでると、ほとんどそれについては妖怪じみてくるよ。それというのも、そもそも「選ぶ」なんていう「生命」に直結する内容を論理で説明しようとするからだと思う。もちろん、だからこそ哲学なんだけど。

書いてるうちに、ややこしくなった。意味不明かもしれないけど、まあ、いいや。

その戦争小展示がやっていた中央図書館で、ここさいきん借りて読んでた現象論がらみの解説書を返却して、代わりに、芥川龍之介を借りてきた。

芥川の晩年の文を読んでいると、この「選ぶ」というのが、ほとんど運命的に必然的に破滅に向かっているように、芥川本人の意志にも関係なく、「選ばされて」いるように、そして、その「選んだ結果取った行為と思考」が、まるでビールスが結晶構造状に並んでいるように均一に配列している様に見えたりするよ。死刑台へ続く均一な階段みたいな不気味さが、あるね。

それにしても、今現代のこの情報過多の世の中で生きている人たちが、なぜ絶望しないか不思議にも思えてきたりする。芥川を読んでいると。

なーんてことを言いたくなる芥川龍之介は、どうもあんまり健全じゃないな。ただ、文章は相変わらず、すばらしい、あの日本語。

実は、こういう衰弱を補うために、もう一冊、借りてきた。それは、ボードレールの批評集。もっとも、彼もたしか40過ぎぐらいで神経衰弱で死んじゃったはずなんだけど。でも、ボードレールは強靭だし、残酷だし、明るい暴力があるし、なにより高貴で、カンフル剤みたいにほっと一息、なーんてね。

しかし、だらだら、オレもよく書くな。いい加減にこのへんでやーめた。



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