天気がよかったので、久しぶりに自転車で散歩に出た。家からすこし下ると、多摩川に沿ってくねくねと流れる小川があり、その川沿いの道は、静かで、木々が多く、のんびり走るにはちょうどいい。もっぱら、ここそこの木々の緑を見ながら、途中、適当に横道にそれるなどしてうろうろする。しばらく行くと、別のきれいな小川があり、川岸に木々が生い茂り、昼なお暗いような小道になってきた

なかなかの見物であったが、走りながら、なぜだか、なんとなく緑の美しさがよそ行きな感じだな、と思いつつ、進んでゆくと、道はますます狭く、そして木々はますます茂り、小川の川底がますます澄んできたので、あれ、と思ったら、そこは、もうすでに、等々力渓谷であった。なーんだ、よそ行きなはずだ、都内の名所ではないか

さて、遊歩道に入る手前で引き返し、さらに田園調布の方角へでたらめに走っていると、あちこちに、やはりいろいろな木々と葉が見えて、そこに朝の日差しが照り返していて、独特な風情に見える。自分は、いつからだったか、これらのいろいろな色価の木々の緑を見ると、ごくたまに瞬間的に心がトリップしておかしくなる症状が出るようになった

以前にも書いたのだけど、過去の何かが一瞬よみがえるような、そんな実に奇妙な気持ちになるのである。ただ、これは通常、1秒より短い一瞬のできごとなので、とくに精神状態がおかしくなることもない。むしろ、非常に、非常に、気持ちがよく、幸福感に満たされていて、その過剰な印象が危険を予感させる、というだけである。おそらく、ちょうど、麻薬かなにかをやるとこんな感覚が現れるのだと思う。自転車でうろうろしているだけで、そんな気持ちになれるのだから気軽なもんだ

この、木々の緑から誘発される、異様な、過剰な癒し感みたいな感覚を、この世の人間の創作物で、自分にとって正確に表現していると思えるのは、ゴッホの後期のいくつかの画布に現れる木々や草花の描写である。ゴッホ以外では、セザンヌの絵にもかなり近いものを感じる。この二人以外では、あまり思い当たらないな。なぜだろう、よくわからない

感覚の持続時間がほんの一瞬なので、その間に考え事をしたり、結論をくだしたりはできないのだが、この木々たちが、何のためにここに生えていて、そして太陽の日を受けて、何のために色とりどりの緑に着飾っているのだか「分かる」ような気がするのである。この、「分かる」に、理性はまったく関与していないのが不思議で、そのくせして「分かる」というのも、根拠が無く、自分以外の他人を納得させる力は持っていない。

ところで、ある、ヘンな人が、自分は、深海の底でゆらゆらと巨体をゆらして泳いでいる大王イカになってみたい。そして、なぜ、バカでかいのにプランクトンを食べて、光も届かぬ海の底で、ゆらゆら生きているのか、その理由を知りたい、みたいなことを言っていたが、おかしなことを言う人もいるものだ(笑) でも、たしかに、大王イカになってみれば分かるはずのものだろう。

日の光を浴びて、ひとところにじっと立ち、その葉を広げている木々と、日の光の届かない深海でゆらゆらと巨体を泳がせている大王イカとは、ちょうど真反対の環境だけど、いったい、こいつらは何の目的でそんなことを日々やっているのか、と思うこと自体、馬鹿げたことかもしれないが、少なくとも、二つとも、その根っこの部分は共通なのだろうな。それで、そういったものたちの中にいて、ああやってときどきトリップする自分も、ちょうどまったく同じ根っこにつながれているわけだ

それで、それが「分かる」ことが、たとえ瞬間であっても自分に訪れる、ということを思うと、自分の魂というものは自分の体から、どう考えてもはみ出ているように感じる。木々の魂も、大王イカの魂も、やはりはみ出ている。それで、はみ出した魂は、自分も木々も大王イカも、みんな同じ海のようなものに浸っている。時間も空間も過去も未来もない、何かそういうものがやはりどこかすぐそこの、まるで変哲のないところに、まるで名も無い「なにものか」として転がっているような、そんな気が、しきりにする。

まあ、かくのごとく、のろのろと考えながら、怪しい気分のまま、のろのろと自転車をこいでいたわけだけど、帰り道になったら、すっかり覚めてしまい、あっさりと日常に戻り、腹が減ってきたので急いで家に向かった