ついこの前、奈良へ遊びに行ってきた。奈良へ行くと、ほとんど詣でるみたいにして興福寺の国宝館へ寄るのだが、先日も同じく、数年ぶりにいつもの仏像たちに再会した。さいきんは奈良の遷都千何百年だかでキャンペーンをはっているんだか、奈良観光のポスターをよく見るが、必ず現れるのが、かの、三つの顔と六本の腕があり、憂いの表情をした阿修羅像である。ほとんど奈良の「顔」のようになっているこの像は、ここ興福寺国宝館に並んでいる。

この阿修羅像は、興福寺が所蔵している八部衆像の中のひとつで、阿修羅像のほかに、同じ作者の手になる三つほどの像が合わせて並んでいる。さらに、その横には、十大弟子像という、仏陀の弟子たちをかたちどった像が三つほど並んでいる。こうして計六つほどの乾漆像が、ここ国宝館の一角にあるのだが、僕は、これらの像が好きで、近くへ行ったときは足を運んで何度でも会いに行く、というわけなのだ。

それにしても、相変わらず、何度見ても、なんとも言えず独特な印象の像たちだ。何度接しても、誇張ではなく、何ものにも代えがたい、という気持ちを強く感じるのは、なんだか、幼少のころだか、前世だか、なんだかわからない因縁でもあるのだろうか、と思うほどである。

これら乾漆像は奈良時代に作られたもので、本物の人間のサイズよりちょうど一回り小さく感じられるのだけれど、ひょっとするとこの頃の日本人がこのサイズだったのかもしれない。たしか、高さが150cmと表示されていたはずだが、当時の日本人はそのぐらいの背格好だったのかもしれない。一様におだやかで、力強さというものは感じられず、むしろ、なよっとしていたり、いくらか幼児的だったりする表現である。

国宝館のこれら奈良時代の乾漆像のとなりには、鎌倉時代に造られた金剛力士像が二体並んでいる。こちらは、奈良時代のものとはうってかわって、力に満ち溢れており、躍動感があり、男性的な感じである。武士の時代であった鎌倉時代と、公家の時代だった奈良時代という、見事に対照的な時代が背景としてあるのだろう。むかし、奈良時代のものは感傷的で、鎌倉時代のもののように地に足をつけた現世的なものがなく、あまり見るべきものがない、というような評を聞いたことがあるが、そういいたくなる気持ちが分からぬでもない。

しかし、僕は、鎌倉時代のものにはたしかに驚嘆することが多いのだが、この奈良時代の、悪く言えば、弱弱しくて、軽くて、下手すればみすぼらしい感じのものたちにどうしても強く惹かれる傾向がある。この国宝館に並んだ像たちは、乾漆造りという製法で作られていて、麻布を漆(ウルシ)で何重にも貼り重ねるようなやり方で作られているそうだ。中は空洞で木や金属をほとんど使っていないので、重量はかなり軽い。像の雰囲気が何となく軽いように感じられるのは、あるいはその製法のせいなのかもしれない。ご存知、日本の寺院や仏像などは火事であっさりと焼けて無くなってしまうことが多いけど、これら乾漆像は軽くて、一人でらくらくと運び出すことができるので、火事になったら、いち早く運び出され今まで無事だった、という事情もあるそうだ。

さて、今回、これら乾漆像に相対して、いつもいつも、何度も感じることをまたはっきりと感じた。それは、これらの像を通じて、なんだか別の世界へ行けるような、そんな風に感じられることである。その別の世界とは、奈良時代だろうか? それとも、これら像成立の逸話の元となった原始仏教の世界だろうか? いや、これはやはりきっと奈良時代の衆生の世界に違いない。以前は、とにかくもはっきりと感じられる「あちらの世界」の感じを、この、現実より一回り小さく感じられる像の周りに濃厚に漂っている「空気」と思ったこともあったのだが、なんだかうまく感じを言い当てていない気がしていた。

しかし今回は、目の前に立つ像の中に、わけのわからない何か入口があってその向こうに「奈良時代」が広がっている、そんな風に思った。だから、像の回りに漂っている空気ではないのである。それで、馬鹿げた話だが、今度はすぐに、これらの像の中には何があるか、と考えると、その中には、いくらかの補強材のある空洞があってそれを古びてぼろぼろになった麻布とおが屑の層が包んでいるわけだ。それが分かっているにもかかわらず、なんだか、像の中にあの世に通じる入口があってそこに自分の心が入ってゆけるような気がする。妙な感じである。

さっき、奈良時代への「入口」と書いたけど、なんらかの「穴」という風にも思える。それで唐突な話だが、宇宙論に「ブラックホール」というものがある。実際、天文学でも観測に成功したという話はよく聞くので、現実に宇宙の向こうにブラックホールなるものが存在しているらしい。それで、この、宇宙の「穴」に落ち込んむと、その向こうは未知の世界で、別の宇宙に通じている、という人もいれば、また別の場所にあるホワイトホールから噴出される、という人もいる。それにしても、この、「空間に開いた穴」が、この世から見ると一定の体積、つまり大きさを備えている、というのも妙だ。

つまり、なんらか大きさと形を持つ「得体の知れない穴」が空間の特定の場所にあるわけだ。それで、当然、この「穴」は四方八方どちらから見てもそこに「ある」わけだ。どっからみても「穴」なものって、僕らの常識感覚では想像ができない。ふつう、目の前に「穴」があったとして、仮にそれを横からみるとそれは「穴」じゃなくて穴の側面があるだけで、なんといったらいいか、つまりどこから見ても変わらぬ「穴」というものは、僕らのユークリッド的感覚では存在し得ないものだ。

それで、この奈良時代の乾漆像が、まさにそんな風に感じられるのだった。つまり、この「像」は目の前の空間の、はっきりした場所に、はっきりした形で、はっきりと体積を占めているのだけど、それが一種の「穴」のように感じられるのである。像を、どの方向から見ても等しく、変わらぬ、奈良時代へ入って行ける穴に見える、というのは本当に不思議な感覚だ。僕らユークリッド的な頭しか持たない人間でも、例えば、千年以上に渡って生き残ってきた奈良時代の乾漆像などという驚異的なものに接すると、その狭く狭く限定された自分の身体を超えて、物事の別の「相」のようなものを見ることができる、という風に思えてくる。

よく、例えば、彫刻を目にしたとき「まるで生きているようだ」という感想が言われることがあるけれど、この乾漆像たちもたしかに「生きている」ように感じられる。しかし、大きな違いは、これら目の前の像たちは、いまだに、1300年もたった今でも、その古い寸分たがわず残っている昔の奈良時代に今でも「生きている」という風に思えることだ。決して、この現代で生きているように思えない。つまり、やはり、これらは「穴」なのである。もし、今現在にいくばくかでも「生きている」のであれば、今現在を少なくとも「変える」べく、像から何らかのエネルギーが外に発散していないといけない。

「なにかが生きている」というのは、そいつが生きていることによって現実を何らか変化させている、ということに他ならないと思うのだが、そういう意味で、これら乾漆像はエネルギーを放出しているのではなく、吸い込んでいるように見える。実は、先に書いた、奈良時代のものは感傷的である、という言葉に昔の自分は相当に腹を立て、「感傷」という言葉は、たとえば、ある原因があって悲しみという結果を生んだ時、その原因と結果を計量したときに正確に同一な状態を指す言葉で、この奈良時代の像が醸し出す、明らかに原因と結果が均衡しない世界に使う言葉では決して無い、とどこかに書いたのだ。

しかし、どうだろう。この阿修羅像を始めとした八部衆の像、そして仏陀の弟子たちの像を目の前にして、いわゆる感傷に誘われる、という方が正常かもしれない。感傷、というのは一種、昔の事柄をよそ事のように思い出し、一時的に涙を流して忘れ去る、という行為のように思えるので、それは、対象物をよそ事にせず現実に今の自分がその事柄に実質的な影響をこうむることから逃れる手段とも思える。つまり、自衛である。これら乾漆像を目の前にすると、あまりに、悲しくて、苦しくて、情念と諦念に満ちた、この得体の知れない、ぽっかりと開いた穴が不気味に思えることがある。感傷的な造形だとして片付けてしまうのが、あるいは、今を生きる人間にとっては健康なことなのかもしれない。

それにしても、穴の向こうの奈良時代が、どうしても苦しみと悲しみに満ちたものに見えてしまうのはなぜだろう。いかなる時代であろうと、明るいものはあっただろうし、笑いもあっただろう。むしろ、今よりずっと天真爛漫な心はあったはずだ。そのはずなのに、これら乾漆像を通して見える風景は、自分にはどうしても地獄のようなものに見える。実に変な言い方だけど、静かで、物悲しくて、美しくて、ほとんど優しい、と言ってもいいような、虚空に赤い炎がゆれる中を罪人が点々としているあの地獄の風景が見えるような気がする。これが、すなわち、自分という人間の感傷の形なのだろう、そんな風にも思う。

以上、もちろん自分の勝手な空想にすぎないが、おそらくは自分がもっとも好きな仏像たちのことでもあり、くどくどと書いておいた。